独歩と接吻
チョコレートなどプレゼントを行い、男と女が愛を誓い合うバレンタインデーが近づている。男女のもっとも一般的な行為はやはりキスである。日本でのキスの習慣は、奈良時代に中国から伝えられたといわれている。しかし、それはごく一部の貴族階級だけのことで、庶民の間に普及したのは江戸時代になってからでオランダ人が伝えたらしい。キスのことを口を二つ重ねることから「呂の字」といった。日本初の英和辞典「諳厄利亜語林大成」には「Kiss・相呂」と載っている。
さらに、キスという言葉が「口吸い」から「接吻」という言葉になったのは明治初期のことである。明治20年代には大流行している。キスを最初に接吻と訳したのは上田敏である。国木田独歩の日記には何回も「接吻」という言葉が出てくる。独歩こそ我が国に接吻を普及させた人である。
独歩は、「国民新聞」の従軍記者として従軍し、その報道を「愛弟通信」と題して発表、その文才を認められた。そのとき従軍記者慰労会が佐々城豊寿(相馬黒光の叔母)夫妻の家で催された。独歩の「欺かざるの記」には、
「明治28年6月10日、その時はじめてその令嬢を見たり。宴散じてすでに帰らんとする時、余、携うるところの新刊家庭雑誌二冊を令嬢に与えたり。令嬢曰く、また遊びに来たり給えと、令嬢年のころ十六もしくは七、唱歌をよくし風姿素々、可憐の少女なり」とある。
佐々城信子(1878-1949)は医師佐々城本支、豊寿の長女で、独歩との結婚生活はわずか5ヶ月で終わる(明治24年4月24日)。有島武郎は信子をモデルに「或る女」を書いたが、「自覚に目ざめかけてしかも自分にも方向が解らず、社会はその人を如何に取りあつかうべきかを知らない時代に生まれ出た一人の勝気な鋭敏な急進的な女性」として描いた。
以下、独歩の「欺かざるの記」より転載。
「八月十一日、本日午前七時過ぎ、信嬢来る。前日嬢とともに約するに一日の郊外閑遊をもってす。これむしろ、嬢より申出でたるなり。余これを諾したり。しかして、これ互いにある目的を有したるなり。嬢はこの日をもってその心中の恋愛を明言し、余が決心を聞かんことを欲したるなり、余もまたこの日をもって余が嬢に注ぐ恋情を直言し嬢の明答を得て、苦悶を軽うせんと欲したるなり。互いに黙契したるこの閑遊は遂に今日実行を見るに至りぬ。されど勿論これ秘々蜜々の事。」
「二十日 (略)嬢はその病余の衰体をかかえて送り来たり、われら二人、裏門に別れんとす。余、嬢を抱きて曰く、速かに全快し給え。嬢余を抱きて答うに、キスをもってす。余門を出づ、嬢立ちて暗きかげにその体をかすかに現わす、余かへりみて礼す。さらば、嬢もまたかすかに、さらばといえり。余が手にバイロンあり。余はバイロンを思いつつ、嬢との恋愛を思いつつ、車を駆って家に帰りぬ。」
「二十六日 このごろの日記は恋愛の日記なり。われは書を読まず、文を草せず。ただ恋愛の楽しきうちに苦しき時間を、朝はめさめてより夜は床に入るまで、少しの間断もあらせず暮しつつあるなり。(略)われら林に入る前に梨数個を求め、これを携えて例の楽しき林間の幽路に入りたり。嬢とならびて路傍に腰かけ、梨を食いしも、梨甘からず、止めたり。接吻また接吻、唱歌、低語、漫歩、幽径、古墳、野花、清風、緑光、蝉声、樹声、しかして接吻また接吻。」
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