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2014年1月28日 (火)

漱石の義侠心

102135587_624    明治29年4月13日、夏目金之助(漱石)は菅虎雄の斡旋で第五高等学校講師に着任した。校長は中川元、教頭は桜井房記、佐久間信恭、篠本二郎、杉山岩三郎、賀来能次郎、山川信次郎、内田周平、菅虎雄、羽生慶三郎、田丸卓郎、近重眞澄、中川久和、武藤虎太、長谷川貞一郎、中沼清蔵、大浦肇、黒本植、加藤晴比古、南部常次郎、黒木千尋などがいた。 

    漱石は着任して間もなく竜南会の端艇部長になった。当時、端艇部には吉田久太郎という腕力自慢の猛者がいた。久太郎は明治7年2月、福岡県筑前国宗像郡赤間に生まれる。端艇部を牛耳っていた久太郎が一つの事件を引起した。 

    その頃、日清戦争で分捕りたる大型のボート二艇を記念として海軍省から五高へ下げ渡されることになった。この二艇の船を引取るために、竜南会より佐世保に派遣して、久太郎が宰領として回航した。往路は無事であったが、帰路にこの記念船の修理のため某所に滞在中、徒然に乗じて一同盛んに飲食をなし、正当の支払の他に、百円たらず使い込んでしまった。弁済の道もなく、教師一同に救ってほしいという願いであった。吉田久太郎は日頃から職員間に人望ないため誰もとりあわない。そこで、赴任早々であるうえに、薄給であった漱石が、寝耳に水の事件であるにもかかわらず、全額を償い同時に部長を辞してしまった。漱石の責任感、義侠心、金銭に対する淡白な心情などが現れたる逸話であろう。

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「日本文学」カテゴリの記事

コメント

初めまして。数日前、面白半分で祖父の名前で検索したところ、こちらのサイトが出てきて非常に驚きました。吉田久太郎は私が生まれる前に亡くなってますが、両親から祖父の存在は聞かされてました。(祖父は町長でし。)しかし夏目漱石と関わりがあったとかは全く聞かされてません。この祖父の話しはどこで知られたのでしょうか。よろしければ教えて頂けないでしょうか。

ようこさん、コメントを読みました。たいへん微笑ましい話ですね。昔々のおじいちゃんの若気のいたりをあの漱石先生が面倒見たんですね。これを機会に是非「漱石全集」を読んでみてはどうでしょうか。元ネタは、篠本二郎「五高時代の夏目君」昭和11年1月、『漱石全集月報』にあるそうです。この文献の入手は非常に困難だと思いますが、宮井一郎著『評伝夏目漱石(上巻)』国書刊行会、昭和57年という分厚い本の262~263頁「熊本における授業」という箇所に一部引用されています。もちろん関西に来られるついでがあれば、宝塚・阪急逆瀬川駅下車・「女性の書斎・ひとり好き」という本屋で閲覧できます。年中無休ですし、「ブログで見ました」と言っていただければ、すぐに本をお出しします。

ケペル先生、さっそくのお返事ありがとうございます。前のコメント脱字していてお恥ずかしいです。さて、こちらのブログで祖父の名を発見して、驚き喜んでいたんですが、他にも祖父の名で検索したとこ「五高の歴史.落ち葉拾い」というサイトを見つけました。旧制第五高等学校の歴史が書かれたHPで、そこにも百円事件の事が書かれてますが、その後久太郎さんの話しも後日談的に載せられてました。そこにかかれている話しは、私の祖父の事ではありませんでした。私の祖父は30代で政治家になりましたが、五稿の久太郎氏は会社重役になり、御子孫や、親類の方の話しも書かれておりました。残念な事ですが、五高の人は祖父の同姓同名の人でした。ケペル先生の方に書かれている「久太郎は明治6年、佐賀県東松浦郡左志村唐房の吉田定七の三男として生まれる」は完全に祖父の事なのですが「落ち葉拾い」の久太郎氏のその後は、完全に別の人でした。そうすると、明治6年に私も生まれた唐房に、2人吉田定七がいて、それぞれ息子に久太郎という名前をつけたのでしょうか。一人は町長になり、一人は唐房を出て熊本に行ったのでしょうか。 ただ、五高の久太郎氏のエピソードは、祖父のイメージとは離れているのでやはり別人なのかなと思いました。 とてもがっかりしましたが、別人ならしょうがないです。祖父だと思い、胸を躍らせたのですが。(笑) ほんの少しの間ですが、喜ばせて頂きました。ケペル先生のブログ、これからも覗かせてください。それでは。

ようこさん、ごめんなさい。よく調査したところ百円事件の吉田久太郎さんは、明治7年2月福岡県筑前国宗像郡赤間の生まれ、明治24年9月、18歳のとき第五高等中学校初等科1級に入学とあり、唐房の吉田久太郎さん(明治6年生)とは別人でした。

やはり私の祖父ではなかったんですね。
お手数をおかけしました。でも、ひとつ不思議に思う事があります。何故、ケペル先生は私の祖父の生まれについて知ってらしたんでしょうか。祖父の事は探せば私の田舎の古い郷土史に数行書いてある程度だと思います。有名でもない祖父の出自を、どこで御知りになったのでしょうか。

ケペルも吉田久太郎さんの出自をどこから入手したのか謎で夜も寝られません。当時の記録をノートで調べる方法もあるのですが、すこし作業がたいへんなので、推測ですが、やはりネットで検索して、たまたまヒットしたので早合点した可能性が高いです。ネットの記事は消去されるものも数多くあり、現在では見ることはできないのではないでしょうか。プライバシーの関係もあるので、なるだけ明治・大正の古い時代を中心に名もなき人物研究を数珠つなぎに調べていますが、同姓同名には要注意を!という反省をしています。

そうだったんですか。そんな事があるんですね。でもお陰で久方ぶりにワクワクする体験をさせて頂き、楽しい日々を過ごしました。こんな事があって先祖を思い起こし、今度帰省する時はお墓参りをしようと思ってます。それではケペル先生ありがとうございました。

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