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昨年4月に田端義夫が亡くなってから、そろそろ1年が経とうとしている。愛称はバタヤン。田端は本当の歌心を持った昭和の偉大な演歌歌手だった。彼のいちばん良いところは、歌をさらりと歌ってしまうのだが、その余韻がいつまでも心に残って飽きることがない。バタヤンより声量があって力を入れて歌う人は多いが、だんだんと自分の声におぼれて歌が荒れた感じになってくる。とくに最近の演歌の大御所といわれる人の歌を聴くと、細川たかし、吉幾三、鳥羽一郎など、声を張り上げて、やや演出過剰気味に聞こえるのが気になる。田端は晩年になっても哀調あるギターの調べとともに聞いていても心やすまるメロディーだった。もちろん曲もよかった。作曲家の倉若晴生、作詞家の清水みのるとのトリオで「かえり船」「別れ船」が生まれた。とくに「かえり船」は戦地からの復員兵を迎える役目をはたし、戦後の多くの日本人の記憶に残る名曲だった。
清水みのる
1900年代のフランス、マルセイユ近くのラ・シオタという町で流行していた「プロヴァンサル」と呼ばれたゲームの変形がペタンクの始まりと言われている。プロヴァンサルというスポーツは、名前のように、南フランスのプロヴァンサル地方で行われ、現在も行われている。男性のスポーツで、ペタンクと同じブールを使う競技である。ブールとは言うものの、1900年代初頭のものは、現代のブールとは異なり、木の実に金属の鋲を打ち込んだもので、直径80ミリと大きなサイズであった。
このプロヴァンサルは、広い場所が必要で、投球前に3歩助走して行う。病気(リウマチ)になって車椅子生活となったプロヴァンサルのチャンピオン、ジュール・ル・ノワールのために、彼の友人、エルネスト・ピイティオがルール変更を提唱し、ブールを投ずる投球位置を固定し、目標距離を短くして、車椅子や松葉杖であっても参加できる競技にした。そして、1910年に、地面に描いた丸い中に両足を揃えることから「ピエ・ケンタ」が競技の名称となり、最初のペタンク大会がラ・シオタの町で開催された。もちろん、最初の大会には、ジュール・ル・ノワールも参加した。「ピエ・ケンタ」とは、南フランス地方の方言で「両足を揃えて」という意味。Petanque
連続クイズホールドオンが終了した。このクイズ番組は映画、とくに洋画からの出題頻度がとても高い。最終回もテーマが「卒業」で、ズバリこのような問題だった。「アメリカ映画卒業(1967年)のラストシーンでダスティン・ホフマン演じる主人公が教会から逃げ出す際に飛び乗ったものとは何でしょう」一度でも映画を見た人なら知っている簡単な問題だった。挑戦者は映画を見ていないらしく、スクエアを選択する。バス、馬車、バイク、バルーンの中から「バイク」を選択。正解はもちろん「バス」。160対130で江崎さんの勝利。もしこれに正解していれば180-160で挑戦者の勝ちだったので運命を分けた一問であった。「卒業」はアメリカン・ニューシネマの代表作であるし、テーマ曲「サウンド・オブ・サイレンス」もあまりにも有名である。CD2000枚コレクションしている挑戦者がなぜ知らなかったのか不可解である。人知には限りあることなのか。それとも青春映画というものは、ある世代だけの宝物で、47年という歳月の流れが消し去るものなのであろうか。
サッカーの長友佑都と女優の平愛梨の熱愛報道。愛梨のほうが2歳年上。アモーレはスポーツ新聞の最高のネタである。男と女の間にある永遠の謎を解き明かしたものは誰もいない。ビットリオ・デ・シーカ監督の「終着駅」でジェニファー・ジョーンズとモンゴメリー・クリフトのあわただしい駅での別れのキス・シーンは映画史で有名だ。結ばれない二人の別れをじっくりと描いた作品は他にない。物語はいつも「ふたり」から始まり、別れがあって、そして最後はいつも「ひとり」になる。「男性は最初の恋人になりたがり、女性は最後の恋人になりたがる」(オスカー・ワイルド)昨夜観た評判の「ララ・ランド」も場末のピアニストと女優志願の恋物語。ラストは「シェルブールの雨傘」を思い出させる切ない別れ。
テレビCMから生まれたフレーズ。だが「日本語大辞典」や「故事俗語ことわざ辞典」などに「亭主は達者で留守が好い」などの記載があるので、コピーライターの創作ではなく、かなり古くから言われてきた文句である。「亭主元気で」は1986年の防虫剤のCMで使われその年の流行語となったが、いまでもよく使われる。当時、給料が口座振り込みとなったという時代背景もある。
紛らわしい姓の一つに「渡辺」と「渡部」がある。「苗字名前家紋の基礎知識」には、「渡部は古くは渡船を職とする職業部の一つだったが、後世の渡部氏には嵯峨源氏渡辺氏と同じ。越後西蒲原郡にこの地名がある」と略記している。コンサイス日本人名事典を引くと、渡辺綱、渡辺崋山、渡辺政之輔(労働運動家)、渡辺錠太郎(軍人)、渡辺水巴(俳句)など渡辺姓は多数所載するが、渡部姓は近世の篤農家、渡部斧松(1793-1856)の1人である。ネットで調べると、みんなの党の渡辺喜美代、渡辺真知子(歌手)など渡辺姓は多い。渡部姓には渡部七郎(南極探検家)、渡部薫太郎(東洋史)、渡部治雄(西洋史)、渡部絵美(フィギュアスケート)などがいる。俳優の渡部篤郎は「わたべあつし」と読む。
英単語を毎日30語おぼえる。「かく」はdrawとpaintがある。どちらも意味としては「(絵などを)かく」だが、かく時に使う道具によって使い分ける。drawは鉛筆、ペン、クレヨンなどで描くときに使う。paintは絵の具でかくときに使う。
paint in oils 油絵をかく
amusement 娯楽
calligraphy 書道
embroidery 刺繍
knitting 編み物
garbage 生ゴミ
gimlet きり
inheritance 遺産
nephew 甥
niece 姪
coed 男女共学
conversation 会話
diploma 卒業証書
disinfection 消毒
exam 試験
grade 学年
painkiller 鎮痛剤
indigestion 消化不良
disciple 弟子
excavation 発掘
missionary 宣教師
Muslim イスラム教徒
pope 法王
publicity stunt 売名行為
ruins 遺跡
savior 救世主
finger-snap 指パッチン
complaint 苦情
election 選挙
vote 投票する
candidate 候補者
voter 有権者
chicken heart 腰抜け 臆病 意気地なし
disappoint がっかりさせる
costipation 便秘
bowels 大便
intriguing 好奇心をそそる
victim 犠牲者
incident 出来事
dustpan ちり取り
stigma 汚名、不名誉、烙印
notorious 悪名高い
セクシー・ゾーンが歌う「Sexy Zone」。「♪地球はいつでもまわっている 195ヵ国の夢を乗せながら」
地理の問題には多分出題されないと思うが、現在、世界196ヵ国と覚えれば正解かもしれない。外務省によると日本が承認している国は194ヵ国で、プラス日本と北朝鮮、合計196ヵ国となる。内訳はアジア41、オセアニアと太平洋地域14、アフリカ54、ヨーロッパ40、旧ソ連諸国12、北中米とカリブ海諸国23、南米12。
しかし全世界にはグレーゾーンの国も多いので、歌詞の中で「195ヵ国の夢を乗せて」という実数に限定するのは問題があり、正確を期すための面倒な検証作業を要する。①ニウエ、②中華民国(台湾)、③北キプロス共和国もトルコのみが承認しているが国家とみなせる。④ヴァチカン市国は国連に加盟していないだけで国家であろう。⑤マルタ騎士団は領土がなく、変な機構だが、世界の半数(75ヵ国)と外交関係にある。⑥パレスチナは2012年、国連総会で非加盟オブザーバーとしての地位を、現在の機構から国家に格上げする決議案が採択された。日本や中国は賛成し、アメリカやイスラエルは反対していた。⑦サハラ・アラブ共和国⑧ソマリランド共和国⑨チベット自治区。
10アディゲ共和国
11カラチャイ・チェルケス共和国
12カバダル・バルカル共和国
13北オセチア共和国
14イングーシェチア共和国
15チェチェン共和国
16カルムイキア共和国
17アブハジア自治共和国
18アジャール自治共和国
19南オセチア自治共和国
20ナヒチュヴァン自治共和国
21ナゴルノ・カラバフ自治州
その他、シーランド公国は実体がないので含まず。つまり196+21。全世界はおよそ217ヵ国の国と地域からなる。全世界が218か国というときは、シーランド公国を入れた場合である。
清朝末期、ヨーロッパの近代文明を導入することで軍事力の増強を図ろうとする動きがあった。1861年、中国総理衙門はイギリスから兵船を購入し艦隊を編成する計画を立てた。労崇光とロバート・ハートが商議した結果、西洋式兵船8隻の購入が決定した。依頼を受けたイギリスの総税務司ホレイシオ・ネルソン・レイ(1832-1898)と海軍大佐シェラルド・オズボーン(1822-1875)の2人の名をとってレイ・オズボーン艦隊 Lay-Osborn flotilla と呼ばれる。しかし、1863年、この艦隊の司令官並びに乗組員を中国人にするか、西洋人にするのか、あるいはレイが艦隊の指揮権を清朝におくことを認めなかったため、結局、この購入計画は白紙となった。8隻のうち、4隻はイギリスへ、残り4隻はインドのボンベイに送られる。レイは総税務司を罷免され、事件は1ヶ月で収束したが、中国の中央政府の無力さを海外に露呈することとなった。(参考:井上裕正「レイ・オズボーン艦隊事件の外交史的意義について」東洋史研究34-2 1975年)
行基(668-748)は身の栄達を求めず、衆生に仏の慈悲を与えようという、利他の行を実践した。慶雲元年(704)、和泉国にあった生家を寺に改めたのをはじめ、各地に寺や道場を建てて民衆を教化した。みずから粗末な服を着、苦食をなめながら民間に伝道の歩を進める行基のもとには、多くの信者が現れて行をともにした。しかし、養老元年(771)に、行基の伝道活動を僧尼令違反として禁止する詔が出された。「このころ小僧行基とその弟子らは、町や村を歩きまわってみだりに罪福を説き、党を結んで、指や臂を焼いたりはぎとつたりしている。そのうえ家々をつぎつぎと訪れては物を強要し、これこそ正しい仏法だといって人びとをまどわす」と非難している。行基は政府の圧迫にも屈せずになおも伝道を続けたので、その信仰集団もやがて千をもって数えるほどになった。行基により創建されたと称する寺院は行基事典によれば約1400の寺が見える。もちろん眉唾も多く、史料の裏づけがあるわけでもない。
サマーセット・モームの短編「雨(Sadie Thompson)」の娼婦サデイ・トンプソンは、これまでに映画でグロリア・スワンスン、ジョーン・クロフォード、リタ・ヘイワースが演じいずれも成功している。だが演劇史上で記憶されるべきは、ジーン・イーグルス(1890-1929)のミス・トンプソンであろう。ジーンは7歳で初舞台をふみ、やがてブロードウェイの人気女優になる。1922年、ニューヨークで初演された「雨」は2年間のロングランの大当たりとなった。1925年にスタンフォード大学のフットボール選手エドワード・ハリス・コイ(1888-1922)と結婚。だが夫の暴力を理由に裁判離婚。このころから酒と麻薬に溺れ、1928年の舞台「ボール紙の恋人」上演中に主役だった彼女は、時間に遅れ穴をあける。そのため俳優協会から除名された。映画にも出演するようになった。サイレントでは「男、女そして罪悪」(ジョン・ギルバート共演)、トーキーになっては「嫉妬」(フレドリック・マーチ共演)「手紙」(ハーバート・マーシャル共演)。第2回アカデミー賞には主演女優賞にノミネートされながら、ニューヨークのパークアヴェニュー病院で失神して亡くなった。39歳という若さであった。マリリン・モンローを思い出させる人生である。
エドワード・ハリス(テッド)・コイ(1888-1935)
「民間史学」という呼称が初めて使用されたのは管見では、家永三郎の『現代史学批判』(1953年9月、和光社)に於いてであると考える。明治期、アカデミズムの大学の職業学者に対して、在野の学者でジャーナリスト、評論家で史書を著作している巨星が登場した。山路愛山(1864-1917)は「荻生徂徠」「新井白石」「現代金権史」、徳富蘇峰(1863-1957)は「近世日本国民史」「吉田松陰」、竹越与三郎(1865-1950)は「新日本史」「二千五百年史」、田村栄太郎(1893-1963)は「江戸の風俗」「日本風俗史」「やくざの生活」「渡辺崋山ンの人と思想」、三田村鳶魚(1870-1925)の「江戸生活事典」など。欧米にはwriter(著述家)という啓蒙的歴史を書く民間史家は多い。H・G・ウェルズやヴァン・ローン、「世界の歴史」「哲学物語」のウィル・デュラントなどは有名である。
考えて見れば、現在は象牙の塔にいる学者のみが一級史料を独占したり、高踏的考証学をふりかざす時代ではない。歴史資料は広く国民に共有され、開示されている。学会内部のみにしか通用しない学者の隠語を排し、歴史の面白さの語り部としての民間史家がブログから誕生するかもしれない。
朝ドラ「純と愛」126話。兄の剛がめずらしく純に励ましの言葉をかける。「画家のモネは奥さんをなくしたときも、その妻の顔をスケッチしたんだって。一番辛いときもモネはモネなんだよね」。クロード・モネにはカミーユと後妻のアリスという妻がいた。どちらの話だろうか。オルセー美術館に「死の床のカミーユ」(1879年)がある。若い頃のモネはモデルを雇うお金がないこともあって、モネの描く人物画は、ほとんどカミーユがモデルをしている。長男を出産したあと、カミーユは乳癌で32歳で亡くなっている。モネは後年、友人のクレマンソーに語っている。「私は無意識的に死によって変化してゆくカミーユの顔色を観察しているのに気がついた。彼女との永遠の別れがすぐそこに迫っているので、カミーユの最後の姿を捉え頭に記憶しようとしたのは自然だったのだろう。しかし私は、深く愛した彼女を記憶しようとする前に、彼女の変化する顔の色彩に強く反応していたのだ」。
「緑衣の女性」「日傘の女」などのモデル、カミーユ・ドンシュー(1847-1879)。後妻のアリス・オシュデ(1844-1911)は67歳まで生きたが、やはりモネが最後を看取ることになった。(Claude Monet,Camille Doncieux,Alice Hoschede)
信者が信じなければならないことのなかで、唯一の神が存在し給う事実こそ、第一に信じねばならないことである。(トマス・アクィナス)
アナロギア・エンティス。スコラ学の用語。自然(被造物)と超自然(神)の間には存在的な区別と同時に類比があるとするもの。天地万物はそれ自身の力では罪人を創造者の真の認識に到達せしめることはできない。しかし神の言が語られ、人間の内なる目が開かれる時には、人間は天地万物を通して創造者を認識することができるようになる。神の人格と人間の人格との間に類比を認めることができるが、カール・バルトは「存在の類比」(アナロギア・エンティス)ではなく、「信仰の類比」(アナロギア・フィディ)によるとする。すなわち人間の人格は神の言が語られる時、神の人格の類比となるとした。(Thomas Aquinas)
analog 類似のもの
existence 実在
faith in God ゆるぎない神への信仰
analogia entis 存在の類比
analogia fidei 信仰の類比
apostle 使徒
問1.ブラジルとパラグアイの国境地帯のパラナ川に両国の共同事業として建設された、世界最大規模の発電能力をもつダムを何というか。①アスワンダム②イタイプダム③アコソンボダム④カリバダム
問2.1888年、現在に繋がるガソリンで動く四輪自動車を作った人物は?①ウォルター・クライスラー②ゴットリープ・ダイムラー③ヘンリー・フォード④ルイ・ルノー
問3.インドネシア独立運動の指導者は?①アギナルド②チョイバルサン③チラデンテス④ングラライ
問4.明朝を興したのは?①李自成②李成桂③朱元璋④張居正
問5.トマトの収穫量、日本一の都道府県は?①茨城県②北海道③千葉県④熊本県
問6.チンギス・ハンの死後、モンゴル帝国は4つに分裂した。現在のイラン方面に建国したのはどれ?①オゴタイ・ハン②チャガタイ・ハン③キプチャク・ハン④イル・ハン
問7.第2次世界大戦が勃発したときバルカン諸国の多くは、ドイツに占領されたが、三国同盟に加盟しなかった国は?①ブルガリア②ルーマニア③ギリシア④ユーゴスラビア
問8.前7世紀、世界最古の鋳造貨幣をつくつた国は?①ヒッタイト②リディア③フェニキア④アラム
問9.アメリカ合衆国でミシシッピー川以西の公有地を無償で払い下げる1862年の農地法を何というか?①シャーマン反トラスト法②ペンドルトン法③ホームステッド法④ボルステッド法
問10.インドネシアにおける最古の王国はどれか?①テルナテ王国②シュリーヴィジャヤ王国③マジャパピト王国④マタラム王国
問11.ローマ、ミラノに次ぐ、イタリアで3番目に大きな都市は?①ベネチア②ジェノバ③ナポリ④フィレンツェ
問12.東京23区で一番人口が多い区は?①千代田区②世田谷区③中央区④新宿区
問13.坂本龍馬が稽古に通ったことのある道場は?①士学館②玄武館③練兵館④試衛館
問14.ブラジルの公用語は?①スペイン語②オランダ語③ポルトガル語④英語
問15.ブルネイのある東南アジアの島は?①カリマンタン島②スマトラ島③スラウェシ島④ミンダナオ島
問16.人口が最も少ない県は?①徳島県②高知県③島根県④鳥取県
問17.京都の金閣寺。どこにある?①洛北②洛東③洛西④洛南
問18.福井県出身の内閣総理大臣は?①高橋是清②原敬③岡田啓介④清浦奎吾
問19.いまも開園しているテーマパークは?①新潟ロシア村②倉敷チボリ公園③志摩スペイン村④柏崎トルコ文化村
問20.北海道の積丹(しゃこたん)。アイヌ語「サク・コタン」からきている。どんな意味?①春の村②夏の村③秋の村④冬の村
問21.世界で一番深い湖は?①タンガニーカ湖②バイカル湖③マラカイボ湖④ラドガ湖
問22.徳川15代将軍のうち名前に「家」がつくのは何人?①8人②9人③10人④11人
問23.山椒の生産量が日本一は?①栃木県②山梨県③和歌山県④岡山県
問24.赤道が通っている国は?①ガボン②赤道ギニア③ルワンダ④ベネズエラ
問25.世界最古の国旗といわれ、別名を「ダンネブロ(赤布の意)」というのはどこの国の国旗?①フィンランド②デンマーク③スウェーデン④ノルウェー
問26.藤原時平の讒言を受けて、菅原道真を大宰府へ配流した天皇は?①清和天皇②宇多天皇③醍醐天皇④村上天皇
問27.カンボジアはどこから独立したか?①オランダ②イギリス③フランス④スペイン
問28.アメリカ合衆国の州名のうち、人名に因んでつけられたのは?①オハイオ州②オクラホマ州③カリフォルニア州④ペンシルバニア州
問29.「勝利」を意味する都市は?①ハノイ②カイロ③オタワ④オスロ
問30.「天使」を意味する都市は?①ブカレスト②アムステルダム③ロサンゼルス④ヴェローナ
問31.米使ペリーが浦賀来航したときの徳川将軍は?①家斉②家慶③家定④家茂
問32.崇徳天皇の祟りを怖れて京都市上京駈に建てられた神社は?①平安神宮②白峰神宮③北野天満宮④八坂神社
問33.東京都の島嶼部を除いた唯一の村は?①小菅村②忍野村③川上村④檜原村
問34.観光地ワイキキの浜辺があるホノルルはどこの島?①ハワイ②オアフ③マウイ④カウアイ
問35.日本で2番目に高い山は?①奥穂高岳②北岳③間ノ岳④槍ヶ岳
問36.中国で一番大きい湖は?①青海湖②翻陽湖③洞庭湖④興凱湖
問37.那須与一が艦上の扇の的を射撃したのは?①一の谷②屋島③藤戸④壇ノ浦
問38.桃の収穫量日本一の都道府県は?①岡山県②山形県③山梨県④和歌山県
問39.ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相がナチスドイツに無条件降伏を迫る原則を合意した1943年1月24日の会談は?①テヘラン会談②ヤルタ会談③カサブランカ会談④カイロ会談
問40.ナイアガラの滝をアメリカとカナダに分けている島は?①ゴート島②アメリカ島③アラガ島④ルナ島
問41.木曽山脈の最高峰は?①槍ヶ岳②富士山③駒ケ岳④御岳山
問42.うちわ全国シェア90%の香川県の都市は?①高松②坂出③丸亀④観音寺
問43.南米のアタカマ砂漠。どこにある?①ブラジル②ペルー③チリ④ボリビア
回答:問1②、問2②、問3④、問4③、問5④、問6④、問7③、問8②、問9③、問10②、問11③、問12②、問13②、問14③、問15①、問16④、問17③、問18③、問19③、問21②、問22④、問23③、問24①、問25②、問26③、問27③、問28④、問29②、問30③、問31③、問32②、問33④、問34②、問35②、問36①、問37②、問38③、問39③、問40①、問41③、問42③、問43③。
(ITAIPU,Ngurah Rai,Homestead Act,Volstead Act,Crivijaya,Mataram,Ternate,Majapapit,Niagara Fall)
本日は「楽聖忌」。1827年のこの日、ベートーヴェンがウィーンの自宅で亡くなった。小学校の音楽室に飾られているベートーヴェンの肖像画。楽譜とペンを持って上目づかいで睨みつけたような表情のベートーヴェンがおなじみである。この絵はアントニー・ブレンターノ夫人の依頼で1819年から1820年頃にヨーゼフ・シュティーラーが描いたもの。実際にベートーヴェン自身がモデルになったことはなく、かなり理想化されている。髪もこれほど豊富ではないが、当時、音楽は「かつら」(ツーペtoupeeという)の着用が正装とされたが、ベートーヴェンは「かつら」を嫌ったので、髪を多く描いたと思われる。ベートーヴェンの肖像画は多数残されているが、共通するベートーヴェン像がないので、一番理想化されたシュティーラーのベートーヴェンがよく使われている。実際にベートーヴェンを写生したのは臨終の姿を描いたジョセフ・テルシャー(1801-1837)の絵である。彼はベートーヴェンとはなんら面識もなく、有名人を見るために勝手にスケッチしたものらしい。(Ludwing van Beethoven)
「セプティミウス・セウェルスとカラカラ」 ジャン・バティスト・グルーズ 1769年
NHKスペシャル「異端の王 悠久の古代文明紀行」。古代の2人の異端の王を取り上げる。一人目は、クシュ王国のピイ(Piy,Piankhy)。エジプトを征服した最初のヌビア人であり、第25王朝(前728-前658)の基礎を築いた。王名表をしめす。
ピイ(ビアンキ) 前728-前716
シャバコ(ネフェルカラー) 前716-前702
シャピトゥコ(ジェドカウラー) 前702-前690
タハルコ(クネフェルテムラー) 前690-前664
タヌタマニ(バカラー) 前664-前656
黒人のファラオが5代続いた。アメン神、オペト祭、ピラミッドなどエジプトの伝統を守った。スーダンにある遺跡ゲベル・バルカル(聖なる丘)は世界遺産に登録されている。
2番目はアフリカ出身のローマ皇帝セプティミウス・セウェルス(在位193-211)。レプティス・マグナ(リビアのトリポリ東130㎞)に生れる。食糧の確保、強力な軍隊を整備し帝国の衰退を防いだ名君。211年、セウェルスは属州ブリタニアのエボラクムで病没。息子のカラカラは弟ゲタを殺して単独の君主となるが、セウェルス朝は断絶する。
NHKスペシャル番組の予告。大英博物館の地下室の収蔵庫に眠る遺物が歴史の謎を解く鍵となる。近年、世界各地で発掘される新発見。トルコ南部のギョベックリ・テペ遺跡で狩猟採集民が築いたとみられる1万1600万年前の神殿跡で世界史の定説を覆すような新発見とは?殷王朝以前の古代王朝の謎に迫る。2012年秋放送。
女性が水着や襟ぐりの広いドレスを着たときに見える胸の谷間を英語でクレイヴィジ cleavageという。わが国は伝統的に和服で胸が見えないので言葉が存在しないが、欧米諸国に単語があるのはドレスで胸の大きさを強調するからだろう。昨年、栃木県でビールイベントのPRポスターが胸元が開いており、刺激的でふさわしくないとクレームがあった。シールを貼って対応するという騒動が話題になっている。問題となったポスターをみると、そんなに大騒ぎになるほど刺激的なのかな~、と感じるのは私だけなのか。もしかしてクレームは話題づくりの狂言なのかもしれない。
NHKスタジオパーク(2013.10.7放送)のゲスト梅宮辰夫と渡辺正行。それに芹那という若い女性。椅子に座ったミニスカートの両膝の間から下着が2度見えた。しばらくしてスカートを手で抑えてみえなくする仕草。白いパンチラはどうもワザとしているらしい。ちなみに英語でパンティ・ショットpanty-shots。
映画「氷の微笑」でシャロン・ストーンは椅子に座って足を組み換えただけで世界のセックス・シンボルになった。
吉備真備は717年に唐にわたり、19年間唐で学問を修め、735年に僧玄昉らとともに帰朝した。たくさんの書物と将棋を伝来した。平成5年には奈良の興福寺の旧境内から天喜6年(1058年)の銘を持つ木簡とともに将棋駒が出土している。
本日、東京の靖国神社の桜が開花した。桜の名所といえば、一目千本とうたわれた吉野山が古来から名高いが、嵐山、御室仁和寺、醍醐寺、石山寺、多武峰など京都に近い古くからの名所は多い。だが日本の桜は北は北海道から南は沖縄にいたるまで、各地にそれぞれの野生種があって春の盛りを告げている。新聞に桜の名所の人気ランキングが掲載している。
1.吉野山(奈良)
2,千鳥ヶ淵(東京)
3.嵐山(京都)
4.弘前公園(青森)
5.造幣局(大阪)
6.上野恩賜公園(東京)
7.高遠城址公園(長野)
8.仁和寺・御室桜(京都)
9.新宿御苑(東京)
10.醍醐寺(京都)
この投票は朝日新聞の会員サービス「アスパラクラブ」の投票なので都市に偏りがあるが、この他、全国各地に桜の名所があるだろう。
サクラ自体の語源は、江戸時代から「古事記」の木花之開耶姫の「さくや」の転訛とされてきたが、大槻文彦は、「麗らかに咲く花」から「咲く」「麗らか」、つまり「咲麗」(サクラ)の名になったと「大言海」で説いている。中村浩(1910-1980)は咲くに、接尾語「ら」がついて成立したと見た。接尾語「ら」は、多数の集まりを示す群(むら)の略とする。咲群(さくむら)からサクラになったという説である。ちなみに中村浩博士は食品微生物学が専門で、ウンコを研究し、糞尿博士として知られた。クロレラ研究所を設立。著書に「植物名の由来」「園芸植物名の由来」「糞尿博士・世界漫遊記」がある。
大相撲春場所で鶴竜が初優勝。横綱昇進は決定的となった。ついにモンゴル勢による三横綱時代となる。かつて四横綱時代というのが何度かあった。2000年春場所が最後で実現していない。若乃花、貴乃花、曙、武蔵丸だった。
ギニョールとは手の5指で人形の頭と両手、またときには胴、脚をあやつり、あやつる5指は人形の衣装を袋式にかぶせるのが本来で、マリオネットや影絵芝居にくらべて、いちばん操作の平易なものである。その分布も全世界に存在し、イタリアではブラッティーニ、ドイツではカスペルレ、イギリスではパンチと呼ばれる。
1808年フランスのリヨンの絹織物工ローラン・ムゲル(1769-1844)によって作られた。革命後、ムゲルは抜き歯屋を始め、当時は麻酔などないので、自作で人形を作り、その人形に気をまぎらせて、患者の歯を抜いた。それがギニョールの始まりである。もともと人形の主人公の名前であったが、やがて操り人形を総称してギニョールと呼ばれるようになった。Guignol,Laurent Mourguet ,Lyon
本日は「ギリシア独立記念日」。1821年のこの日、ギリシアがオスマン帝国からの独立を宣言した。ブログを記述するときいつも悩むのは外国語の日本語のカタカナ表記の問題である。とくに「ギリシャ」か「ギリシア」かでは、かれこれ40年以上も悩み続けてきた(ほかに悩み事はないのか)。ギリシア人はオリエントの先進文化をとり入れ、ポリスとよばれた都市国家を形成したが、そこにはヨーロッパ文明の基礎となった人間的・合理的な文化と自由な市民社会があった。12日から神戸市立博物館では「古代ギリシャ展」が開催される。ムッ・・・「ギリシャ」? ? ? ?「ギリシア」の間違いではないのか?いろいろ調べると、二種あるものの「ギリシャ」のほうが一般的である。だが世界史を勉強しているものは、「ギリシア」という表記を使うことが多い。ヤフー知恵袋にはつぎのような解答がある。
一般的に「ギリシャ」と表記されることが多いようですが、アルファベットに忠実に従うと、「ギリシア」のほうが適切です。世界史ではこのようなことが多々あるとして、
◎イスラームとイスラム
◎バグダードとバグダッド
◎ヴェルサイユとベルサイユ
◎リンカンとリンカーン
をあげている。◎の付いた方を使用したほうが、「この人は博学英才か」と思わせることができる、とある。
上手に説明している。しかし納得できない。やはり社会的には「ギリシャ」の方が圧倒的に多い。外務省のHPや新聞が「ギリシャ」である。新聞の表記は、昭和34年2月新聞用語懇談会と文部省の話し合いらよって、文部省発行の「地名の呼び名 社会科の手びき書」の内容に従っている。新聞社が「ギリシャ」と表記するのは当然である。問題は文部省であるが、「地名の呼び名」はずいぶん以前のものなので、その後の改定がなされないのか不明であるが、文部科学省になっても、教科書によって、「ギリシャ」「ギリシア」と不統一なのは生徒にも混乱をきたすであろう。平成3年内閣告示で「外来語の表記」について定められたがギリシアに関してはどっちでもいいようである。
ヤフー知恵袋の解答者がいうように、Greeceは、グラキエアGraeciaとローマ人が呼んで、このラテン語地名が一般化し、現代西欧語に入り、日本にも伝えられ、「ギリシア」となった。なお「希臘」はヘラスの漢訳が、後のギリシアのあて字に用いられた。
「広辞苑」の見出し語には「ギリシア」とある。ケペルも「ギリシア」がいいと思う。
西洋風の前掛けをエプロンという。語源はラテン語のナプキンを意味するマッパmappaであるが、それがフランス語に入ってナプロンnapperon、中世英語ではnaproとなり、異分析によってan apronに転化したとされている。日本の独創的な割烹着も広義のエプロンである。国防婦人会の割烹着は1913年に笹木幸子が考案したとされる。炊事など家事をする際に着用する割烹着は戦前、女性の普段着となったが、戦後割烹着姿はあまり見られなくなった。2014年1月、STAP幹細胞を研究している小保方晴子さんが割烹着で実験していることが話題になった。「理系女の星」といわれアイドル的人気で割烹着スタイルが復活するブームとなった。ところが一転、論文不正疑惑で状況に変化が起きたのだろうか。3月までの状況ではメーカーの在庫がなくなるほど、売れゆきは堅調に続いているそうだ。
ディオゲネスという名前の人物はブリタニカ百科事典では4人いる。アポロニアのディオゲネス、セレウケイアのディオゲネス、デイォゲネス・ラエルティオス。有名なキュニコス派の「樽の哲学者」はシノペのディオゲネスである。アレクサンドロス大王が哲学者のディオゲネスの評判を聞き、コリントにいた彼を訪ねた。大王からなにか所望のものはないかとたずねられたのに対して、日なたぼっこをしていたディオゲネスは、「そこを少しどいてくれ。日が当たらないから」と答えて、追いはらうようにしたという。大王は、「もし私がアレクサンドロスでなかったら、ディオゲネスになりたい」といった。
ディオゲネス(前412-前323)は両替商ヒケシアスの子として黒海地方のシノぺに生まれた。父は通貨改鋳の罪で獄死し、彼は国外追放となり、アテネに出てきた。そこでソクラテス門下のゴルギアス(前483-前376)の弟子のアンティテネス(前444-前371)に学んだ。アンティテネスは「幸福は徳に、徳は知に根ざす」という思想で知られる。(この意見はストア派に取り入れられる)講義をはじめた場所がアテネ郊外のキュノサルゲス(白犬の意)とよばれる体育館だったのでキュニコス派(キニク派)と呼ばれる。明治時代、いやしめて犬儒派と訳された。犬儒派の開祖はアンティテネスであるから、弟子のディオゲネスが犬のような生活をしていたから犬儒派とするのは誤説である。 ディオゲネスの思想がどうものなのか知らないが、東洋の老荘思想に近いものかもしれない。
キュニコス派の哲学者には、アンティテネスの他に、ディオゲネスの弟子で、同じく放浪の生活をおくったテーベ出身のクラテス、そして名門の生まれながら、クラテスの人柄に魅せられ彼と結婚した女性学者ヒッパルキアが知られる。キュニコス派、つまりキニク派の特徴として見られるのはヒニク(皮肉)である。次の逸話が示している。
あるとき、ディオゲネスはまだ昼間なのにランプをつけて、「人間はいないか。人間はいないか」と叫びながら街の中を歩いていた。これは、本当に人間の名に値する有徳な人間がいないことを皮肉った話である。「習慣は第二の天性である」という言葉もパスカルよりも以前にディオゲネスが皮肉で使っている。習慣はつまり人為(努力)により形成されるが、習慣の拘束力のつよさとその無意味さを指摘したものである。人が家屋に居住するという習慣を見直すため、ディオゲネスは神殿や倉庫で寝ていた。あるときは酒樽の中で寝ていたので人々は彼のことを「樽の中の哲学者」と呼ぶようになった。このようにディオゲネスの思想は無一物無所有の生活実践から生まれたので、東洋の禅と共通する思想が多く見られる。近代の日本でディオゲネスが知られるようになって、ディオゲネスの逸話には、一休の逸話を借用した国産がみられる。
ディオゲネスの思想で最も重要と思われることは、彼がポリス、国家、民族の枠を越えた意識を最初に持った思想家であり、「自分はコスモポリタンだ」と言ったと伝えられる。コスモポリタ二ズムはコスモス(世界)とポリス(市民)の合成語で、ディオゲネスは個人主義的な理念を含む世界市民主義の開祖といえる。
小柳徹(1948-1969)は昭和30年代、草創期のテレビの子役として人気者だった。「俺ぁ三太だ」「ホームラン教室」そして映画「ゲンと不動明王」(昭和33年)では三船敏郎とも共演した。宮口しずえの小川未明文学賞の原作で当時、学校の映画会で見た。まさに小柳徹は太田博之と並ぶ人気のスターだった。「ゼロ・ファイター大空戦」「ああ零戦」「でっかい太陽」と青春スターとしての階段を上りはじめていた。趣味は車と音楽。自ら作詞・作曲し「二人だけの帰り道」「真夜中の並木道」はヒットの兆しがしていた。昭和44年3月24日の深夜、川崎市内の第3京浜下り線S字カーブに車ごと突っ込み、20歳の若さで亡くなった。ヤング720で同じ司会を務めていた由美かおるが生番組で泣き崩れていたのが記憶に残る。
過ぎ越しは年に一度、ユダヤ暦のニサンの月の14日に行われた祝いである。その日を算定するのは、毎年、春分にいちばん近い新月の日から14日後の日没後に「主の晩餐」と呼ばれるキリストの死の記念式が行われる。今年は4月14日、月曜日にあたる。ユダヤ暦と太陽暦とは下図のように異なっているので、日にちが一定していない。復活祭(イースター)は、ユダヤ人は金曜日にキリストが磔に処せられたとして、その後、日曜日に生き返ったと信じているので、日曜日に行われる。アメリカでは、その日は女性がイースター・ハットといって、新しい綺麗な帽子をかぶる風習がある。
ユダヤ暦
ニサン、イヤール、シバン、タムーズ、アブ、エルール、ティシェリー、マルへシュドン、キスレーヴ、テベット、シュバット、アダル、アダル・シェーニ(閏月)
( Passover Nissan14,Lord's Evening Meal,Nissan,Iyar,Sivan,Tammuz,Av,Elul,Tishri,Hashvan,Kislev,Tevet,Shevat,Adar,AdarⅡ,Easter hat )
ドラマ「逃亡者」(1963年版)を面白くさせた要因の1つにフィリップ・ジェラード警部、ことバリー・モース(Barry Morse 1918-2008)の好演がある。もともとはイギリスの地味な俳優であったが、どのような経緯でハリウッドのテレビ出演となったのかは知らない。映画はユル・ブリンナー主演の「太陽の帝王」(1963年)くらいしか知らない。ドラマを興味深くさせるのはジェラードの執念深さであろう。第8話「さようならはいや後篇」でキンブルはヨットレースに出場して遭難したように見せかけたが、ジェラードはなお嵐の中をゴムボートで一人追跡する。浪にもまれて溺れて、キンブルに助けられる。劇中何度かキンブルに命を救われたり、傷の手当をしてもらうが、それでもあまり恩は感じない性格なのである。第11話「白いリボンのような道」でも山中の川を背広を汚しても渡る姿に保安官も感銘していたようだ。そんなジェラードの人となりは、真面目で頑固一徹、長い間みているうちに嫌な人だが、理解できるようになっていく。劇中では家庭を顧みず、妻から離婚を言い渡されそうになる危機もあった。しかし、根は子ども思いのよき家庭人である。そんなジェーラドと俳優バリー・モースは共通するように感じるのは私ひとりだけだろうか。ジェラードは執務室で字を書くとき左利きであるが、俳優バリー・モースも左利きではないだろうか。当時すでに頭髪は薄かったが、イギリスの田園に暮らしているのか、長生きされ本も出版された。いつまでも「逃亡者」が世界中でオン・エアされて人気が衰えないのは、きっと共演者バリー・モースの影の力があったのだと思う。
大島優子はAKB卒業後は女優に専念し、歌手活動をしないと明言している。彼女はこれまでアニメの吹き替えを含めて14本の映画出演がある。そのうち主演は「テケテケ」(2009年)の1本。宮沢りえ主演の「紙の月」で重要な役どこを演じるらしいが、やはり活動は映画よりもテレビドラマが中心となるのだろう。最近のスターは意外なほど映画出演作は少ない。木村拓哉9本、福山雅治7本、ぺ・ヨンジュン2本。90歳を超えた今も活躍するクリストファー・リーは250本以上にも上り、世界で最も多くの映画に出演した俳優としてギネスブックに記載されている。実際にはクリストファー・リー以上に出演映画本数の多い俳優はいくらでも存在する。高峰秀子は300本以上といわれるが、子役時代に出演したフィルムは大半は無くなっているため、正確な数が証明できないらしい。尾上松之助は1000本以上出演したといわれる。
タモリのMステ。1万人が選んだ春の名曲ランキング20位まで。
1位「さくら(独唱)」 森山直太朗 2003年
2位「春よ、来い」 松任谷由実 1994年
4位「なごり雪」 イルカ 1975年
5位「さくら」ケツメイシ 2005年
6位「桜」 コブクロ 2005年
7位「春なのに」 柏原芳恵 1983年
8位「赤いスイートピー」 松田聖子 1982年
9位「卒業写真」 荒井由実 1975年
10位「SAKURA」 いきものがかり 2006年
11位「贈る言葉」 海援隊 1979年
12位「サクラ咲け」 嵐 2005年
13位「卒業」 斉藤由貴 1985年
14位「3月9日」 レミオロメン 2004年
15位「世界に一つだけの花」 SMAP 2003年
16位「いい日旅立ち」 山口百恵 1978年
17位「蕾」 コブクロ 2007年
18位「卒業」 尾崎豊 1989年
19位「春の歌」 スピッツ 2005年
20位「チェリー」 スピッツ 1996年
青森のリンゴの段ボール箱がわが家のリビングルームにある。かみさんが「リンゴの歌は多いのに、みかんの歌はない」と突然に言う。私は「♪みかんの花が咲いている~」と歌いだす。たしかに「リンゴの歌」(1945年、並木路子・霧島昇)、「りんこのひとりごと」(1940年、河村順子)、「リンゴ追分」(1952年、美空ひばり)、「リンゴちゃん」(1962年、神戸一郎)と名曲が多い。しかし、ミカンだって負けていないぞ。藍美代子の「ミカンが実る頃」(1973年)。ずうとるびの3枚目のシングル「みかん色の恋」(1974年)はヒットした。小泉今日子も1988年にカヴァーしている。大竹しのぶ「みかん」(1976年)も隠れた名曲のひとつ。「♪あなたの部屋が寂しすぎたから みかんをひとつ置いて来ました 食べないで下さい 食べないで下さい」。モーニング娘。「みかん」(2007年)
デビッド・ジャンセンはテレビ「逃亡者」で日本でもよく知られているスターである。たぶん東京オリンピックの頃に放送されたが、「ベンケーシー」などと共に高視聴率だった。毎回、ハラハラの追跡劇とアクションというより、さまざまなアメリカの家庭問題を題材とした人間ドラマであった。「歓楽のかげに」はネバダ州のリーノーが舞台の話。市名は南北戦争で戦死した英雄ジューシー・リー・リーノー(1823-1862)にちなんでいる。6週間の滞在とわずかな理由で離婚が許され結婚はさらに容易なので、州外から客が多く、豪華なホテルとカジノがある。
物語はホテルの社長(テリー・サバラス)の下でプールの監視員として働くキンブル、社長の娘(ジョアナ・フランク)。社長は娘がキンブルに近づくのを嫌い、彼に出て行くように命ずるが、娘がキンブルのあとを追ったため警察に通報され、危機が迫る…。テリー・サバラス(1925-1994)といえば、丸坊主のアクの強いスターだが、役者デビューは意外に遅く、バート・ランカスターに認められて「明日なき十代」「終身犯」など映画デビューした。このドラマ出演もまだスターになる前のものである。
「逃亡者」のキャスティングで謎がある。リチャード・キンブル夫人ヘレンを演じたダイアン・ブリュースターより、ジェラード警部夫人を演じたバーバラ・ラッシュのほうが映画出演も多く格が上で美人である。ラッシュが1927年生まれで、ブリュスターが1931年生まれという年齢を考慮したのだろうが。リチャード・キンブルは、逃走のとき足を軽くひきずって走る。本当にデヴィッド・ジャンセンは足が悪かった。不運にも高校時代に棒高跳びの事故で足の後遺症が残った。
ところでデビッド・ジャンセンは子役からの俳優というが、映画デビューはソニア・ヘニーのスケート映画「It's a Pleasure」(1945年)。2作目がワイズミュラーの映画「燃える密林」である。当時まだ少年だった彼がどのような役だったのだろうか。彼の孤独な陰影はキンブル役だけでなく、すべての役柄にも共通しているが、日本人好みのスターだった。根っからのハリウッド育ちで酒や煙草が好きなようだ。「逃亡者」のなかでも銜え煙草をよくみるが、ポイ捨ては今から見るといただけない。当時は当たり前だったのだろうが。
It's a Pleasre(1945)
Swamp Fire(1946)
The Square Jungle(1956)
邦題「四角いジャングル」 トニー・カーチス主演の拳闘映画
アメリカのTVドラマ「逃亡者」(1963)には毎回、小さな田舎町が舞台になる。「錯乱」(69、70話)ではダム開発でゴーストタウンとなった町がでてくる。キンブルとジェラードの妻マリーが偶然に同じバスに乗り合わせ、バスは事故を起こす。マリーは失明し、キンブルの手当てを受け、砂漠のなかを2人旅を続ける。とあるゴーストタウンで休息する2人は、むかし話をするうち次第にうちとけあうようになる。この回でとくに良いと思われるのは、同世代の2人が幸福だった昔話にやすらぎをおぼえるところである。ティルデンというこの町がどこにあり、どんな町であったかは何も知らない。おそらく架空の町であろう。広いアメリカにはゴーストタウンが無数にある。カリフォルニア州のボディもゴーストタウンで知られる。1859年に金の鉱脈が発見され、1880年頃には1万人の人口があり、60軒以上ものバーが建ち並んだ。しかし20世紀に入ると、金が掘りつくされ、町は急速にさびれ、ゴーストタウン化した。バーバラ・ラッシュは元ジェフリー・ハンター夫人。ジェームズ・メイソンと共演した「黒の報酬」(1956)は隠れた名作。(fugitive,Barbra Rush,Bodie,Tilden)
田原坂(熊本県鹿本郡植木町豊岡)は緩やかな二の坂、三の坂からなる地形であるが、西方は天然の要塞であった。田原坂は3月4日から20日まで、実に17日間にも及ぶ最大の激戦地となった。
乃木稀典少佐率いる政府軍は植木、木葉で敗退した。4日から政府軍の本格的な攻撃が開始され、田原坂、二俣台地両方向から進軍する。7日には二俣台で攻防戦が繰り広げられ、政府軍は二俣台を確保する。その際、薩軍の一番隊長篠原国幹が戦死している。それ以降も、政府軍と薩摩軍との間で、壮絶な戦いが繰り広げられた。一日の弾丸使用量は32万発といわれ、弾丸と弾丸が空中でぶつかりあった(空中かちあい弾)。「雨は降る降る、人馬は濡れる」と歌われるように、田原坂の戦いでは雨の日が多く、弾薬に乏しい薩軍にとって災いとなった。
政府軍が膠着状態の戦況を打破しようとしたのは横平山の占領であり、9日から続いた戦闘の結果、15日には占拠している。その際、政府軍の抜刀隊の50名が乗り込み、作戦に成功している。この抜刀隊は13日の時点で、山県参軍直々に、警視隊300名のうちから100名を選抜している。彼らは二俣台地で薩兵と互角に渡り合い、横平山を奪う主力となった。そして明治10年3月20日、政府軍は総攻撃を掛け、最後まで田原坂周辺を死守していた薩軍を追い落とした。政府軍は累々たる屍の山を築きながらも、田原坂をついに越したのである。この戦いにおける両軍の死傷者は政府軍が約5700人、薩軍が約2500人である。
戦前戦後、陶器コレクター、研究家として知られた久志卓真(くしたくま)。その著書は十数冊に及ぶ。戦時中にもかかわらず高価な美術書を次々と出版している。いまでも古書の世界で高価で流通している。ケペルは久志の「支那上代史」を所蔵しているが、この本は漢代までの概説書であるが、専門の東洋史家と遜色ない学識であることがわかる。久志はもともと新進のバイオリニストで作曲家であった。音楽、歴史、美術と多彩な才能を持った資産家らしいが、詳しいことはわからない。以下、その著書を記す。
「現代音楽論」(新鋭哲学叢書18) 高陽書院 昭和12年
「図説朝鮮美術史」 文明商店 昭和16年
「朝鮮名陶図鑑」 文明商店 昭和16年
「支那の陶器」 宝雲舎 昭和17年
「支那上代史」 宝雲舎 昭和18年
「朝鮮の陶器」 昭和19年
「仏教美術の鑑賞」 太和堂 昭和22年
「工芸の古典と新精神」 宝雲舎 昭和22年
「中国陶磁1」 元々社 昭和29年
「世界陶磁全集10」 河出書房 昭和30年
「骨董遍歴」 昭森社 昭和38年
「明初陶磁図鑑」 雄山閣 昭和43年
「乾山」 雄山閣 昭和47年
「朝鮮の陶磁」 雄山閣 昭和49年
川端龍子(1885-1966)。本名・川端昇太郎は、明治18年6月6日、和歌山市本町3丁目に川端信吉、せい(勢以)の長男として生まれた。生家は呉服商を営み、屋号を代々俵屋といった。しかし、川端家は家産が傾き、明治28年、上京し、浅草、日本橋に住む。信吉は弟・岡本武次の経営する日本橋病院に勤めることになった。
川端茅舎(1900-1941)。本名・川端信一は、明治33年8月14日、父川端信吉と母ゆきとの間に生まれた。つまり川端龍子とは異母兄弟であった。母ゆきは、病院の看護婦で、父信吉が一時病院で働いていたとき親しい関係となった。その後、父は病院をやめ、日本橋蠣殻町で煙草屋を始めた。父は寿山堂という雅号で、俳句や日本画を嗜んだ通人であったが、家族は生活苦を強いられた。しかし、龍子、茅舎の芸術的資質は、この父の影響が大きいものと思われる。
長男である龍子は、このような父を嫌いながらも、中学卒業後、画家への志をもち続け、新聞・雑誌の挿絵を描いていた。明治39年、林夏子と結婚し、神田錦町の煙草屋の二階に世帯を持つ。大正2年1月、周囲の反対を推して、渡米する。ボストン美術館で見た「平治物語絵詞」の美しさに心を打たれて、帰国後は日本画に転じた。大正5年、第3回院展に樗牛賞を受け、美術院同人に推され、大正6年「二荒山縁起」を発表、昭和3年、日本美術院を離れ、翌年、青龍社を創立して主催する。
川端茅舎も初めは洋画家を志した、岸田劉生に師事。昭和4年まで京都東福寺内の正覚庵に寄宿し、半僧半俗的生活をしながら絵画の勉強を続けた。しかし胸部疾患のため絵画を断念、もっぱら俳句に励むようになった。大正11年高浜虚子の面識をえて、「ホトトギス」への投句一本になる。大正13年には「ホトトギス」の巻頭を占めるに至る。昭和5年以降は全く俳句に専念、虚子をして「花鳥諷詠真骨頂漢」と賛嘆せしめ、自分でも「花鳥諷詠することもまた一個の大丈夫の道」というほど、花鳥諷詠に徹底した。「茅舎浄土」、あるいは比喩の名手、造語の名人として知られる。昭和3年ごろ、倉田艶子との失恋、以後10年間の闘病生活などで生涯独身だった。昭和16年7月17日、茅舎永眠。
一枚の餅のごとくに雪残る
金剛の露ひとつぶや石の上
しんしんと雪降る空に鳶の笛
ひらひらと月光降りぬ貝割菜
生き馬の身を大根でうづめけり
花杏受胎告知の翅音びび
約束の寒の土筆を煮て下さい
「約束の」の句は、病状が思わしくなく、なんとなく食欲がない。自分はいったい何が食べたいのだろうと自問したとき、以前約束しておいた「つくし」を思いだした。まだ冬で思うように手にはいらないかもしれない。しかし、そんなことはどうでもいい。とにかく「約束の寒のつくしを煮て下さい」と身の回りを世話してくれる姉の秋子に頼むのだった。
兄龍子は戦後も壮大気宇な大作を数々発表し画壇の雄として名をはせた。昭和34年には文化勲章を受章、昭和38年6月6日、川端龍子記念館(東京都大田区)を設立した。3年後の昭和41年4月10日、老衰のため死去する。享年80歳。龍子は金力、権力にこびることを何よりも嫌って反骨心が強く、生涯在野精神に一貫した人だった。「画人生涯筆一管」という句にその精神がよく現れている。
巨人の永久欠番は現在のところ6人いる。王貞治の「1」、長嶋茂雄の「3」、黒沢俊夫の「4」、沢村栄治の「14」、川上哲治の「16」、金田正一の「34」。この中でひとり、黒沢俊夫の名だけはあまり知られていない。彼は昭和15年に金鯱に入団し、巨人には昭和19年に入団した。11年間(巨人在籍3年)の通算成績は、459安打、本塁打7本、201打点、打率0.259。昭和22年のシーズン中に腸チフスで急死した。彼は死の直前に「自分が死んだら、巨人軍のユニフォームのまま葬ってほしい」と言った。このことばに感動した千葉茂ら選手たちは、背番号「4」を永久欠番にすることを提案し、巨人の代表もただちに認め、沢村と共に永久欠番となった。
宇津井健が亡くなられたが、さまざまな人が「スーパー・ジャイアンツ」シリーズ(1957~59)や「ザ・ガードマン」「赤いシリーズ」「新幹線大爆破」(1975)などを代表作にあげていた。だが三隅研次監督の「巨人・大隈重信」(1963)をあげる人はあまりいなかった。宇津井はテレビでの評価は高いが、映画作品ではあまり恵まれなかったようだ。ここではアイドル的な女優の代表作を考えてみる。50年にわたり300本以上の映画に出演した高峰秀子の代表作といえば成瀬巳喜男監督「浮雲」(1955)と決まっている。東宝の青春映画を支えたアイドル派の女優、酒井和歌子(全41作品)と内藤洋子(全22作品)の代表作を決めるのは難航が予想される。わたしは酒井和歌子が「誰のために愛するか」(1971)、内藤洋子が「その人は昔」(1967)に一票を投じる。角川映画の薬師丸ひろ子(全37作品)は「Wの悲劇」(1984)、原田知世(全27作品)は「早春物語」(1985)と考えている。
一粒の砂に世界を見、一輪の野の花に天国をみる
英国の詩人ウィリアム・ブレイクの「無心のまえぶれ」の冒頭の詩である。このあと「手のひらに無限をつかみ、一瞬のうちに永遠をとらえる」と続く。
To see a world in a grain of sand and a heaven in a wild flower.
Hold infinity in the palm of your hand,and eternity in an hour.
ヨーロッパの田舎に自生する蝶形の可憐な花スイートピーは白、黄色、ピンクが多い。松田聖子が歌う「赤いスイートピー」。この歌が世に出た頃、赤いスイートピーは園芸店でもめずらしかったが、その後品種改良によって赤色のスイートピーが切花として人気を集めるようになった。
英語で花をいろいろ集める。
madder アカネ
moning glory 朝顔
hydrangea アジサイ
anemone アネモネ
thistle アザミ
aster アスター
iris アヤメ
plum blossoms 梅
phlox オイランソウ
black-eyed Susan オオハンゴウソウ
four-o'clock オシロイバナ
columbine オダマキ
baby's breath カスミソウ
carnation カーネーション
ballon flower キキョウ
chrysanthemum 菊
snapdragon キンギョソウ
pot marigold キンセンカ
buttercup キンポウゲ
nasturtium キンレンカ
clematis クレマチス
cockscomb ケイトウ
Dutchman's pipe cactus 月下美人
cosmos コスモス
phalaenopsis 胡蝶蘭
cactus サボテン
scarlet sage サルビア
cyclamen シクラメン
weeping willow しだれやなぎ
mossphlox シバザクラ
peony シャクヤク
Japanese Anemone シュウメイギク
dusty miller シロタエギク
narcissus スイセン
water lily スイレン
lily of the valley すずらん
bird of paradise ストレリチア
violet スミレ
glove amaranth 千日紅
dahlia ダリア
dandelion たんぽぽ
tulip チューリップ
camellia 椿
passion flower トケイソウ
lizard's tail ドクダミ
monkshood トリカブト
dianthus なでしこ
rape blossoms 菜の花
periwinkle ニチニチソウ
amaranth ハゲイトウ
lotus ハス
coreopsis ハルシャギク
rose ばら
red spider lily 彼岸花
hyssop ヒソップ
daisy ヒナギク
corn poppy ヒナゲシ
sunflower ヒマワリ
hyacinth ヒヤシンス
zinnia 百日草
wisteria 藤
safflower ベニハナ
balsam ホウセンカ
polyanthus ポリアンサス
rose moss 松葉牡丹
marigold マリーゴールド
quince マルメロ
skunk cabbage 水芭蕉
magnolia もくれん
peach blossoms 桃
cornflower 矢車菊
bottle gourd 夕顔
lily ユリ
orchid らん
gentian リンドウ
forget-me-not わすれな草
世の中、なにもかもスピード時代ではあるが、若い研究者の功を焦るような事例が生じているのは遺憾である。経営学の分野で有名なピーター・ドラッカーは晩年まで政治・社会・経済・歴史・哲学などあらゆる分野に関心をもち、彼の筆致は鋭く深い洞察に満ち溢れ、そのため「知の巨人」と称された。ドラッカーの特徴の1つは、こうした関心範囲の広さに由来する。ヘンリー・ベッティンガーは方面違いの分野の研究する方法を三角測量法になぞらえている。具体的には次のような、あたりまえの読書・研究の習慣が考えられる。
1.ある日刊新聞を初めから終わりまで、ざっと目を通す
2.週刊誌、書評を読む
3.自分の専門分野から、ずっと離れた分野の業界新聞を読む
4.「世界」「文藝春秋」など総合雑誌を読む
5.学会の専門誌を、題目のほかは何もわからないでも読む
6.書評されている本を買って読む
7.外国の雑誌を読む
8.若い時に読んだ小説・古典を読み直す
9.歴史上の、ある時代または事件を選び、徹底的に調べる
10.雑学者と呼ばれることを恐れるな
(板坂元「考える技術、書く技術」1973年)
低い位置で下着や尻を露出してはく「腰パン」。90年代初めにヒットポップ系アーティストが始め、若者を中心に流行した。米国ではサギーパンツ(saggy pants)という。saggyとは「たるんだ」の意。
人を両肩に跨らせてかつぐ「肩車」。英語表現は、「おんぶ」も「肩車」も同じ背負うことで、ピギーバック(piggy back)。piggyとは「子豚」。
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胎児と胎盤とをつなぐ柔らかな索状の器官を臍帯(さいたい)、へその緒という。英語でアンビリカル・コードumbilical cord。宇宙飛行士が船外活動を行う時に、宇宙服と宇宙船を繋いで空気や電力を供給する為の生命維持コードをアンビリカル・ケーブルumbilical cableという。
「胸の谷間」の英語表現は?女性の水着姿や襟ぐり広いドレスで露わになった乳房の間のくぼみをクレイヴィジcleavage という。
一冊一円の文学全集、つまり円本ブームのおかげで人気文士たちは高額の収入を得るようになった。そんなとき世間を騒がせたのが文士賭博事件であった(今日では国語の教科書にその名前が登場する人物が検挙されている)。
昭和8年11月17日、有閑マダムと不良ダンス教師の摘発に当たっていた警視庁は、検挙された田村、小島の自供から著名文士が常習的に賭博を行なっている事実をつきとめた。昭和9年3月16日、里見弴夫妻、久米正雄夫妻、小島政二郎の愛人・美川きよ(のちに鳥海青児の妻となる)、広津和郎などを召喚した。さらに川口松太郎も自宅から拘引留置され、ダンスホールにからむエロ行状と賭博の犯罪の実態があきらかとなった。菊池寛が警視庁に出頭し、身柄引受の一札を入、事なきを得た。
有島武郎(1878-1923)は明治36年、森本厚吉とともに渡米、歴史や経済学を学ぶ。このころから信仰に動揺をきたし、ホイットマン、トルストイなどを耽読、また社会主義の影響を受けた。明治43年、「白樺」に参加し、大正5年、父や妻(神尾安子)の死などが転機になって作家としての本格的な活動が始まることになる。有島の「或る女」は近代リアリズム文学の代表作といえる。朝日新聞の「たいせつな本」で加賀乙彦が次のように書いている。(2008年3月16日付)
日本の近代文学のなかで傑出した作品をひとつあげよと言われたら、私はためらいなく『或る女』をあげる。この作品を何度も読み、読むたびに新しい発見をして教えられる、長い間にそういう経験をしてきたからだ。
半世紀も世代が違うすぐれた現代作家からかくまで尊敬される有島武郎とは実にすばらしい作家であったことがわかるであろう。だが有島の晩年はロシア革命や社会運動の高まりに、親譲りの財産に依食する罪悪感に苦しむこととなり、人妻の波多野秋子との心中事件が、彼の文学的評価に何らかの影響があるものであろうか。同時代の吉野作造はいう。「彼の死には僕は徹頭徹尾服さない。すこぶる遺憾なことと彼のためにも惜しむ。彼に於て貴むべきは彼の死にあらずして彼の真と誠とで一貫した四十六年の生涯である。彼は死に失敗したが生に成功した人だと言っていい。生に成功したが故に、世人は誤って彼の死にもまた貴い何物かがあるらしく迷う。それだけ彼の生涯は立派なものであった」(「文化生活」大正12年9月号)
有島武郎「或る女」の文学性を加賀乙彦は次のように分析している。
歴史的出来事と小説の時間とが密な関係を持つ手法を、有島武郎は、トルストイとフローベールから学んだと思われる。彼は欧米の近代文学の熱心な読者であった。日本の近代の長編小説には物語を情緒で流していくたぐいのものが多い。なるほど面白い話だとは思うものの、登場人物の性格が初めから一本調子で、その精神の深みに分け入るだけの作家の努力が希薄である。ところが『或る女』には、作品の構成によって主人公の内面の闇をつぎつぎに描き出していく複雑な手法が取り入れられている。
この加賀の短文を読んでみても、有島武郎『或る女』がそれまでの日本の小説には無かった主人公の近代性とか内面の性格描写に優れている点を特筆している。『或る女』の成立には、世界最高の文学と言われるトルストイの『アンナ・カレーニナ』やフローベールの『ボヴァリー夫人』の影響があることは明らかである。フローベールが『ボヴァリー夫人』を書くための膨大なメモが発見されたという記事を読んだことがあるが、有島も『或る女』を書くために緻密な準備をしていたようである。
私は有島武郎の小説作法から、ずいぶんいろいろと教えられてきた。彼が『或る女』に到達するまでの、創作日記を研究し、試作品としての『或る女のグリンプス』と完成作とをくらべてみて、小説とはこれだけの用意と思索とをもってすべきだと思った。
加賀の一文を読んで、今日でも有島武郎の作品の価値は不朽のものであることがわかるが、大正時代に吉野作造が言った「生に成功した人」という評も当っているように思える。
マッチは英語でも match。英語がそのまんまカタカナ日本語ばかりの英単語を集める。アリバイ alibi は、犯罪が行われた時、被疑者がその現場以外の場所にいたという事実、またはその証明。現場不在証明。もともと、「ローマ法」にあり、「どこか外のところに」という副詞から来ている。
アイロンiron バターbutter ハムham ケーキcake コップcup ナイフknife スプーンspoon ランプlamp バスケットbasket ペンpen チョークchalk ポケットpocket スキーski ピアノpiano ラジオradio ボートboat ホテルhotel ガスgas ソファsofa タイヤtire ガラスglass チューリップtulip コスモスcosmus ダリアdahlia プールpool パーティparty 横断幕(バナー)banner カルメラcaramelo アクセサリーaccessory
日本には古来から伝統的な結納の行事として「結納」と言う形式があるが、韓国にも似たような風習がある。韓国の結納はイェタン(礼緞)と呼ばれ、もとは絹織物だったが、現在は指輪とか結納品がふつうである。四柱単子(サジュタンジャ、画像)という綺麗な函(ハム)に入れる。新郎側が結婚に対する感謝を表わす意味で、新婦の家に函を届ける。スルメのお面を付けた新郎の友人が函を担いで「ハムサセヨー」(函を買ってください)と叫びながら新婦の家に向かう。新婦側はお金の入った封筒を渡したり、お酒を持ってきたりと、新郎の友人を上手く家まで誘導する。受け渡しの儀式が終わったら、新郎新婦は新婦宅の一室でお酒を交わす。比較的新しい言葉だが、韓国には「結納の使いに制服の巡査」というのがある。何とも、場違いなはなしで、味も素気もない、という意味。
中島義道の『人生を半分降りる』(新潮社)という本がある。「あなたはまもなく死んでしまう」と題された章に始まり、「そして、あなたはまもなく死んでしまう」という章で終る。ローマの哲学者セネカの話に始まり、ペシミズムの人生論とでもいうべき内容。退職後のセカンドライフの本は色々と出ているがいきいきと充実した老後を過ごしたいとおもうのが普通であろう。そしていつから現役を退き、第二の人生をスタートするかが問題であろう。ケペルは5年前から職を辞し、「女性の書斎」という小さな店を開いた。一言でいえば平穏無事である。この商売はなかなか楽しい。ただし年中無休なので、店番をしなければならない。旅行はしない。(近所への散歩はよくする。)映画館、遊園地、盛り場へも行かない。(お金もない)宴会、パーティーには行かない。(お酒が飲めない、糖尿病予備軍だ)講演、著述はしない(依頼もないし、掲載してくれない、ただしブログは別)、さらに年賀状は出さないつもりだし、昔の知人、友人とも会わない。「人生半分降りる」ということはこの本を読む以前から自分も考え抜いた末の結論でもあった。もちろん完全に隠遁生活はできない。孤独で淋しいのはやはりつらい。お店を開いていれば、たまにはお客さんがやって来る。なかにはシム・ウナ(「八月のクリスマス」)や夏目雅子(「時代屋の女房」)のような美人もいる。「おじさん、昔、どんな商売やってたの?」と聞いてくる。たいていはまともには答えずにはぐらかすことにしている。こうして10年、20年すれば、やがては私も死ぬだろう。あんまり儲からない商売で、退職金の食いつぶしになるだろう。終身型の保険年金や公的年金もしているが切り詰めた生活をしていこう。飽食だったのでむしろ健康にもよい。あまり株や投資などの財テクや社会的に有益なことをしようとムリするのはやめよう。夏目漱石の小説『三四郎』に広田先生という一風変わった脱俗の趣ある人物が登場する。三四郎の友人与次郎はその先生に「偉大なる暗闇」という渾名をつけている。モデルは岩元禎とも粟野健次郎とも狩野享吉ともいわれている。広田先生には及びもつかないが、自分の時間を大切にして、平穏に過ごすことにする。
島崎藤村(1872-1943)は明治30年、処女詩集「若菜集」を出版。孤独な青春の愛と苦悩とに身を揺られながら、自我に目ざめた清新純一な魂を、鮮烈な情感でうたいあげ、日本近代詩の栄光の扉をひらく。以後明治34年までに「一葉舟」「夏草」「落梅集」の三詩集を出版し、新詩人の第一位を占めた。
椰子の実
名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
故郷の岸を離れて
汝はそも波に幾月
これは、詩集「落梅集」に収録された藤村の有名な「椰子の実」の一節である。海辺に流れ寄った南の海から来た椰子の実に寄せて、人生流離の思いを歌った詩、あるいは愛唱歌として広く知られている。もともと、この詩は柳田國男(1875-1969)が学生時代に、渥美半島の伊良湖岬に旅した時の体験がもとになってできたものだといわれている。柳田が伊良湖に滞在したのは、明治31年の夏、東京帝国大学の一年生の時だった。帰京して友人の藤村に椰子の実の話をした。そしたら「君、その話を僕に呉れ給へよ、誰にも云はずに呉れ給へ」といった。そしたら数年後に藤村の「椰子の実」として世間に広まったのである。
昭和11年、NHK国民歌謡として放送されると、この歌はさらに人々に愛唱されるようになる。作曲は教会オルガニストの大中寅二(1896-1982)。息子は「犬のおまわりさん」などの童謡で知られる大中恩。
日本五大昔話とは、桃太郎、かちかち山、猿蟹合戦、舌切雀、花咲爺である。なぜ一番有名だった「浦島太郎」がないのか。最近、小学校の先生が子どもたちに「浦島太郎」を知っているかたずねたら、15%以上が知らないと答えた。どうして浦島太郎の絵本が消えたのだろうか?実は浦島太郎の話は平安時代に書かれた「浦島子伝」がもとになっている。龍宮城での乙姫さまの宴会だけではなく、寝所での性技も描かれている。龍宮城での酒とバラの日々を過ごした浦島太郎は、さらに幼い亀姫を妻として迎え、甘い新婚生活を過ごす。ポルノ小説だった浦島太郎をリメイクして子どもの絵本として、復活したのが江戸時代のころ。講談社の絵本でも人気を誇ったが、なぜか浦島太郎も時代遅れの代名詞になって人気は凋落してしまった。浦島の復権はあるのか。
人はそのむかし魚だった。もっとむかしはバクテリアだったが。ともかく海に棲んでいたことは間違いない。人に、背びれ、尾びれはなくなったが、魚の骨と人間の背骨はいまでも似ている。つまり、人間が両手、両足が発達する以前、節のある背骨が運動のエネルギーだった。水泳の上手な人の泳ぎは、魚みたいだ。だから人と水とは欠くことのできない重要性をもつ。母の胎内から、「羊水」とともにこの世に生まれ出る。そして臨終のときは、「死に水」を口に注ぎ入れてもらって成仏する。ガンジス川の水はヒンドゥー教徒の最も尊信するシヴァ神の足下から流れ出ているといわれ、この川の水に沐浴斎戒するとすべての罪から免れ、死者は骨をこの川に流せば極楽往生すると考えられている。キリスト教もキリスト誕生以前から水崇拝があるようで、水による清めの儀式は聖ヨハネによってバプテスマが行われた。その後、キリストによって洗礼、聖水となった。人の一生、水の如し。
ケペルの親父は若い頃、人力車を牽いていたという。大正末から昭和初期、加古川の田舎では交通手段は人力車であった。そのころ全国には20万台を超える人力車があり、駅前には人力車が数台たむろして今のタクシーの役目を果たしていた。
人力車の発明者は誰か。諸説あって諸葛孔明という説もある。しかし、日本人の世界的発明の1つであるという説もある。オランダのモンタヌスの著作(1699年)には「タイコーサマ」という女性が手押し車に乗っている挿絵がみえる(右画像)。確実なのは1868年に和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助ら3人が発明したことになっている。1872年には4万台を超えた人力車も戦後には自動車の普及によって消滅した。インド、東南アジアの都市ではいまも人力車が活躍している。(参考文献:福地重孝「明治の人力車夫について」日本歴史32,1951年)
1989年、フェルディナンド・マルコスは亡命先のハワイでイメルダ夫人に看とられながら病没した。ベニグノ・アキノ暗殺事件や不正蓄財などの容疑が噂されたが、結局、不明のままになった。イメルダはマルコスの資金は山下財宝を発見したからと説明した。山下財宝とは旧日本軍、山下奉文が終戦時フィリピンに埋めたとされる莫大な埋蔵金のことである。だがこのイメルダの話を信じる者はいない。現在、イメルダは失脚から復権し、2010年の選挙で当選し国会議員となっている。マニラ郊外にあるマリキナ博物館にはイメルダ夫人が所有する靴3000足が展示されている。かつてマラカニアン宮殿にあった靴で、独裁政権下で贅を尽くした夫人の生活を象徴するものとして、観光客の関心をよんでいる。Imeld marcos
ササン朝(226-651)は、アルデシール1世がパルティアを倒して、クテシフォンを都に新しく開いた王朝である。アケメネス朝治下のペルシア帝国の復興をめざし、イラン民族の伝統宗教であるゾロアスター教を国教に定めて、国家の統一をはかった。シャープール1世は東方のクシャーナ朝を破ってアフガニスタンに進出し、西方ではエデッサの戦い(260)でローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜とした。その後、カッパドキアまで進んだが、パルミラの軍に敗れてユーフラテス川以東に後退した。3世紀末、パルミラの女王ゼノビアはローマと戦うが捕虜となってローマへと連行され凱旋式で市内を引き回された。ゼノビアは再婚し長く生きたともいわれるが、パルミラは破壊され廃墟となった。6世紀ホスロー1世のときササン朝は最盛期を迎えるにいたった。7世紀半ばにアラブのイスラム軍が来襲して、ニハーヴァンドの戦い(642)でイスラム軍に完敗し、ササン朝は滅亡した。
本州最北端、下北半島には薬研温泉、下風呂温泉、湯野川温泉など温泉地もあり、尻屋崎(東通村)、大間崎(大間町)、イタコで有名な霊場恐山(むつ市)など景勝地も多い。とくに半島西岸の鯛島から弁天島に仏ヶ浦を含めた約15㎞の海岸線は本州さいはての秘境として人気の観光スポットとなっている。
明治41年8月下旬、三戸郡五戸町出身の鳥谷部春汀から「故郷に十和田湖という景色のよいところがある」と教えられ、初めて十和田湖を見た大町桂月(1869-1925)は、湖の雄大さや、自然の美しさに感動させられた。そして大正11年、桂月は地元の太田吉司、小笠原円吉に案内されて、初秋の下北半島を14日かけて一周旅行している。奇岩怪石の荒涼とした風景を見た桂月は次のように詠んだ。
神のわざ鬼の手づくり仏宇陀
人の世ならぬ処なりけり
恐山心と見ゆる湖を
かこめる峰も蓮花なりけり
大町桂月は当時まだ世に知られていなかった十和田や下北半島の景勝を紹介した詩人だった。
「ごちそうさん」娘ふ久は円周率を唱えてお産していた。STAP細胞の小保方晴子さんが、割烹着を着て実験していることが話題となった。マスコミが作った理系女ブーム。ところが小保方さんの論文に疑義が生じている。早くもリケジョブームに暗雲がたちこめた。
伊藤左千夫、古泉千樫らアララギ派の歌人はともに千葉生れ。国木田独歩も銚子生まれだが4歳で上京し、記憶にはないだろう。日本の女子教育の先駆者、津田梅子は佐倉藩士、津田仙の子として幕臣のため江戸牛込で生れる。STAP細胞の小保方晴子は千葉県松戸市の出身。
アイヌとは「人」の意で、なまって「アイノ」ともいわれてた。近世まで、北海道を中心にして千島列島、樺太南部および東北地方に居住していた。最盛期には、さらに本州中部、アムール川流域やカムチャツカ半島南部等にもその勢力が及んだと思われる。18世紀初めの人口は約28,000人と推定されている。小民族ではあるが、他民族に支配されたことがなく、体質や言語が周囲の諸民族と著しく異なっていたため、学界の注目をひき、その研究がなされたが、いまだ定説をみていない。
北海道には、アイヌ語の地名に漢字を宛てたとされる地名が数多く残されている。
サッポロペッ(かわいた大きな川) 札幌
ヤムワッカナイ(冷たい水) 稚内
モベツ(静かな川) 紋別
シリエトク(大地の果て) 知床
シベツ(親である川=本流) 標津
クッチャル(湖が川になって流れ出すところ) 屈斜路湖
テシカカ(岩の岸の上) 弟子屈
レブンシリ(沖のほうの島) 礼文島
リシリ(高い島) 利尻島
サク・コタン(夏の村) 積丹半島
モルラン(小さな下り坂) 室蘭
シコツ(大きなくぼみ) 支笏湖
サル(アシ原) 沙流川
ビラウツル(崖と崖のあいだ) 平取
シラウオイ(アブの多いところ) 白老
「暢気眼鏡」で知られる作家尾崎一雄(1899-1983)の妻・尾崎松枝が3月13日、小田原市の病院で死去、93歳」という訃報記事を読む。「暢気眼鏡」に、新妻の芳枝が貧乏所帯のやりくりで自分の金歯を売って米を買ったので主人は「なぜそんな莫迦なことをするんだ」と怒ったという話がある。主人公の多木太一は「かつて聞いた、貧乏しきって何もかもなくなり、金歯を入質して米を買ったが、それを喰う段になり弱ったという笑い話が苦々しく憶い出された」とある。「暢気眼鏡」は昭和15年に杉狂児、轟夕起子で映画化され、芳枝の天真爛漫な明るさで人気があった。尾崎一雄は三島由紀夫との対談で「あれは映画がいろいろお手伝いしたんですよ。たいへんなお手伝いしたんですよ。映画は映画で面白いのでしょうけれど、私はあれはいちばんいやな、きらいなものですね」と語っている。
尾崎一雄の出世作となった「暢気眼鏡」「猫」「擬態」「芳兵衛」などの、いわゆる芳兵衛物の一連の作品が書かれたのは、昭和8、9年である。尾崎が第五回芥川賞を受賞された、芳兵衛物が主に収録されている第一創作集『暢気眼鏡』(砂子屋書房、昭和12年4月1日)の「あとがき」で、こういっている。「昭和3年から丸5年間何も書かなかったが、或る機会からまた書けるようになった」これは私生活の変化があったからであろう。尾崎松枝は金沢の人で、大正2年5月生まれ、父は山原成太郎という。尾崎一雄と新婚所帯を東京牛込馬場下町東光館にもったのは昭和6年のことで、一雄31歳、松枝18歳の時である。翌年には長女一枝も生まれ、仕事への意欲が昂揚まってきた。作家尾崎一雄の誕生には妻の存在は大きいものがある。一時大病をしたが、昭和28年に長篇『芳兵衛物語』を刊行している。作者の分身である主人公多木太一は次のように言っている。「松や銀杏のような木もある。それぞれの木が、それぞれの延び方生き方をしている。彼らは、皆、自分らしい生き方をしている。それぞれの木として、せいいっぱいの生き方をすれば、それでいいのだ。多賀直義は、きっと松なのだろう。そして俺は、やつでぐらいか」とある。尾崎一雄の戦後の再出発宣言である。(多賀直義とは志賀直哉のことである)
尾崎が処女作「二月の蜜蜂」を発表したのは大正14年のことであり、昭和58年に亡くなるまで、ほぼ激動の昭和期を戦前戦後にわたり文壇の中心的な位置にいた作家の支えに、芳兵衛という妻の内助の功があったことを記憶しておきたい。
「汝自身を知れ」とはギリシアのアポロン神殿に掲げられていた格言である。賢者ソロンの言葉としても知られている。元来は「自分の分限を忘れるな」という意味だったが、ソクラテスは「自分が何も知らないということを、自分は知っている」と自分自身の無知を知ることが、知ることの始めであると街頭での問答によって説いた。当時ソクラテスは、アテネで最も有名な哲学者だった。だが、高名とはいっても、時代の理想像だったわけではない。それどころか、挙動、外貌、素行、どれをとっても、アテネ市民にとって侮辱的に思われた。道を歩いている人の前に不意に立ちはだかっては、政治や哲学の話を始める。話かけられた人は、ソクラテスが自分に恥をかかせようとしているのではないかと疑うだろう。ソクラテスが起訴された本当の理由はわからない。民主派はソクラテスを平和と秩序を乱す邪魔者とみなしたらしい。裁判は有罪280票、無罪220票となった。さらにどのような刑罰にするかで、360票対140票で死刑が確定した。本来なら死刑宣告を受けたらすぐ処刑されるはずだったが、聖なるデロス島への供物を乗せた船が出航したところで、船が戻るまで処刑は延期されていた。ソクラテスには逃亡するチャンスがあったにもかかわらず、それを利用しなかったといわれる。俗説では「悪法もまた法なり」と言って死を怖れなかったと伝えられる。この名言は後世のつくり話で、「悪法に反して亡命するよりも、自分の哲学に殉じよう」という信念であった。つまり「悪法もまた法なり」などという形而下的なことではなく、己の信念に従うという意味である。欧米ではソクラテスの死は自己の信念の従うという意味であるが、日本では既存の悪法に服従するという意味にすりかえられている。世界では「法だからといって従う義務はない」と教えるのが一般的である。(Socrates)
1986年、佐賀県の吉野ケ里発見後、邪馬台国の所在は一時期、北九州説が有力視されていた。「歴史読本」(人物往来社)や「歴史と旅」(秋田書店)などは何度も特集し、奥野正男や安本美典などが論稿を発表していた。このようなジャーナリスト的学者もいるが、榎一雄(1913-1989)や森浩一(1928-2013)のような著名な学者も北九州説にはいた。榎一雄は東洋文庫長であり、邪馬台国論争においては伊都国を起点とする「放射説」を説いた東洋史学者。森浩一は大和中心説にとらわれず、地域主義を説いた考古学者。2人とも亡くなるまで九州説を変えることはなかった。2000年代になると、放射性炭素年代測定など科学的な研究調査が進み、箸墓古墳の築造年代が3世紀中ごろの卑弥呼の時代と一致し、邪馬台国畿内説が俄然有利な状況となっている。
インターネットで調査する場合、明確な問題意識を持っていないと、必要とする情報にたどり着けない。文献探索法において、やはり専門書が書架に並んでいてそこから必要な本を探し出すという、オーソドックスなアクセス方法は、これからも残してほしい。だが現在ほど学術研究が分化されていて、どの領域においても閉塞状況にある時代はこれまでになかったといってよい。特定のジャンルの専門家はせいぜい500人以下、極端な場合には20~30人程度という規模のジャンルもあるだろう。学問のタコツボ化が進んでいるため専門書・学術書の出版が極めて困難な状況にある。良心的な専門書を出版していた会社が倒産するということは文化的にみて好ましくない。アメリカでは学術専門書が3000部ほどは図書館で購入されていることが確実視されているから、専門出版社も経営が成り立っている。ところが日本では図書館の予算が少ないうえに、市民のリクエストに図書費が半分以上食われて、専門書や教養書といわれる良書が買えない状況が続いている。学術専門書の出版活動は、実学的な要素はなくても、長期的にみると日本の文化の基底を支える重要な要素である。多くの行政理事者や図書館司書らの見識によって学術専門書の購入についても積極的に推進してほしいものである。
家庭から出るゴミは分別し、収集日に定められた期日、時間に出すことが決められている。ごみ袋も「黒いごみ袋」は収集しないとか、市指定の不燃ごみ袋を定めているところもある。だいたい燃やすごみ、プラスチック類、かん・びん、紙・布、ペットボトル、小型不燃ごみ、などに区分され。小型不燃ごみとは、陶器類、金属類、小型家電製品、ガラス類など。傘は30cmを超えるものは粗大ごみとして扱うところもあれば、小型不燃ごみとして扱うところもある。靴などは燃えるごみとして出すところもあれば、小型不燃ごみのところもある。
小型不燃ごみにはどのようなものがあるのか。茶碗、湯呑、花瓶、壺、鍋、やかん、包丁、スプーン、フォーク、おたま、金串、栓抜き、缶切り、折りたたみ傘、アルミ製の皿、針金ハンガー、乾電池、ドライヤー、電気カミソリ、目覚まし時計、携帯ラジオ、板ガラス、蛍光管、電球、鏡、化粧品の容器、ガラス食器、体温計。フライパンは30㎝を超えても鍋・やかんと同類に扱うところが一般的。鳥かご、コーヒーメーカー、炊飯器、ゴルフクラブなどは小型不燃ごみとして扱われないみたいだ。小型とは一辺が30㎝、重さ5㎏以下の品物を基準とするところが多い。細部は自治体によって異なる。
問1.映画「スチュアート・リトル」(1999年) ニューヨークに住むリトル家にやってきた動物は何?
問2.「あまちゃん」に登場した「梨」という漢字が入ったスナックで北三陸鉄道に併設されている店舗の名前は?
問3.「西の比叡山」といわれる天台宗書写山円教寺(姫路市)を開いた「書写上人」ともいわれる高僧は?
問4.1943年、助監督として腕を高く評価された黒澤明33歳の監督デビュー作品は?
問5.かつてヨーロッパに存在したヘルヴェティア共和国(1798-1803)は現在のどの国にあったか?
問6.「旧約聖書」士師記にでてくるライオンと戦う怪力の持ち主は?
問7.志賀直哉「小僧の神様」に登場する仙吉はどのような商いの丁稚か?
問8.「人々」「云々」のように同じ漢字を2回続けるときに使う記号「々」を何と呼ぶか?
問9.1894年、ウィリアム・ラムゼーと共同で元素アルゴンを発見したイギリスの物理学者は?
問10.五木ひろし、17歳の1965年、芸名「松山まさる」のデビュー曲は?
問11.もともとはアメリカの先住民が履いていた鹿などの1枚皮の靴のことで、最近では若者の間でブーツ型のものが人気となっている甲の部分にU字型に縫い合わされたこの靴を何という?
回答 問1ネズミ。問2梨明日(リアス)。問3性空。問4姿三四郎。問5スイス。問6サムソン。問7秤屋。問8踊り字。問9ジョン・ウィリアム・ストラット。問10.新宿駅から。問11.モカシン。
問1.町の名前の由来が「熊」と言われていることから、至る所に熊にちなんだ紋章・旗・像などがある都市は?
問2.1970年代後半からアメリカでは大人社会への仲間入りのできないおとな・こどもの男性が大量に発生しはじめた。ダン・カイリーはこれらの男性たちがあらわす心の症候群を何とよんだか。
問3.男女がくっつきながら、腰をくねくね動かすダンス。日本でも石井明美が曲にして流行った踊りは何か?
問4.牛の胃は4つある。4番目を「ギアラ」3番目を「センマイ」2番目を「ハチノス」というが1番目を何というか。
問5.1994年スペースシャトルの中でメダカの実験を行い多くの卵を産んだ「宇宙メダカ」をした日本人宇宙飛行士は誰でしょう?
問6.宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニの友達のカムパネルラの家にいる犬の名前は何でしょう?
問7.十二音階技法の創始者であるオーストリアの音楽家は?
問8.埼玉西武ライオンズホームグランド「西武ドーム」のある市は?
問9.第2次世界大戦の日本の戦没者数は?
問10.アニメ「アルプスの少女ハイジ」で主人公ハイジの友達のヤギ飼いの少年の名前は?
問11.急激な変化は目につきやすいが徐々に変化していく事柄はわかりにくいため気付いた時には取り返しのつかないことになるという戒めをこめたビジネス用語を何というか?
問12.江戸いろはかるたの中で唯一の四字熟語は「ゆ」で始まる何?
問13.サッカーW杯ジャマイカ戦で日本人として初ゴールを決めたのはだれ?
問14.1983年、日本プロ野球で初の背番号0を着用した広島カープの選手は?
問15.ロサンゼルス五輪女子マラソンで熱中症でふらふらになりながらも37位でゴールインしたスイスの選手はだれ?
問16.フレデリック・ダネイとマンフレッド・ベニントン・リーの2人が探偵小説を書くときの筆名は?
問17.ミケランジェロ作「ダビデ」。左肩にかけているものは何?
問18.ブドウを原料にしたバルサミコ酢はどの国のドレッシングか?
問19.アーチェリーの的で最高得点の中心にある円は何色か?
問20.島根県大田市の有形民俗文化財「ヨズクハデ」は刈り取った稲を立てて天日干しにしたものである。この「ヨズク」という鳥の一般的な呼び名は何か?
問21.日本のプロ野球の球団で背番号1を永久欠番としているのは王貞治(巨人)ですが、既に消滅した球団で背番号1が永久欠番だったのは何というチームの誰でしょう?
問22.中華料理「ツバメの巣」(イエンウオ)で使用されるのは何というツバメ?
答え:問1 ベルン。問2 ピーターパン・シンドローム。問3 ランバダ。問4 ミノ。問5 向井千秋。問6 ザウエル。問7.アルノルト・シェーンベルク。問8.所沢市。問9.310万人。問10.ペーター。問11.ゆでガエルの法則。問12.油断大敵。問13.中山雅史。問14.長嶋清幸。問15.ガブリエラ・アンデルセン。問16.エラリー・クイン。問17.スリング(投石器)。問18.イタリア。問19.黄色。問20.フクロウ。問21.鈴木啓示(近鉄バファローズ)。問22.アナツバメ。
日本でのゴッホ受容史は白樺派で始まり、小林秀雄ゴッホの手紙の分析、民芸の三好十郎「炎の画家」的ゴッホ像が支配的である。絵そのものよりもドラマチックな人生そのものがクローズアップされることが多い。フランス人はどのようにゴッホを見ているのか。モーリス・ピアラ監督「ヴァン・ゴッホ」を観ると意外な印象を受ける。ジャック・デュトロンのゴッホはカーク・ダクラスのように情熱的な感じではない。あの「ひまわり」も出てこないし、キャバレーでダンスに興じたり、きちんと食事しているし、女性にモテるし、狂気を誇張していない、自然なゴッホである。日本人は情熱的で狂気じみた天才でないと芸術家としてみとめないところがある。佐村河内守を「現代のベートーベン」と多くの人が信じたように作品そのものではなく、付加的なものにドラマを感じてしまう。これまでの日本人がゴッホに求めたものは「佐村河内的ゴッホ」像だった。もうこれからはゴッホの絵画は純粋に作品に接して鑑賞するようにしよう。
川端康成の名作「伊豆の踊子」の映画に出演、踊り子の薫の役をした女優さんは出世するといわれている。だが物語の薫は、下田で学生と別れてからどのような人生を送ったのだろうか。もちろん物語の続きなどは誰にも分からないことなのだが、自分にはどうも不幸な人生を送ったのではないかという気がしている。薫は甲府の小学校を出てからすぐに親元離れて、旅芸人をしている兄のところへ身を寄せている。年は14歳だった。苗字も小説にはでてこないし、性格描写も何もないので、将来だれと結婚し、どのような人生を送ったかの判断の手がかりになるものは何もない。ただひとつの手がかりが「薫」という名である。薫という字は略字で「艸」と「熏」で20画と数える。20画は親子縁の薄い死運の凶数である。本田美奈子の「美奈子」も20画である。
中韓や米メディアでは日本は右傾化しているとみられている。海外むでは安倍首相の評価は「強固なナショナリスト」である。例えば先日の都知事選挙の得票データでは、田母神に若年層の多くが投票している。いま日本人の多くは戦争を知らない世代である。戦後69年。安倍晋三の祖父は岸信介。岸は戦前は満洲革新官僚として登場し、東条内閣では商工相。戦争責任者にもかかわらず、戦後総理となり対米服属的な政策をとる。アベノミックス。国民は何度騙されるのか。ドイツ降伏は1945年5月7日であり、3ヵ月もの間、日本は世界中を相手に消耗した武力で戦っていた。沖縄戦20万人、広島・長崎は被爆後3ヵ月で34万人の犠牲者がでた。終結の決定が遅れたことが犠牲者を拡大した。アメリカは敗戦にともなう日本の共産化を避けるため、天皇制を存続されることを容認した。戦後の日本の右傾化は中曽根首相のとき強固となり、いま安倍政権下でさらに一歩前進している。
欧米では猫は不吉の象徴とする迷信があり、中世においては猫をただ飼っているというだけで、魔女として猫と一緒に火あぶりにされることがあった。たとえばベルギーのイーペルでは「猫の水曜日」に時計台から黒猫を投げ殺す行事が19世紀初頭まで行われていた。また西洋の御伽噺には黒猫が魔女の使い魔として登場する。19世紀の絵画「オランピア」には裸の女性の足下に黒猫が描かれている。マネはどのような意図でもって黒猫を描いたのか。黒猫を自由の象徴とみなす説、女性の首を飾る黒いチョーカーは、当時、高級娼婦の間で流行していたファッションであることから、黒猫はこの裸の女性が娼婦であることを暗示するアイテムとして描かれたとされる。また彼女が片足だけにつけているサンダルは純潔の喪失を意味し、フランス語の俗語でメス猫は女性の陰部をあらわすという説がある。
吾れ遂に
飢ゑて死ぬとも今の世に
反逆の子となりて倒れむ
新しき日 われはきたなき労働者なり
むすめ!むすめ!顔をそむけよ
この一夜 遠くロシアの革命に
心 馳せて友と語れる
渡辺順三(1894-1972)は明治27年、富山県富山市に生まれる。13歳で父に死別し、14歳の夏、母とともに上京し、家具屋の徒弟となる。少年順三は歌を作り、読書をする。そして啄木の歌を知り、哀果の歌を知り、漸次社会主義思想を自らのものとする。
「大正12年の春、私は小僧時代から働いていた家具屋を出た。そしてその時の退職手当を資本にして池袋で小さな印刷屋を開業した。ところが間もなく9月1日の大震災にあい、これからの数年間が貧乏と病気の連続で、文学どころではなかった」と『自選歌集』の「あとがき」で語る。大正14年『貧乏の歌』を自分の印刷屋で印刷し、東華堂書院で発行した。昭和3年、新興歌人連盟、プロレタリア歌人同盟などに加わり、プロレタリア短歌運動の中心的存在となった。治安維持法違反で2度検挙・投獄されている。戦後は「新日本歌人協会」を主宰して活躍する。著書は多い。「生活を歌ふ」「階級戦の一隅から」「プロレタリア短歌集」「史的唯物論より観たる近代短歌史」「弁証法読本」「正岡子規研究」「短歌の諸問題」「世紀の旗」「啄木短歌研究」「集団行進」「短歌論」「烈風の街」「新らしき日」「新しい短歌入門」「幸徳事件の全貌」「唯物弁証法読本」「近代短歌史」「新しい短歌作法」「石川啄木 その生涯と芸術」。なかでも「近代短歌史 上下」は名著。
広辞苑には内外の地名も多く収録している。国家名、都市名はもちろんのことであるが、地方名というのが意外に難物である。フランスのプロヴァンス、スペインのアンダルシア、イタリアのトスカーナ、ウンブリアは収録している。だがポルトガルのアルガルベ Algarve は載っていない。つまり広辞苑は日本人とって馴染みのある地名は採録し、聞いたことのない地名は載せないという方針なのであろう。ところが有名か無名であるかという客観的な基準はなく、編集者の主観的なものにすぎない。これまでサッカーファンには知られていた国際大会のある地方名も日本の女子サッカーのレベルの向上とともに知られる海外の地名も増加することになった。地理研究者としては望外の喜びである。次回の広辞苑改訂にはアルガルベは採録されることだろう。(Algarve)
子どものころラジオでよく聞いた歌。
「♪緑の森の彼方から、陽気な唄が聞えます。あれは水車のまわる音、耳をすましてお聞ききなさい」と、若い女性の明るく澄んだ美しい歌声。「森の水車」(作詞・清水みのる、作曲・米山正夫)だ。この曲は高峰秀子が昭和17年9月にレコード発売されたが、敵性歌謡とみなされ、発売禁止となった。広く知られるようになったのは、戦後のことで、昭和26年のNHKのラジオ歌謡で荒井恵子が歌ってからである。しかし荒井はNHK専属歌手のため、レコード化はされず、並木路子でレコード化された。ナツメロでテレビ番組で並木が歌っているのは見たことがある。だが、ケペルがラジオで記憶するのは荒井恵子のほうである。
荒井恵子は戦後、農林省に勤務していたが、戦後の第2回「素人のど自慢」全国コンクールの歌謡部門で「南の花嫁さん」で優勝した。紅白歌合戦も6回出場している。
ところで紅組トップバッターというのは、その時代の最高の可愛い歌手が登場する、という暗黙のきまりごとがある。南沙織「17才」、天地真理「ひとりじゃないの」、小柳ルミ子「漁火恋唄」、山口百恵「ひと夏の経験」、岩崎宏美「ロマンス」、山口百恵「横須賀ストーリー」、桜田淳子「気まぐれヴィーナス」、榊原郁恵「夏のお嬢さん」、石野真子「ジュリーがライバル」など、最近では浜崎あゆみである。荒井恵子は昭和28年「ポカピカパカ」で紅白初出場はトップバッターを暁テル子に譲ったものの、「希望をのせて馬車は行く」(昭和30年)、「南の花嫁さん」(昭和31年)、「橇は飛ぶよ」(昭和33年)、「白菊の歌」(昭和34年)、「青い月夜の散歩道」(昭和35年)とトップバッターを5回も務めている。明るく澄んだ歌声に憧れる男性からは、顔が見られない苛立ちから、放送局にはラブレターが殺到したとか。
画像は「平凡」の記事からだが、もちろん小柄で瞳の大きい女性が荒井恵子。大柄の女性はNHN東京放送劇団の七尾玲子。
鳥羽港から定期船に乗ると、遠くに美しい三角形の島が見える。ここが神島(かみじま)だ。標高171メートルの灯明山を中心に島全体が山地で一見険しそうだが、島内各所の遺跡から奈良・平安時代の唐鏡や和鏡が出土し、島は伊勢神宮(神の里)を守る島だったといわれる。三島由紀夫『潮騒』の舞台として知られ(小説では歌島となっている)、神島灯台、監的哨跡、八代神社など訪れる人も多い。映画「潮騒」では、船揚場前は島の若者新次が初江を見初めた場所。八代神社も248段の階段を新次が登っていくシーンなど重要な場面で使われている。10月にはサシバ(鷹)とアサギマダラ(蝶)の渡りが見られ、毎年この時期には「観察会ネイチャーランド神島」も開催される。
本日は「三の日」。「三種の神器」「日本三景」わが国では古来より何でも3で括ると安定すると考えられるのはなぜか?アベノミクスは、大胆な金融緩和、機動的な財政出動、民間投資を喚起する成長戦略を「3本の矢」とする経済政策。「3本の矢」とは何のことか。日本人なら毛利元就の三子教訓状を想起する。ところが「3本の矢」の話は世界中に類似した話がたくさんある。イソップ寓話にも「3本の棒」の話がある。聖書「コへレトの言葉」には「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。・・・三つのより糸は切れにくい」とある。ドイツ語で3はドライ(drei)。ドライファルティヒカイト(三位一体)と関連させるのは飛躍しすぎか。2002年小泉内閣のとき骨太の方針で「三位一体」という言葉が使用された。
「3」は吉数でいいことが多い。「3人寄れば文殊の知恵」。しかし中国のことわざに「3人寄れば無責任」もある。(Dreifaltigkeit、3月3日)
なぜ「ひな祭り」を「桃の節句」というのか。ひな祭りは邪気を払うお祭りで、邪気は鬼、鬼退治といえば桃太郎。近年には卑弥呼の墓と思われる場所から大量の桃の種が出土している。つまり雛祭の起原は古く道教とも関連すると考えられる。
NHKお昼の番組「金曜バラエティ」から雛祭クイズ。出題者は五節句研究家、小林玖仁男。(3月3日)
第1問。三人官女は、何を用意する係でしょうか?ヒントは雛人形は結婚式を表現しています。
第2問。雛人形と一緒に飾って楽しむある「生き物」とは何んでしょうか?ヒントは全国的ではないが、関東では春になるとある生き物が売りに出されるようになります。
第3問。ひなの守り神として雛人形と一緒に飾られる動物は何か?安産多産の動物で、出産の時にお守り札を入れて飾り、生れてからひなの守護者としてお内裏様の横に飾る風習があります。
答え 問1.お酒。問2.金魚。問3.犬
「ごちそうさん」ヒロイン卯野め以子のうるさい小姑を演じて評判のキムラ緑子。18年前のドラマ「いつかまた逢える」(福山雅治初主演作)に端役で出演している。第9話で漫画家を夢見る今田耕司に雑誌の連載を告げる出版社の女性の役。ただし横顔だけで僅かに一言、二言だけである。このとき34歳。以来、舞台、映画、ドラマでの活躍が続いた。
陶器を英語でchinaというのは、むかし欧州で陶器が中国から輸入されたためである。このように既に存在する物の名に因んで二次的に命名された言葉をエポニムというが、地名をルーツにしたものを集める。地質時代デボン紀はイギリスのデボン州地方にみられるため命名された。
ハンバーグはドイツのハンブルクで労働者向けの食事として流行したタルタルステーキが起源とされる。それがアメリカにもたらされてハンブルク風ステーキと呼ばれるようになった。
赤紫色のマゼンタはイタリア北部の都市に由来する。ボストンバックは米国ボストン周辺にある大学に通う大学生が、大きなカバンを愛用していたことに由来する。ジーンズはイタリアのジェノバで製造され、外国へ輸出されたことから、ジェノバが訛ってジーンズとなった。バドミントンはイギリスのブロースターシャーにあるボーフォート公の所領と邸館の名称。1870年代、ここでバドミントンが考案されて、この地名が競技の名称となった。(Hamburger steak,Badminton,jeaans,Genova,eponym,地名エポニム)
ナスカの地上絵、マヤ文明の遺跡チチェン・イッツア、モン・サン・ミッシェル、パルテノン神殿、平城京、アヤ・ソフィア、そしてツタンカーメンのカルナック神殿が7番目に新・世界七不思議に選ばれた。2013年1月放送の番組ではフロイトがエジプト研究に没頭し、「モーセと一神教」(1939)でモーセはユダヤ人ではなくエジプト人であり、ツタンカーメンの父アクエンアテン王の側近でエジプトを迫害されて脱出したと説く。つまりユダヤ教はアテン神から生まれた宗教で、一神教や偶像崇拝と共通点があるのもそのためという。当時台頭していたナチスのヒトラーが純潔主義へのアンチテーゼともとらえることができる。だがこのフロイトの説はモーゼの時代はラムセス2世の頃で年代的に無理があり完全に否定されている。番組ではクフ王のピラミッドは墓ではないこと、聖徳太子は藤原不比等が捏造したものであることなど紹介されていた。(Chichen Itza)
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