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2014年2月22日 (土)

言路洞開

Photo_17    幕末から明治への、日本の近代化への脱皮の時にあたり、「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」(五ヵ条誓文)は維新の精神でもあった。大河ドラマ「八重の桜」第7回を見ると、京都守護職に就任した松平容保は、市中の見回りを強化しつつ、「言路洞開」といって誰でも自由な意見を述べて、国家の進む道を決めようとする。しかし1863年2月22日の等持院の足利将軍木像梟首事件、つまりテロ予告事件を境として、容保は取り締まり強化に方針転換する。言路洞開(げんろとうかい)は「上に対して意見を述べるみちが開かれていること」とある。黒船来航の際に国を開くべきか否かの判断を迷った老中阿部正弘が、この言路洞開を方針に掲げて、広く諸侯に意見具申を求めた。文久2年(1863年)の維新史料要綱より引用すると「言路洞開くの聖旨を廷臣に宣布し、所見あるものは御用掛人を経て上申せしめ、予て軽挙妄動を戒慎せしむ」とある。

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コメント

ケペル博士の「老中阿部正弘が、この言路洞開を方針に掲げて、広く諸侯に意見具申を求めた。」の部分に補足します。「安政6年7月1日幕府は米国国書を諸侯に示して其要求の許否如何を諮る。尋で「3日」同じく高家以下布衣以上の有司に意見を徴す」というわけですが、この部分私の控えでは
○七月朔日老中達し諸大名へ米国国書につき諮詢の件
嘉永六年七月朔日、老中列座、席々へ伊勢守殿御渡し
口達
浦賀表へ渡来の亜墨利加船より差出候書翰の和解写二冊相達し候、此度の儀は国家の御一大事にこれあり、実に容易ならざる筋に候間、右書翰の趣、得と熟覧を遂げ、銘々存寄の品もこれあり候ハヽ、仮令忌諱に触候ても苦しからず候間聊か心底を残らず十分に申聞かさるべく候事
口達
此度亜墨利加船持参の書翰、浦賀表に於て請取り候儀は、全く一時の権道にこれあり候間、右に相泥(あいなず)まず存寄の趣申聞さるべく候事

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