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英語のことわざ。卑しいものが貴いものに従わねばならないという意味。
If the mountain will not come to Mahomet,Mahomet must go to the mountain.
あるときマホメットが山に向かい、自分のところに来るように命じた。しかし、山は動こうとしない。そこでマホメットは、みずから山の方へ歩いていったという。すなわち、山の偉大さにくらべて、マホメットという人物は卑小なものである。だから、山を自分のそばに呼びたいと思うならば、自分みずからが山の方へ歩いて行かなければならないという意味である。この話は、19世紀のイギリスの作家フロレンス・マヤリットの「開け胡麻」にみえるもので、「コーラン」やマホメットの史料には見えない。
「マホメット山へ行く」は反イスラムが、もし彼が真の預言者であるならば、キリストが行なったような奇跡をおこすように要求したとき、マホメットは「自分の奇跡はコーランそのものである」といって、奇跡を行うことをかたく拒絶したという。この話はマヤリットが作り出した話ではなく、それ以前からこのような話が、ヨーロッパのキリスト教徒の間では広く伝えられていたようである。また、これから派世したもので、「山を動かす」という言葉もあり、これと同じような意味で使われる。古くは1625年のフランシスコ・ベーコンの随筆に似た表現が見られる。
世界で最初にボールペンを発明したのは1888年アメリカのジョン・ラウド Jhon Loud といわれる。しかしインク漏れが酷くとても文字を書けたものではなかった。1938年にハンガリーのラザロ・ビロ Lazlo Biro(1900-1985)が実用に耐えるボールペンを考案した。ラザロはブダペストで編集業をしていたが、ペン用の即乾性のインクがあれば便利だろうと思い、そこで考えついたのがボールペンの原型だった。その後、ビロはブエノスアイレスに移住したが、そこのエテンペル社が1945年から製造、販売したものが世界最初の市販ボールペンである。だがラザロはアメリカで特許をとっていなかったため、あるアメリカのビジネスマンが1946年ニューヨークで発売して全世界に広がっていった。
「ビューティーコロシアム女芸能人ダイエット」で大場久美子が朝ホットヨーグルトとクーガーダンスで-4.5㎏の減量に成功する。なぜ朝ホットヨーグルトなのか。ダイエット中は偏った食生活からカルシウム不足になることが多い。温められたヨーグルトは腸管の機能を向上してカルシウムの吸収率を向上させる。方法は市販のプレンヨーグルト120gを電子レンジで約30秒温める。朝食以外の昼食と夕食は、好きなメニューを腹八分目までなら何を食べてもよい。ただし間食とアルコールは控える。またヨーグルトは1日120g以上食べてもダイエット効果は変わらない。実際に食べてみると温めたヨーグルトはかなり不味いがガンマしなければならない。
ドラマ「赤穂浪士」(大佛次郎原作、1979年)では、山村聡が千坂兵部に扮し、重厚な演技をみせている。義士討ち入りのとき、実父吉良義央を助けるために出兵しようとする上杉綱憲を押しとどめる。だが実際には刃傷事件のとき(1701年)には千坂はすでに死んでいた。(元禄13年、1700年没) 千坂兵部の名前は大佛次郎の筆によって有名になったのだろう。最近の忠臣蔵では色部又四郎に代わっている。ところが本当に上杉綱憲を押しとどめた人物は、稲葉丹後守正通とも、畠山義寧(1664-1746)とも言われている。
寺田寅彦(1878-1935)は幼いころ病弱であったため、医者は牛乳に少量のコーヒーを香り用として混ぜて与えた。そのため、物理学者となり、東大の研究所で働くようになってからも、壁には「好きなもの イチゴ 珈琲 花美人、懐手して宇宙見物」とローマ字で貼っていた。
寅彦は病気のため1年以上全くコーヒーを口にしなかった。ある秋の日、久しぶりで銀座でコーヒーを一杯味わった。そうしてぶらぶら歩いて日比谷までくるとなんだかそのへんの様子が平時とは違う。すべてのものが美しく明るく愉快なもののように思われ、この世の中全体がすべて祝福と希望に満ち輝いているように思われた、とコーヒーの効用を書いている。そして宗教は官能と理性を麻痺させる点で酒に似ていて、哲学は官能を鋭敏にし洞察力と認識を透明にする点でコーヒーに似ている、とも書いている。(参考:寺田寅彦「コーヒー哲学序説」)
(徳川)慶喜を「ヨシノブ」と読むことは小学生でも知っている。だが手元の漢和辞典で「慶」を調べても「ケイ」「キョウ」とはあるが、「ヨシ」とは出ていない。人の名前に使われる特別な読み方を、「名乗り(なのり)」という。頼朝、正成、家光の朝(トモ)、成(シゲ)、光(ミツ)も特別な読み方である。「お言葉ですが…」で知られる高島俊男もなぜ「朝(とも)」と読むのか分からないと書いている。つまり名乗りは長い間の慣用的な読み方でいまでは理由を説明することは学者でも困難な場合が多い。現行法では人名に使用する漢字は制限されるているが、読み方は戸籍に記載されないから、自由に読んでよいとされている。徳川慶喜は現行の法体系以前の人物だから、関係ないのだが、仮に、現在でも「慶喜」と書いて「ヨシノブ」と読ませることに、何ら支障はない。ただし、読みは自由といっても、100人のうち99人までが読めない命名は避けたほうがいい。人名読み方の基本や名乗り事典にある範囲内にとどめるべきだろう。ちなみに徳川慶喜自身は「けいき様」と呼ばれることを好んだといわれる。「ヨシノブ→世忍ぶ」という音韻連鎖を嫌ったのだろうか。
NHK大河「八重の桜」鳥羽伏見の戦い。敗色濃厚と知った慶喜は戦わず江戸に逃げる。敗戦の責任は慶喜の江戸帰還を進言した神保修理ひとりが負い自害する。
近藤勇の差料が虎徹であったことは巷間よく知られているが、その刀は偽物だっという話もある。「虎徹を見たら偽物と思え」というほど贋作が多いことで知られる。
近藤から虎徹の刀をもってくるように言われた道具屋が、幕末の名工源清麿の刀の銘を、鍛冶平こと細田平次郎に潰させ、偽銘を切らせて持参したところ、刀の判らない近藤は大いに喜んだというのである。近藤は「下拙刀は虎徹の業物なりし故哉、無事に御座候」と書簡でも述べているように、あくまで本物と信じていた。池田屋事件のように清麿も本物に勝るとも劣らぬ切れ味を発揮したようだ。
越前の長曽祢鍛冶集団の一人虎徹興里(1596-1678)は、江戸に出て和泉守兼重に入門し、甲冑師から刀鍛治に転じた。明暦頃のことである。虎徹は抜群の切れ味のよさによって一世を風靡した。
慶長17年(1612)、山田長政22歳のとき同郷の貿易商人に頼んで朱印船に乗りシャムに渡ったと言われる(慶長16年説ほか有り)。長政は多くの功をたて、国王ソンタムの信任を得た。1628年11月、ソンタム王の死後に起こった内乱に、長政は反乱軍を鎮圧し、王子を即位させたが、その後、王族の1人で王位を狙うオヤ・カラホムは長政を遠ざけるため辺境のリゴール(六崑)の太守に任じた。1628年、長政は任地に赴いたが、パタニ軍と対戦して負傷した。傷口に塗った毒薬のため、1630年夏に死亡した。だが長政に関する日本側の記録には一級史料は少ない。死後だいぶん経過した伝聞が多い。タイ側の史料にでてくる官職名「オークヤーセーナーピムック」(Oya Senaphimok)を授けられた日本人を山田長政と見なしているだけである。1983年には朝日新聞に「山田長政は実在したか」(矢野暢)という記事が出た。矢野は日本の南進政策によって作られた虚像としている。だが最近タイでも「ヤマダ アユタヤの侍」(2010年)という映画も作られた。生地の沼津でも山田長政ゆかりの催しが検討されているのだろうか。
紫式部(979?-1016?)と清少納言は同時代の女流文学者だがどちらが年上だろうか。ともに生没年不詳だが、清少納言は966年に生まれ、治安・万寿年間(1021~1027)に没したとあるから、清少納言が先に生まれ長く生きたらしい。
紫式部の生家は、父方は藤原冬嗣の六男良門を遠祖とする名門で、同門の中に文人・歌人が多く出ているし、父為時は詩文において当代一流の名手であり、兄惟規は歌人として知られていた。母方は藤原冬嗣の一男長良を遠祖とする名家で、母は藤原為信のむすめである。
紫式部は生まれつき鋭い頭脳をもち、記憶力に富んでいた。「紫式部日記」によると、幼いころ兄の惟規よりも早く史記を聞きおぼえたので、父の為時は「この子が男であったらなあ」と嘆いたという。式部は天元元年頃に生まれ、長保元年、22歳のとき、48歳くらいであった藤原宣孝と結婚し、翌年一女大弐三位を生んだが、長保3年には夫宣孝と死別した。その後6年間は父の邸で寡婦生活を送っていたが、寛弘4年、式部30歳のとき、藤原道長に見出されて、一条天皇の中宮上東門院彰子に仕えた。式部の没年については諸説があるが、長保5年頃に39歳くらいで没したとするのが通説である。
「源氏物語」の成立事情についても不明な点が多い。夫宣孝に先立たれてから、つれづれの寡居の日々に、自身の内的欲求に駆られて筆を染めたのであろう。「紫式部日記」寛弘5年(1008年)11月1日の記事によれば、道長の土御門邸で敦成親王の誕生50日の祝宴が催された。この折、酒に酔った藤原公任が、「あなかしこ、このわたりにわか紫やさぶらふ」と戯れかかったのを、式部は「源氏にかかるべき人も見え給はぬに、かの上は、まいていかでものし給はむ」と聞いていたという。次いで旬日を経た同日記には、内裏還啓を間近に控えた中宮のもとで、頻りに冊子作りの営まれていた模様が見える。従ってこの頃、「源氏物語」の殆ど、或は少なくとも「若紫」を含む第一部は完成し、宮廷人士の間でかなり評判になっていたと見てよかろう。
源氏物語」は世界最古の長篇小説とよく言われるが、千年にわたって詠み継がれてきたこになる。参考書には、岩波書店「日本古典文学大系」の「源氏物語」があり、注釈書には、金子元臣「源氏物語新解」、吉沢義則「対校源氏物語新解」、池田亀鑑「源氏物語新講」、島津久基「源氏物語講和」など。現代語訳では、与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、村山リウ、田辺聖子、瀬戸内寂聴など。
古今集巻2の春下(113)に「題知らず 小野小町」とある歌。「小町集」にも「花をながめて」として入っている。
花のいろはうつりにけりないたづらに
我身よにふるながめせしまに
[現代語訳]美しい桜の色は、すっかりあせ衰えてしまったなあ。降り続く春の長雨をぼんやりながめながら、恋の悩みなどの物思いをしていた間に。
この歌は単に花のことを歌ったと見る説と、「花の色」を「容色」とする説と二説ある。古来多くの説が言っているのは「思う男のことにかかわって、物思いをして、空しく世を過ごすうちに、私の容色も衰えてしまったことだ」の意があるとしている。松田成穂は古今集春歌下には、うつろう花、散る花を15首まとめて撰入していることから、単に花のことを歌ったのだとしている。(「花の色は試論」金城学院大学論集31)小野小町は美人であったが、晩年はおちぶれて諸国を流浪したという伝説のため、この歌から容色の衰えを歌ったとする解釈が定着していったのであろう。
中江藤樹は幼い頃、母と離れ、祖父の家に住み込みで学問に励んでいた。しかし、母は病気がちで、離れて暮すようになってからも藤樹は母のことがますます心配であった。冬のある日、とうとう藤樹は良い薬が手に入ったので、祖父の家をこっそり抜け出し、母のお見舞いに行った。戸外でつるべ仕事をしていた母にその薬を差し出して、肩を抱いて家の中へ入ろうとする。ところが母は「おまえは学問をするために生れてきた人だ。母を訪ねる暇はないはずだ。すぐに帰りなさい」と、薬も受け取らず、家へも入れてくれず藤樹を追い返す。母に諭され、雪深い道をとぼとぼと帰っていく藤樹の後ろ姿を、母は涙しながら見送るのである。辛い別れでありながら、母親の子を思う気持ちを理解した藤樹は、その後勉学に励み、人々から「近江聖人」と呼ばれる立派な学者となった。
ボーリングは、弓とともに最も古い歴史をもつスポーツといわれている。ロンドン大学のフランダース・ペトリが古代エジプトの墓のなかから現在の競技用具に類似したものを発見している。古代ローマ時代には、単なるゲームのほかに、戦場へ出向く兵士の占いや宗教上の儀式に使われた。15世紀イギリスでは、ボールズbowlsまたはローン・ボールズlawn bowlsといわれた競技が発達した。芝生のうえにコートをつくり、直径約12㎝の木製のボールをジャックと呼ぶ白いボールを目標に約30mの地点からころがし、ジャックにあてるか至近距離に近づけて得点を争うのを原則とするものである。ボーリングbowlingの語がボールズという語を起源とするのは明らかであるが、競技の系統としてはむしろドイツに古くからあったケーゲルkegelというゲームに属する。これはボールをケーゲルという木製徳利形の物体にぶっつけて倒す競技で、中世ドイツ各地の教会で大いに流行した。マルチン・ルターもその熱心なファンで、ピンの数を9個に定めたのはルターである。ピンが9個あったのでナインピンズninepinsといわれ、日本では黒岩涙香が「九柱戯」と訳した。この競技が初期のオランダ移民によってアメリカに伝えられた。1840年代にはニューヨークを中心に流行し、19世紀末にピンの数が10本になると新しいルールが誕生し、全米に普及した。(Martin Luther)
NHK土曜ドラマ「足尾から来た女」を観る。北村有起哉が演じる社会主義者、石川三四郎(1876-1956)がドラマに登場するが自分のイメージと大きく異なる。谷中村から来たサチに、文字を教える交換条件にキスを要求する場面があるが、ドラマの演出上どうしても必要なのであろうか。キリスト者の石川がこのように軽薄な男とは思えない。石川と福田英子の関係もわからない。サチの密告で石川が検挙されるが、後にヨーロッパに渡り、第一次世界大戦を見て思想がかわる。つまり社会主義者→無政府主義→ゾラ、ドーデなどの翻訳家→東洋文化研究家とめまぐるしく変転する。古本屋などで石川三四郎の本は今でもよくみる。戦後生まれの私の書架にも石川三四郎の「東洋史百講」(1939年)がある。第1講が「地球の歴史」で地球が誕生したのが約20億年前、人類誕生が約30万年前(あるいは50万年前)として、ピテカントロブス、シナントロブス、ネアンデルタアル、スピイなどの化石人類の名がみえる。現代の知識では、はじめ水中に誕生した生命が陸上に進出し始めたのは約4億年前、最初の生命が誕生したのは約36億年前、地球誕生が約46億年前とする知識とは大きく異なるものの、この永い生命の歴史からみれば、人類の歴史はほんの一瞬にすぎないとする本旨には変わりない。ただしキリスト者である石川三四郎が容易に進化論を肯定するところなど興味深いものがある。第3講「原始文化」では、日本には旧石器時代といふものはない、始めから新石器を持って日本に来た、と考えてた。
18世紀プロシアの啓蒙専制君主・フリードリッヒ2世(フリードリッヒ大王、あるいはフレデリック大王)はベルリン郊外ポツダムに離宮を造り、サンスーシー(無憂荘)と名づけ、閑暇な日々を過ごしていた。ある日、この別荘で大王はいつものようにチョコレートを一杯飲もうとした。その時、ハンケチを忘れたことに気がついて寝室へ取りにいった。ところがその間に一匹の蜘蛛が天井から降りてきてチョコレートのカップの中に落ちた。大王はもどってきてそれを見て、取り替えるように料理番に命じた。すると銃声が鳴り響き料理番が倒れた。大王を毒殺しようとした料理番がばれたと思い自殺したのだった。「憂いなき」宮殿を建設した大王だったが、つねに暗殺の恐怖をだく孤独な人生だった。
水墨画で有名な雪舟等揚(1420-1506)は応永27年(1420)備中赤浜で生まれた。少年時代は故郷に近い井山の宝福寺(総社市井尻野)にあずけられ修行をした。小僧は修行をしないで、絵ばかり描いているので、和尚はおこって本堂の柱に縛りつけた。そして数時間のちに、たまたま通りかかった仲間の小僧がびっくりした。縛りつけられた、小僧の足もとに大きなネズミが今にも飛びかかりそうにしているではないか。小僧の報せで和尚があわてて飛んできた。大勢で本堂の床を踏み鳴らして追いはらおうとたが、そのネズミは動こうともしない。だがよく見ると、それは濡れた涙で板の上に描いたネズミだった。さすがの和尚もこれには驚いて、小僧の絵の才能を認めて、絵の修行が認められた。後に画聖となった雪舟の少年時代の逸話である。
北条時頼の母は、松下禅尼という。ある日、禅尼が息子の時頼を自分の家に招くことがあったので、部屋の障子の破れを手ずから切り張りしているのを見て、兄の安達義景が、召使にやらせるか全部張りかえるかしたらどうかと勧めると、「わたしも、時頼の招待のすんだあとは、さっぱりと張りかえようと思うけれども、今日だけはわざとこうしておくのがよいのです。物はなんでも破れている所だけつくろって用いるものであると、若い人に見習わせて、気をつけさせようと思うためです」と述べたという。
吉田兼好は『徒然草 第184段』のなかで「天下を治める道は倹約を根本とする。禅尼は女性ではあるが、聖人の心とあい通じている。天下を治めるほどの人を子として持っておいでになったことは、まことになみなみの人ではなかった」と感心し書きとめたため、今日まで倹約の名高い逸話となって伝わっている。
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元亀元年、柴田勝家が近江の長光寺城をわずかの兵で守っていたときの話である。六角承禎が数千の兵を率いて急襲した。勝家軍は、籠城策をとると、承禎は城の用水路を断った。水手をはばまれた勝家は、残る水をすべて大きな瓶(かめ)に入れ、「これで我らは、もはやあとがない。明日は決死の覚悟で打って出よう」と、大瓶を打ち割って必死の気合を兵たちに見せ示した。奮いたった柴田勢は、数倍の承禎軍を討ち破った。この時以来、柴田勝家のことを「瓶割り柴田」と呼ぶようになった。(参考:『歴史ものしり百科』三公社 1982)
赤垣源蔵は討ち入り直前にそれとなく別れを告げるため、芝の汐留にある兄の塩山伊左衛門宅を訪れたが、あいにく不在で、兄嫁が対面した。そのとき源蔵は今生の別れと思い、美服をまとっていたが、それを知らない兄嫁は苦々しく思い意見した。
「お身は浪人の身でありながらなぜ左様に着飾られるのか。内匠頭の一件以来、世人はお身らを腰抜けよ犬侍よと嘲笑して誰ひとり相手にせぬ。拙者ならではと思えばこそ、かように御忠告致すのだ」と苦々しげに言った。
源蔵は静かに「御忠告は身にしみてかたじけなく存じます。しかし本日は久しくご対面致しませぬので、ご挨拶に参上致しました。実は一両日中に少し遠方へ参りますので、それゆえ推参致した次第でございます」
兄嫁も別れの挨拶と知って酒肴を出すと、平素は酒を飲まぬ源蔵が、二、三杯はして帰った。三日後、吉良邸討ち入りを知った兄嫁は、「そうとも知らず、いらざる意見をしてしまった」と深く嘆き悲しんだという。
赤垣源蔵は「徳利の別れ」という巷説が名高く、講談、浪曲、歌謡曲などでは酒豪で知られている。降りしきる雪の中、別れを告げるため訪れたが、不在であったため兄の羽織に向かい決別の杯を汲んだという逸話であるが、この話は後世の創作で、源蔵は下戸であったといわれる。 (参考:「赤穂義士事典」赤穂義士事典刊行会)
明治29年4月13日、夏目金之助(漱石)は菅虎雄の斡旋で第五高等学校講師に着任した。校長は中川元、教頭は桜井房記、佐久間信恭、篠本二郎、杉山岩三郎、賀来能次郎、山川信次郎、内田周平、菅虎雄、羽生慶三郎、田丸卓郎、近重眞澄、中川久和、武藤虎太、長谷川貞一郎、中沼清蔵、大浦肇、黒本植、加藤晴比古、南部常次郎、黒木千尋などがいた。
漱石は着任して間もなく竜南会の端艇部長になった。当時、端艇部には吉田久太郎という腕力自慢の猛者がいた。久太郎は明治7年2月、福岡県筑前国宗像郡赤間に生まれる。端艇部を牛耳っていた久太郎が一つの事件を引起した。
その頃、日清戦争で分捕りたる大型のボート二艇を記念として海軍省から五高へ下げ渡されることになった。この二艇の船を引取るために、竜南会より佐世保に派遣して、久太郎が宰領として回航した。往路は無事であったが、帰路にこの記念船の修理のため某所に滞在中、徒然に乗じて一同盛んに飲食をなし、正当の支払の他に、百円たらず使い込んでしまった。弁済の道もなく、教師一同に救ってほしいという願いであった。吉田久太郎は日頃から職員間に人望ないため誰もとりあわない。そこで、赴任早々であるうえに、薄給であった漱石が、寝耳に水の事件であるにもかかわらず、全額を償い同時に部長を辞してしまった。漱石の責任感、義侠心、金銭に対する淡白な心情などが現れたる逸話であろう。
信長はある日馬揃えを催した。群臣武将が居並ぶ前を、多くの武将が行進する。その中にひときわ目立つ栗毛の名馬に跨る若武者一騎。手綱さばきも鮮やかに、まことに天晴れなる武者ぶりだ。信長も「あれなる者は」と問うた。「はっ。山内一豊にございます。」「何、一豊とな。あの貧乏な一豊がどのようにして、あのような駿馬を手に入れたのか。」これには秘められたる逸話があった。馬市で素晴らしい逸物を見つけた一豊は欲しいは山々だが買う金がない。無念に思いながら家に帰って妻に話をすると、妻は鏡台から黄金を取り出し、「夫の一大事の時に使えと嫁入りの日に母がくれたもの。これにて馬を」と言った。毎日の暮らしに心奪われず武士の面目をわきまえたる天晴れ貞婦の鑑と、信長もいたく感動して多くの褒美をあたえたという。(参考文献:「日本歴史図鑑」省光社)
本日は「逸話の日」。ヨーロッパ中世、錬金術師がアクァ・ヴィテ(生命の水)という蒸留酒(スピリッツ)を発明した。日本の焼酎、中国の白酒、ウオッカ、ジン、ビール、ウイスキー、ブランデーなどなど今では世界の酒が楽しめる。歴史上の人物と酒にまつわる逸話をあつめる。
歴史上で酒好きといえば陶淵明。その詩は「篇篇酒あり」といわれる。次いで李白。「李白酒一斗詩百篇」といわれる。三国志の英雄、張飛、トルコ建国の父ケマル・アタテュルクやエンゲルスも酒豪で知られる。だが世界史の英雄といわれる人物には意外と酒飲みは少ない。シーザー、チンギスカン、ナポレオン、マリア・テレジア,ヒトラー、毛沢東。みんな酒を好まなかった。ナポレオンやバルザックは酒よりもコーヒーを好んだ。
反対に西洋史のうえで最大の英雄アレクサンダー大王は、ふだんから常人より体温が高く喉がかわき、酒をよく飲んだ。画家ゴッホは飲酒によって絵を描く際に必要な興奮が得られると手紙に書いているから酒好きだったらしい。ベートーベンも酒好きだった。
日本史でも毛利元就、源義経、芭蕉は酒を飲まなかったらしい。芭蕉の道中行脚の掟に「好んで酒を飲むべからず」とある。門人の其角の大酒を芭蕉は戒めたという。上杉謙信や織田信長は酒豪だったらしい。ただし明智光秀は下戸。堀部安兵衛、赤垣源蔵が大酒飲みというのも作り話らしい。意外なところでは西郷隆盛、大久保利通、武市瑞山、近藤勇らもあまり酒は飲めなかった。夏目漱石は下戸な質だが、不安を癒すため飲んだビールは酒乱気味だった。
福島正則、雷電、良寛、山岡鉄舟、黒田清隆、伊藤博文、福沢諭吉、大町桂月、若山牧水など酒豪の逸話も多い。( keyword;aqua vitae,Caesar,Napoleon,Kemal Ataturk,Balzac )
竹中半兵衛重治(1544~1579)は、はじめ斎藤龍興に仕えたが、永禄7年、舅の安藤守就とはかり、白昼わずか16人で稲葉山城を奪って、数ヶ月後には龍興に返還した。その動機については、龍興の重臣斎藤飛騨守に櫓上から小便をかけられるという侮辱をうけた報復であるとも、龍興の重臣日根野備中守と舅守就との間に隙を生じ、日根野が安藤一族を討とうとしたため、その機先を制したものともいう。
竹中半兵衛は、そののち織田信長に仕え、羽柴秀吉に配属される。秀吉が近江浅井攻め最前線の横山城の城番となったさい、秀吉の留守に浅井長政の攻撃からよく城を守った。その後、秀吉の中国経略に従い、黒田官兵衛とともに軍師的な役割を担ったが、天正7年、播磨三木城包囲の陣中で発病。付城の平井山城で没した。 この間、黒田官兵衛が荒木村重の説得に失敗して幽閉されたとき、信長の命に違背して、官兵衛の人質松寿丸(のちの黒田長政)を菩提山城にかくまった話など、多くの逸話がある。(参考:『歴史読本』2005年8月号)
地中海に浮かぶコルシカ島には猫がたくさんいることで知られている。だがこの島で生まれて9歳までいたという英雄ナポレオンは猫が大キライだったそうだ。連隊長時代に壁に飾ったタペストリーの裏側に隠れていた猫を連隊旗で串刺しにして殺したという殺伐としたエピソードがある。おそらくナポレオンの猫嫌いは幼年時代のコルシカ島に始まると考えられるが、その理由は謎に包まれている。
酒は水で薄めたのを好み、たばこは「体に悪い」と吸わず、代わりにコーヒーをよく飲んだ。怒りっぽく、いつも神経をピリピリさせていたが、妻のジョゼフィーヌをこよなく愛し、その柔らかく、優しい声で疲れをいやしたことがよくあった。舞踏会などは苦手であった。読書家で睡眠は3時間というエピソードは有名だ。
1493年、クリストファー・コロンブスが第1回の探検で西インド諸島のキューバ島などを発見してスペインへ帰還した。このとき、盛大な歓迎会が開かれた。その席上「コロンブスでなくても誰でも西の海へ航海すれば新しい土地は発見できたわけだよ」というささやきを耳にした彼は、テーブルに並んだゆで卵を指して「皆さん、これを立ててごらんなさい」と言った。その場にいあわせた人々が卵を立てようと、いろいろ工夫してやってみるが誰ひとりとしてできなかった。「あまり難しいことではありませんよ。まあ、わたしのやるのを見ていてください」といい、コロンブスはゆで卵のはしを少したたいて立たせた。「なんだ、そうすれば誰でもできる、なんでもないじゃないか」と言いあって笑った。彼は「そうです。卵を立てるなどなんでもないことです。でも、あなた方は誰ひとりとして気がつかず、私だけが気づいたのです。最初にやるのが貴く、大切なのです」と言って笑った。「コロンブスの卵」の話は、発見、創造性というものの難しさを教えてくれる。科学者の中谷宇吉郎も「立春の卵」という随筆で、落ち着いて静かにやってみれば、10分ほどで卵は立つ、と書いている。いま大学では、目の前に横たわる卵を生徒であるとして、体育大学生に、躓いている生徒を指導して、「卵を立てる」ことを実践する、という面白い授業があるそうだ。
ミュージック・ホールの楽譜に描かれたマリー・ロイド(1890年)
ロンドンの下町に生れたマリー・ロイド(1870-1922)は1885年、15歳でミュージック・ホールでデビューするとヒットを連発して20歳前後には主なミュージック・ホールにかけもち出演するほどのトップ・スターとなった。その名声はロンドンだけでなく、パリ、ベルリン、ニューヨークさらにオーストラリア、南アフリカにまで及んだ。世紀末のイギリスを代表する三人の女性として、ヴィクトリア女王、ナイチンゲールと並んで彼女の名をあげる人もいるほどの著名人となった。だが1920年代の映画の時代の到来とともに多くのミュージック・ホールは衰退していき、彼女の栄光も人々の間から忘れ去られるようになった。1922年、マリー・ロイドは出演していた劇場の舞台で崩れるように倒れた。彼女が病んでいたことを知らなかった観客は、演技とばかり思いこんでいた。3日後に彼女の死去を告げる新聞売り子の叫び声に、ロンドンの繁華街の交通は一時止まったほどだったといわれる。
ジョン・F・ケネディは、1917年5月29日にマサチューセッツ州ブルックラインで、実業家ジョセフ・P・ケネディ・シニア、ローズ・フィッツジェラルド・ケネディ夫妻の次男として生れた。少年時代のケネディは体が弱い子だった。生まれつき背骨に障害があり、怪我をしやすく、しばしば激痛に襲われた。1930年、13歳のケネディはカトリックの寄宿学校カンタベリー・スクールに入学したが体調不良になり、1年後に家に送り返された。父はケネディを兄の在籍していたチョート校に転校させた。しかし、もともと兄に対して激しいコンプレックスを持っていたケネディにとってチョート校での日々も楽しいものではなかった。チョート校の寮監先生は、ケネディの父親にこんな手紙を書いている。
「息子さんは土壇場にならないと勉強しませんし、約束の時間も守りません。ものに対する価値感覚がほとんどなく、自分の持ち物の置き場所もわからなくなります」
成績はどん底で、ラテン語に至っては落第している。勉強する気にさせることはとうてい不可能と思われた。良い成績を取ると、父親はヨットだのヨーロッパ旅行だの馬だのといった高価なものを買い与えたが、いったんプレゼントが手に入ると、また逆戻りだった。結局、未来の大統領は、112人中64番という成績でチョート校を卒業している。それでも卒業時のクラス投票では、「将来最も成功しそうな人」に選ばれた。
アーダルベルト・シュティフターの『晩夏』という小説は、読まれることが少ないのに、かなり有名な作品である。その理由は、この小説の評価がほとんど極端と言っていいほど、賛否両論に分かれているからである。シュティフターと同時代の劇作家フリードリッヒ・ヘッベルは、この小説を終わりまで読み通した人には「ポーランドの王冠を進呈しよう」と酷評したが、ニーチェは、繰り返して読むに値する僅かな作品の一つとして、「ドイツ文学の宝」と推賞した。ガストへの手紙では、ゲーテの「獅子のノヴェレ」のように「爽快で治癒力があり、愛情細かく、明るく晴れやか」といわれ、オーヴァーベックらにも再三これを読むよう奨めている。ベルトラムはニーチェのシュティフターへの共感を、秋の至福への思いやその中の教育的情熱からのものとしている。 しかしながらニーチェが、自らとは本質的に異質なシュティフターをこのように高く評価するのは、いかにも不可解と疑問視している学者もいる(「ニーチェ事典」山本尤)。それは、当時のニーチェのすべての文学評価を支配していたのは、ゲーテとワーグナーという二項対立的芸術家類型で、ピトレスク風で大仰なデカダンスのワーグナーに対する失望の間接的な表現として、その対極のゲーテとの近親性でシュティフターが持ち上げられたのではないかと山本は推測している。
高橋新吉(1901-1987)は、明治34年1月28日、教師・高橋春次郎、マサの二男として、愛媛県西宇和郡伊方村小中浦(現・伊方町)に生まれる。新吉6歳のとき、父が鉱山会社に勤務し、八幡浜へ移転する。新吉11歳のとき、母マサが亡くなる。新吉13歳のとき、八幡浜商業学校(現・八幡浜高等学校)に入学する。その後、父が後妻を迎えたため、新吉は卒業間際の大正7年2月、無断で上京するが、数ヵ月後郷里に帰る。その年の春、二度目の上京のときは、チフスにかかり行路病者として養育院に収容され、2ヵ月後に帰郷。大正9年、「万朝報」の懸賞短編小説に「焔をかかぐ」が入選した。そして8月15日、同紙掲載のダダイズムの紹介記事を読み、強い衝撃をうけた。ルーマニアの詩人トリスタン・ツァラの「ダダ第一宣言」である。翌大正10年2月、郷里の真言宗出石寺に入り、8ヵ月の修業の後三度目の上京をする。大正10年12月ガリ版で「まくはうり詩集」を60部作って、知人に配った。それを持って辻潤を訪ねた。そして大正12年には「ダダイスト新吉の詩」が刊行され、その強烈な破壊的精神で注目されるようになった。しかしこの詩集は辻潤が新吉に無断で出版したものであった。そのとき八幡浜の警察の留置所にいた新吉は、この詩集を受け取って破り捨てたという。書名も辻が勝手に決め、杜撰な編集でノートの書きさしや未定稿の詩が混じっていて誤植が多かった。このように高橋新吉は、ダダイスト詩人として紹介されるが、その後の彼はダダとは訣別し、心の病を禅修業により克服し、悟りを得た。「私はダダは初歩的な禅の亜流に過ぎないと思っている」(日本のダダ)と言っている。昭和62年6月5日、高橋新吉は86歳で亡くなったが、詩集のほかに小説集、仏典研究、美術評論集も多い。
広辞苑に載っている言葉。「屹度馬鹿(きっとばか)」意味は「外貌はいかめしく立派であるが、内心の愚かなこと。また、その人。利口そうに見えながら、実は馬鹿な人」
山田洋次の「東京家族」を昨夜テレビで観た。リアルタイムでも視聴者の感想は「感動した」「泣けた」という声が多い。昨今は「感動した」「泣ける」が映画の高い批評となっている。だが作品そのものは小津作品のムードではなく、伝統的な大船調のホームドラマ的な印象を受ける。通俗的に受けはいいものの、小津のような芸術的な香りはない。戦争の傷跡の代わりに東日本大震災を使ったことも安易な感じがする。前作では原節子が戦争未亡人だが、現代に置き換えて、震災ボランティアで妻夫木と蒼井が知り合ったという設定になっている。つまり戦後の家族崩壊というテーマよりもむしろ震災後の希望と再生が大きなテーマになったといえる。やはり「東京家族」は「東京物語」とは全く異なる作品とみるべきだろう。
作家が小説の題名をつけるとき、どのような思いが込められているのかさまざまであろうが、漢字一文字という場合はことさらに印象が強い感がある。すぐに思いうかぶ作品は、芥川龍之介「鼻」、夏目漱石「門」、森鴎外「雁」の三作品。それから山本有三の「波」「風」、長塚節「土」、島崎藤村「春」、谷崎潤一郎「卍」「鍵」、カフカ「城」。室生犀星「蝶」、志賀直哉「兎」、上林暁「野」、三島由紀夫「剣」、司馬遼太郎太郎「峠」、竹西寛子「蘭」、中上賢次「岬」、富田常雄「面」、藤井重夫「虹」、河野多恵子「蟹」、丹羽文雄「顔」、宮尾登美子「蔵」「櫂」。綱淵謙錠には「斬」など48作が漢字一文字である。夏目漱石の「こころ」は自身が装幀した単行本の箱の背には「心」と漢字一文字である。
ヒッチコックのサスペンス映画には美女が登場する。ジョーン・フォンテーン(レベッカ、断崖)、テレサ・ライト(疑惑の影)、イングリッド・バーグマン(白い恐怖、汚名)、グレース・ケリー(ダイヤルMを廻せ、裏窓、泥棒成金)、キム・ノバク(めまい)、ジャネット・リー(サイコ)、ティピー・へドレン(鳥、マーニー)などが代表的である。助演だが「鳥」のスザンヌ・プレシェットや「マーニー」のダイアン・ベーカーも加えてもいい。スザンヌ・プレシェットは惜しくも他界したが、ダイアン・ベイカー(画像)は75歳で現在もプロデューサーとして活躍している。目鼻立ちのはっきりした美人だが、映画では比較的地味で、ドラマ「逃亡者」最終回でキンブル医師と結ばれるジーン・カーライル役が印象に残る。
映画「マーニー」はマーク(ショーン・コネリー)が経営する出版社に求人広告をみてやってきたマーニーは女泥棒だった。マークはそれを知りつつ彼女を雇い、やがて2人は結婚する。マークは彼女の犯行が一種の発作であり、その真因が子どものときに受けたショックにあるとつきとめる。赤い恐怖は売春をしていた母親の客を殺した血の色だった。ダイアンの演じるリルはマークの亡くなった妻の妹役で、マークとマーニーの恋路を邪魔するという役どこだった。
無能な大臣。唐代、宮中に毎日出勤する高官には食事を賜った。そこで、会食をするだけで、実力も実権もない大臣を、あざけって「伴食大臣」と言った。
チッタゴンはダッカに次ぐバングラデシュの第2の都市であり、最大の海港である。人口は350万人を超え、横浜市くらいある。第2都市とは、国家・地方など、ある特定の範囲内において、第1都市に次ぐ都市のこと。アジアにおける第2都市を人口を基準としてあげてみる。
カンダハール(アフガニスタン)
アブダビ(アラブ首長国連邦)
アデン(イエメン)
エルサレム(イスラエル)
バスラ(イラク)
マシュハド(イラン)
デリー(インド)
スラバヤ(インドネシア)
サラーラ(オマーン)
釜山(韓国)
シアヌークビル(カンボジア)
開城(北朝鮮)
ジッダ(サウジアラビア)
アレッポ(シリア)
キャンディ(スリランカ)
チエンマイ(タイ)
高雄市(台湾)
北京(中国)
アンカラ(トルコ)
バクタプル(ネパール)
ラホール(パキスタン)
ラマラ(パレスチナ自治区)
セブ(フィリピン)
パロ(ブータン)
トゥトン(ブルネイ)
ハノイ(ベトナム)
ジョージタウン(マレーシア)
マンダレー(ミャンマー)
ダルハン(モンゴル)
アカバ(ヨルダン)
ルアンパバーン(ラオス)
トリポリ(レバノン)
(Chittagong)
永井荷風(1879-1959)は、明治12年12月3日、東京市小石川区金富町45番地(現在の文京区春日2-20-25)に永井久一郎、恒(つね)の長男として生まれた。父・永井久一郎(ながいきゅういちろう、1851-1913)は後年の官僚・実業家としての経歴以外に、禾原(かげん)と号し漢詩人として知られ、若い頃は明治初期の公共図書館のはじめである書籍館の運営に尽力したこともある。母・恒は尾張藩儒学・鷲津毅堂(1825-1882)の長女であり、荷風は鷲津の家系であることを誇りにしていた。
永井久一郎は愛知県愛知郡鳴尾村(:現在の名古屋市南区)に父・永井匡威、母よねの長男として生まれた。永井家は製塩業などを営む豪農として知られていた。名を永井匡温(ながいまさはる)といい、尾張藩儒の鷲津毅堂に漢学を学び、森春涛から漢詩を学び、箕作麒祥に英語を学んだ。
明治4年7月父の死去にともない、久一郎は家督を二男の永井松右衛門に譲り、名古屋藩の貢進生として渡米し、ラトガーズ大学グラマー・スクールで勉学する。帰国後の明治7年、工学寮二等少師となり、ついで文部省に9等出仕として、東京書籍館(帝国図書館の前身)に配属される。明治8年4月、文部省は書籍館を浅草から湯島に再び移転し再開したが、館長の畠山義成(1842-1876)は病気となり、8月2日、8等出仕永井久一郎は書籍館館長補に任ぜられる。畠山は翌年10月、渡米の船中で客死している。
明治10年2月15日に西郷隆盛が西南戦争を起こしたため、明治政府の財政を圧迫し、経費削減のため東京書籍館は閉鎖することになった。しかしその運営を東京府が申し出たため、3月28日、文部省は書籍館を東京府に引き渡しを決定し、永井久一郎は、諸準備を終えて、5月4日正式引き渡しとなった。この蔵書が完全に今日の国立国会図書館に引き継がれているのは東京府のおかげであり、また永井久一郎の尽力によるものが大きい。
東京府に引き取られた書籍館は、東京府書籍館と改称されて、5月5日開館となった。明治10年12月7日に専任館長としてニ橋元長が幹事(館長職)に任命され、翌11年11月19日学務課の所属となってその体制をととのえた。次いで明治12年4年9日には、岡千仭が2代目幹事として着任した。永井久一郎は内務書記官となり、明治17年ロンドン万国衛生博覧会に事務官として出張し、デンマーク万国衛生会議委員となる。
永井久一郎著作目録
汽機学(訳書) 文部省 1885
衛生二大工事 巡欧記実 忠愛社 1887
西遊詩
西遊詩 続編 来青閣 1902
雪炎百日吟稿 1905
観光私記 1910
来青閣集 1913
NHK平日昼に放送している連続クイズ・ホールドオンが3月末で終了するらしい。フランスの人気番組をベースに一般市民が参加する本格的クイズ番組だった。チャンピオンとなって勝ち続けると何回でも出場を続けることができる。物知り博士として有名になり、写真が飾られる。賞金はなく栄誉のみ。やはり申し込み者が少ないのは魅力的な賞品がないことであろう。公共放送としての限界がある。この番組を楽しみにしていたのは、クイズで新しい知識を得ることができたことにある。また自分がどのようなジャンルに弱いかがわかる。20代から50代の自分より若い世代が多く、趣味も多様であることも楽しみの一つ。旅行やスポーツなどさまざまな活動をしながら現代をアクティブに生きている。また家族が揃って応援している光景も楽しい。気になることもある。出場者の個人プロフィールを過剰に演出するあまり、ウザイと感じる視聴者もいるだろう。かつてのクイズ番組「アップダウン・クイズ」などは簡単な紹介だけで、10問正解するとハワイに行けた。家族が応援することもないし、趣味を聞かれることもない。ホールドオンは個人をさらして、簡単な問題に答えることができず、敗北感だけが残る。参加者が少ないのは、つくり笑いをさせられて、敗北感だけが残り、賞金なし、というのが本当の理由ではないだろうか。
いよいよ面倒な確定申告の時期が近づく。高齢者などの公的年金を受給されている方は確定申告が不要になる場合がある。①公的年金等の収入金額の合計が400万円以下②公的年金等に係る雑所得以外の所得金額が20万円以下。しかしながら所得税の確定申告書の提出義務のない方は、原則として市町村へ住民税の申告書を提出する義務がある。一般にあまり知られてないが、実は「住民税の申告が必要」なのでとくに注意する必要がある。もし住民税の申告をしていなければ、高額の住民税や国民保険料の請求が届いてたいへんおどろくことになるので必ず届出は済ませておこう!住民税(市・県民税)の申告に必要な書類は、①申告書、②印鑑、③年金や給与の源泉徴収票、④生命保険料・社会保険料等の支払証明書、医療費の領収書、障害手帳等。
220年のこの日、魏の曹操は65歳で没した。曹操は蜀の先主劉備、呉主孫権に較べて甚だ不人気な人物である。それらは専ら「三国志演義」などの語り物や芝居の世界から来るものであろう。しかし、歴史上の曹操は、ながい中国の歴史の中でも、ほかに見出しがたい稀代の英雄である。その曹操の陵墓とみられる「高陵」(河南省安陽県安豊郷西高穴村)の発掘調査が行われた。中からは、200点以上の金銀や鉄、銅などの埋葬品や鉄剣が見つかった。曹操の墓であるとする碑文も出土し、「高陵」が曹操の墓と断定された。曹操は「建安25年正月、洛陽に崩ず。年66」と三国志に記されており、「棺におさめる時には平服を用い、金銀の珍宝を入れてはならぬ」という遺命を残して死んだと伝えられており、歴史文献と考古学出土文物との整合性が興味あるところとなっている。しかし、墓は盗掘されており、観光地化を狙った地元のでっち上げではないかという声もある。そこで中国全土の「曹」の姓をもつ男性から血液を採取して、墓から出た遺体のDNAと比べて科学的に検証するという。はたして曹操の墓は本物か?
①虎魚
②大蒜
③白膠木
④慈姑
⑤菠薐草
⑥凌霄花
⑦石蓴
⑧縋りつく
①おこぜ、②にんにく、③ぬるで、④くわい、⑤ほうれんそう、⑥のうぜんかずら、⑦あおさ、⑧すがりつく
1993年のこの日、永遠の妖精オードリー・ヘップバーンは、結腸ガンのため63歳でスイスで永眠した。死後20年経ても今なおファンに愛されるオードリー・ヘップバーン。NHK「永遠の妖精オードリー」で女優の松下奈緒がオランダ、フランス、イタリア、スイスを旅する。オードリーは2度結婚している。最初の夫は俳優のメル・ファーラー。1960年に長男のショーン・ヘプバーン・ファーラーが生れる。2度目はエーゲ海クルーズの際に船上で知り合ったイタリア人精神科医アンドレア・マリオ・ドッティ。1970年にルカ・ドッティが生れる。番組でルカが母オードリーの思い出を語る。料理はトマト・ソースのスパゲッティ。チョコレートのタルト。ローストチキン。そしてオードリーの形見の椅子を披露する。「花は必要」(1974)という童謡が想い出。そして松下は晩年住んだスイスのペジーブルを訪ねる。村人はいまでもオードリーの思い出を楽しそうに話す。ガーデニング、犬と散歩、青空市、家族、スイスでの生活は静かで幸せだった。晩年はロバート・ウォルターズというオランダ人俳優と同棲していた。彼はマール・オベロンの最後の夫でもある。
樋口一葉の父、樋口則義(1830-1889)は小前百姓樋口八左衛門、ふさの長男として甲斐の国山梨郡中萩原村(現:甲州市塩山)に生まれた。幼名を大吉、後に大輔、八十吉、八代吉、八十之進、為之助などと称した。農業より学問を好んだ。一葉の文学的素質はおそらく父の影響であろう。侍になりたい志をもち、江戸にのぼり、菊地大助という旗本の家に入り、のちに八丁堀の与力・浅井竹蔵の株を買って幕臣となった。大吉が武士でいられたのは1年足らずだった。明治維新後、横滑りのような形で東京府記録方に勤務。東京府庁、警視庁での大吉の官位は最後まで九等官で終わった。最初の月給は10円、明治20年の警視庁退職時は25円だった。明治22年、則義は荷車請負業の事業は失敗し、失意のうちに死亡した。享年60歳。
「日漢辞典」(商務印書館)を見ていると、「削友達(けずりともだち)が載っている(2398p)。意味は「飲酒(東京木匠的行話」とある。つまり江戸期の大工の隠語で「酒」、「酒飲み仲間」のこと。日本人でも知らない言葉が中国の辞書にあることに驚く。
「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出す。そしてスペイン人は、走ってしまった後で考える」 行動・思考・情熱の三要素を軸に国民性を見事に比較したのは評論家サルバドール・デ・マダリアーガ(1886-1978)の名言である。▽「アメリカがくしゃみをすれば日本が風邪をひく」といわれるが、もともとは「スペインがくしゃみをすればヨーロッパが風邪をひく」だった。16世紀前半、カール5世、フィリップ2世治世下における最盛時代のスペインについて言われる諺であるが、元来は「スペインが動けば世界はふるえる」と言ったのをおもしろくひねったものらしい。▽「スペインに城を建てる」スペインは憧憬の国だったので、外国人からみてスペインに城を建てることは、他愛もない実現不可能の計画なので「空中に楼閣を築く」という意味である。▽「ピレネーからアフリカが始まる」スペインはヨーロッパにあってもどこか異国風である。乾いた不毛の大地、刺すように照りつける太陽、ローマ帝国やムーア人の侵入と支配により残された特異な文明である。
▽「ジブラルタ・ロックのように安心」ジブラルタ生命のコピー。イベリア半島の南端、地中海と大西洋と結ぶ狭いジブラルタル海峡は、古来から軍事上の要衝地。1713年のユトレヒト条約によってイギリスの手中に帰したものだが、以来イギリスはスペインの度重なる返還要求を頑として拒み続けている。▽毎年8月下旬に「トマティーナ」と呼ばれるトマトを投げ合う祭りがブニョールで開催される。(雑学)
AKB48SHOW新年1回目は完全密着「紅白舞台裏」。大島優子が突如の卒業を発表。AKB48という国民的アイドルは知っているつもりでも知らないことが多い。AKBがホームグラウンドの秋葉原の略称であることはよく知られているが、数字「48」をメンバー48人と誤解されることがある。正規メンバーが48人程度で活動していた時期が長くあったが、メンバー数は固定ではなく、一軍24人、二軍24人という目安で、現在は正規メンバーと研究生を合わせて87人、NMB48など姉妹グループを合わせると総勢300人を超す大所帯となっている。結成当初の事務所社長がoffice48の芝幸太郎といい、姓のシバ(48)から名付けられたといわれている。
「名古屋から那覇です」聞きなれたフレーズである。NHKニュース土日の気象キャスター、寺川奈津美。全国16の主要都市の週間天気を紹介する。札幌から東京まで、次いで画面が変わり「名古屋から那覇です」という。16都市を暗記しようとしたができなかった。ネットで調べて札幌、釧路、秋田、仙台、新潟、金沢、長野、東京、名古屋、大阪、松江、広島、高知、福岡、鹿児島、那覇。暗記力が弱くて16都市も記憶できない。東京23区は千代田区、中央区、港区、新宿区、文京区、台東区、墨田区、江東区、品川区、目黒区、大田区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、練馬区、足立区、葛飾区、江戸川区。原口證は2006年に円周率10万桁の暗唱に成功したという。3.14159265・・・と無限に続く。円周率10万桁の暗唱は無意味にも思えるが、ポピュラーな暗記物は何か。子丑寅卯辰巳午未申戌亥も漢字で正確に書くのは難しい。家康、秀忠、家光、家綱、綱吉、家宣、家継、吉宗、家重、家治、家斉、家慶、家定、家茂、慶喜と徳川十五代将軍も暗唱は難しい。
記憶の種類は手順記憶、恐怖記憶、エピソード記憶、意味記憶の4つに分けられる。手順記憶は楽器の演奏、自転車の乗り方など、繰り返しからだでおぼえる。恐ろしい体験のような心のおくで深く傷ついた記憶は篇桃体がたくわえている。自分の経験にもとづいたエピソード(物語)記憶は海馬で情報を記号化したあと大脳皮質のいろいなところにたくわえる。地図の上の地名、人名、食べ物の味など、いろいろな知識は大脳の側頭葉の大脳皮質で記号化され、取り出すときは前頭葉がはたらく。
どうちょうとせつ。論語に、「道に聴きて塗(みち)に説くは、徳をこれ棄つるなり」とある。道端で聞いたことを、すぐにまた他人に向かって説いて聞かせるのは、よいことを聞いても、深く考えて自分のものにせず、そのまま人に話してしまうことを戒めたことばである。
イングランド南東端の断崖ドーヴァーには早くから城砦が築かれたが、ローマ軍が撤退したのちはアングロ・サクソン人が引き続いてここに城郭を構えた。1066年10月14日、ノルマン王ギョームが対岸のノルマンディから海岸を渡ってイングランドを制圧しようとするや、これを察したイングランド王ハロルドは1064年にドーヴァー城をいっそう強化して待機したが、ノルウェー軍との交戦中に不意をつかれて別の場所に上陸されてしまった。あわてて引き返して応戦したもののハロルドは敗死してしまい、その後は、征服王ウィリアム1世(ギョーム)によるノルマン朝の時代に入る。ウィリアム1世は、この港町を重視してドーヴァー城の防備を厳にした。だが、ドーヴァー城が今日みられるように整備されて高度の城郭となったのは、プランタジネット朝の初代、ヘンリー2世(在位1154-1189)の時代である。中心をなすキープからこれを取り巻く城壁や空濠、塔や城門までが完全に残っており、ドーヴァー城はイギリスを代表する古城である。
9回裏ツーダン満塁。猛追するもあと一歩及ばず、惜敗。野球に限らず「あと一歩及ばず」ということはよくある。一番違いのハズレ宝くじ。入学・就職も一番差で落第・不採用になる。先日の芦屋市議選挙で1票差で落選した議員が異議申し立てをしているそうだ。むかし滋賀県琵琶市議選でもやはり1票差が問題となった。1票差で落選した松田候補が、最下位で当選した孫候補が得た「ハゲ」と書かれた票は無効だとして訴えたのである。2人の頭皮を検査したところ、松田は見た目でわかる「ハゲ」だった。だが孫は「ハゲ」を隠してカツラをしていた。どちらが本当の「ハゲ」であるかをめぐって裁判沙汰となった。判決は「ハゲは一般的には松田候補を指すものと見られるが、両者の現実的な頭髪状態を考えると、どちらを指しているかは不明確である」として原告の訴えを認め、投票の無効を命じた。
禿の判定はさて置き、「あと一歩」がリサーチャーには大切なことである。参考奉仕において重要なポイントは手抜きせず、粘り強く深く調べ続けることである。「あと一歩、あと一歩」と念じながら。
レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザは、ルーブル美術館のほかにもう一枚が存在したという。イギリスのサマセットの貴族の家から発見された「アイルワースのモナリザ」ではない。アイルワースは現在多くの美術史家はダ・ヴィンチ自作に否定的な見解を示している。イタリア文化遺産委員会シルヴァーノ・ヴィンチェッティ会長がBS朝日の番組「滝川クリステルのフィレンツェ紀行 もう1枚のモナリザとダ・ヴィンチの謎」で公開した絵画は2010年ロシア人のコレクターが所有している絵画である。このモナリザはルーブルと非常によく似ているが、背景に2本の柱がある。ダ・ヴィンチのモナリザの瞳の瞳孔には、裸眼では見えないが、右眼には「S」、左眼には「L」の文字が黒で描かれている。ロシアで発見されたモナリザにも右眼に「S」の文字が超高解像度の写真で確認できる。Sは弟子のサライ、Lはリザと説明する。つまり、ダ・ヴィンチは男性的要素と女性的要素を共有した人物を理想的と考えていたとおもわれる。だがモナリザの謎は、モナリザのモデルの戸籍調べではなく、「微笑み」の謎であろう。番組はこの点については何も答えてくれなかった。Silvano Vinceti
ドラマ「軍師官兵衛」では黒田官兵衛は祖父・重隆の代に備前の福岡(現在の岡山県長船町)から播磨に移ったという設定で、小寺の重臣たちから常に外様扱いされたことになっている。しかし、近年の研究によると、播磨国黒田氏系図に九代、二百余年にわたる播磨国黒田氏の一族とみられ、播磨の豪族の家系とみられる。赤松円光の息子・重光ー重勝ー重康ー光勝ー重貞ー重昭ー重範ー重隆と続いた。重隆(1508-1564)の嫡男・治隆が合戦で戦死する。二男・孝隆は、1545年、政敵であった香山重道を討って、その功績により小寺の姓を与えられ、小寺職隆(1524-1584)と称した。播磨黒田氏の血脈は絶えたが、その子、小寺官兵衛に受け継がれる。これが謀将として知られる黒田官兵衛(如水、1546-1604)である。
終戦時フィリピンに日本軍の山下奉文が隠したとされる山下財宝、いわゆるマル福金貨を探すため6人の男たちが暗躍する。三船敏郎、三橋達也、山崎努、堺佐千夫、田島義文、それにフィリピンに残りイゴロット人となった日本兵・土屋嘉男。日本に帰還することを望む土屋が、現地の女、浜三枝に弓矢で殺されるところがよい。主役の三船よりも脇役陣の見せ場が多い。堺佐千夫は若大将シリーズの「赤まむし」、土屋嘉男は「ガス人間第1号」。娘の星由里子が阪急電鉄、逆瀬川駅から降りてくるシーンがある。
金貨の総数は25000枚といわれ、そのサイズは直径3㎝、重さ31g。議会で不正蓄財の嫌疑をかけられたマルコス大統領は、山下財宝を発見して財をなしたと説明した。
モーセは前13世紀頃の旧約聖書「出エジプト記」に記されているイスラエル人の指導者。モーセより3歳年長の兄にアロンがいる。さらにアロン、モーセの姉にミリアムがいる。彼女はモーセが外国人の祭司エトロの娘チッポラを娶ったことでモーセを非難する。神はミリアム、アロンを叱り、ミリアムは重い皮膚病となり死んでしまう。
2013年10月11日、東京駅発郡山駅行き東北新幹線「なすの253号」の乗客から男が「車内で爆破する」と言っていると110番通報があった。列車はJR那須塩原駅で停車。乗客ら72人を降ろし、約30分にわたり車内を捜索したが不審物は見当たらなかった。警察によると、酒に酔った男が車内で携帯電話をかけており、「小便したくて膀胱が爆発しそうだ」といった言葉を乗客が聞き間違えたらしい。しかし、「ぼうこうばくはつ」がどのようにして「しんかんせんばくは」と繋がるのか謎である。アホな音韻連鎖はよくある。「府中原産トマト」(宇宙戦艦ヤマト)、「汚職事件(お食事券)」、「札幌、稚内」(さっぱりわからない)」。国語研究所は携帯電話が世の中に氾濫するなか、早急に音韻連鎖対策マニュアルを作成すべし。
サイレント期のヴァンプ女優といえばセダ・バラともう一人、ニタ・ナルディがいる。代表作はヴァレンティノと共演の「血と砂」であるが、セシル・B・デミルの「十誡」現代篇に出演している。「十誡」はモーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出する歴史劇だが、サイレント版には現代篇がある。マーサ・マクタヴィッシュ夫人には2人の息子がいた。兄弟は大工を職としていたが、兄のジョンは正直な男で、弟のダンは多少の不正をしても金銭を得ようと望んでいる男であった。ダンはメリーと結婚して、数年後には建築業者として相当の地位を得ていたが、兄のジョンは依然として一介の大工にすぎなかった。ダンはサリー・ラング(ニタ・ナルディ)という妖婦に迷っていたが、ある教会の建築工事を引き受けた時、セメントの混合に砂を多く混入し不正の利益を働いていた。一日、母がダンを訪ねて来たとき、俄然壁が崩れ落ちて母は下になっ非業の死を遂げた。ダンの不正な事実は世に暴露され、彼はサリーに金策を要求して拒絶された。これを射殺し、逃れる途中激浪におぼれて死ぬ。彼の妻メリーは義兄のジョンに慰められて微かに前途の光明を認めたのであった。
1984年に放送されたマルマンの禁煙パイポのCM、真面目そうな男性が小指を立て、「私はこれで会社を辞めました」が流行した。手塚和重は現在73歳で、シルバー人材センターで庭師をやっている。昨夜放送「芸能人今でもスゴイ100人すべて見せます」100人とは映像出演とスタジオゲストを含め、懐かしい顔がそろう。小川ローザ、レジー・ベネット、小磯勝弥、皆川おさむ、山上兄弟、アントン・ウィッキー、オスマン・サンコン、宮田恭男、胡桃沢ひろこ、岸ユキ、相川梨絵、高野浩和、高柳良一、直江喜一、キグルミ、松野有里巳、宮前真樹、武田久美子、中村由真、八反安未果、山口リエ、坂木優子、天馬ルミ子、中條かな子、安西マリア、杉山清貴、小坂明子、庄野真代、黒沢博、小比類巻かほる、平松愛里、やや、中沢けんじ、石井明美、麻倉未稀、SATSUKI、堤大二郎、竹本孝之、中村繁之、森次晃司、押阪忍、川津祐介、マキ上田、ブル中野、キューティー鈴木、B&B、ゼンジー北京、佐藤蛾次郎、大木凡人。
個人的に「あの人は今」懐かしいアイドルは、「くちづけが怖い」で日本レコード大賞新人賞の久美かおり(現在64歳)。ドラマ「おさな妻」の女優、麻田ルミ(現在58歳)。「ミドリ色の屋根」を歌っていたカナダの歌手ルネ・シマール(当時13歳、現在52歳)。
清水書院の「人と思想」シリーズは、1966年発刊以来、現在まで193点を刊行し、最近は「ハーバーマス」「ミダース王」「陸奥宗光」とかまで出している。170番以降を掲げる。
170「ミュッセ」
171「ヘルダーリン」
172「チェスタント」
173「キケロー」
174「紫式部」
175「デリダ」
176「ハーバーマス」
177「三木清」
178「グロティウス」
180「ハンナ・アーレント」
181「ミダース王」
182「ビスマルク」
183「オパーリン」
184「アッシジのフランチェスカ」
185「スタール夫人」
186「セネカ」
187「ペトロ」
188「ジョン・スタインベック」
189「漢の武帝」
190「アンデルセン」
191「ライプニッツ」
192「アメリゴ・ヴェスプッチ」
193「陸奥宗光」
大河ドラマ「軍師、官兵衛」がスタート。黒田官兵衛のほかにお馴染みの織田信長、豊臣秀吉など著名人も登場。著名人といえば、世の中、復古調らしく、都知事選にも元総理の殿様や元航空幕僚長、元厚生労働大臣などの名前が挙がっている。いっそのこと東条英機や山本五十六の子孫をかついだらよかろう。とくに山本は真珠湾奇襲の大成功で国民的な英雄となった。山本が戦死したときは、国民の大きな悲しみのなかで国葬が営まれ、山本元帥(死後昇進)の仇をとることを誓い、戦争を邁進したのである。結局、真珠湾の博打はうまくいったけれど、あれがきっかけでアメリカ国民の敵愾心を煽ることになった。日本より以上に、アメリカのほうが総戦力の体制を急速に強めた。戦艦大和の艦長だった松田千秋は「山本長官のやった戦さは、あれは素人の戦さですよ」とまで言って、山本を批判している。山本は海軍大臣にすべきで、連合艦隊司令長官は嶋田繁太郎のほうがよかったといっている。つまり海軍人事の失敗が敗因と分析した。それにしても人選に失敗しても懲りないのが日本人の特質である。(「艦長たちの太平洋戦争」 光人社)
映画史に残る数ある名作のなかでも「風と共に去りぬ」(1939)ほど長く世界中で見られる映画はほかにないだろう。キャストはヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル、レスリー・ハワード、オリヴィア・デ・ハヴィランド、トーマス・ミッチェル、ハディー・マクダニエル、バーバラ・オニールなど。だが脇役の悲しさ、スカーレットの2人の妹、スエレンとキャリーンを演じた女優の名前を覚えている方はよほどの映画マニアだろう。次女スエレンはイブリン・キース(1916-2008)、三女キャリーンはアン・ラザフォード(1920-2012)。アンは2012年6月11日、ビバリーヒルズの自宅で死去した。94歳だった。ヴィヴィアン・リーが生きていればちょうど100歳である。アシュレイの妹を演じたアリシア・レットも98歳で亡くなった。オリヴィア・デ・ハビランド(97歳)、メアリー・アンダーソン(93歳)、ミッキー・クーン(81歳)が健在。
邪馬台国がどこにあったのか?これまで九州説、大和説はじめ数多くの説が登場したが、最新の研究成果が知りたい。番組「ナゾ解き邪馬台国」では漫画家やくみつると小塚舞子がわかりやすく案内してくれる。解説は小路田泰直(奈良女子大教授)。考古学界の主流は圧倒的に畿内説となり、この番組も畿内説。▽邪馬台国への行程は魏志倭人伝の記述を素直に読み解く。▽福岡県糸島市にある平原遺跡から「大型内行花文鏡」(直径46.5cm)をはじめ、40面の鏡が出土している。糸島は「伊都国」と決定。▽魏志倭人伝に書かれた「南」ではなく「東」と読み替える根拠は、古代中国人の地理認識が日本列島を東西ではなく、南北に連なっていると考えていたからである。▽奈良までのコースは、瀬戸内海ではなく日本海コースをとる。出雲を「投馬国」とする。そして天橋立まで行くが、画像では直線的に進んでいるが、小路田は由良川→加古川→難波→紀ノ川→奈良と迂回コースで陸行一月を説明する。▽北九州最大の弥生集落「吉野ヶ里」は邪馬台国と敵対した狗奴国の前線基地と考える。▽遠山美都雄は卑弥呼は個人名ではなく、地位、身分の名であり、ヒメミコにあたるとする。実際は男の王がおり、卑弥呼は宗教的儀式(鬼道)を担当した。▽小路田は箸墓古墳の被葬者を卑弥呼と断定するが、今尾文明はなお断定をさけた。▽桜井市の纒向遺跡は卑弥呼の宮殿跡とする。▽卑弥呼を倭迹迹日百襲媛命とし、台与(とよ)は檜原神社の祭神、豊鍬入姫宮とし、伊勢神宮と関係すると解く。
年末年始のドラマ・映画。小池栄子の出演作が多い。「八日目の蝉」「花咲くあした」「パーマネント野ばら」「北のカナリア」そして2日深夜に放送していた「30分だけの愛」。マッサージ師と脳卒中の後遺症に苦しむエリート・サラリーマンとの愛。脚本家、遊川和彦がダーツでいくつかあるお題の中から、ドラマのテーマを決めたという。
ドラマ「まほろ駅前番外地」第2話「麗しのカラオケモデル、探します」。昔のレーザーカラオケのモデルに恋した男が、そのモデルを探してほしいという依頼を受ける。行天は「もう50過ぎのオバサンになっていんじゃない」という。依頼者は「黒木瞳だって51歳だ」という。多田と行天は女の所在をつきとめる。だが女は薬と酒で変わり果てていた(なんと風祭ゆきが演じている)。横浜でバーを開いていて、今夜だけ一回なら会ってもいいという返事がきた。依頼者が会った女性はカラオケそのままの若く美しい女性だった。多田は女の娘を身代りにしたてて、男の夢を叶えさせたのだった。ショート・ストーリーに人生のペーソスがあふれている。
「あまちゃん」の挿入歌「潮騒のメモリー」の歌詞「来てよ、その火を飛び越えて」は秀逸である。三島由紀夫の「潮騒」を想起させる。嵐の日に監敵哨跡で密会する新治と初枝が焚火を挟んで互いの裸体を見つめ合う。そして初枝は「その火を飛び越えよ」といい、二人が抱擁する場面が有名である。これまでヒロイン初枝には青山京子、吉永小百合、小野里みどり、山口百恵、堀ちえみが演じている。新治と初枝には美しい肉体を持った野性的な男女が望まれるが、アイドル映画となり適役を選ぶのは困難である。小野里みどりは演技的にも未熟で美形でないが、スタイルがよく(東京女子体育大学)5度の映画作品で唯一、乳房全開のヌードを披露している。新治の幼馴染で灯台長の娘、千代子は新治に思いを寄せている。初枝への嫉妬から二人の悪い噂を村中に流してしまう。結局、失恋して東京に戻る。この千代子を演じた女優は過去、宮桂子、松尾嘉代、木内みどり、中川三穂子、高橋ひとみ、である。主役の小野里みどりより木内みどりのほうが知名度が高いというのも珍しい。
鉄拳、時間の都合でネタ披露できず▽泉谷しげる、観客に向かって「手前ら、拍手するな」と怒声▽綾瀬はるか復興支援曲で号泣▽くまもんとふなっし~が大喧嘩▽大島優子の突然の卒業宣言で北島かすむ▽有働アナのセクシー衣装▽脱がないで着物で踊る壇蜜
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