豊臣秀吉の多指症について
慶長3年8月18日の丑の刻(午前二時)。豊臣秀吉は病に伏し、跡継ぎの豊臣秀頼をくれぐれも頼むと家康や利家に言い残しながら、伏見城にて病没。享年、61歳である。
死後、秀吉の侍女孝蔵主が、蒔絵の文箱におさめてあずかっていた色紙を、取り出して北政所にわたした。辞世の歌が書いてある。
露と落ち、露と消えにしわが身かな、難波のことは、夢のまた夢(大阪城天守閣木下家文書)
京都・高台寺の所蔵する秀吉画像、賛によって、秀吉没後まもなく描かれた事実がわかる。狩野光信(1565-1608)の筆による。華やかな雰囲気のうちに天下人の威厳を感じさせる優れた構図・描法である。織田信長や徳川家康の画像と比べると、どこか寂しさを感じさせ、苦労人という印象を与える「猿面」である。右手に笏を持っているが、秀吉は6本指だったという風説がある。ルイス・フロイスの「日本史」の中に「秀吉の片手には、6本の指(seis dedos)があった」と記している。前田利家も「国祖遺言」に右の手おや指が一つ多かったことにふれている。専門医によれば秀吉が多指症だったことは大いにありうることらしい。日本、中国および朝鮮の3つの民族には多指症が多く、ことに母指の基節骨から分岐するタイプのものがよくみられる。両側対称性の多指症は遺伝関係が濃厚だが、秀吉のように片側性のものは突然変異が考えられると言っている。秀吉先天性多指症説の信憑性はかなり高い。(太閤忌)
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秀吉が多指症であった?
これは初耳だ>
この症状は日本、韓国、中国に多いという。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年1月21日 (月) 03時28分