画家とモデル、スーラとマドレーヌ
「グランド・ジャック島の日曜日の午後」で知られる19世紀末フランスの新印象派の画家ジョルジュ・スーラ。彼は非常に秘密主義であったため、彼に内縁の妻がいることはほとんどだれも知らなかったし、彼が若くして死亡したのち、息子までいることを聞いた親友たちはびっくりした。スーラの内縁の妻、マドレーヌ・ノブロックについてはアルザス地方からパリに移って来た貧しい下町女の娘ということ以外は何も分かっていない。スーラと知り合ったのは、1888年頃からで、マドレーヌは20歳で、おそらくはサーカス小屋の芸人仲間の1人であったと思われる。子供が生まれたとき、スーラは「素晴らしい!この子は私の光だ」と感動し、自分の本名「ジョルジュ・ピエール」を引っ繰り返し、ピエール・ジョルジュと名付けた。スーラの両親はアトリエに残された絵の半分を彼女に分け与えたが、マドレーヌはそれに満足しなかった。彼女はスーラの友人たちが絵を自分から奪おうとしているといいたてた。この非難がたびたびに及んだため、とうとう彼女は嫌われ者になってしまった。のちに彼女はほとんどの絵を手放した。 マドレーヌをモデルにした「化粧する若い女」(1889~1890)は淡い色調でまとめられた喜びの雰囲気に満ちた作品である。最初は画面左上の窓のところに、スーラ自身の顔が描かれていたが、後で花瓶の花に直された。スーラは1891年3月9日、伝染性の肺炎で急死した。スーラの息子ピエール・ジョルジュも父の病がうつって、4月14日、短い生涯に終わった。(Madeleine Knobloch、マドレーヌ・クノブロック)
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