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橋詰良一(1871-1934)は大阪毎日新聞社の事業部長などを歴任したり、宝塚少女歌劇団などの脚本を書いたり、「橋詰せみ朗」という号を持つ文化人であった。あるとき外遊先のヨーロッパで病気になり、そこで見聞した子供たちの姿から思い立つところがあり、屋外保育の理念に基づく外国の幼稚園「ハウスレス・キンダー・ガーデン」を手本に大正10年に「家なき幼稚園」の計画を構想する。
当時、橋詰は大阪府池田市に住んでいた。池田室町はわが国最初の分譲型住宅地販売であった。住宅地の中心に呉羽(くれは)神社があり、その境内に「家なき幼稚園」を開設したのは大正11年の春のことである。(昭和4年に「池田自然幼稚園」と改称)この風変わりな名称は、当時は園舎がないため、「家」がなかったことに由来するが、橋詰せみ朗のユニークさを物語るものであろう。最大の特徴は自然の中で育てることの大切さを保育の中心とし、公園、河原、里山などの戸外で保育を行なうことにあった。それは家族制度と家屋という二つの「家」から子供を自由にするという橋詰の考えに基づく。倉橋惣三(1882-1955)、志垣寛(1889-1965)などが保育誌に取り上げたこともあり、一時は宝塚、箕面、十三、雲雀ヶ丘、千里山、大阪など6園の「家なき幼稚園」が創設された。そして橋詰は季刊誌「愛と美」が刊行している。これらは今日、大正デモクラシーの成果と評価されている。
当時の北摂地区は、セミなどの昆虫などが多く棲む森と池と川などに恵まれた豊かな自然環境の場所であった。また「大坂家なき幼稚園」では、乗り合いバスで園児を郊外に連れ出して保育を行なうというユニークな保育を実践した。12年間続いたが、橋詰の死後、後継者が得られず、経済的困難のため数園は解散した。しかしながら現在も「池田自然幼稚園」や宝塚市川面の「自然幼稚園」などでは、橋詰良一の「家なき幼稚園」の精神をその保育に生かした実践活動が続いている。
家なき幼稚園の歌
天地のあいだが おへやです
山と川とが お庭です
みなみに愉快に 遊びましょう
大きな声で うたいましょう
わたしがへやは 広ィろいな
わたしが庭は 広ィろいな
町の子どもは 気のどくな
お籠のなかの 鳥のよう
(橋詰せみ朗作詞 山田耕筰作曲)
羽生結弦、小保方晴子、各分野で若い人の活躍が社会の脚光を浴びている。何事もスピード時代で、結果が早くでることのほうが好まれる。ほんとうにそれでいいのだろうか。萩本欽一がNHKあさイチで「遠くにあるものを求める」「人生は運次第!」と語る。長江健次の例をあげて、キャストを決めるとき、オーデションに落選した大阪の人を選んだという。電話1本で楽な選択をしなかったことがヒットに繋がった。
哲学の世界には「ミネルヴァの梟は夜飛びたつ」という言葉がある。アテネの近くには、ミネルヴァの森というのがあった。この森には梟が住んでいて、夜になって森が暗くなると、梟が飛び立って、夜道を照らした。つまり知識の象徴である梟は夜になって活躍することから、学問の集大成は人生の晩年になってからなされる、という意味がある。よいワインは長期間保管することで熟成され味や香りが引き立つようになる。本物は長い年月をかけて築いていくものだ。
日本映画で代表的な男優スターといえば、三船敏郎や高倉健の名前があげられるが、彼らは戦後派である。戦前期に精悍なマスクで活躍した男らしい俳優といえば岡譲司(右画像)がいた。晩年は不遇であったし、多数の作品がほとんど上映されないので、忘れ去られた過去のスターという印象がある。先日、岡譲司主演の「荒鷲の翼」を観た。その眼光の鋭さ、また声がいいのにしびれた。片岡千恵蔵のデビュー作「三色すみれ」は現代劇だが、映画は未公開だったらしい。
1915年 井上正夫「塔上の秘密」
1917年 藤野秀夫「白萩」
1917年 東猛夫「誘惑」
1919年 岡田時彦「太閤記・十段目」
1920年 諸口十九「新生」
1920年 岩田祐吉「新生」
1920年 勝見庸太郎「鉱山の秘密」
1920年 月形龍之介「仙石権兵衛」
1921年 南光明「路上の霊魂」
1921年 鈴木伝明「路上の霊魂」
1923年 市川百之助「異端者の恋」
1923年 片岡千恵蔵「三色すみれ」
1923年 阪東妻三郎「三好清海」
1924年 高田稔「大盗伝」
1926年 大河内伝次郎「大陸の彼方」
1926年 小杉勇「意気天を衝く」
1926年 高田浩吉「照る日くもる日」
1927年 河津清三郎「青蛾」
1927年 嵐寛寿郎「鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子」
1927年 長谷川一夫「稚児の剣法」
1927年 羅門光三郎「彼は復讐を忘れたか」
1929年 岡譲司「栄冠」
1929年 阿部九州男「小金井小次郎」
1931年 佐分利信「日本嬢」
1932年 坂東好太郎「世直し大明神」
1935年 上原謙「若旦那・春爛漫」
1942年 森雅之「母の地図」
1942年 小林桂樹「微笑の国」
1947年 三船敏郎「銀嶺の果て」
1947年 二本柳寛「踊り子劇場」
1948年 鶴田浩二「遊侠の群れ」
1949年 根上淳「母三人」
1951年 石浜朗「少年期」
1952年 丹波哲郎「殺人容疑者」
1953年 宇津井健「思春の泉」
1954年 市川雷蔵、勝新太郎「花の白虎隊」
1954年 天知茂「恐怖のカービン銃」
1956年 石原裕次郎「太陽の季節」
1956年 小林旭「飢える魂」
1957年 田宮二郎「九時間の恐怖」
ウィリアム・ダイス(1806-1864)はスコットランドのアバディーンに生まれる。イタリア・ルネサンス美術に憧れ、ドイツ・ナザレ派の影響を受け、フレスコ画を学ぶ。英国の美術教育の基礎を築き、ラファエル前派の先駆をなす。代表作「聖母子」「ヤコブとラケルの出会い」。
「タウトンのヘンリー6世」は薔薇戦争に敗れたヘンリ6世が廃墟で詩を詠む姿を描いている。
「彩色をはじめて試みる少年ティッィアーノ」(1856年)は幼子イエスを抱くマリア像をスケッチする12歳の少年ティッィアーノが、花に霊感を得て、花汁で色付けすることを思いついたという挿話を元に描かれている。(William Dyce,Aberdeen,Nazarener)
ソチ五輪が終わった。勝敗を競うスポーツには必ず勝者と敗者があるが、スポーツは結果が出なくとも歴史が変わることはない。だが戦争となると話が違う。19世紀初頭、いわゆるナポレオン戦争といわれるものの中で、ワーテルローは世界史を大きく変えるものであった。ウエリントン卿は、アーサー・ウェルズリー(1769-1852)が本名である。だが殆どの場合、元帥府に列せられて以後のウエリントン卿の名で呼ばれている。ウエリントンがナポレオンに勝った理由は何か?英軍はまずナポレオン軍よりも高地に陣取って、そして前日の雨で地盤が大変ぬかるんでおり、ナポレオン軍の砲兵隊が大砲を移動できず砲兵単独の突撃を試みたところ、殺傷能力の高いブドウ弾を使った砲撃で圧勝したことにある。ウエリントンはイギリス史上、軍人で首相となった唯一の人物である。
自動車競技などでスタート、ゴール地点で合図のために振る市松模様の旗をチェッカー・フラッグという。いつごろから使用されたのは明らかではない。遅くとも19世紀には存在したらしい。アメリカ中西部の開拓時代に行われたダービーがチェッカー・フラッグの起源であるとするアメリカ起源説と、フランスにおける自転車競技であるとするフランス起源説がある。確認できる最古の写真記録は1904年のニューヨークのロングアイランドで行われたヴァンダービルト・カップレースである。白と黒のコントラスの高い目立つ模様がレースのスタート、終了の合図を知らせるのには効果的だった。( keyword;Vanderbilt Cup,checkered flag )
NHKBSプレミアム「ザ・プロファイラー第2回クレオパトラ永遠の女王」岡田准一が古代エジプトの最後の女王の謎に迫る。プロファイラーは近藤二郎、美輪明宏、榊原英資。本来ならば吉村作治が出演するはずだが、彼は原子力発電のCMに出ていたため出演していない。知らない話も多い。海底調査で出土した銅貨にMとNの記号が刻まれている。Mは数字の40、Nは80を意味する。これは借金返済のためクレオパトラが鋳造したという。父プトレマイオス12世はローマから450億円という負債があったが、クレオパトラが4年で返済したという。クレオパトラは9ヵ国語を自在に操り、ローマの有力者と交渉したが、結局オクタヴィアヌスによるローマのエジプト征服の口実を与える結果となった。榊原は当時GDPはエジプトのほうがローマよりはるかに高かったと指摘する。19世紀の世界のGDPは中国・インドが高く豊かだった。武力で西欧がアジアを植民地化した。ローマのエジプト征服もこれと同じだという。近藤は今後クレオパトラの墓が発見される可能性はあるという。(Cleopatra,Ptolemy)
カナダは10の州と3つの準州に区分されている。アメリカ50州と比較すると一州当りの面積はカナダのほうが大きい。オンタリオ州はカナダで2番目に大きな州で最も人口が多く、国全体の人口の約3分の1がこの州に集まっている。オンタリオ州の面積は約91万㎢、米国カリフォルニア州の面積は約42万㎢。
人口の順に表す。括弧内は州都。
オンタリオ(トロント)
ケベック(ケベック・シティ)
ブリティッシュコロンビア(ビクトリア)
アルバータ(エドモンド)
マニトバ(ウィニペグ)
サスカチュワン(レジャイナ)
ノバスコシア(ハリフロックス)
ニューブランズウィック(フレデリクトン)
ニューファンドランド・ラブラドール(セント・ジョーンズ)
プリンスエドワードアイランド(シャーロットタウン)
ノースウェスト準州(イエローナイツ)
ユーコン準州(ホワイトホース)
ヌナブト準州(イカルイト)
ドイツ東部ザクセン州のナイセ川流域にある5万5千人の都市ゲルリッツ。かつては対岸のポーランドのズゴジェレツも含めた1つの都市であった。大戦後、オーゼル・ナイセ線がドイツとポーランドとの暫定的な国境線と定められた。ゲルリッツは新国境線で分断され、ドイツ側はゲルリッツのままだったが、ポーランド側はズゴレッツと地名を変更した。ズゴレッツではドイツ系住民は逃れ、その代わりポーランド人やギリシャ人がやって来た。オーゼル・ナイセ線は1950年のズゴレッツ条約、1970年ワルシャワ条約で確認され、1990年のドイツ・ポーランド国境条約で最終的に確認された。(Goerlitz,Zgorelec,Oder,Neisse)
1570年のこの日、ローマ教皇ピウス5世がイングランド女王エリザベス1世を破門にした。
当時のイングランドはまだまだヨーロッパの中では弱小国だった。スペインやフランスのような大国のはざまで、何とか国家の独立と発展を図ろうとしてた。エリザベスは、美人で独身と言う自分の魅力を最大限に発揮して、フェリペ2世のような有力者のプロポーズを受けるようなそぶりをして、気を持たせて、なかなか正式な返事をしないでじらしてじらして、相手から有利な条件を引き出そうと、自分の結婚を外交カードとして最大限利用した。結局、エリザベスは生涯誰とも結婚をしなかった。なぜ結婚しないのかときかれて、エリザベスは「私は国家と結婚している」と言ったという。
ロンドンとその近郊
英国で最も歴史上有名な人物はエリザベス1世だろう。生れはグリニッジ。ビクトリア女王はロンドン。アルフレッド大王はバークシャー地方のウォンティジ。護国卿オリバー・クロムウェルは東部イングランドのハンティンドン。ジョゼフ・チェンバレンはロンドンの下町生まれ。ウィリアム・モリスはロンドン・シティの株仲買人の子として、ウォルサムストウに生まれる。ウィンストン・チャーチルはオックスフォード近郊のブレネムパレス。チャーチルの先祖モーブラ公は名誉革命への貢献とルイ14世の仏軍に対する勝利の功績で、時のアン女王からブレネム宮殿を下賜され、私邸とした。ブレネム(ブレナム)宮殿は世界遺産に登録されている。チャーチルは1874年この宮殿で誕生している。「ドリトル先生」シリーズで知られるロフティングは、ロンドン近郊のメイドンヘッド生まれ。
イングランド
ワーズワースはカンバーランド州コカマス、ニュートンはリンカーンシャーのウールスソープ、ダーウィンはシュロップシャーのシュールズベリー、ジョン・ロックはサマーセット州のリントン、セシル・ローズはハートフォードシャー、D.H.ロレンスはノッティンガムシャー、H.G.ウェルズはケント州ブロムリー、オルダス・ハクスリーはサリー州ゴタルミング、俳優ローレンス・オリビエはサリー州ドーキング、ブロンテ姉妹はヨークシャー州ソーントンないしホーワース。V.ウルフはサセックス州ロドメル、J.オースチンはハンプシャー州スティーブントン。E.ギャスケルはハンプシャーのオールトン。ビートルズ4人はマージーサイド州リヴァプール出身。
スコットランド
「サミュエル・ジョンソン伝」で知られるジェイムズ・ボズウェルはスコットランドの古都ロージアン州エディンバラ生まれ。名探偵ホームズの登場する探偵小説で知られるコナン・ドイルもエジンバラ出身。トーマス・カーライルはダンフリーズ・アンド・ガロウェイ。俳優デビッド・ニーブンは父が軍人だったのでキリミューラで生まれる。
アイルランド
作家や詩人にはアイルランド出身が多い。ジョージ・ファーカー、ウィリアム・コングリーブ、スウィフト、オスカー・ワイルド、バーナード・ショー、イェーツ、ショーン・オケーシ、ジェームズ・ジョイス、サミュエル・ベケットなど。俳優ピーター・オトゥールはコネマーラで生まれ、ヨークシャーで育つ。
外地生まれのイギリス人
ナイチンゲールはイタリアのフィレンツェ生まれ。インド生まれは富裕層に多い。サッカレーはカルカッタ、キップリングはムンバイ(ボンベイ)、女優のヴィヴィアン・リーはダージリンで生まれている。キップリングの父のジョン・キップリングはインド陶器のデザイナーであり、ボンベイ美術学校の校長をしていた。
フランス系イギリス人
印象派画家シスレーは1839年パリに生まれる。英国籍の父ウィリアム・シスレーはフランス本土最北端の港湾都市ダンケルクに生まれ、パリで南米向けの造花の輸出業をしていた。シスレーはフランス系イギリス人であったが、印象派運動の中心として、パリで永住したが、生涯を貧困のうちに送った。何度かフランス国籍を取得しようとしたが、結局その望みはかなわなかった。
パリ生れのイギリス人
作家モームの父はパリで法律事務所をひらいていたので、1874年、モームはパリで生まれた。父母が早世し、10歳のとき南英ケント州ウィットスティブルの牧師にひきとられた。
( ElizabethⅠ,Oliver Cromwell,Alfred the Great,Joseph Chanberlain,Winston Churchill )
東京オリンピック組織委員会会長の森喜朗は「あの娘は大事な時に必ず転ぶ」と言ったが、せめて「あの娘は、転ぶたびに強くなるんだ」と言ってエールを送ってほしかった。
「菅直人が日本を救った」(細野豪志原発事故担当相)
「聖人君子の生き方をした訳じゃないんでね」(橋下徹大阪市長、不倫発覚)
「パンダの死に泣く人がいて、たまげたね」(石原慎太郎都知事)
「消費税を上げなければ日本は滅びる」(仙谷由人)
「こんなことがなぜ続くのか。清武さんのほかに、いったいだれがいるのか」(原辰徳監督)
「生徒が自殺した原因は個人的・家庭的な要因もあった」(澤村憲次大津市教育長)
「米国が決めればどうしょうもない」(野田首相、オスプレイ配備)
「飛行が安定して、大変快適だった」(森本防衛相オスプレイ試乗)
「寝た子を起こすな」(広瀬健吉、経済産業省原子力安全保安院院長)
「首相とはケミストリー(相性)が合う」(自民谷垣総裁との32分間密約)
「グランド・ジャック島の日曜日の午後」で知られる19世紀末フランスの新印象派の画家ジョルジュ・スーラ。彼は非常に秘密主義であったため、彼に内縁の妻がいることはほとんどだれも知らなかったし、彼が若くして死亡したのち、息子までいることを聞いた親友たちはびっくりした。スーラの内縁の妻、マドレーヌ・ノブロックについてはアルザス地方からパリに移って来た貧しい下町女の娘ということ以外は何も分かっていない。スーラと知り合ったのは、1888年頃からで、マドレーヌは20歳で、おそらくはサーカス小屋の芸人仲間の1人であったと思われる。子供が生まれたとき、スーラは「素晴らしい!この子は私の光だ」と感動し、自分の本名「ジョルジュ・ピエール」を引っ繰り返し、ピエール・ジョルジュと名付けた。スーラの両親はアトリエに残された絵の半分を彼女に分け与えたが、マドレーヌはそれに満足しなかった。彼女はスーラの友人たちが絵を自分から奪おうとしているといいたてた。この非難がたびたびに及んだため、とうとう彼女は嫌われ者になってしまった。のちに彼女はほとんどの絵を手放した。 マドレーヌをモデルにした「化粧する若い女」(1889~1890)は淡い色調でまとめられた喜びの雰囲気に満ちた作品である。最初は画面左上の窓のところに、スーラ自身の顔が描かれていたが、後で花瓶の花に直された。スーラは1891年3月9日、伝染性の肺炎で急死した。スーラの息子ピエール・ジョルジュも父の病がうつって、4月14日、短い生涯に終わった。(Madeleine Knobloch、マドレーヌ・クノブロック)
市川崑監督の「かあちゃん」(2001)は落語の人情噺のようで面白い佳作だ。江戸の貧しい長屋に住むおかつ(岸恵子)と5人の子供、それに泥棒の勇吉(原田龍二)がからむ。全体に高齢の出演者がめだつが、映画の後、他界している。2003年・春風亭柳昇(享年82歳)、2008年・市川崑(92歳)、2012年・小沢昭一(83歳)。出演者の平均年齢を下げている勝野雅奈恵は現在フラダンサーとして活躍しているらしい。
兄弟の働く先で大工の見習いになる勇吉。だが弁当が、他の兄弟より少し多めに入っている。そのことをかあちゃんへ言う。かあちゃんは、悪かったねぇ。勇さんが痩せているから、太らせなきゃあと、みんなで決めたんだ、と言っとけばよかったね。どうやか勇吉に想いをよせるおさんが弁当を作っているみたい。
ゴーストライター発覚前、作家の五木寛之は「佐村河内守さんの交響曲は、戦後の最高の鎮魂曲であり、未来への予感をはらんだ交響曲である。これは日本の音楽界が世界に発信する魂の交響曲なのだ」と大絶賛していたことは、すでに周知の事実である。感動が見るもの、聞くものに与えたイメージは一種の独断となって大きな陥穽となるケースがしばしばみられる。文芸評論家で高名な小林秀雄が上野美術館で開かれた「泰西名画展覧会」でゴッホの「鴉の群れ飛ぶ麦畑」を初めてみたのは1947年3月のことである。
「ただ一種異様な画面が突如として現れ、僕はとうとうその前にしゃがみ込んでしまった」この不思議な感動が何処から起こるのか考えるため、小林はゴッホの関係資料を漁って読む。そして名著といわれる「ゴッホの手紙」を発表した。有名な箇所は「僕が1枚の絵を鑑賞していたということは、あまり確かではない。むしろ、僕は、ある一つの巨きな眼に見据えられ、動けずにいたように思われる」。小林が感じた「巨きな眼」とはゴッホが写生しているときにみまわれる恐ろしいような透視力について語っている。肉眼というよりも心眼をいうらしい。だが小林が感動したゴッホの作品は実物ではなく複製画だった。「ゴッホの手紙」は絵画研究というよりも、絵画から切り離した、その「巨きな眼」の秘密をゴッホの手紙から求めようとした、独自の解釈というほかない。
近年、日本でのゴッホ研究が炎の天才画家的な絵画から離れた伝記重視の傾向に懸念をもつ人もでている。小林が感動した「鴉が群れ飛ぶ麦畑」も悲劇的な最後の作品であるか分からないという。本当に自殺だったのか?貧しいゴッホがどこで拳銃を手に入れ、どこで自分を撃ったのか。銃創は自分で撃つたとは考えられない角度でついている。そのため他殺説、事故説などもでている。白樺派が紹介して以来、文学者のゴッホ芸術への思い入れが真のゴッホ研究への妨げとなっているようだ。
北太平洋沿岸に住むネイティブ・アメリカンの諸族、チムシアン族、トリンギット族、ハイダ族、ベラ・クラーク族、南北クワキウトル族、沿岸サリシュ族、チヌーク族等にみられる習慣で、公的な地位を誇示するために自分の富を放棄する一種の財産分与制度。ポトラッチ potlatch とはチヌーク語で「浪費する」という意味。
種族によりそれぞれに特徴があるが、一般に主催者の地位により大小さまざまの祝宴が開かれ、近隣の人々を招き、その階級に応じて贈物をする。このとき主催者とその親族は気前のよさを最大限に発揮してその地位を誇る。後継者の披露、子女の誕生、成女式、婚礼、葬礼、新屋の棟上式などから、赤ん坊の発毛といった些細な理由でも行われる。ときには不名誉な行為の挽回のために行われることもある。招待されたものは、なんらかの機会により盛大な祝宴を開いて答礼する。特に南クワキウトル族のポトラッチは1840年から1925年にかけて最も盛大に行なわれ、何日も続く祝宴の間に何千枚もの毛布や仮面、カヌーなどに加えて、ヨーロッパから輸入したモーター・ボートやミシン、ほうろう引き器、衣類、小麦、砂糖などが配られた。しかし1960年代以降は経済的理由によりほとんど行なわれなくなった。ポトラッチは贈答するだけでなく、貴重な財物とされるカヌーや、彼に属しているトーテム像を刻んだ銅版を来客の面前で故意に破壊したり、所有する奴隷を殺したりして、その気前のよさを誇らせることもある。
最近では「ポトラッチ・パーティーpotluck party」といって、「皆で持ち寄りで気軽に行うパーティー」という意味で使われることもある。Tsimshian
オリコンチャート第1位がドラマ「僕のいた時間」の主題歌「春風」(リファ)。2位がドコモのCM「ずっとfeet.HAN KUN & TEE」(スパイシーチョコレート)。「僕のいた時間」は難病と闘いながら前向き生きようとする三浦春馬と多部未華子の泣けるラブストーリー。医者を目指す弟の存在も苦しみの部分が見えてきてドラマに厚みが加わった。「ずっとfeet」は「♪ずっと~ずっと~変わらない」というメロディーがオリジナル・ラブ(田島貴男)の「接吻 Kiss」(1993)の「♪長く~甘い~口づけを交わす~」と同じなのが話題となっている。
本日は622年の聖徳太子の忌日。聖徳太子を信仰するという太子信仰は、法然や親鸞が太子崇拝者ということもあって、鎌倉時代、念仏の流布と共に広がり、また勧進聖達によって地方にもたらされていった。孝養像をはじめとする各種の太子像が作成されるのも、多くはこの時代のことであったが、聖徳太子と深い関わりをもつ京都太秦の広隆寺が、そうした太子信仰の中心を占めていた。広隆寺の創建年は不明であるが、おそらく7世前半といわれ、京都で最も古い寺のひとつである。渡来人を祖とする秦氏の根拠地・太秦。古代中国ではローマを「大秦」と書く。大酒神社があり、古くは「大辟」と書き、「大闢」とも書く。つまりダビデのこと。聖徳太子が厩戸皇子と呼ばれたのもキリスト伝説に因んだものであろう。
幕末から明治への、日本の近代化への脱皮の時にあたり、「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」(五ヵ条誓文)は維新の精神でもあった。大河ドラマ「八重の桜」第7回を見ると、京都守護職に就任した松平容保は、市中の見回りを強化しつつ、「言路洞開」といって誰でも自由な意見を述べて、国家の進む道を決めようとする。しかし1863年2月22日の等持院の足利将軍木像梟首事件、つまりテロ予告事件を境として、容保は取り締まり強化に方針転換する。言路洞開(げんろとうかい)は「上に対して意見を述べるみちが開かれていること」とある。黒船来航の際に国を開くべきか否かの判断を迷った老中阿部正弘が、この言路洞開を方針に掲げて、広く諸侯に意見具申を求めた。文久2年(1863年)の維新史料要綱より引用すると「言路洞開くの聖旨を廷臣に宣布し、所見あるものは御用掛人を経て上申せしめ、予て軽挙妄動を戒慎せしむ」とある。
▽「夢は夜ひらく」(1966年)は園まり、緑川アコ、バーブ佐竹らの競作。もともと練馬少年鑑別所で歌われていた曲を曾根幸明が採譜・補作した。▽日本テレビ「ザ・トップテン」(1984年4月9日放送)。1位が安全地帯の「ワインレッドの心」、2位がチェッカーズの「涙のリクエスト」である。「ワインレッドの心」が4枚目のシングルで、「涙のリクエスト」が2枚目のシングル。このあと「涙のリクエスト」が1位となり、当分の間、チェッカーズの時代を迎える。▽欧米では曲が先に作られ、後で詩が作られことが多い。日本ではなぜかその逆で、詩が先に作られて、後から旋律がつけられる。「神田川」もそうである。喜多條忠は「いい詩ができたので曲をつけてほしい」と電話で南こうせつに頼んだ。南はすらすらとメロディが浮かび1時間で出来たのが「神田川」である。▽1979年の日本レコード大賞の賞レース。この年は西城秀樹「ヤングマン」が大ヒットしたが、外国の曲であるため西城は「勇気があれば」で勝負した。自分がレコード大賞と思い西城は両手を挙げて立ち上がったが、ジュディ・オング「魅せられて」が受賞した。▽日本テレビ開局60年「音楽のちから」。中村雅俊はドラマ「われら青春」の挿入歌「ふれあい」を歌う。本人のコメント「僕は5代目の先生役です」と。中村の勘違いで、実際は6代目である。東宝制作の青春学園ドラマは夏木陽介、竜雷太、浜畑賢吉、東山敬司、村野武範の順で中村は6代目。▽マイク眞木「バラが咲いた」はいかにも自作自演のようだが、作詞・作曲は浜口庫之助。▽「豊予海峡」は大月みやこ、「豊後水道」は川中美幸。
実在するある場所を舞台に物語を書くとき、その舞台として使っている地名を架空とせずに、実在の地名そのまま使うケースはよくある。地名は著作物ではないので、基本的に、創作物に実在の地名を出すことは法的に差支えない。これは表現の自由として憲法によって認められている。だが、地名などが、マイナスイメージで描かれたり、地元の人に不快感を与えるとき、関係者から反発やクレームがあることが予想される。1980年、少年ジャンプ連載の漫画「私立極道高校」(宮下あきら)において作中に実在する学校名や校章などが書かれ、抗議を受けて打ち切りとなった。また野球選手のクロマティが自分の名前を使ったタイトルの漫画の実写版映画の公開差し止め請求した事件(2005年)がある。映画は公開されたが、名前の使用を許諾していないことから民事訴訟になる可能性が残っている。このように表現の自由と名誉毀損とが対立するケースはしばしば起こりうる。映画・ドラマなど創作物では「この作品はフィクションであり実在の人物団体等とは関係ありません」などといった断り書きをするのが普通になっている。
今回、村上春樹の小説「ドライブ・マイ・カー」に登場する北海道中頓別町に関する表現が屈辱的であるとして町議員6人が発行元の文芸春秋に抗議するという事件があった。村上はすばやく過ちを認め、単行本にする際に町名を変更する意向を示した。問題の部分は、タバコのポイ捨てを「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と表現されていた。今回の事件は村上春樹という著名な作家だから起こりえたケースで、売れない小説家ならスルーしたであろうし、「屈辱的」というのは大袈裟の感がする。松本清張の小説には実在の地名が多くみられるが、実在の地名でなければ作品そのものが成り立たないであろう。砂の器に登場する「亀高」も当初は迷惑であったかもしれないが、文学作品に取り上げられることでプラス面もでてくることもあるだろう。「月給四十円ではるばるこんな田舎へくるもんか」など夏目漱石「坊っちゃん」には松山に対する田舎蔑視の表現が多数みられるが、地元が漱石に抗議したという話は余り聞かない。村上春樹と漱石・清張との違いなのだろうか。
島根県の東南端・仁多町にある亀嵩は松本清張「砂の器」の重要な舞台として今日では広く知られるようになった。清張は何故この地を選んだのだろうか。ズーズー弁を話す中国山地の村、新潟県に亀田という似た発音の地名がある、これらの理由よりも、亀嵩から山を隔てたところに父の故郷があることがその大きな理由の一つと考えられる。松本清張の父・田中峯太郎の生地は鳥取県日南町矢戸である。家庭の事情で幼くして米子の松本家へ養子に出され、生家を離れた父は矢戸の地を愛してやまなかった。著書「父系の指」の中でも、父親の腕を手枕に、豊かな自然の美しさあふれる故郷矢戸の思い出話を聞かされたとある。
NHK連続クイズ・ホールドオン。336回。テーマは「角」。古典落語「穴どろ」にみえる「○○の角に頭ぶつけて死んでしまえ」解答者は「障子」、正解は「豆腐」。
167回(テーマはツリー)は珍解答続出。1970年の大河ドラマで伊達騒動を題材にした山本周五郎の歴史小説は?解答者は「松の木は残った」。正解は「樅ノ木は残った」
2012年アカデミー賞主演男優賞にノミネートされた「ファミリーツリー」の男優は?解答者は「ジョージ・ワシントン」。正解は「ジョージ・クルーニー」
北原白秋作詞の童謡「待ちぼうけ」。切り株で転げた動物は?解答者は「ネズミ」。正解は「ウサギ」
1492年コロンブスが新大陸を発見したときの船団の旗艦の名は?解答者は「メイフラワー号」。正解は「サンタマリア号」
高度成長期のローマのデカダンスを捉えたフェリーニの映画は「甘い○○」。解答者は「甘い誘惑」。正解は「甘い生活」
水谷豊・伊藤蘭主演で「少年○」を映画化。解答者は「少年探偵団」と。正解は「少年H」。
テレビジョン衛星中継は1963年のある事件で始まった。何?。解答者は「月面着陸」と。正解は「ケネディ暗殺」。
フランスの詩人ラ・フォンテーヌの「寓話」に見える有名なことわざ「すべての道は○に通ず」解答者は「夢」。正解は「ローマ」。(141)
「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。・・・」で始まる夏目漱石の作品は?解答者は「膝枕」。正解は「草枕」(230)
少年倶楽部に連載された「のらくろ」。「泡」の字がつく作者は田河○○何に?。解答者は「田河泡太郎」。正解は「田河水泡」(222)。
ジョン・フォード監督「駅馬車」ジョン・ウェインが演じた西部のガンマンは?解答者は「リンゴ・スター」と。(正解はリンゴ・キッド。リンゴ・スターはビートルズの一員)
「♪もしも私が家を建てたなら、小さな家を建てたでしょう」「赤いりんごに唇寄せて~」曲名は?解答者「わかりません」(若い人、知らないのも無理ないかも)正解は「あなた」「リンゴの唄」
もちろん並木路子「リンゴの唄」(映画「そよかぜ」)の流行ったころ、私も生まれていない。けれど、映画・ドラマなどで終戦後を象徴する曲としてよく使われるので若い人でも知っているかなと思ったが、やはり昭和は遠くなりにけり。
理髪店の看板サインポール(正式にはバーバー・ポール)は赤白青の3色が世界共通である。だがイギリスでは赤と白2色の理髪店が多い。なぜだろうか。
近代以前の西洋では、理髪師が外科医も兼ねていて、理髪外科医と呼ばれていた。彼らは傷を治療したり、歯を抜いたり、そして血を抜く瀉血も行っていた。これは病気は悪い体液によって起こるとされていたからで、患者は棒を杖のように持ち、腕を固定し、理髪外科医は上腕の血管を切り、血を抜いた。血が棒につくのを目立たぬように赤色に塗られていた。その棒は包帯を洗って干すポールとして使われていたことから、理髪店の目印となった。はじめ赤白であったが、1745年、イギリスで理容師と外科医が別々のギルドになるとき目印のため青が加えられた。こうして理髪店の看板は赤白青になったが、中にはそれに反発し、赤白の看板をそのまま使う理髪店もいた。つまり、3色はイギリスでは定着しなかったが、1789年のフランス革命に登場した三色旗の影響でフランスの理髪店は3色のポールとなり、アメリカでは19世紀末の愛国心の高まりによって星条旗の青が加えられ、これが世界中に広まったといわれる。ただフランス国旗と同じ配色であることから、イギリスだけは3色が普及しなくなったと考えられる。(Barber Pole)
現存する唯一の「世界の七不思議」ギザのピラミッドは紀元前2700年から2500年代に建造されたと伝えられる。地球の多くの人類がまだ狩猟生活であった時代、ギザのピラミッドは古代文明の中心地であると考えても間違いではないだろう。そしてギザの大ピラミッドを起点として、赤道から30度の角度でぐるりと地球を一周して、またギザに戻るラインに、古代遺跡群が集中している。ギザ→ぺトラ→ウル→ペルセポリス→モヘンジョ・ダロ→カジュラーホー→ピィ→アンコールワット→ブレアヴィヒア寺院→イースター島→ナスカ→オリャンタイタンボ→クスコ→マチュピチュ→サクサイワマン→タッシリ・ナジェール→シワ・オアシス→ギザのピラミッドに戻る。映画「ピラミッド5000年の嘘」(2011年)で紹介。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにく」夏目漱石39歳の作品「草枕」の有名な冒頭の一節。意味は「理性のみで動こうとすると、人間関係がぎすぎすするため穏やかに暮らせなくなるということ」。
ところで「智に働けば角が立つ」や「情に棹させば流される」は漱石のオリジナルなのか、彼以前にも成語として存在していたのか。詳しく知らないが、漱石以外に使用例をみたことがない。明治の人は「智情意」をよく使った。つまり「智」はintellectであり、「情」はfeelingであり、「意」はwillである。世の中というものは、知(intellect)を前に出しすぎると他人との間に摩擦ができてうまくいかない、という意味か。中学校での教師生活の実体験から生まれた言葉であろう。だが世の中、角が立つのを恐れてばかりいては、真実がみえてこない。やはり、言いにくいことを言い、問題を掘り起こすことも必要ではないだろうか。
1521年4月27日、ポルトガルの航海士マゼランはフィリピン諸島のマクタン島で現地住民に殺された。2013年WBC日本vsブラジル戦。ブラジル6番の外野手チアゴ・マガリャエスがいた。あるいはマガリャンエス、マガリャエンシュとも表記される。ポルトガルの航海者フェルディナンド・マゼランと同姓。ブラジルにはマガリャエス Magalhaes姓は多い。かつてソクラテス(1954-2011)という名前のサッカー選手がブラジルにいた。ギリシャの海運王はアリストテレス・ソクラテス・オナシスという。エジソンという名前のサッカー選手もいた。正式名はエジソン・アパレシード・デ・ソウザ。ブラジルの名付けは世界の偉人をつける風習があるのだろうか・(Ferdinand Magellan)
黒海沿岸のソチはロシア人の保養地で、これまで国際的にはあまり知られていなかった。ソチのようなカタカナ2文字で表記される外国地名を調べる。2文字の国名はタイ(51.4万㎢)、ペルー(128.5万㎢)、チリ(75.6万㎢)、マリ(124.0万㎢)、トーゴ(5.7万㎢)の5か国。都市ではパリ、ローマ、ボン、カノ(ナイジェリア)、ガヤ(インド)、カリ(コロンビア)、カレー(フランス)、ギーザ(エジプト)、キール(ドイツ)、キト(エクアドル)、キナー(エジプト)、ゲーラ(ドイツ)、コム(イラン)、ゴア(インド)、サール(チャド)、ジブ(マレーシア)、ソチ(ロシア)、チタ(ロシア)、デリー(インド)、ドーハ(カタール)、ナガ(フィリピン)、ハーグ(オランダ)、ハム(ドイツ)、ハマー(シリア)、パル(インドネシア)、ハレ(ドイツ)、ピア(アメリカ)、フエ(ベトナム)、プネ(インドネシア)、ペーチ(ハンガリー)、ぺト(メキシコ)、ベヤ(コソボ)、メーサ(アメリカ)、メス(フランス)、ユマ(アメリカ)、ヨーク(イギリス)、ユタ州(アメリカ)、ラべ(ギニア)、リガ(ラトビア)、リノ(アメリカ)、リダ(ベラルーシ)、リバ(フィリピン)、リマ(ペルー)、ルーセ(ブルガリア)、レーワ(インド)、ロハ(エクアドル)、ロメ(トーゴ)、ワリ(ナイジェリア)、ワウ(スーダン)、ワワ(カナダ)などがある。古代都市ならイタリア、カンパーニャ地方にあるクメ(Cumae 画像)。キュメ、クマエと表記することもある。エリー湖(アメリカ、カナダ)、オビ川(ロシア)、コモ湖(イタリア)、サウ海(インドネシア)、ネイ湖(北アイルランド)、ネス湖(スコットランド)、バシー海峡(台湾)、バス海峡(オーストラリア)、バリ島(インドネシア)、バロー島(オーストラリア)、ブル島(インドネシア)、ベーカー島(アメリカ)、マン島(イギリス)、ムナ島(インドネシア)、ルート砂漠(イラン)、レナ川(ロシア)、ロカ岬(ポルトガル)、ロス海(南極)、ロタ島(アメリカ)。
イギリスのマン島
映画「看護婦の日記」(吉村廉監督)は太宰治の戦後第1作の小説「パンドラの匣」を大映が昭和22年に映画化した作品である。お話は終戦直後の高原の結核療養所を舞台に「ひばり」と呼ばれる若い患者(小林桂樹)と看護婦・竹さん(折原啓子)とマア坊(関千恵子)との淡い恋愛心理を描いている。結局、ひばりが思いを寄せた理想的な女性の竹さんは院長(見明凡太郎)と結婚し、哀しい思いをする。映画は青年の淡い悲恋として淡々と明るく描いている。原作の太宰の小説はもともと仙台の新聞「河北新報」に連載されたものだが、オリジナルは昭和18年に木村庄助の闘病日記をもとにして書き下ろした「雲雀の声」である。昭和19年に印刷に廻されたが空襲のため本屋が全焼し、ついに日の目を見なかった。その時、残ったゲラ刷りをもとにして戦後「パンドラの匣」として発表した。太宰は「この小説は健康道場と称するある療養所で病ひと闘っている二十歳の男の子から、その親友に宛てた手紙の形式になっている。手紙の形式の小説は、これまでの新聞小説には前例が少なかったのではなからうかと思はれる。だから、読者も、はじめの四五日は少し勝手が違ってまごつくかも知れないが、併し手紙の形式はまた、現実感が濃いので、昔から外国に於いても日本に於いても、多くの作者に依って試みられて来たものである。パンドラの匣といふ題に就いては、明日のこの小説の第一回に於いて書き記してある筈だし、此処で申し上げて置きたいことはもう無い。甚だぶあいそうな前口上でいけないが、しかしこんなぶあいそうな挨拶をする男の書く小説が案外面白い事がある」と宣伝している。
映画に若い看護婦役で出演した関千恵子は「大映ファン」という雑誌のインタビューで三鷹の太宰治の家を訪問している。映画「看護婦の日記」は太宰本人も見たことと思う。今となっては貴重な1本である。開けてはならぬ口の封印を切り、人間世界の災禍がでたが、底に芥子粒ほどの小さい光る石が残っていた。その石にかすかに「希望」という字が書かれていたというギリシア神話に由来する。終戦直後という時代背景を考えると、太宰は読者に戦争の災禍にあっても明るい希望をもって書いたように受け止められる。
「冬のソナタ」は「嵐が丘」で始まり、「ジェーン・エア」で終わる、といわれる。つまりユジンとチュンサンとの出会いは転校生という設定だが、嵐が丘では哀れな孤児ヒースクリフを主人が拾ってくるところから始まる。そしてラストは盲人となったロチェスターとジェーン・エアとの再会、と冬ソナと酷似する。名作はどれも似ている。有島武郎の「或る女」はトルストイの「アンナカレーニナ」に似ている。志賀直哉の「暗夜行路」の主人公・時任謙作の境遇はハムレットであり、一種の貴種流離譚。「ライオンキング」は手塚治虫「ジャングル大帝」に似ている。水芸人・滝の白糸は苦学生村越のために仕送りをして勉学を助ける。やがて検事になるが、誤って高利貸しを殺した罪で白糸を裁くことになる。まるでハリウッド映画「マダムX」と同じストーリーだ。「華麗なるギャツビー」(1925)も尾崎紅葉の「金色夜叉」に似ている。間貫一・お宮、ギャツビーとデイジー。愛の裏切りと玉の輿。もっとも紅葉もパーサー・M・クレーの「女より弱きもの」を盗用したらしい。盗み盗まれ、名作はいずれも似ている。
ソチ五輪のノルディックスキージャンプ男子ラージヒルで、41歳の葛西紀明が銀メダルを獲得した。なぜ葛西選手が「レジェンド」と呼ばれるのか。英語のレジェンド(legend)には「伝説」「神話」「伝説として末永く伝える」という意味があるが、葛西選手が年齢の壁を越えて活躍していることに対して、畏敬の念として、ジャンプ界のみならず、世界中のスポーツ選手の間で呼ばれるようになったのであろう。「レジェンド」という言葉は「広辞苑」や「現代外来語辞典」にはないが、日本語としてこれからも最高の賞賛の言葉として使われるかもしれない。最近の新語を集める。
ビブリオバトル(書評合戦)
パラノーマル(超常的)
ビブリオバトルは2001年、京都大学の谷口忠大によって考案された造語で「書評合戦」の意味。
新約聖書は洗礼者ヨハネについて人物描写をしているが、イエスについてはしていない。そのことから結論してよいのは、イエスは、外面的にはその時代の他のパレスチナのユダヤ人と本質的に異なるところはなかったということである。こういう結論は、ユダヤの反対者たちが黙認していることで確証される。ラビたちは、正しいユダヤ人、特に教師の外貌に対しては非常にはっきりした基準をもっており、この基準にそぐわないものを侮蔑し冷酷に批評した。イエスの姿や衣服については、古代ユダヤ人の攻撃は、少しも非難に価するものを見いださなかった。ということは、もしイエスの外貌について知ろうとするなら、当時のパレスチナのユダヤ人の像を素描しなければならない、そして、ばらばらの間接的な福音書の証拠から得られるわずかな個性的特徴を加えればよいということを意味している。
ラビたちの信念によれば、神の臨在の反映は、ただ背の高い強健な人間にだけありえた。イエスは明らかにこういう身体的資格をもっていたはずである。でなければ、反対者がイエスの外見に対して、攻撃をしないということはなかったはずである。幼いイエスの満足な成長に関するルカの記録と、しばしば大急ぎで祭りの旅をしたイエスに関するヨハネの証言とは、このことで一致する。要するにイエスは、少なくともユダヤ人の標準的な大きさであった。
古代パレスチナのユダヤ人の皮膚は明褐色で、目はたいがい褐色であった。しかし青い目の人もいないわけではなかった。イエスの目の色について福音書からは何も知りえない。しかし、われわれが聞いているのは、人々がイエスを見て40歳と解したということである。そのことから、イエスはあまり若くは見えず、当時おそらくすでにじゅうぶん働き切って、憂いをふくんだ顔をしていたと結論すべきだろうか。とすれば、たとえばレムブラントの何百グルテンかのキリストか、あるいはルーヴルにあるエマオ途上のキリストのように、イエスを考えることが許されるだろうか。(引用文献:シュタウファー著「イエス その人と歴史」日本基督教団出版部)
乱暴者で知られた文覚は、日頃から、西行のことを快く思っていなかったが、今日こそは目にもの言わせてやろうと待ち構えている。文覚の弟子たちは、はらはらしている。だが、いざ西行と対面すると、和やかな雰囲気のうちに何事もなかったかのように西行は帰っていく。そこで、弟子がどうしたのかと聞くと、「西行に自分にぶたれるような面構えがなく、こちらのほうこそやられてしまう」と言ったという。頓阿(1289-1372)が著した「井蛙抄」に載っている。
西行は治承4年、伊勢に居を移し、文治2年、東大寺復興勧進のため再度陸奥への旅に出る。帰国後、居を河内国弘川寺に定め、歌人としても最も円熟した活動を行った。建久元年2月16日、73歳で没す。
モスクワにあるトレチャコフ美術館はパーヴェル・ミハイロヴィッチ・トレチャコフ(1832-1898)とセルゲイ・ミハイロヴィッチ・トレチャコフ(1824-1892)の兄弟が1856年、自邸に開いた美術ギャラリーに始まる。1901年にはヴィクトル・ヴァスネツォーフ(1848-1926)によって改築され、モスクワ市立トレチャコフ美術館となった。そのコレクションは約13万点あるが、「至聖三者」や「ウラジーミルの聖母」(12世紀初め)やペローフの「作家ドストエフスキーの肖像」、グスコイの「レフ・トルストイ像」、レーピンの「1581年11月16日のイワン雷帝とその息子」、1870年代におこったロシア民主主義美術運動の作家たちの重要作品を所蔵する。
ワシーリー・ベレシチャーギン(1842-1904)「戦争礼賛」(1871年)
題名の「戦争礼賛」はいうまでもなく皮肉であって、正面きっていえば「戦争礼賛の結果」ということになる。
ロシア人はチェスが大好き。公園の中などには必ずチェス場があって、ずらりとチェス台が並んでいるし、街頭でも職場でも、すぐに人が集まるのがチェスである。ソ連時代、1972年にアメリカのボビー・フィッシャーが世界チャンピオンになるまで戦後ずっとソ連がチャンピオンを保持し続けていた。大学生のころ、ぺテルスブルクのチェスクラブの常連であったトルストイは、いつもツルゲーネフとチェスを指していた。軍隊に入っても衛兵勤務を忘れてチェスを指していたため投獄されたことがある。写真は1910年に撮影されたトルストイだが、それからしばらくして亡くなる。生前のトルストイを撮った最後の写真もチェスをしているところだった。
松本清張「砂の器」は原作と映画(松竹、野村芳太郎監督、橋本忍・山田洋次脚本)ではかなり印象が異なる。ハンセン病に関する記述は原作ではわずか数行にすぎない。小説には「本浦千代吉は、発病以後、流浪の旅をつづけておりましたが、おそらく、これは自己の業病をなおすために、信仰をかねて遍路姿で放浪していたことと考えられます」とあるだけだ。この長編小説の中のわずか3行の記述を映画では、竜飛岬、信州路など日本各地でロケを行ない四季の情景を背景に父子の巡礼姿を後半音楽とともに効果的に使い大きな感動を呼んだ。ハンセン病への差別をドラマとして大きくクローズアップする演出で商業的に成功させた。音楽家、佐村河内守が全聾と被爆二世で注目を浴びたことと似ている。マス・メディアはつねに感動と悲劇性で大衆の興味を満足させようとするものである。
ダブルダッチ(Double Dutch)とは2本の縄を使って跳ぶ縄跳び。17世紀にオランダ人によってアメリカに伝えられた。1973年、ニューヨーク市警の2人の警察官がダブルダッチを楽しむ女の子達の姿からヒントをえて、スラム街で急増する少年・少女の非行に歯止めをかけるため、ルールを作り、新しいスポーツとして広めた。.
suicide 自殺
matrix 行列
rope skipping 縄跳び
go Dutch 割り勘にする
vacuum bottle 魔法瓶
laboratory 実験室
nasty 不潔な
backscratcher 孫の手
prostitute 売春婦
cat's cradle あやとり
stilt 竹馬
fatso でぶ
opposite 反対語
scissors-paper-rock じゃんけん
flat foot 偏平足
nose hair 鼻毛
earwax 耳垢
dried nasal mucus 鼻くそ
additional 追加の
vending machine 自働販売機
mushrom キノコ
toadstool 毒キノコ
bent knee 競歩における屈膝、歩型違反
blast 突風
corpse 死体
wholesale store 問屋
same sex marriage 同性結婚
prostitute 売春婦
bottleneck 流れ作業の効率が最も悪い箇所。隘路。
genocide 大量虐殺
peeling 皮むき
smiley 顔文字
pervert 痴漢
a bit of stuff セクシーな若い女
full breasts 巨乳
逃亡は英語で escape,flight。逃亡者は fugitive。なぜ逃亡と逃亡者が大きく違うのかわからない。フランス語で「逃亡」は fuiteという。亡命は exile。
ぬぐい消す erase
拡張する expand
包む muffle
先行する precede
究極 ultimate
むち打ち症 whiplash
肩こり have stiff shoulders
無重力 zero gravity
矛盾 inconsistency
無限大 infinity
無作為抽出 ramdam sampling method
命題 proposition
めまい giddiness
妄想 delusion
周波数 freguency
川島なお美といえばワインである。「自立した愛人」メトレス(フランス語)を目指し、自分の生き方を模索する女性の姿を描いた渡辺淳一の小説の映画化「メトレス」(2000年)。このとき川島なお美は40歳だが年齢を感じさせない。ドラマ「失楽園」でブレイクしたが、下積みが長かった。映画の主演作は「鍵」(1997)のわずか2作品にすぎない。映画ではヒットを飛ばすことはできなかった。この映画の音楽がやたらとクラッシク調で耳障り。作曲は三枝成彰で演奏は大友直人。例の佐村河内守事件の名コンビだ。
いま日本でも韓国でも恋愛映画、なかでもハッピーでロマンチックなコメディ、いわゆる「ラブコメ」というジャンルが人気だ。ロマコメとラブコメとの違いは、どちらも恋愛とハッピーエンドを条件として区別はなかなか困難であるが、ラブコメはより喜劇性、ドタバタ性の強いものをいう。例えば、「ローマの休日」はロマコメであり、ドラマ「おくさまは18歳」は典型的ラブコメである。現在、日本では上野樹里や井上真央、韓国ではキム・ジョンウン、キム・ハヌルなどがラブコメの女王といえる地位を確立している。LaLaテレビ放送中のソン・ヘギョ&ピの「フルハウス」などは典型的ラブコメであろう。日本映画での元祖ラブコメといえば薬師丸ひろ子&鶴見辰吾の「翔んだカップル」(1980)という説がある。しかし、ラブコメのルーツとなるとやはりハリウッド映画であろう。
19世紀末のヨーロッパの演劇界や文学は悲劇的な結末のものが流行した。その影響を受けたアメリカ映画界でもサイレント初期はリリアン・ギッシュの「散り行く花」、グレタ・ガルボの「肉体の悪魔」(1927)、「恋多き女」(1929)など悲恋物語ばかりだった。「アメリカの恋人」とよばれ愛されたメリー・ピックフォードが元祖ラブコメの女王といえるかもしれない。トーキー時代になってダンスとジャズのミュージカル映画が全盛となる。このころアメリカ映画はほとんどがハッピーエンドというアメリカン・ロマンスのスタイルが成立したとみている。そして銀幕を不滅の黄金コンビが彩った。ルビー・キラー&ディック・パウエル、ジンジャー・ロジャーズ&フレッド・アステア。元祖ラブコメといえばクラーク・ゲイブル&クローデッド・コルベールの「或る夜の出来事」といわれている。しかしロマコメとラブコメとの区別がつきにくい作品であろう。真の意味でのラブ・コメ映画の出現となると、チビッコの青春コンビ、ジュディ・ガーランド&ミッキー・ルーニーのアンディ・ハーディシリーズ(1938-1941)だろう。残念ながらこの時期、戦争のために日本では劇場公開できなかったため、ラブコメが日本に移入することはなかった。戦後アメリカ映画のラブコメのヒロインといえば、シャーリー・マクレーン、ゴールディ・ホーン、メグ・ライアン、キャメロン・ディアス、ドリュー・バリモア、キルステン・ダンストと続々と現れている。
つまり日本、韓国でのラブコメの成立は、アメリカに比べ50年は遅い。なぜこれほど遅れたのだろう。吉永小百合&浜田光夫、山口百恵&三浦友和の共演映画も観客は悲劇性を好んでいた。ラブコメも作ってはみたがファンには不評だった。日本でのほんとうのラブコメの登場はバブル期まで待たねばならなかった。
最後に、おすすめのラブコメは「ラブソングができるまで」(2007)。愛するダメ男を演じさせれば右に出る者はいないといわれるヒュー・グラントとラブコメの女王ドリュー・バリモアが共演した最高にベタなラブコメ映画。カップルで映画館へ行き、見終わった後、ハッピーな気分になれる映画である。
南米で最も人口が多い首都は?ブラジルにはサンパウロ(1102万人)やリオデジャネイロ(600万人)があるが首都ブラジリアは約200万人ほど。ペルーの首都リマ(800万人)やコロンビア首都ボゴタは770万人(周辺をあわせると784万人)と南米最大の首都である。続いてサンティアゴ(466万人)、カラカス(434万人)、ブエノスアイレス(289万人)、ブラジリア、モンテビデオ(132万人)、ラパス(87万人)、アスンシオン(85万人)、パラマリボ(22万人)、ジョージタウン(8万人)。ボリビアの首都は実質的にはラパスだが、法律上ではスクレ(16万人)。ちなみに南米五大都市とは、サンパウロ、リマ、ボゴタ、リオデジャネイロ、ブエノスアイレスを一般にさす。
ネットでスーチーガーと検索すると「沖縄の塩漬け豚」とでてくる。中国語で「四季歌」である。つまり「♪春を愛する人は 心清き人 すみれの花のような ぼくの友だち」。この歌は作者である荒木とよひさがスキー事故で足を折って入院していた1964年の冬、退屈しのぎに作って、親切にしてくれた看護婦さんたちにおくったもの。看護婦さんたちはこの歌をボランティア活動の中で広め、また労音に飛び火して広まった。1972年にダーク・ダックスがレコーディングしたが、1976年に芹洋子のレコードが発売されるや、一挙に火がつき、全国に知られるようになった。彼女の透明感ある美しい声と歌のイメージがピッタリ合ったのだろ。「四季の歌」は千昌夫の「北国の春」と並んで中国でも日本の代表的な歌として李谷一などが歌っている。
「♪静かな街の片隅に 冷たい風が吹き抜ける ワシントン広場の夜は更けて~」ワシントン広場はワシントン市ではなく、ニューヨーク市グリニッチ・ビレッジの東側にある。ちなみにスペイン広場はローマにある。大和市は奈良県ではなく神奈川県にある。アメリカのワシントン家は17世紀にバージニア州に入植した一家を祖とする。ジョージ・ワシントンが独立戦争の英雄として有名になり、1776年の戦争中に、ワシントン砦が設けられたのを、地名ワシントンの最初とする。その後、ワシントンと称する郡、町村、集落が急増し、数百にのぼった。
近年、産地や原材料偽装、賞味期限の改竄など食品偽装の事件など世相を反映したことが起きるが、まことに嘆かわしいことである。よく知られた故事成語に「羊頭狗肉」がある。羊の頭を看板に出しながら実際には狗の肉を売ることから、よい品を見せて、悪い品を売る。立派そうに見せかけて粗悪な品を売るたとえである。この言葉のもとの形は「羊頭を懸げて馬膊を売る」(『晏子春秋』)で、後漢の光武帝の詔書にも「羊頭を懸げて馬膊を売り、盗跖、孔子語を行なう」(『後漢書』光武紀)がみえる。清代の『恒言録』(銭大昕の撰)には「羊頭狗肉」(羊頭を懸げて狗肉を売る)が引用されている。「騙し」は大昔の時代からあるが、人の世の悪行はなくならないものなのであろうか。むしろ情報が発達し、メディアが多様化する現代、騙しのテクニックはさらに巧妙になっている。騙されない方法はないだろうか。だまされるのは心理的な問題がある。震災などで多くの人の心が傷つくと、癒しとして音楽の力というのが盛んにいわれる。「癒し」の効果というのは数値で測定でないあいまいなものである。そこに営利性のつけいるビジネスが成立する。犠牲者に奉げるレクイエムといえば普通の人は神妙になって聞くだろう。作曲した人が全盲であり、著名な音楽評論家が「現代のベートーベン」といえば、クラッシックを理解しない人でも、ブームに取り残されるような気がして、「感動した」と口々に褒めあうだろう。NHKというメディアは信頼性があるので騙すには格好のメディアである。大手新聞社も然り。先の戦争はメディアがこぞって聖戦と美化し、日本を戦争につきすすめた。周囲にまどわされずに、しっかりとした個人個人の判断力をもたねばならい。
明智左馬之助(秀満、満春ともいう)は明智光秀の叔父である明智光安の子であり、光秀とは従兄弟の関係にあった。本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き、羽柴秀吉との山崎の戦いで光秀の後詰として打出浜で堀秀政と戦い、敗れて坂本城に入る。光秀の妻子を刺し殺し、城に火を放って自害した。俗説によれば左馬之助は生きて天海大僧正になったする説がある。明智左馬之助といえば、琵琶湖の湖上を馬で越えたという「湖水渡り」が有名であるが、NHKの大河ドラマで観た覚えがない。昨夜見た松竹映画「敵は本能寺にあり」(1960)では森美樹が演じる左馬之助が湖水を渡るシーンがあった。森は長身の若手スターだったが、この映画の直後、自宅でガス中毒で亡くなっている。
最近のアメリカではロマンス作品の半分がパラノーマル(科学的に証明できない現象)を扱ったものである。これはアニメやテレビゲームの影響もあるだろうし、オカルトや超能力はもともとジャンルとしても確立している。マッチ箱や爪楊枝を念力で動かしたり、ユリ・ゲラーのようにスプーン曲げなどいろいろある。信じるか信じないかは個人の自由として、むかし評論家の小林秀雄は、「大昔の人達は、誰も肉体には存在しない魂の実在を信じていた」として、ユリ・ゲラーをテレビでみた小林はベルグソンの哲学を引き合いに出して科学で認められない現象を頭から否定することを難じた。(講演録「信ずることと知ること」)
この講演のなかで柳田国男がお化けの研究をしていた話があって、田山花袋が小説のネタをほしがっていたので、柳田がお化けの話をしたことがある。すると、花袋は余り奇抜すぎて小説にできないと言った。柳田は田山が自然主義の個人的な生活の告白のうちに、立てこもっていたのは残念なことだと言っている。小林秀雄流に解釈すればパラノーマルな小説もありということか。
ジョンソンは英語圏で一般的な人名。第17代米大統領アンドリュー・ジョンソン、第36代大統領リンドン・ジョンソン(画像)、イギリスの批評家サミュエル・ジョンソン、イギリスの詩人ベン・ジョンソンの4人が広辞苑に載っている。ほかにはイギリスの論理学者ウィリアム・アーネスト・ジョンソン(1858-1931)、イギリスの軍人ウィリアム・ジョンソン(1715-1774)、アメリカの画家ウィリアム・ジョンソン、アメリカの政治家ウィリアム・サミュエル・ジョンソン(1727-1819)、アメリカの建築家フィリップ・ジョンソン(1906-2005)。アメリカの地形学者ダグラス・ウィリアム・ジョンソン(1878-1944)。イギリス国教会の聖職者ヒューレット・ジョンソン(1878-1944)は第二次世界大戦の平和運動家。
アメリカの外交官ウラル・アレクシス・ジョンソン(1908-1997)は駐日大使館勤務を振り出しに、ソウル、天津、奉天各副領事を勤めた。戦 後も横浜総領事などに就任、日本になじみが深い。(左画像)
このほかの著名人ジョンソンとして、投手ランディ・ジョンソン、ギタリストのウィルコ・ジョンソン、陸上選手のベン・ジョンソン、ジョン・フォード作品常連の俳優ベン・ジョンソン、TV「マイアミ・バイス」のドン・ジョンソンがいる。野球選手デーブ・ジョンソンは2年間巨人に在籍している。Johnson
ブラジルのタバハラ族出身のナタリシオ・リマ(1920-2009)とアンテノール・リマ(1925-?)兄弟ギターのデュオ。日本では人気番組「シャボン玉ホリデー」のテーマで使われた「スターダスト」が彼らの演奏だったので何百回となく聞いた人も多いだろう。だが「スターダスト」は彼らにとってヒット曲ではなく、やはり「マリア・エレーナ」(1964)が代表曲。他に「テ・キエロディヒステ」「マリア・ラ・オ」「ソラメンテ・ウナ・べス」「アディオス・マリキータ・リンダ」「オールウェイズ・イン・マイ・ハート」「アモール」「ビギン・ザ・ビギン」「アマポーラ」「セント・ルイス・ブルース」「ハーバー・ライト」「虹の彼方に」「煙が目にしみる」「ジャニー・ギター」「慕情」「オールウェイズ」「ムーンライト・セレナーデ」
ソチ五輪の開会式。冬季五輪史上最多の87か国・地域から約2900人の選手が参加。初出場国はジンバブエ、トーゴ、マルタ、ドミニカ、パラグアイ、東ティモール、トンガの7ヵ国。
開会式はロシアの歴史と文化を紹介する形で進行した。ロシアが誇るクラシック音楽やバレエなど芸術的な要素もふんだんに盛り込まれた。チャイコフスキー、ストラヴィンスキー、ハチャトゥリアン、ボロディンなど。五輪旗や聖火ランナーには女性宇宙飛行士テレシコワ、テニスのシャラポワ、フィギュアスケートのカバエワなど。客席には各国首脳の顔も見える。プーチン大統領の隣にいた若い女性は次女のカテリーナだろうか。可愛い。妻リュドミラとは昨年離婚したらしい。
嵐が主演の映画「黄色い涙」(2007)にモンテルランの詩がでてくる。
人生を前にして
ただ狼狽(うろたえ)るだけの無能な
そして哀れな青春
だがいま最初のシワが額による頃になって
得られるのが人生に対する信頼であり
この同意であり相棒
お前のことなら分かっているよという意味のこの微笑だ
いまにして人は知るのだ
人生は人を欺かないと
人生は一度も人を欺かなかった
(モンテルランの無駄奉公 Service inutileの一説)
アンリ・ド・モンテルラン(1896-1972)はフランスの貴族の生まれで行動主義と女性蔑視で知られた。初期は精力と健康を賛美する作家であったが、晩年になると孤独の影を書くようになる。失明の危険にさらされた絶望でピストル自殺した。(Henry de Montherlant)
地中海を渡って、最初に大西洋に達した人は誰か。すでに紀元前2000年紀にはフェニキア人が地中海貿易で活躍し、イベリア半島にも進出していたのでおそらくフェニキア人だろう。前1100年にはタルテッソスと交易を行なってガディス(カディス)を建設した。だが記録に残っている人はギリシア人のコラエウス(Colaeus)が前630年、エーゲ海のサモスを出発し、エジプトに向かったが、東風によって航路から外れ、地中海を横切り、ジブラルタル海峡を通ったとある。こうして、コラエウスは大西洋に達した最初のギリシア人となったのである。南スペインのタルテッソスに上陸して積荷を売った。小アジアに帰ったあと、コラエウスの発見の報告は、エーゲ海とスペインのあいだの貿易のための道を開いた。
ダーウィンの進化論に共鳴するイギリスの博物学者アルフレッド・ウォーレス(1823-1913)は、インドネシアのバリ島とロンボク島、ボルネオ島とスラウェシ島、ミンダナオ島とモルッカ島の境目に線をひき、西側は東洋区の生物、東側はオーストラリア区の生物が分布することを発見した。これをウォーレス線と呼ぶ。オランダの動物学者マックス・ウェーバー(1852-1937)は貝類や哺乳類の分布の違いを基準に1902年にウェーバー線を提唱した。この2つの境界線はどちらも間違いではない。ウォーレス線の西側は東洋区、ウェーバー線の東側はオーストラリア区である。この2つの線の間は、東洋区とオーストラリア区の両方の生物が見られるので、この混じり合った地域をウォレシアと呼ぶ。
アメリカの半島といえば「フロリダ半島」や「カリフォルニア半島」がいちばんに浮かぶが、デルマーバ半島という地名はあまり聞かない。デラウエア湾とチェサピーク湾とに挟まれたワシントンに近い位置にあり、重要な地名であるが、学校では教えないし、「地名・地理辞典」(数研出版社)にもない。デルマーバという地名は、デラウェア州(DELaware)、メリーランド州(MARyland)、バージニア州(VirginiA)からの合成地名である。世界の主な半島は、面積規模の順で、アラビア半島、インド半島、ラブラドル半島、スカンジナビア半島、イベリア半島、インドシナ半島、アナトリア半島、バルカン半島、カムチャツカ半島、マレー半島、朝鮮半島、ヨーク岬半島、イタリア半島、バハ・カリフォルニア半島、フロリダ半島、ブーシア半島、ソマリア半島など。インドネシアのスラウェシ島のミナハサ半島は北から東方向へ長さ約600㎞と非常に細長く伸びている半島である。(ちなみにJRの東京~大阪間が556.4㎞)。
佐村河内守の「現代のベートーベン」事件は色々と考えさせられる。多くの人がその音楽に感動したことをブログなどに書いているのを今、読みなおすと尚更である。多分、数年経つと誰もかえりみないだろう。ヒロシマや福島原発事故をドラマや文学、音楽、芸術作品でモチーフとすることが多い。音楽やアートで癒す力があるのは事実ながら、おそらくメディアで取り上げられることが多いからという商業的打算がみえる。「ヒロシマは過去の歴史ではない」という発言が空しくひびく。先日NHKが放送したドラマ「足尾から来た女」も少しがっかりした出来だった。CGによる映像表現は素晴らしいものの鉱毒事件や社会問題への突っ込んだ話がない。サチという足尾の女と東京の歴史上の人物との交錯という話にすぎない。お茶の間で観るドラマはわかりやすく説明的すぎる展開なので、映画のような自然と人間との格闘というシーンは見られることは少ない。唯一は足尾の住居を解体するシーンだけであった。昨晩は映画「魚影の群れ」(1983)を観た。これぞ日本映画という優れた出来栄えだ。下北半島の漁港・大間の頑固なマグロ漁師と娘トキ子、そしてトキ子の恋人で漁師になろうとする青年の話。とくに巨大マグロの一本釣り漁の場面は圧巻である。アイドル映画の相米慎二という印象があるが、この作品だけは、骨太で重厚で観た者に大きな余韻を残す。テレビドラマでは出来ない映画らしいスケールの大きい作品となった。
チョコレートなどプレゼントを行い、男と女が愛を誓い合うバレンタインデーが近づている。男女のもっとも一般的な行為はやはりキスである。日本でのキスの習慣は、奈良時代に中国から伝えられたといわれている。しかし、それはごく一部の貴族階級だけのことで、庶民の間に普及したのは江戸時代になってからでオランダ人が伝えたらしい。キスのことを口を二つ重ねることから「呂の字」といった。日本初の英和辞典「諳厄利亜語林大成」には「Kiss・相呂」と載っている。
さらに、キスという言葉が「口吸い」から「接吻」という言葉になったのは明治初期のことである。明治20年代には大流行している。キスを最初に接吻と訳したのは上田敏である。国木田独歩の日記には何回も「接吻」という言葉が出てくる。独歩こそ我が国に接吻を普及させた人である。
独歩は、「国民新聞」の従軍記者として従軍し、その報道を「愛弟通信」と題して発表、その文才を認められた。そのとき従軍記者慰労会が佐々城豊寿(相馬黒光の叔母)夫妻の家で催された。独歩の「欺かざるの記」には、
「明治28年6月10日、その時はじめてその令嬢を見たり。宴散じてすでに帰らんとする時、余、携うるところの新刊家庭雑誌二冊を令嬢に与えたり。令嬢曰く、また遊びに来たり給えと、令嬢年のころ十六もしくは七、唱歌をよくし風姿素々、可憐の少女なり」とある。
佐々城信子(1878-1949)は医師佐々城本支、豊寿の長女で、独歩との結婚生活はわずか5ヶ月で終わる(明治24年4月24日)。有島武郎は信子をモデルに「或る女」を書いたが、「自覚に目ざめかけてしかも自分にも方向が解らず、社会はその人を如何に取りあつかうべきかを知らない時代に生まれ出た一人の勝気な鋭敏な急進的な女性」として描いた。
以下、独歩の「欺かざるの記」より転載。
「八月十一日、本日午前七時過ぎ、信嬢来る。前日嬢とともに約するに一日の郊外閑遊をもってす。これむしろ、嬢より申出でたるなり。余これを諾したり。しかして、これ互いにある目的を有したるなり。嬢はこの日をもってその心中の恋愛を明言し、余が決心を聞かんことを欲したるなり、余もまたこの日をもって余が嬢に注ぐ恋情を直言し嬢の明答を得て、苦悶を軽うせんと欲したるなり。互いに黙契したるこの閑遊は遂に今日実行を見るに至りぬ。されど勿論これ秘々蜜々の事。」
「二十日 (略)嬢はその病余の衰体をかかえて送り来たり、われら二人、裏門に別れんとす。余、嬢を抱きて曰く、速かに全快し給え。嬢余を抱きて答うに、キスをもってす。余門を出づ、嬢立ちて暗きかげにその体をかすかに現わす、余かへりみて礼す。さらば、嬢もまたかすかに、さらばといえり。余が手にバイロンあり。余はバイロンを思いつつ、嬢との恋愛を思いつつ、車を駆って家に帰りぬ。」
「二十六日 このごろの日記は恋愛の日記なり。われは書を読まず、文を草せず。ただ恋愛の楽しきうちに苦しき時間を、朝はめさめてより夜は床に入るまで、少しの間断もあらせず暮しつつあるなり。(略)われら林に入る前に梨数個を求め、これを携えて例の楽しき林間の幽路に入りたり。嬢とならびて路傍に腰かけ、梨を食いしも、梨甘からず、止めたり。接吻また接吻、唱歌、低語、漫歩、幽径、古墳、野花、清風、緑光、蝉声、樹声、しかして接吻また接吻。」
「せどり」という古本業界の専門語がある。「広辞苑」には「同業者の中間に立ち、注文品などを尋ね出し、売買の取次をして口銭をとること。また、その人」とある。ネットの登場によって、せどり業者は無くなったと思いきや、やはり「仕入れ」などでこの言葉はよく使われるようである。「女性の書斎ひとり好き」は蔵書コレクションを見せる展示博物館的な要素があるので、仕入れはやはりブックオフが多い。これからは新古書店だけでなく古書店、あるいは古本屋からでも珍しい本をどんどん収集したい。でも思うようにはなかなか集らない。本は見つけた時に買わないと、あとで買おうと思っていてなかなか手に入らない。「せどり」を漢字で書くと「糴取」となる。とても難しい。
むかしのタレント本には大抵ゴーストライターがいた。林真理子は松田聖子のゴーストライターだったそうだ。学術的な本に代作はないのだろうか。昭和4年の村川固堅の「希臘史」は実は息子の村川堅太郎が書いたという噂を聞いたことがある。ノーベル賞作家、川端康成は遅筆なので数人のゴーストライターがいたらしい。「東京の人」は梶山季之が代筆、「乙女の港」は中里恒子が原作者で川端が添削したらしい。「文章読本」も伊藤整の代筆。なんと「眠れる美女」は三島由紀夫が代筆したという噂もある。ライトノベルの「万葉姉妹」「夕映え少女」「こまどり温泉」なども疑わしい。
「現代のベートーベン」とされる全聾の作曲家が実は曲作りをしておらず、別な音楽家がキャラクター作りで共同で世の中に売り込んだものであった。佐村河内守のCDは累計13万枚というクラシックでは異例のヒットとなった。人気を後押ししたのはNHKのドキュメンタリー番組(2013年3月31日放送)である。ペテン師のような行為であるが何とも笑い話にもおもえる。むしろ「魂の旋律」事件は一般日本人とメディアが感動を求めるあまり、音楽以外の付加価値を重視した結果ではないか。購入したCDの音楽性や芸術的価値は、誰が作曲していようと優れたものであるならば不変のはずである。いつから芸術そのものではなく、人物の付加的なものに価値をもつようになったのであろうか。感動を求める市民と、感動を提供するメディア。利益が完全に一致し、メディアは感動の素材になりそうな物語を求める。いま連続ドラマ「ピュア」を見ているが、和久井映見が扮する彫刻家は知恵おくれだがその芸術的才能でメディアが注目する。彼女を愛する周囲の人はメディアが興味本位で取材することを心配し、マスコミから遠ざけようとする。記者と和久井との恋愛が絡みながらストーリーが展開していく。一般大衆が真の芸術性を理解することはむずかしい。むしろ興味はゴシップなようなものに集まる。人気や関心も一時的なものであることが多い。NHKの「プロジェクトX」も感動的な話が多かったが、視聴者が期待する感動を求めるあまり、ヤラセや感動を誇張した番組になってしまった。メディアにふりまわされることなく、「市井の人」としての立場を貫き、自己の研究や創作活動をすすめていくのがいちばんである。
1932年ヒトラーにより自由が失われていく祖国ドイツをあとに、28歳の女性マリア・ライへ(1903-1998)がたった一人ペルーにやってきた。1939年リマで開かれた考古学の国際会議でアメリカの考古学者ポール・コソック(?-1959)が「ナスカの地上絵は世界最大の天文書だ」という発表を聞き、ライへは1941年初めてナスカとフマナ平原を訪れる。箒と図面を持った彼女を見て、地元の子どもたちは魔女と囃し立てた。それでも彼女は黙々と研究に没頭した。こうしてライへの情熱によって、ナスカの地上絵は世界中に知れ渡るようになった。現在、地上絵近くの「マリア・ライへ博物館」の庭にある墓に、妹とともに埋葬されている。
地上絵の大部分は直線あるいは滑走路のような幅広い帯であるが、ハチドリ、コンドル、サル、キツネ、シャチなどの動植物を表わしたものもある。それにしても2000年ほど前に、誰が何の目的で描いたのか?これまでライへの天文暦法説、ザウデマやイスベルの社会事業説、ホヌエやランチョなどの雨乞い儀式説など諸説あるが、いまだ謎に包まれている。(Maria Reiche,Nasca,Jumana) 参考:『ナスカの地上絵』 シモーヌ・ワイスバード 大陸書房
アーバンとは「都市の」という意味。つまりゴルフ場ではなく都会の街中でプレーするゴルフ遊びをいう。本物のボールでは危ないのでテニスの硬式ボールなどを代用する。テレビで紹介されたのはアメリカのポートランドでのアーバンゴルフだが、歴史は古く18世紀スコットランドにさかのぼるといわれる。
「薔薇」のように画数がやたらと多い二字熟語を集める。梶井基次郎「檸檬」や佐藤春夫「田園の憂鬱」など。薔薇は34画、檸檬は36画、憂鬱は44画。
「鸚鵡(おうむ)」「齷齪(あくせく)」「躑躅(つつじ)」「鶺鴒(せきれい)」「贔屓(ひいき)」「麒麟(きりん)」「饂飩(うどん)」「蟷螂(かまきり)」「蟾蜍(ひきがえる)」「禰宜(ねぎ)」「轆轤(ろくろ)」「縮緬(ちりめん)」「蚯蚓(みみず)」「繁縷(はこべ)」「脹脛(ふくらはぎ)」「蝙蝠(こうもり)」「蝦蟇(がま)」「鋒鋩(ほうぼう)」「駕籠(かご)」「蝶番(ちょうつがい)」「蜥蜴(とかげ)」「蒟蒻(こんにゃく)」「蜉蝣(かげろう)」「葡萄(ぶどう)」「矮鶏(ちゃぼ)」「暖簾(のれん)」「蛞蝓(なめくじ)」「絨毯(じゅうたん)」「湮滅(いんめつ)」「屠蘇(とそ)」「傀儡(くぐつ)」「黄櫨(はぜ)」「鹿驚(かかし)」「袱紗(ふくさ)」「莞爾(にっこり)」「荼毘(だび)」「翌檜(あすなろ)」「瓶覗(かめのぞき)」「掏児(すり)」「曹達(ソーダ)」「雀斑(そばかす)」「躊躇(ちゅうちょ)」「醤油(しょうゆ)」「朦朧(もうろう)」「艱難(かんなん)」「濫淫(らんいん)」「猥褻(わいせつ)」「霜露(そうろ)」「轍鮒(てっぷ)」「贔屓(ひいき)」「鬱金(うこん)」「顳顬(こめかみ)」
Female Genital Mutilation(女性器切除)はアフリカを中心に行われる風習であり、女性器の一部を切除する行為のことで、成人儀礼のひとつである。主に生後1週間から初潮前の少女に行われる。2003年にナイジェリアの大統領夫人であるステラ・オバサンジョの提案で始められた。国連人権委員会で国際的な啓発デーとすることが採択された。
仙台には、現世の御利益をもたらす「仙台四郎」という変わった神様がいる。坊主頭ででっぷりと太っていて、どてらに縞の半天姿で、両手を組んで座っている。その顔はニコリと笑っている。
彼の名は、通称「櫓下四郎(やぐらのしたしろう)」と言う。四郎は江戸末期から明治35年頃まで実在した人物で、生家は仙台市一番丁の鉄砲職人の子であった。生来の白痴であったが、四郎が立ち寄る店は必ず繁昌するといわれ花柳界では大もてだった。反対にいくら手まねで呼んでも見向きもしない店は遠からず倒産したり左前になった。こうして四郎は商売繁盛、家内安全、学業成就、無病息災の開運招福の神となった。
生前一枚だけ撮った写真を明治の終わりか大正の初め頃に、地元の写真館が「福の神」として販売した。そのとき四郎は、土地の名を冠し、「仙台四郎」と命名された。
フィリピン共和国の英語表記はアルファベット11文字もある。
the Philippines
かつてスペインの植民地だったので、当時のスペイン皇太子フェリペ2世Felipeにちなみ、この諸島をフェリピナFelipinaとした。現名フィリピンは、フェリピナが英語化したものである。
次の地名も難しい
マサチューセッツ Massachusetts
ミシシッピー Mississippi
コートジボアール Republic of Ivory Coast
チェサピーク Chesapeake
2月7日からソチオリンピックが開催されるが、日本人が五輪中継に沸き立つのはいつごろからであろうか? 高村光太郎の「智恵子の半生」には次のようにある。「昭和六年私が三陸地方へ旅行している頃、彼女に最初の精神変調が来たらしかった。(中略)翌七年はロサンゼルスでオリンピックのあった年であるが、その七月十五日の朝、彼女は眠から覚めなかった」智恵子は大量の睡眠薬を飲み自殺を図るが未遂に終わる。それから6年後に亡くなっている。「智恵子の半生」は1956年の新潮文庫に収められた一文であるが、光太郎が智恵子の最初の入院とオリンピックとを関連づけて記憶していることに注目される。
ロサンゼルス・オリンピックの開幕は1932年7月30日のことで、世界恐慌の影響で参加国は38ヵ国と少なかった。日本は米国に次ぐ131人の選手団を送り、三段跳び、馬術、水泳で7つの金メダルを獲得。有名なNHKの河西三省アナの「前畑ガンバレ!」は4年後のベルリンオリンピックのことであるが、ロサンゼルス・オリンピックのときラジオの実況中継はあったのだろうか。いろいろ調べたが、海外放送の開始は1934年5月のマニラからの極東オリンピック大会中継放送が最初らしい。つまり高村光太郎は病院で智恵子を看護しながらロサンゼルスオリンピックの結果のラジオニュースを聞いていたのだろう。
英語の名詞を複数形にするには単数形の後に s か es を付ければよいのだが、10個ばかり規則破りの単語がある。これを不規則複数形の名詞という。
foot (足)→feet
footh (歯)→feeth
goose (がちょう)→geese
ox (牡牛)→oxen
child (子ども)→children
penny (ペニー)→pence
man (男)→men
woman (女)→women
mouse (二十日ねずみ)→mice
louse (しらみ)→lice
ただし、コンピュータで使われるマウスの複数形は mouses なのか mice なのか疑問が生じる。業界では両方正しいようですが、はっきりとは分かりません。
単複同形の単語
deer (鹿)→deer
sheep (羊)→sheep
fish (魚)→fish
salmon (さけ)→salmon
carp (こい)→carp
cattle (牛)→cattle
ギリシャ語やラテン語から由来した単語
alumus (男性の卒業生)→alumni
basis (基礎)→bases
crisis (危機)→crises
datum (データ)→data
medium (手段)→mediums,media
oasis (オアシス)→oases
phenomenon (現象)→phenomena
最近、高校「世界史」が必修であるにかかわらず、履修漏れが問題となっている。これほど{世界史」が新聞紙上で話題になったことはこれまで記憶にない。履修漏れが発覚した学校のある生徒は「学校、教育委員会が悪い」「世界史必修がおかしい」「いまさら入試に必要ない世界史を学習しても無駄だ」とネガティブな意見が多い。マスコミ報道も歴史教育の本質をおさえておかないと、誤った世論を形成する恐れがある。世界史学習にとっては逆風の最中、ケペルはあえて「今、なぜ、世界史を学ばなければならないか」考えてみる。
このブログのカテゴリーで、「西洋史」「東洋史」とせずに「世界史」としているのは、高校「世界史」に強い愛着があるからであり、この「必修世界史偽装問題」に関心もあるが、ここでは教育論でなく単なる個人的な思い出話をする。
一般的に「世界史」といえば高校世界史という科目の一つをさすようであり、歴史学のような学問を意味するニュアンスは少ないように思える。わかりやすい例でいえば「古典」は高校古文であり、国文学でないように。しかしながら、おそらく高校生のケペルは少数派だと思うけれども、「世界史」を科目というよりも、学問として捉えて勉強していたようだ。
ケペルの高校時代「世界史」の担任は住田という教師だった。病弱で痩身、神経質そうな感じだった。よく岩波文庫を読んでいた。プラトンのイデア論の説明など、よく理解できなかったが、何度も説明していた。授業の進み具合は悪く、重要な17、18世紀ごろまで2年間もかった。(高校2年と3年の2カ年受講している)。実際、本当に高校世界史を教えようと思えばまる2年かかる。あれは大学の講義内容だった。おそらく1年間だけなら、ポイントだけをしぼった簡単な解説になるだろう。しかし、それでは本当の意味で「歴史がわかる」ようにはならない。住田史学に出会えてよかったと感謝している。当時、マルクス主義がまだ勢力があった時代だが、マルクス主義、マルクス史観を批判するのが口癖だったし、ソビエト崩壊も予見していた。「グローバル」という言葉は昭和40年代前半はまだ一般には普及していなかったが、インテリの間では使われていたらしく、住田もよく授業で使っていた。世界史という科目は入試対策には暗記項目が多くて明らかに不利だが、社会人となったとき必須の学問なのだ。科目としてとらえるか、学問として捉えるか、教える側、教えられる側の意識と信頼関係が大切だ。江戸時代の鎖国で国際情勢が何もわからないとき、佐久間象山に教えを乞う吉田松陰の例を引き合いにだすまでもなく、これから未来に向かってなにをすべきかと考える若者のためには現在の状況を知らねばならない。それはいくらテレビの評論家の話を聞いてもわからない。体系的な学問で築き上げられた世界史をめんどうで時間がかかっても、古代から現代まで通観して、かなりの見識のある教師の人間性にふれながら学習することで身につくと思う。テレビ通信講座の綿引の「世界史」や今の美人の先生のも見るが、やはり生の人間の講義を聞くことが一番である。映像と生の人間の肉声と脳に与える効果がどうちがうか、正確に立証できないが最近の科学知識では説明できるということを最近何かで聞いたおぼえがある。
ケペルはいまでも高校世界史の参考書をいろいろ持っている。あとで古本屋で買ったものも多い。古本の参考書の世界史を収集するというのは、奇妙な趣味だろう。高校世界史はもちろん戦後できたものであるから、ほぼ60年近くなるが、参考書の好し悪しを論評したものを見たことがない。つまり、高校世界史の最も権威あり定番のものが何か知らない。むかしは、吉岡力のが一番だと聞いたが、いま現役の先生は何がおすすめなのだろうか。ともかく手元にある古いものを羅列する。
「絶対世界史」研数書院 昭和27年4月25日初版で改訂第8版(昭和36年)を所蔵。東京都世界史教育課程委員編集、並木正雄、遠藤克己、安藤清吉、鈴木貞三とあまり知らない先生の名前があるので、現場の教員が書いたものであろう。三部構成で、第1部は「世界の各地において人類はどのようにして生活し、文化を築き上げてきたのか」、第2部は「近代社会の形成を通じて世界はどのように一体化したか」、第3部は「現代社会の諸問題はどのようにして起り、その解決のためにどのような努力がなされているか」とある。一見して、マルクス唯物史観の発展段階を基本にしていると思われるが、高校参考書であるので、それほど唯物史観が前面にでているのではない。527ページと厚く、広告には「絶対の信頼」「くわしくて正確」とある「絶対シリーズ」の一冊である。
「世界史の徹底整理」今津晃 数研出版。初版はなんと昭和32年であり「受験準備の短期完成に」と副題があるようにコンパクトなのでケペルも入試当日も携帯した思い出の一冊。367ページ。
「精説世界史」 前川貞次郎編著者 数研出版 昭和37年2月1日発行、第6刷(昭和40年)を所蔵。前川貞次郎という西洋史で有名な教授を編著者にしているが、実際の執筆はアジア史は外山軍治、大島利一、日比野丈夫、ヨーロッパ古代・中世を鯖田豊之があたっている。いずれも京都派の一流学者。486ページ。
「世界史の完全研究」 井上智勇、田村実造編著者 清水書院 昭和40年7月10日初版、第8刷(昭和44年)を所蔵。井上は西洋史、田村は東洋史であるが、実際の執筆は、堀内一徳、間野潜龍、長沼忠兵衛、狩野直禎があたる。496ページ。
「世界史ハンドブック」 鈴木俊、井上幸治編 朝倉書店。昭和40年8月31日。定価が2000円と当時としては高価であり、学習参考書ではなく、「日本史ハンドブック」の姉妹篇として出版された学術書。文字は縦組み。執筆は鈴木俊、井上幸治、長谷川博隆、船木勝馬、青山吉信、青木富太郎、赤井彰、鳥山成人が分担している。537ページ。当時としては最高の概説書だった。
「技法世界史」鈴木亮、加藤正春、水口敏之 研数書院 昭和40年5月。東京都立高校の教諭の実践向き参考書。「問題点の追求」では例えば「秦の始皇帝の行った政治が、歴史的にどんな役割を果たしたか、いろいろな角度から考えてみよう」という設問し、3項目の角度から論述している。類書ないユニークさが特徴。413ページ。
「基礎力世界史」大野慎一郎、松俊夫 学習研究社 昭和42年3月 3D方式シリーズ。263ページ。定価330円と買いやすかった。お洒落なデザインだった。
「世界史の研究」 吉岡力 旺文社 昭和42年。世界史参考書の金字塔。詳細な記述、的確な叙述により、大学の入試問題をつくる先生も参考にしていると聞いたことがある。吉岡は1908年、山口県生まれで、東海大学教授であるが、多くの教科書、参考書を執筆した。教科書「世界史AB」(好学社)など。582ページで定価500円。
「新世界史」堀米庸三、前川貞次郎 数研出版 初版昭和45年4月1日、新訂版第7刷(昭和51年)所蔵。チャート式でカラーで恐らく最も売れた世界史参考書ではないだろうか。519ページ。
「解明世界史」羽田明、豊田尭、中山治一 文英堂 発行年不明。シグマベスト。体系的で詳細な参考書。543ページ。巻末の事項索引、人名索引も詳細で原綴りがある。
「図説世界史」里見元一郎 一橋出版 昭和56年4月1日。宇津木章、小名康之、柴田忠作、尚樹敬太郎、吉田寅。「生活・風土史を中心に、生きた歴史を求めて」と副題がある。図版が豊富。308ページ。
「詳説世界史研究」木下康彦、木村靖ニ、吉田寅、山川出版社。平成7年7月15日。568ページ。まえがきに「なぜ世界史を学ぶか」を引用する。「高等学校の教育課程では選択であった世界史が必修となった。現代という時代を生きるためには、世界史を学ぶことが必要であるという考えが強くなったからである。今、なぜ世界史に人々が関心を示すのか、なぜ世界史を学ばなければならない考えてみよう」とある。
「各国別世界史の整理」三省堂編集所 昭和54年2月1日。概観世界史が多いなかで、唯一の各国別の世界史。ルーマニア史とかブルガリア史とかユニークであり、本気で世界史を研究するなら必備の書。
「新学生の世界史」 理論活用叢書 中島敏・石木誠一 清水書院 1954
明治・大正の評論家・石橋忍月の1926年の忌日。森鴎外は明治23年から翌年にかけて「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」の三篇を書いたが創作の筆を絶った。鷗外が再び活発な創作活動を始めたのはそれから約18年のちのことである。何故にこのような長い空白期間が生じたのか。その一因は「舞姫」の失敗にある。この小説は自伝の要素もあり、エリートでいるか、女性との恋愛に生きるかという、屈折した内面と近代人の自我の悩みを描いた最初の浪漫的な作品といわれる。しかし石橋忍月が「著者は詩境と人境との区別あるを知って、之を実行するに当っては、ついに区別あるを忘れたる者なり」と否定的見解を述べている。中途半端に終わった浪漫的小説の失敗が、鷗外に小説の筆を折らせたと考えられる。エリスのモデルは長年諸説あったが、近年、渡航記録などからドイツのシュチェチンで生れたエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト(1866-1953)という女性であることが判明した。(Elise Marie Caroline Wiegert、エリーゼ・ワイゲルト)
昭和21年2月1日、東京では朝から降り続いた雨が午後になって雪に変わった。このため、電車は一部不通、上野の地下道では浮浪者が寒さに震えた。その二日前、河上肇は栄養失調に肺炎を併発して死んだ。三木清は前年の9月26日、豊多摩刑務所で死んでいる。吉永小百合主演の映画「母べえ」を見てふと思う。学問の自由、思想の自由、読書の自由を守ることはいつの時代でもたやすいことではない。戦後も赤狩りや反共による思想弾圧はあった。いまも性に対する規制は強化されようとしている。戦時下最大の言論弾圧といわれた横浜事件の元被告に65年を経て、やっと刑事補償を認める判決が下りた。戦前の話だが、四国の丸亀の図書館で廃棄事件があった。河上肇の「唯物史観」、高畠素之の「マルクス12講」「マルクス経済学」、恒藤恭の「マルクス主義根本問題」が指摘され、閲覧図書調査が行われた。永井館長は市会議員らによって攻撃されたとある。これらの話は歴史として語られないだろう(大阪毎日新聞、昭和9年1月16日)
図書館で問題となる図書とは、社会主義や共産主義の本だけではない。性文学、悪魔崇拝、神秘主義、擬似科学、オカルト、艶本珍書、近現代の発禁本など、ボーイズラブ(BL)、児童ポルノなど。その時代に禁止とされる資料も歴史的研究資料としては大事である。どこが保存するのか。公的にできるのか、民間人によって単純所持が認められるのか。映画をみながらさまざまな思いがよぎる。
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