かめ割り柴田
元亀元年、柴田勝家が近江の長光寺城をわずかの兵で守っていたときの話である。六角承禎が数千の兵を率いて急襲した。勝家軍は、籠城策をとると、承禎は城の用水路を断った。水手をはばまれた勝家は、残る水をすべて大きな瓶(かめ)に入れ、「これで我らは、もはやあとがない。明日は決死の覚悟で打って出よう」と、大瓶を打ち割って必死の気合を兵たちに見せ示した。奮いたった柴田勢は、数倍の承禎軍を討ち破った。この時以来、柴田勝家のことを「瓶割り柴田」と呼ぶようになった。(参考:『歴史ものしり百科』三公社 1982)
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