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2014年2月28日 (金)

家なき幼稚園と橋詰良一

M39631   橋詰良一(1871-1934)は大阪毎日新聞社の事業部長などを歴任したり、宝塚少女歌劇団などの脚本を書いたり、「橋詰せみ朗」という号を持つ文化人であった。あるとき外遊先のヨーロッパで病気になり、そこで見聞した子供たちの姿から思い立つところがあり、屋外保育の理念に基づく外国の幼稚園「ハウスレス・キンダー・ガーデン」を手本に大正10年に「家なき幼稚園」の計画を構想する。 

    当時、橋詰は大阪府池田市に住んでいた。池田室町はわが国最初の分譲型住宅地販売であった。住宅地の中心に呉羽(くれは)神社があり、その境内に「家なき幼稚園」を開設したのは大正11年の春のことである。(昭和4年に「池田自然幼稚園」と改称)この風変わりな名称は、当時は園舎がないため、「家」がなかったことに由来するが、橋詰せみ朗のユニークさを物語るものであろう。最大の特徴は自然の中で育てることの大切さを保育の中心とし、公園、河原、里山などの戸外で保育を行なうことにあった。それは家族制度と家屋という二つの「家」から子供を自由にするという橋詰の考えに基づく。倉橋惣三(1882-1955)、志垣寛(1889-1965)などが保育誌に取り上げたこともあり、一時は宝塚、箕面、十三、雲雀ヶ丘、千里山、大阪など6園の「家なき幼稚園」が創設された。そして橋詰は季刊誌「愛と美」が刊行している。これらは今日、大正デモクラシーの成果と評価されている。 

  当時の北摂地区は、セミなどの昆虫などが多く棲む森と池と川などに恵まれた豊かな自然環境の場所であった。また「大坂家なき幼稚園」では、乗り合いバスで園児を郊外に連れ出して保育を行なうというユニークな保育を実践した。12年間続いたが、橋詰の死後、後継者が得られず、経済的困難のため数園は解散した。しかしながら現在も「池田自然幼稚園」や宝塚市川面の「自然幼稚園」などでは、橋詰良一の「家なき幼稚園」の精神をその保育に生かした実践活動が続いている。 

   家なき幼稚園の歌 

天地のあいだが おへやです 

山と川とが お庭です 

みなみに愉快に 遊びましょう 

大きな声で うたいましょう 

わたしがへやは 広ィろいな 

わたしが庭は 広ィろいな 

町の子どもは 気のどくな 

お籠のなかの 鳥のよう 

   (橋詰せみ朗作詞 山田耕筰作曲)

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