画人龍子と俳人茅舎
川端龍子(1885-1966)。本名・川端昇太郎は、明治18年6月6日、和歌山市本町3丁目に川端信吉、せい(勢以)の長男として生まれた。生家は呉服商を営み、屋号を代々俵屋といった。しかし、川端家は家産が傾き、明治28年、上京し、浅草、日本橋に住む。信吉は弟・岡本武次の経営する日本橋病院に勤めることになった。
川端茅舎(1900-1941)。本名・川端信一は、明治33年8月14日、父川端信吉と母ゆきとの間に生まれた。つまり川端龍子とは異母兄弟であった。母ゆきは、病院の看護婦で、父信吉が一時病院で働いていたとき親しい関係となった。その後、父は病院をやめ、日本橋蠣殻町で煙草屋を始めた。父は寿山堂という雅号で、俳句や日本画を嗜んだ通人であったが、家族は生活苦を強いられた。しかし、龍子、茅舎の芸術的資質は、この父の影響が大きいものと思われる。
長男である龍子は、このような父を嫌いながらも、中学卒業後、画家への志をもち続け、新聞・雑誌の挿絵を描いていた。明治39年、林夏子と結婚し、神田錦町の煙草屋の二階に世帯を持つ。大正2年1月、周囲の反対を推して、渡米する。ボストン美術館で見た「平治物語絵詞」の美しさに心を打たれて、帰国後は日本画に転じた。大正5年、第3回院展に樗牛賞を受け、美術院同人に推され、大正6年「二荒山縁起」を発表、昭和3年、日本美術院を離れ、翌年、青龍社を創立して主催する。
川端茅舎も初めは洋画家を志した、岸田劉生に師事。昭和4年まで京都東福寺内の正覚庵に寄宿し、半僧半俗的生活をしながら絵画の勉強を続けた。しかし胸部疾患のため絵画を断念、もっぱら俳句に励むようになった。大正11年高浜虚子の面識をえて、「ホトトギス」への投句一本になる。大正13年には「ホトトギス」の巻頭を占めるに至る。昭和5年以降は全く俳句に専念、虚子をして「花鳥諷詠真骨頂漢」と賛嘆せしめ、自分でも「花鳥諷詠することもまた一個の大丈夫の道」というほど、花鳥諷詠に徹底した。「茅舎浄土」、あるいは比喩の名手、造語の名人として知られる。昭和3年ごろ、倉田艶子との失恋、以後10年間の闘病生活などで生涯独身だった。昭和16年7月17日、茅舎永眠。
一枚の餅のごとくに雪残る
金剛の露ひとつぶや石の上
しんしんと雪降る空に鳶の笛
ひらひらと月光降りぬ貝割菜
生き馬の身を大根でうづめけり
花杏受胎告知の翅音びび
約束の寒の土筆を煮て下さい
「約束の」の句は、病状が思わしくなく、なんとなく食欲がない。自分はいったい何が食べたいのだろうと自問したとき、以前約束しておいた「つくし」を思いだした。まだ冬で思うように手にはいらないかもしれない。しかし、そんなことはどうでもいい。とにかく「約束の寒のつくしを煮て下さい」と身の回りを世話してくれる姉の秋子に頼むのだった。
兄龍子は戦後も壮大気宇な大作を数々発表し画壇の雄として名をはせた。昭和34年には文化勲章を受章、昭和38年6月6日、川端龍子記念館(東京都大田区)を設立した。3年後の昭和41年4月10日、老衰のため死去する。享年80歳。龍子は金力、権力にこびることを何よりも嫌って反骨心が強く、生涯在野精神に一貫した人だった。「画人生涯筆一管」という句にその精神がよく現れている。
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初めまして、紫陽花といいます。
「小津安二郎」のキーワードで検索をしていて
こちらにお邪魔しています。
色々な方の人となりや背景、エピソード…と
読んでいて楽しいです。
バックナンバーが沢山あるようなので
またゆっくり拝見させて頂きたく思います!
宜しかったら私のブログにも遊びに
来てくださいね!
投稿: 紫陽花 | 2007年8月30日 (木) 21時27分