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2014年1月24日 (金)

永井久一郎と東京書籍館

Kyuichirou_nagai  永井荷風(1879-1959)は、明治12年12月3日、東京市小石川区金富町45番地(現在の文京区春日2-20-25)に永井久一郎、恒(つね)の長男として生まれた。父・永井久一郎(ながいきゅういちろう、1851-1913)は後年の官僚・実業家としての経歴以外に、禾原(かげん)と号し漢詩人として知られ、若い頃は明治初期の公共図書館のはじめである書籍館の運営に尽力したこともある。母・恒は尾張藩儒学・鷲津毅堂(1825-1882)の長女であり、荷風は鷲津の家系であることを誇りにしていた。 

   永井久一郎は愛知県愛知郡鳴尾村(:現在の名古屋市南区)に父・永井匡威、母よねの長男として生まれた。永井家は製塩業などを営む豪農として知られていた。名を永井匡温(ながいまさはる)といい、尾張藩儒の鷲津毅堂に漢学を学び、森春涛から漢詩を学び、箕作麒祥に英語を学んだ。 

   明治4年7月父の死去にともない、久一郎は家督を二男の永井松右衛門に譲り、名古屋藩の貢進生として渡米し、ラトガーズ大学グラマー・スクールで勉学する。帰国後の明治7年、工学寮二等少師となり、ついで文部省に9等出仕として、東京書籍館(帝国図書館の前身)に配属される。明治8年4月、文部省は書籍館を浅草から湯島に再び移転し再開したが、館長の畠山義成(1842-1876)は病気となり、8月2日、8等出仕永井久一郎は書籍館館長補に任ぜられる。畠山は翌年10月、渡米の船中で客死している。 

   明治10年2月15日に西郷隆盛が西南戦争を起こしたため、明治政府の財政を圧迫し、経費削減のため東京書籍館は閉鎖することになった。しかしその運営を東京府が申し出たため、3月28日、文部省は書籍館を東京府に引き渡しを決定し、永井久一郎は、諸準備を終えて、5月4日正式引き渡しとなった。この蔵書が完全に今日の国立国会図書館に引き継がれているのは東京府のおかげであり、また永井久一郎の尽力によるものが大きい。 

 東京府に引き取られた書籍館は、東京府書籍館と改称されて、5月5日開館となった。明治10年12月7日に専任館長としてニ橋元長が幹事(館長職)に任命され、翌11年11月19日学務課の所属となってその体制をととのえた。次いで明治12年4年9日には、岡千仭が2代目幹事として着任した。永井久一郎は内務書記官となり、明治17年ロンドン万国衛生博覧会に事務官として出張し、デンマーク万国衛生会議委員となる。

 永井久一郎著作目録
汽機学(訳書)  文部省  1885
衛生二大工事 巡欧記実 忠愛社 1887
西遊詩
西遊詩 続編 来青閣 1902
雪炎百日吟稿 1905
観光私記 1910
来青閣集 1913

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コメント

永井久一郎の著書に巡欧紀実「衛生二大工事目録」明治20年4月がある。

小松様、情報ありがとうございます。「衛生二大工事」は内務書記官として欧州を視察した報告書のようなものでしょうか。久一郎には7冊の著作があるが、「西遊詩」など漢詩の趣味があったようである。

永井久一郎に関係する書物として、
永井威三郎著「風樹の年輪」
秋庭太郎著「新考 永井荷風」などがあります。
また永井荷風の「禾原先生遊学日記」はもとは永井久一郎の著作です。
(永井威三郎は永井久一郎の三男、秋庭太郎は考証研究家で永井荷風を研究した)

神谷様、情報ありがとうございます。

最近出版された宮川公男著「統計学の日本史」(東大出版会)に数カ所、統計に貢献した人物として永井久一郎が参照されている。

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