赤垣源蔵「徳利の別れ」
赤垣源蔵は討ち入り直前にそれとなく別れを告げるため、芝の汐留にある兄の塩山伊左衛門宅を訪れたが、あいにく不在で、兄嫁が対面した。そのとき源蔵は今生の別れと思い、美服をまとっていたが、それを知らない兄嫁は苦々しく思い意見した。
「お身は浪人の身でありながらなぜ左様に着飾られるのか。内匠頭の一件以来、世人はお身らを腰抜けよ犬侍よと嘲笑して誰ひとり相手にせぬ。拙者ならではと思えばこそ、かように御忠告致すのだ」と苦々しげに言った。
源蔵は静かに「御忠告は身にしみてかたじけなく存じます。しかし本日は久しくご対面致しませぬので、ご挨拶に参上致しました。実は一両日中に少し遠方へ参りますので、それゆえ推参致した次第でございます」
兄嫁も別れの挨拶と知って酒肴を出すと、平素は酒を飲まぬ源蔵が、二、三杯はして帰った。三日後、吉良邸討ち入りを知った兄嫁は、「そうとも知らず、いらざる意見をしてしまった」と深く嘆き悲しんだという。
赤垣源蔵は「徳利の別れ」という巷説が名高く、講談、浪曲、歌謡曲などでは酒豪で知られている。降りしきる雪の中、別れを告げるため訪れたが、不在であったため兄の羽織に向かい決別の杯を汲んだという逸話であるが、この話は後世の創作で、源蔵は下戸であったといわれる。 (参考:「赤穂義士事典」赤穂義士事典刊行会)
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