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2014年1月31日 (金)

メラネシア

   メラネシアとは大西洋の赤道の南で、東経180度以西で、パプア・ニューギニア、フィジー諸島共和国、ソロモン諸島、バヌアツ共和国などを含む地域をいう。メラネシアとは「黒い島の海域」という意味。この地域に住む民族は、特に黒い皮膚を持つオセアニア・ネグロイド族で、19世紀ドイツの地理学者アドルフ・バスチャンが初めて用いた。

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カラムシ

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異性が魅力的に見える瞬間

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    男性が魅力的に見えるときはどんなとき?車を運転しているとき、お風呂あがり、Gパン、スーツ姿、タバコを吸っているとき、バイク、ネクタイをゆるめるとき。むかしの日活映画なら皮ジャン姿でギターを抱いて波止場の係船柱に片足をあげているポーズだろうか。江戸っ子の審美眼によると「目病み女に風邪ひき男」という言葉がある。目を患っている女は、そのうるんだ眼つきが色っぽく見え、ちょっと風邪をひいてハスキーな声で、のどに白い布でも巻いている男が粋に見えるという。

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楽園島ナウル

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2014年1月30日 (木)

マホメット山へ行く

   英語のことわざ。卑しいものが貴いものに従わねばならないという意味。 

If the mountain will not come to Mahomet,Mahomet must go to the mountain. 

   あるときマホメットが山に向かい、自分のところに来るように命じた。しかし、山は動こうとしない。そこでマホメットは、みずから山の方へ歩いていったという。すなわち、山の偉大さにくらべて、マホメットという人物は卑小なものである。だから、山を自分のそばに呼びたいと思うならば、自分みずからが山の方へ歩いて行かなければならないという意味である。この話は、19世紀のイギリスの作家フロレンス・マヤリットの「開け胡麻」にみえるもので、「コーラン」やマホメットの史料には見えない。 

   「マホメット山へ行く」は反イスラムが、もし彼が真の預言者であるならば、キリストが行なったような奇跡をおこすように要求したとき、マホメットは「自分の奇跡はコーランそのものである」といって、奇跡を行うことをかたく拒絶したという。この話はマヤリットが作り出した話ではなく、それ以前からこのような話が、ヨーロッパのキリスト教徒の間では広く伝えられていたようである。また、これから派世したもので、「山を動かす」という言葉もあり、これと同じような意味で使われる。古くは1625年のフランシスコ・ベーコンの随筆に似た表現が見られる。

ラザロ・ビロとボールペン

Lazlo_biro    世界で最初にボールペンを発明したのは1888年アメリカのジョン・ラウド Jhon Loud といわれる。しかしインク漏れが酷くとても文字を書けたものではなかった。1938年にハンガリーのラザロ・ビロ Lazlo Biro(1900-1985)が実用に耐えるボールペンを考案した。ラザロはブダペストで編集業をしていたが、ペン用の即乾性のインクがあれば便利だろうと思い、そこで考えついたのがボールペンの原型だった。その後、ビロはブエノスアイレスに移住したが、そこのエテンペル社が1945年から製造、販売したものが世界最初の市販ボールペンである。だがラザロはアメリカで特許をとっていなかったため、あるアメリカのビジネスマンが1946年ニューヨークで発売して全世界に広がっていった。

2014年1月29日 (水)

ホットヨーグルトダイエットに挑戦!‼

O0720043211295525223    「ビューティーコロシアム女芸能人ダイエット」で大場久美子が朝ホットヨーグルトとクーガーダンスで-4.5㎏の減量に成功する。なぜ朝ホットヨーグルトなのか。ダイエット中は偏った食生活からカルシウム不足になることが多い。温められたヨーグルトは腸管の機能を向上してカルシウムの吸収率を向上させる。方法は市販のプレンヨーグルト120gを電子レンジで約30秒温める。朝食以外の昼食と夕食は、好きなメニューを腹八分目までなら何を食べてもよい。ただし間食とアルコールは控える。またヨーグルトは1日120g以上食べてもダイエット効果は変わらない。実際に食べてみると温めたヨーグルトはかなり不味いがガンマしなければならない。

名前の意味

Kureopatora    名前には通常意味がある。古代エジプトの最後の女王クレオパトラの名はギリシア語で「父の栄光」を意味する。チンギス・ハーンの幼名テムジンはモンゴル語で「鉄をつくる人」の意味。ソ連の政治家スターリンは「鋼鉄の人」という意味。レーニンは「レナ川の人」。ケマル・アタテュルク。「アタテュルク」とは「父なるトルコ人」。

ボッティチェリ  小さな樽

ティントレット  染物屋

エル・グレコ  ギリシア人

   プラトンの本名はアリストクレス。体格が立派で肩幅が広かったため、「プラトン」(広いという意味)という渾名で呼ばれていた。▽イギリスの舞台俳優ジャック・ホーキンス(1910-1973)は映画でも「ピラミッド」「ベン・ハー」など将軍役がふさわしい。ホーキンス家といえばイギリス海軍史に名を連ねる提督を輩出しているが、彼がそのホーキンス家の一門なのか確証はないが、いかにも相応しい名前である。

不遇の俳人日野草城

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    俳人・日野草城の1956年の忌日。草城は1929年「ホトトギス」同人となり、新興俳句運動の旗手として、俳句の近代化をはかった。しかし、「俳句研究」に発表したミヤコホテル10句は騒然たる毀誉を浴び、ホトトギス同人を除名された。戦災、戦後の労苦をへて、闘病のなかで早世した。

 

  妻子を担ふ片眼片肺枯手足

 

  火の色やけふにはじまる十二月

人口調査記念日(1月29日)

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    明治5年、初の全国戸籍調査が実施されたことに由来する。当時の調査結果では、男性1679万6158人、女性1631万4667人の総人口3311万825人となっている。総務省統計局発表の最新人口(2014年1月1日現在)1億2722万人(前年同月より22万人減)。厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所は、2060年までの日本の将来推計人口は、8674万人と、半世紀で約4100万人減少すると予測している。

2014年1月28日 (火)

杉野十平次と杉野孫七

   吉良邸の討ち入りは12月14日。厳密にいうと12月15日の午前4時ごろか。いやほんとは1月30日。だが、やっぱし旧暦12月14日でないとまずいだろう。   

     吉良の江戸屋敷がある本所松坂町で夜泣き蕎麦屋を引く赤穂の浪人・杉野十平次がいた。かたや横網町で道場を開きながら酒と博打で空しい日々を過ごす浪人・俵星玄蕃がいた。そして2人が出会う。玄蕃はかって酒に酔って赤穂藩の行列に狼藉をはたらいたが、浅野公のはからいで一命を救ってくれた恩義があった。三波春夫が歌う歌謡浪曲「♪姿そば屋にやつしてまでも忍ぶ杉野せつなかろ」もちろん玄蕃と杉野の友情は巷説。47士の中で何故杉野が選ばれたのか。年齢が28歳というのは芝居として絵になるだろう。吉良屋敷への討ち入りで家の内へ入る者(磯貝、堀部、倉橋、杉野、赤埴、菅谷、大石瀬左衛門、村松、三村)の一人だったこと。それにもっとも大きな理由は杉野十平次の末裔は日露戦争旅順閉塞隊で行動し戦死した杉野孫七兵曹長であること。「杉野はいずこ」明治講談はなやかりし頃、杉野という名前が大衆受けするとよんだのだろうか。

死んでいた千坂兵部

   ドラマ「赤穂浪士」(大佛次郎原作、1979年)では、山村聡が千坂兵部に扮し、重厚な演技をみせている。義士討ち入りのとき、実父吉良義央を助けるために出兵しようとする上杉綱憲を押しとどめる。だが実際には刃傷事件のとき(1701年)には千坂はすでに死んでいた。(元禄13年、1700年没) 千坂兵部の名前は大佛次郎の筆によって有名になったのだろう。最近の忠臣蔵では色部又四郎に代わっている。ところが本当に上杉綱憲を押しとどめた人物は、稲葉丹後守正通とも、畠山義寧(1664-1746)とも言われている。

直木三十五の速筆

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寺田寅彦と珈琲

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    寅彦は病気のため1年以上全くコーヒーを口にしなかった。ある秋の日、久しぶりで銀座でコーヒーを一杯味わった。そうしてぶらぶら歩いて日比谷までくるとなんだかそのへんの様子が平時とは違う。すべてのものが美しく明るく愉快なもののように思われ、この世の中全体がすべて祝福と希望に満ち輝いているように思われた、とコーヒーの効用を書いている。そして宗教は官能と理性を麻痺させる点で酒に似ていて、哲学は官能を鋭敏にし洞察力と認識を透明にする点でコーヒーに似ている、とも書いている。(参考:寺田寅彦「コーヒー哲学序説」)

山本五十六の戦時下の恋

 うつし絵に口づけしつつ幾たびか

 

  千代子と呼びてけふも暮しつ

 

      *

 

 おほろかに吾し思はばかくばかり

 

  妹が夢のみ毎夜に見むや

 

    海軍少将・山本五十六が新橋芸者の梅龍(当時28歳)初めて会ったのは、昭和8年、築地の料亭錦水の宴席でのことだった。梅龍、本名は河合千代子(1904-1989)は家業は株屋であったが、関東大震災後、没落し、一時、ある資産家の世話になったが、やがてその人とも別れ、1年前からお座敷に出ていた。宴席で吸い物が出た。五十六は日本海海戦で左二本指を失っていたため、吸いついたお椀の蓋をとるのがなかなかできなかった。梅龍が「とってあげましょうか」と声をかけた。それに対して五十六は、「自分のことは自分でする」と怒ったように答え、それをきいて、梅龍は「いやな人」と思ったという。しかし、二人の仲は急速に深くなった。戦時下、寸暇を惜しんで二人は会い、手紙を交換する。妻子ある元帥と芸者の10年に及んだ恋は、五十六のブーゲンビル上空での戦死により、咲くことなくはかなく散った。(参考:渡辺淳一「キッスキッスキッス」小学館)

慶喜は「ケイキ様」と呼ばれるのを好んだ

Yosinobu   (徳川)慶喜を「ヨシノブ」と読むことは小学生でも知っている。だが手元の漢和辞典で「慶」を調べても「ケイ」「キョウ」とはあるが、「ヨシ」とは出ていない。人の名前に使われる特別な読み方を、「名乗り(なのり)」という。頼朝、正成、家光の朝(トモ)、成(シゲ)、光(ミツ)も特別な読み方である。「お言葉ですが…」で知られる高島俊男もなぜ「朝(とも)」と読むのか分からないと書いている。つまり名乗りは長い間の慣用的な読み方でいまでは理由を説明することは学者でも困難な場合が多い。現行法では人名に使用する漢字は制限されるているが、読み方は戸籍に記載されないから、自由に読んでよいとされている。徳川慶喜は現行の法体系以前の人物だから、関係ないのだが、仮に、現在でも「慶喜」と書いて「ヨシノブ」と読ませることに、何ら支障はない。ただし、読みは自由といっても、100人のうち99人までが読めない命名は避けたほうがいい。人名読み方の基本や名乗り事典にある範囲内にとどめるべきだろう。ちなみに徳川慶喜自身は「けいき様」と呼ばれることを好んだといわれる。「ヨシノブ→世忍ぶ」という音韻連鎖を嫌ったのだろうか。 

    NHK大河「八重の桜」鳥羽伏見の戦い。敗色濃厚と知った慶喜は戦わず江戸に逃げる。敗戦の責任は慶喜の江戸帰還を進言した神保修理ひとりが負い自害する。

近藤勇の虎徹は贋作か

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   近藤勇の差料が虎徹であったことは巷間よく知られているが、その刀は偽物だっという話もある。「虎徹を見たら偽物と思え」というほど贋作が多いことで知られる。 

   近藤から虎徹の刀をもってくるように言われた道具屋が、幕末の名工源清麿の刀の銘を、鍛冶平こと細田平次郎に潰させ、偽銘を切らせて持参したところ、刀の判らない近藤は大いに喜んだというのである。近藤は「下拙刀は虎徹の業物なりし故哉、無事に御座候」と書簡でも述べているように、あくまで本物と信じていた。池田屋事件のように清麿も本物に勝るとも劣らぬ切れ味を発揮したようだ。 

    越前の長曽祢鍛冶集団の一人虎徹興里(1596-1678)は、江戸に出て和泉守兼重に入門し、甲冑師から刀鍛治に転じた。明暦頃のことである。虎徹は抜群の切れ味のよさによって一世を風靡した。

山田長政400年

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   慶長17年(1612)、山田長政22歳のとき同郷の貿易商人に頼んで朱印船に乗りシャムに渡ったと言われる(慶長16年説ほか有り)。長政は多くの功をたて、国王ソンタムの信任を得た。1628年11月、ソンタム王の死後に起こった内乱に、長政は反乱軍を鎮圧し、王子を即位させたが、その後、王族の1人で王位を狙うオヤ・カラホムは長政を遠ざけるため辺境のリゴール(六崑)の太守に任じた。1628年、長政は任地に赴いたが、パタニ軍と対戦して負傷した。傷口に塗った毒薬のため、1630年夏に死亡した。だが長政に関する日本側の記録には一級史料は少ない。死後だいぶん経過した伝聞が多い。タイ側の史料にでてくる官職名「オークヤーセーナーピムック」(Oya Senaphimok)を授けられた日本人を山田長政と見なしているだけである。1983年には朝日新聞に「山田長政は実在したか」(矢野暢)という記事が出た。矢野は日本の南進政策によって作られた虚像としている。だが最近タイでも「ヤマダ アユタヤの侍」(2010年)という映画も作られた。生地の沼津でも山田長政ゆかりの催しが検討されているのだろうか

紫式部と清少納言

Photo     紫式部(979?-1016?)と清少納言は同時代の女流文学者だがどちらが年上だろうか。ともに生没年不詳だが、清少納言は966年に生まれ、治安・万寿年間(1021~1027)に没したとあるから、清少納言が先に生まれ長く生きたらしい。

    紫式部の生家は、父方は藤原冬嗣の六男良門を遠祖とする名門で、同門の中に文人・歌人が多く出ているし、父為時は詩文において当代一流の名手であり、兄惟規は歌人として知られていた。母方は藤原冬嗣の一男長良を遠祖とする名家で、母は藤原為信のむすめである。

    紫式部は生まれつき鋭い頭脳をもち、記憶力に富んでいた。「紫式部日記」によると、幼いころ兄の惟規よりも早く史記を聞きおぼえたので、父の為時は「この子が男であったらなあ」と嘆いたという。式部は天元元年頃に生まれ、長保元年、22歳のとき、48歳くらいであった藤原宣孝と結婚し、翌年一女大弐三位を生んだが、長保3年には夫宣孝と死別した。その後6年間は父の邸で寡婦生活を送っていたが、寛弘4年、式部30歳のとき、藤原道長に見出されて、一条天皇の中宮上東門院彰子に仕えた。式部の没年については諸説があるが、長保5年頃に39歳くらいで没したとするのが通説である。

   「源氏物語」の成立事情についても不明な点が多い。夫宣孝に先立たれてから、つれづれの寡居の日々に、自身の内的欲求に駆られて筆を染めたのであろう。「紫式部日記」寛弘5年(1008年)11月1日の記事によれば、道長の土御門邸で敦成親王の誕生50日の祝宴が催された。この折、酒に酔った藤原公任が、「あなかしこ、このわたりにわか紫やさぶらふ」と戯れかかったのを、式部は「源氏にかかるべき人も見え給はぬに、かの上は、まいていかでものし給はむ」と聞いていたという。次いで旬日を経た同日記には、内裏還啓を間近に控えた中宮のもとで、頻りに冊子作りの営まれていた模様が見える。従ってこの頃、「源氏物語」の殆ど、或は少なくとも「若紫」を含む第一部は完成し、宮廷人士の間でかなり評判になっていたと見てよかろう。

    源氏物語」は世界最古の長篇小説とよく言われるが、千年にわたって詠み継がれてきたこになる。参考書には、岩波書店「日本古典文学大系」の「源氏物語」があり、注釈書には、金子元臣「源氏物語新解」、吉沢義則「対校源氏物語新解」、池田亀鑑「源氏物語新講」、島津久基「源氏物語講和」など。現代語訳では、与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、村山リウ、田辺聖子、瀬戸内寂聴など。

小野小町「花の色」

    古今集巻2の春下(113)に「題知らず 小野小町」とある歌。「小町集」にも「花をながめて」として入っている。 

花のいろはうつりにけりないたづらに  

我身よにふるながめせしまに 

[現代語訳]美しい桜の色は、すっかりあせ衰えてしまったなあ。降り続く春の長雨をぼんやりながめながら、恋の悩みなどの物思いをしていた間に。 

Img_0003  この歌は単に花のことを歌ったと見る説と、「花の色」を「容色」とする説と二説ある。古来多くの説が言っているのは「思う男のことにかかわって、物思いをして、空しく世を過ごすうちに、私の容色も衰えてしまったことだ」の意があるとしている。松田成穂は古今集春歌下には、うつろう花、散る花を15首まとめて撰入していることから、単に花のことを歌ったのだとしている。(「花の色は試論」金城学院大学論集31)小野小町は美人であったが、晩年はおちぶれて諸国を流浪したという伝説のため、この歌から容色の衰えを歌ったとする解釈が定着していったのであろう。

神武天皇と金鵄

00a1a532    古事記によれば、我国の天地創造の神はイザナギノミコトとイザナミノミコトである。この二柱の神がまず淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡を生み本州を生んだ。そして、太陽神であるアマテラスやスサノオらの三五柱の神々を生んだ。そしてアマテラスの孫のニニギノミコトが天孫降臨する。ニニギとその妻コノハナサクヤの間にホテリノミコト(海幸彦)やホトリノミコト(山幸彦)が生まれ、山幸彦と豊玉姫の孫が神倭伊波礼毘古命つまり神武天皇ということになる。神武天皇は日向の高千穂宮にいたが、東方の大和地方の諸勢力を平定した。最後に苦戦したとき金色の鵄が弓にとまり、その輝きで勝利したという。

豊臣秀吉の多指症について

250pxtoyotomi_hideyoshi 慶長3年8月18日の丑の刻(午前二時)。豊臣秀吉は病に伏し、跡継ぎの豊臣秀頼をくれぐれも頼むと家康や利家に言い残しながら、伏見城にて病没。享年、61歳である。

   死後、秀吉の侍女孝蔵主が、蒔絵の文箱におさめてあずかっていた色紙を、取り出して北政所にわたした。辞世の歌が書いてある。

露と落ち、露と消えにしわが身かな、難波のことは、夢のまた夢(大阪城天守閣木下家文書)

   京都・高台寺の所蔵する秀吉画像、賛によって、秀吉没後まもなく描かれた事実がわかる。狩野光信(1565-1608)の筆による。華やかな雰囲気のうちに天下人の威厳を感じさせる優れた構図・描法である。織田信長や徳川家康の画像と比べると、どこか寂しさを感じさせ、苦労人という印象を与える「猿面」である。右手に笏を持っているが、秀吉は6本指だったという風説がある。ルイス・フロイスの「日本史」の中に「秀吉の片手には、6本の指(seis dedos)があった」と記している。前田利家も「国祖遺言」に右の手おや指が一つ多かったことにふれている。専門医によれば秀吉が多指症だったことは大いにありうることらしい。日本、中国および朝鮮の3つの民族には多指症が多く、ことに母指の基節骨から分岐するタイプのものがよくみられる。両側対称性の多指症は遺伝関係が濃厚だが、秀吉のように片側性のものは突然変異が考えられると言っている。秀吉先天性多指症説の信憑性はかなり高い。(太閤忌)

藤樹の母の教え

3128_1_200712072102814     中江藤樹は幼い頃、母と離れ、祖父の家に住み込みで学問に励んでいた。しかし、母は病気がちで、離れて暮すようになってからも藤樹は母のことがますます心配であった。冬のある日、とうとう藤樹は良い薬が手に入ったので、祖父の家をこっそり抜け出し、母のお見舞いに行った。戸外でつるべ仕事をしていた母にその薬を差し出して、肩を抱いて家の中へ入ろうとする。ところが母は「おまえは学問をするために生れてきた人だ。母を訪ねる暇はないはずだ。すぐに帰りなさい」と、薬も受け取らず、家へも入れてくれず藤樹を追い返す。母に諭され、雪深い道をとぼとぼと帰っていく藤樹の後ろ姿を、母は涙しながら見送るのである。辛い別れでありながら、母親の子を思う気持ちを理解した藤樹は、その後勉学に励み、人々から「近江聖人」と呼ばれる立派な学者となった

マルティン・ルターと九柱戯

Jansteenskittleplayersoutsideaninn    ボーリングは、弓とともに最も古い歴史をもつスポーツといわれている。ロンドン大学のフランダース・ペトリが古代エジプトの墓のなかから現在の競技用具に類似したものを発見している。古代ローマ時代には、単なるゲームのほかに、戦場へ出向く兵士の占いや宗教上の儀式に使われた。15世紀イギリスでは、ボールズbowlsまたはローン・ボールズlawn bowlsといわれた競技が発達した。芝生のうえにコートをつくり、直径約12㎝の木製のボールをジャックと呼ぶ白いボールを目標に約30mの地点からころがし、ジャックにあてるか至近距離に近づけて得点を争うのを原則とするものである。ボーリングbowlingの語がボールズという語を起源とするのは明らかであるが、競技の系統としてはむしろドイツに古くからあったケーゲルkegelというゲームに属する。これはボールをケーゲルという木製徳利形の物体にぶっつけて倒す競技で、中世ドイツ各地の教会で大いに流行した。マルチン・ルターもその熱心なファンで、ピンの数を9個に定めたのはルターである。ピンが9個あったのでナインピンズninepinsといわれ、日本では黒岩涙香が「九柱戯」と訳した。この競技が初期のオランダ移民によってアメリカに伝えられた。1840年代にはニューヨークを中心に流行し、19世紀末にピンの数が10本になると新しいルールが誕生し、全米に普及した。(Martin Luther)

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 明治の木製のおもちゃ「九柱戯」

石川三四郎の謎

Isikawaeiko    NHK土曜ドラマ「足尾から来た女」を観る。北村有起哉が演じる社会主義者、石川三四郎(1876-1956)がドラマに登場するが自分のイメージと大きく異なる。谷中村から来たサチに、字を教える交換条件にキスを要求する場面があるが、ドラマの演出上どうしても必要なのであろうか。キリスト者の石川がこのように軽薄な男とは思えない。石川と福田英子の関係もわからない。サチの密告で石川が検挙されるが、後にヨーロッパに渡り、第一次世界大戦を見て思想がかわる。つまり社会主義者→無政府主義→ゾラ・ドーデなどの翻訳家→東洋文化研究家とめまぐるしく変転する。古本屋などで石川三四郎の本は今でもよくみる。戦後生まれの私の書架にも石川三四郎の「東洋史百講」(1939年)がある。第1講が「地球の歴史」で地球が誕生したのが約20億年前、人類誕生が約30万年前(あるいは50万年前)としている。現代の知識では、はじめ水中に誕生した生命が陸上に進出し始めたのは約4億年前、最初の生命が誕生したのは約36億年前、地球誕生が約46億年前とする知識とは大きく異なるものの、この永い生命の歴史からみれば、人類の歴史はほんの一瞬にすぎないとする本旨には変わりない。ただしキリスト者である石川三四郎が容易に進化論を肯定するところなど興味深いものがある。

ダ・ヴィンチとサンタマリア大聖堂の金球

A0169125_1730966 A0169125_1549511    レオナルド・ダ・ヴィンチは、パリ手稿Gで「私達がサンタマリア・デル・フィオーレの球を接合した方法を覚えている」と述べていて、ブロンズ球のデザインに携わっていたことを示唆している。当時、ダ・ヴィンチは彫刻家ヴェロッキオの弟子で、ヴェロッキオがブロンズの球の製作をしていた。「滝川クリステルのフィレンツェ紀行」でも紹介されていたが、クレーンを使っての取り付け工事に関係していと解説している。

無憂荘の蜘蛛

Ebp0701539b 18世紀プロシアの啓蒙専制君主・フリードリッヒ2世(フリードリッヒ大王、あるいはフレデリック大王)はベルリン郊外ポツダムに離宮を造り、サンスーシー(無憂荘)と名づけ、閑暇な日々を過ごしていた。ある日、この別荘で大王はいつものようにチョコレートを一杯飲もうとした。その時、ハンケチを忘れたことに気がついて寝室へ取りにいった。ところがその間に一匹の蜘蛛が天井から降りてきてチョコレートのカップの中に落ちた。大王はもどってきてそれを見て、取り替えるように料理番に命じた。すると銃声が鳴り響き料理番が倒れた。大王を毒殺しようとした料理番がばれたと思い自殺したのだった。「憂いなき」宮殿を建設した大王だったが、つねに暗殺の恐怖をだく孤独な人生だった。

釣り餌を食べた王安石

78_2  北宋の政治家・王安石には、そのユニークな性格を物語るエピソードが残されている。北宋は軍事費や外交費で危機的な財政状況であった。王安石は神宗の信任を得て、次々に新法と呼ぶ改革を行った。しかし、保守派はこれに反発し、新政を激しく非難した。これに対する王安石の報復もきびしかった。彼は清廉な人で、詩文にも長じていた。反面、自己の才能を過信し、他人の忠告を受け入れないという欠点をもっていた。頑固で自説をゆずらぬ強情さは彼の人気を一層低めた。その強情さはすさまじく、天子が臨席する釣りの宴席(賞花釣魚園)で誤って釣り餌を食べてしまった。しかしながら、王安石は一口で気づきながらも、途中でやめずに最後までたいらげたという逸話が残っている。彼のこの頑固な性格が、せっかくの改革を台無しにしたのである。

タレスの金儲け

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   ある人が学者のタレスの貧乏なことをあざけって、学問などは人生に無用だと言った。するとタレスは天文の知識により、冬の間にその年の秋にオリーブは豊作だと予見し、余り金をはたいてミレトス一帯のオリーブ搾り器を安い値で全部借りてしまった。秋が来て、搾油器がなくてうろたえた人たちにかれは高い値でまた貸ししてたちまち財産をつくった。 

   この話を伝えたアリストテレスはこうつけ加えている。「学者は、なろうと思えば金持ちになれる。しかし学者の目的は別にあることをタレスは世間に教えたのである」と記している。(参考:村川堅太郎『世界の歴史2』)

涙で描いたネズミ

Souhou   水墨画で有名な雪舟等揚(1420-1506)は応永27年(1420)備中赤浜で生まれた。少年時代は故郷に近い井山の宝福寺(総社市井尻野)にあずけられ修行をした。小僧は修行をしないで、絵ばかり描いているので、和尚はおこって本堂の柱に縛りつけた。そして数時間のちに、たまたま通りかかった仲間の小僧がびっくりした。縛りつけられた、小僧の足もとに大きなネズミが今にも飛びかかりそうにしているではないか。小僧の報せで和尚があわてて飛んできた。大勢で本堂の床を踏み鳴らして追いはらおうとたが、そのネズミは動こうともしない。だがよく見ると、それは濡れた涙で板の上に描いたネズミだった。さすがの和尚もこれには驚いて、小僧の絵の才能を認めて、絵の修行が認められた。後に画聖となった雪舟の少年時代の逸話である。

障子の張替えの教え

   北条時頼の母は、松下禅尼という。ある日、禅尼が息子の時頼を自分の家に招くことがあったので、部屋の障子の破れを手ずから切り張りしているのを見て、兄の安達義景が、召使にやらせるか全部張りかえるかしたらどうかと勧めると、「わたしも、時頼の招待のすんだあとは、さっぱりと張りかえようと思うけれども、今日だけはわざとこうしておくのがよいのです。物はなんでも破れている所だけつくろって用いるものであると、若い人に見習わせて、気をつけさせようと思うためです」と述べたという。 

   吉田兼好は『徒然草 第184段』のなかで「天下を治める道は倹約を根本とする。禅尼は女性ではあるが、聖人の心とあい通じている。天下を治めるほどの人を子として持っておいでになったことは、まことになみなみの人ではなかった」と感心し書きとめたため、今日まで倹約の名高い逸話となって伝わっている。

 

かめ割り柴田

  元亀元年、柴田勝家が近江の長光寺城をわずかの兵で守っていたときの話である。六角承禎が数千の兵を率いて急襲した。勝家軍は、籠城策をとると、承禎は城の用水路を断った。水手をはばまれた勝家は、残る水をすべて大きな瓶(かめ)に入れ、「これで我らは、もはやあとがない。明日は決死の覚悟で打って出よう」と、大瓶を打ち割って必死の気合を兵たちに見せ示した。奮いたった柴田勢は、数倍の承禎軍を討ち破った。この時以来、柴田勝家のことを「瓶割り柴田」と呼ぶようになった。(参考:『歴史ものしり百科』三公社 1982)

千姫と坂崎出羽守

   第2代将軍徳川秀忠の長女・千姫は、7歳で豊臣秀頼に嫁ぐ。炎につつまれた大阪城からの奇跡の脱出の時、徳川家康は姫を助けた者に妻として与えることを約束した。坂崎出羽守(直盛)は無事に千姫の救出を成し遂げた。しかし千姫は出羽守を嫌って、本多忠刻に嫁ぐことになった。出羽守としては約束を違えられて武士としての面目がたたなかった。 

   元和2年(1616)、本多忠刻と再婚のため江戸から桑名に向かおうとしたさい、出羽守は千姫の輿を奪おうと謀ったが、失敗し自害したという。この逸話は史実と巷説とが混在するが、坂崎出羽守は「愛のために死す」武将とてその名を後世に残すことになった。

赤垣源蔵「徳利の別れ」

  赤垣源蔵は討ち入り直前にそれとなく別れを告げるため、芝の汐留にある兄の塩山伊左衛門宅を訪れたが、あいにく不在で、兄嫁が対面した。そのとき源蔵は今生の別れと思い、美服をまとっていたが、それを知らない兄嫁は苦々しく思い意見した。

   「お身は浪人の身でありながらなぜ左様に着飾られるのか。内匠頭の一件以来、世人はお身らを腰抜けよ犬侍よと嘲笑して誰ひとり相手にせぬ。拙者ならではと思えばこそ、かように御忠告致すのだ」と苦々しげに言った。

   源蔵は静かに「御忠告は身にしみてかたじけなく存じます。しかし本日は久しくご対面致しませぬので、ご挨拶に参上致しました。実は一両日中に少し遠方へ参りますので、それゆえ推参致した次第でございます」

   兄嫁も別れの挨拶と知って酒肴を出すと、平素は酒を飲まぬ源蔵が、二、三杯はして帰った。三日後、吉良邸討ち入りを知った兄嫁は、「そうとも知らず、いらざる意見をしてしまった」と深く嘆き悲しんだという。

   赤垣源蔵は「徳利の別れ」という巷説が名高く、講談、浪曲、歌謡曲などでは酒豪で知られている。降りしきる雪の中、別れを告げるため訪れたが、不在であったため兄の羽織に向かい決別の杯を汲んだという逸話であるが、この話は後世の創作で、源蔵は下戸であったといわれる。 (参考:「赤穂義士事典」赤穂義士事典刊行会)

漱石の義侠心

102135587_624    明治29年4月13日、夏目金之助(漱石)は菅虎雄の斡旋で第五高等学校講師に着任した。校長は中川元、教頭は桜井房記、佐久間信恭、篠本二郎、杉山岩三郎、賀来能次郎、山川信次郎、内田周平、菅虎雄、羽生慶三郎、田丸卓郎、近重眞澄、中川久和、武藤虎太、長谷川貞一郎、中沼清蔵、大浦肇、黒本植、加藤晴比古、南部常次郎、黒木千尋などがいた。 

    漱石は着任して間もなく竜南会の端艇部長になった。当時、端艇部には吉田久太郎という腕力自慢の猛者がいた。久太郎は明治7年2月、福岡県筑前国宗像郡赤間に生まれる。端艇部を牛耳っていた久太郎が一つの事件を引起した。 

    その頃、日清戦争で分捕りたる大型のボート二艇を記念として海軍省から五高へ下げ渡されることになった。この二艇の船を引取るために、竜南会より佐世保に派遣して、久太郎が宰領として回航した。往路は無事であったが、帰路にこの記念船の修理のため某所に滞在中、徒然に乗じて一同盛んに飲食をなし、正当の支払の他に、百円たらず使い込んでしまった。弁済の道もなく、教師一同に救ってほしいという願いであった。吉田久太郎は日頃から職員間に人望ないため誰もとりあわない。そこで、赴任早々であるうえに、薄給であった漱石が、寝耳に水の事件であるにもかかわらず、全額を償い同時に部長を辞してしまった。漱石の責任感、義侠心、金銭に対する淡白な心情などが現れたる逸話であろう。

山内一豊 名馬の誉れ

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    信長はある日馬揃えを催した。群臣武将が居並ぶ前を、多くの武将が行進する。その中にひときわ目立つ栗毛の名馬に跨る若武者一騎。手綱さばきも鮮やかに、まことに天晴れなる武者ぶりだ。信長も「あれなる者は」と問うた。「はっ。山内一豊にございます。」「何、一豊とな。あの貧乏な一豊がどのようにして、あのような駿馬を手に入れたのか。」これには秘められたる逸話があった。馬市で素晴らしい逸物を見つけた一豊は欲しいは山々だが買う金がない。無念に思いながら家に帰って妻に話をすると、妻は鏡台から黄金を取り出し、「夫の一大事の時に使えと嫁入りの日に母がくれたもの。これにて馬を」と言った。毎日の暮らしに心奪われず武士の面目をわきまえたる天晴れ貞婦の鑑と、信長もいたく感動して多くの褒美をあたえたという。(参考文献:「日本歴史図鑑」省光社)

英雄豪傑、酒を好まず

E_shape_of_a_furnace_for_distillati   本日は「逸話の日」。ヨーロッパ中世、錬金術師がアクァ・ヴィテ(生命の水)という蒸留酒(スピリッツ)を発明した。日本の焼酎、中国の白酒、ウオッカ、ジン、ビール、ウイスキー、ブランデーなどなど今では世界の酒が楽しめる。歴史上の人物と酒にまつわる逸話をあつめる。 

    歴史上で酒好きといえば陶淵明。その詩は「篇篇酒あり」といわれる。次いで李白。「李白酒一斗詩百篇」といわれる。三国志の英雄、張飛、トルコ建国の父ケマル・アタテュルクやエンゲルスも酒豪で知られる。だが世界史の英雄といわれる人物には意外と酒飲みは少ない。シーザー、チンギスカン、ナポレオン、マリア・テレジア,ヒトラー、毛沢東。みんな酒を好まなかった。ナポレオンやバルザックは酒よりもコーヒーを好んだ。 

    反対に西洋史のうえで最大の英雄アレクサンダー大王は、ふだんから常人より体温が高く喉がかわき、酒をよく飲んだ。画家ゴッホは飲酒によって絵を描く際に必要な興奮が得られると手紙に書いているから酒好きだったらしい。ベートーベンも酒好きだった。 

   日本史でも毛利元就、源義経、芭蕉は酒を飲まなかったらしい。芭蕉の道中行脚の掟に「好んで酒を飲むべからず」とある。門人の其角の大酒を芭蕉は戒めたという。上杉謙信や織田信長は酒豪だったらしい。ただし明智光秀は下戸。堀部安兵衛、赤垣源蔵が大酒飲みというのも作り話らしい。意外なところでは西郷隆盛、大久保利通、武市瑞山、近藤勇らもあまり酒は飲めなかった。夏目漱石は下戸な質だが、不安を癒すため飲んだビールは酒乱気味だった。 

  福島正則、雷電、良寛、山岡鉄舟、黒田清隆、伊藤博文、福沢諭吉、大町桂月、若山牧水など酒豪の逸話も多い。( keyword;aqua vitae,Caesar,Napoleon,Kemal Ataturk,Balzac )

竹中半兵衛の逸話

    竹中半兵衛重治(1544~1579)は、はじめ斎藤龍興に仕えたが、永禄7年、舅の安藤守就とはかり、白昼わずか16人で稲葉山城を奪って、数ヶ月後には龍興に返還した。その動機については、龍興の重臣斎藤飛騨守に櫓上から小便をかけられるという侮辱をうけた報復であるとも、龍興の重臣日根野備中守と舅守就との間に隙を生じ、日根野が安藤一族を討とうとしたため、その機先を制したものともいう。 

    竹中半兵衛は、そののち織田信長に仕え、羽柴秀吉に配属される。秀吉が近江浅井攻め最前線の横山城の城番となったさい、秀吉の留守に浅井長政の攻撃からよく城を守った。その後、秀吉の中国経略に従い、黒田官兵衛とともに軍師的な役割を担ったが、天正7年、播磨三木城包囲の陣中で発病。付城の平井山城で没した。 この間、黒田官兵衛が荒木村重の説得に失敗して幽閉されたとき、信長の命に違背して、官兵衛の人質松寿丸(のちの黒田長政)を菩提山城にかくまった話など、多くの逸話がある。(参考:『歴史読本』2005年8月号)

ナポレオンの猫ぎらい

504461616639     地中海に浮かぶコルシカ島には猫がたくさんいることで知られている。だがこの島で生まれて9歳までいたという英雄ナポレオンは猫が大キライだったそうだ。連隊長時代に壁に飾ったタペストリーの裏側に隠れていた猫を連隊旗で串刺しにして殺したという殺伐としたエピソードがある。おそらくナポレオンの猫嫌いは幼年時代のコルシカ島に始まると考えられるが、その理由は謎に包まれている。 

   酒は水で薄めたのを好み、たばこは「体に悪い」と吸わず、代わりにコーヒーをよく飲んだ。怒りっぽく、いつも神経をピリピリさせていたが、妻のジョゼフィーヌをこよなく愛し、その柔らかく、優しい声で疲れをいやしたことがよくあった。舞踏会などは苦手であった。読書家で睡眠は3時間というエピソードは有名だ。

コロンブスの卵

Photo_8     1493年、クリストファー・コロンブスが第1回の探検で西インド諸島のキューバ島などを発見してスペインへ帰還した。このとき、盛大な歓迎会が開かれた。その席上「コロンブスでなくても誰でも西の海へ航海すれば新しい土地は発見できたわけだよ」というささやきを耳にした彼は、テーブルに並んだゆで卵を指して「皆さん、これを立ててごらんなさい」と言った。その場にいあわせた人々が卵を立てようと、いろいろ工夫してやってみるが誰ひとりとしてできなかった。「あまり難しいことではありませんよ。まあ、わたしのやるのを見ていてください」といい、コロンブスはゆで卵のはしを少したたいて立たせた。「なんだ、そうすれば誰でもできる、なんでもないじゃないか」と言いあって笑った。彼は「そうです。卵を立てるなどなんでもないことです。でも、あなた方は誰ひとりとして気がつかず、私だけが気づいたのです。最初にやるのが貴く、大切なのです」と言って笑った。「コロンブスの卵」の話は、発見、創造性というものの難しさを教えてくれる。科学者の中谷宇吉郎も「立春の卵」という随筆で、落ち着いて静かにやってみれば、10分ほどで卵は立つ、と書いている。いま大学では、目の前に横たわる卵を生徒であるとして、体育大学生に、躓いている生徒を指導して、「卵を立てる」ことを実践する、という面白い授業があるそうだ。

マリー・ロイド

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ミュージック・ホールの楽譜に描かれたマリー・ロイド(1890年)

    ロンドンの下町に生れたマリー・ロイド(1870-1922)は1885年、15歳でミュージック・ホールでデビューするとヒットを連発して20歳前後には主なミュージック・ホールにかけもち出演するほどのトップ・スターとなった。その名声はロンドンだけでなく、パリ、ベルリン、ニューヨークさらにオーストラリア、南アフリカにまで及んだ。世紀末のイギリスを代表する三人の女性として、ヴィクトリア女王、ナイチンゲールと並んで彼女の名をあげる人もいるほどの著名人となった。だが1920年代の映画の時代の到来とともに多くのミュージック・ホールは衰退していき、彼女の栄光も人々の間から忘れ去られるようになった。1922年、マリー・ロイドは出演していた劇場の舞台で崩れるように倒れた。彼女が病んでいたことを知らなかった観客は、演技とばかり思いこんでいた。3日後に彼女の死去を告げる新聞売り子の叫び声に、ロンドンの繁華街の交通は一時止まったほどだったといわれる。

如拙「王右軍書扇図」

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   中国の書聖王羲之が扇売りの老婆の扇に書をかいてやったので人が競って買ったという故事を描い作品。如拙は室町時代初期の画僧で、相国寺の僧であったと考えられるが、出身地など伝記を窺うに足る史料はじつに乏しく、生没年など一切不明である。この作品のほか、「瓢鮎(鯰の古字)図」「三教図」など三点が残っているが、南宋の梁楷を学んだ跡がうかがえる。雪舟は彼を師と呼んで敬仰したのである。「王右軍書扇図」(1423年以前)はかっては守屋孝蔵のコレクションであったが、現在は京都国立博物館が所蔵している。

シャルルマーニュ(カール大帝)

Charlemagneliege1    本日は「逸話の日」。「い(1)つ(2)わ(8)」の語呂合わせ。 カール大帝(742~ 814)の814年の忌日なので、カール大帝の逸話を集める。ピピンの子。フランク王(768~814)・西ローマ帝国皇帝(800~814)。仏名はシャルルマーニュ、英名はチャールズ、独名はカール、西名はカルロス。 

    シャルルマーニュは西ヨーロッパの大部分をひとまとめにして、かつての西ローマ帝国が復活したかのような大帝国・フランク王国をつくりあげたので、彼の偉大さはヨーロッパ人の心の中に、いつまでも残った。そして彼の死後、詩人たちは『シャルルマーニュの歌物語』を書いた。その中でも、大帝の第1回スペイン遠征の際に戦士した勇士ローランを歌った「ローランの歌」はとくに有名だ。歌物語では、シャルルマーニュが200歳を超え、髪もひげも雪のように真っ白な姿で登場し、キリスト教徒を守るためにサラセン人と雄々しく戦っている。もちろん、現実のシャルルマーニュは、そんな高齢まで生きたわけではなく、72歳で死んでいる。しかし中世の君主としては、彼はかなり長生きだった。このように長寿を保つために、彼は独特の健康法を実践していたという。そのひとつがスポーツで、乗馬と狩猟も好きだったが、とくに水泳が大好きで、彼のアーヒェンの宮廷には大温泉プールがつくられていた。彼は宮廷の人びとを引き連れて水泳を楽しみ、ときには100人もの人がプールを埋めたと伝えられる。 

    彼は酔っぱらいが嫌いなので大酒はしなかったが、大食いで、「断食は体をこわす」といって、好物の焼肉をむやみに食べた。医者が慎むようにいうと、ひどく立腹した。5回結婚し、そのほかに第2夫人が4人いた。そのため20人ほども子どもがあった。彼は遠征にも旅行にもこの大家族全員を引き連れていた。息子たちは早死にする者が多く、彼の死後まで生き残ったのは、たったひとりだった。娘たちは、たいてい無事に育ったが、彼は娘の結婚をなかなか許さなかった。婿が強大になることを恐れたのである。そこで彼女たちは、親の許しを得ずに勝手に結婚したりして、宮廷のスキャンダルになった。

劣等生だったジョン・F・ケネディ

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   ジョン・F・ケネディは、1917年5月29日にマサチューセッツ州ブルックラインで、実業家ジョセフ・P・ケネディ・シニア、ローズ・フィッツジェラルド・ケネディ夫妻の次男として生れた。少年時代のケネディは体が弱い子だった。生まれつき背骨に障害があり、怪我をしやすく、しばしば激痛に襲われた。1930年、13歳のケネディはカトリックの寄宿学校カンタベリー・スクールに入学したが体調不良になり、1年後に家に送り返された。父はケネディを兄の在籍していたチョート校に転校させた。しかし、もともと兄に対して激しいコンプレックスを持っていたケネディにとってチョート校での日々も楽しいものではなかった。チョート校の寮監先生は、ケネディの父親にこんな手紙を書いている。

 

「息子さんは土壇場にならないと勉強しませんし、約束の時間も守りません。ものに対する価値感覚がほとんどなく、自分の持ち物の置き場所もわからなくなります」

 

  成績はどん底で、ラテン語に至っては落第している。勉強する気にさせることはとうてい不可能と思われた。良い成績を取ると、父親はヨットだのヨーロッパ旅行だの馬だのといった高価なものを買い与えたが、いったんプレゼントが手に入ると、また逆戻りだった。結局、未来の大統領は、112人中64番という成績でチョート校を卒業している。それでも卒業時のクラス投票では、「将来最も成功しそうな人」に選ばれた。

 

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 現在のチョート・ローズマリー・ホール(コネチカット州ウォリングフォード)

ニーチェとシュティフター

    アーダルベルト・シュティフターの『晩夏』という小説は、読まれることが少ないのに、かなり有名な作品である。その理由は、この小説の評価がほとんど極端と言っていいほど、賛否両論に分かれているからである。シュティフターと同時代の劇作家フリードリッヒ・ヘッベルは、この小説を終わりまで読み通した人には「ポーランドの王冠を進呈しよう」と酷評したが、ニーチェは、繰り返して読むに値する僅かな作品の一つとして、「ドイツ文学の宝」と推賞した。ガストへの手紙では、ゲーテの「獅子のノヴェレ」のように「爽快で治癒力があり、愛情細かく、明るく晴れやか」といわれ、オーヴァーベックらにも再三これを読むよう奨めている。ベルトラムはニーチェのシュティフターへの共感を、秋の至福への思いやその中の教育的情熱からのものとしている。 しかしながらニーチェが、自らとは本質的に異質なシュティフターをこのように高く評価するのは、いかにも不可解と疑問視している学者もいる(「ニーチェ事典」山本尤)。それは、当時のニーチェのすべての文学評価を支配していたのは、ゲーテとワーグナーという二項対立的芸術家類型で、ピトレスク風で大仰なデカダンスのワーグナーに対する失望の間接的な表現として、その対極のゲーテとの近親性でシュティフターが持ち上げられたのではないかと山本は推測している。

高橋新吉 ダダと禅

E0186332_2010521_2    高橋新吉(1901-1987)は、明治34年1月28日、教師・高橋春次郎、マサの二男として、愛媛県西宇和郡伊方村小中浦(現・伊方町)に生まれる。新吉6歳のとき、父が鉱山会社に勤務し、八幡浜へ移転する。新吉11歳のとき、母マサが亡くなる。新吉13歳のとき、八幡浜商業学校(現・八幡浜高等学校)に入学する。その後、父が後妻を迎えたため、新吉は卒業間際の大正7年2月、無断で上京するが、数ヵ月後郷里に帰る。その年の春、二度目の上京のときは、チフスにかかり行路病者として養育院に収容され、2ヵ月後に帰郷。大正9年、「万朝報」の懸賞短編小説に「焔をかかぐ」が入選した。そして8月15日、同紙掲載のダダイズムの紹介記事を読み、強い衝撃をうけた。ルーマニアの詩人トリスタン・ツァラの「ダダ第一宣言」である。翌大正10年2月、郷里の真言宗出石寺に入り、8ヵ月の修業の後三度目の上京をする。大正10年12月ガリ版で「まくはうり詩集」を60部作って、知人に配った。それを持って辻潤を訪ねた。そして大正12年には「ダダイスト新吉の詩」が刊行され、その強烈な破壊的精神で注目されるようになった。しかしこの詩集は辻潤が新吉に無断で出版したものであった。そのとき八幡浜の警察の留置所にいた新吉は、この詩集を受け取って破り捨てたという。書名も辻が勝手に決め、杜撰な編集でノートの書きさしや未定稿の詩が混じっていて誤植が多かった。このように高橋新吉は、ダダイスト詩人として紹介されるが、その後の彼はダダとは訣別し、心の病を禅修業により克服し、悟りを得た。「私はダダは初歩的な禅の亜流に過ぎないと思っている」(日本のダダ)と言っている。昭和62年6月5日、高橋新吉は86歳で亡くなったが、詩集のほかに小説集、仏典研究、美術評論集も多い。

2014年1月27日 (月)

坂本龍馬と酒

0709     2005年にアサヒビールが全国の20歳以上の男女を対象として「一度で良いから、お酒を飲み交わしたい歴史上の人物は?」調査したところ、男女とも1位坂本龍馬、2位織田信長、3位聖徳太子だった。「彼が現在の日本を見たら何を思うか、意見を聞いてみたい」とアドバイスをもらいたいという声が寄せられた。

イタリア映画「火」(1915年)の主演女優は?

  ピエロ・フォスコ(本名ジョヴァンニ・パストローネ)監督の「火」(Il fuoco)はピナ・メニケリ、フェボマリ主演の上流階級のメロドラマ。ピナ・メニケリ(1890-1984)は妖艶美で人気のあった無声映画初期のスター。主な出演作品は「王家の虎」「火」「ヘッダ・カブラー」など。1924年引退。

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          18歳のころ              25歳のころ

屹度馬鹿

   広辞苑に載っている言葉。「屹度馬鹿(きっとばか)」意味は「外貌はいかめしく立派であるが、内心の愚かなこと。また、その人。利口そうに見えながら、実は馬鹿な人」

アイルランド文学

Jamesjoyce93586762402    「庭の千草も虫の音も 枯れて淋しくなりにけり。ああ白菊、ああ白菊 ひとりおくれて咲きにけり」日本人にはおなじみの小学校唱歌「庭の千草」。この美しいアイルランド民謡の原詩は、トマス・ムーア(1779-1852)の「夏の名残りのバラ」である。日本では「白菊」だが元歌は「バラの花」なのだ。トマス・ムーアは「アイルランド歌謡」(1808-1834)において、アイルランドの情緒に合った英詩を作ろうと試みた。これがイギリスで歌われるようになり、究極的にアイルランド文芸復興を促進することとなった。 

    アイルランド人の祖先、古代ケルト人は文字を持たない民族だった。そのかわり、英雄伝や部族の系譜などを口承によって子々孫々へと伝えてきた。これらのことから、アイルランド人はかえって言葉に魂をこめ、より豊かな表現力を身につけたのではないだろうか。 

   「ガリヴァー旅行記」で知られるジョナサン・スウィフト(1667-1745)はアイルランドに生れ、この国の司祭であった。アイルランドがイギリスの文学に最も貢献したのは18世紀の喜劇においてであろう。 

    アイルランド出身の文学者を18世紀からざっとその名をあげてみる。
ジョージ・ファーカー(1678-1707)
ウィリアム・コングリーブ(1670-1729
トマス・バーネル(1679-1718)
ローレン・スターン(1713-1768)
オリヴァー・ゴールドスミス(1728-1774)
リチャード・ブリンズリー・シュリダン(1751-1816)
シェリダン・レ・ファニュ(1814-1873)
ブラム・ストーカー(1847-1912)
オスカー・ワイルド(1854-1900)
ジョージ・バーナード・ショー(1856-1950)
ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865-1939)
ジョン・ミリントン・シング(1871-1909)
ダンセイ卿(1878-1957)
ショーン・オケーシ(1880-1964)
ジェームズ・ジョイス(1882-1941)
ショーン・オフェイロン(1900-1991)
サミュエル・ベケット(1906-1989)
フラン・オブライエン(1911-1966)
アイリス・マードック(1919-1999)
ブレンダン・ビーアン(1923-1964)
ウィリアム・トレヴァー(1928-   )
エドナ・オブライエン(1932-  )
ジョン・マクガハン(1934-2006)
トマス・マーフィ(1935-  )
シェイマス・ヒーニー(1939-  )
ロディ・ドイル(1958-  )
 

「ダブリン市民」を書いたジェイムズ・ジョイス(画像)は故郷ダブリンを捨て、国外を放浪しつづけて一生を終えたが、その作品はアイルランド人、ダブリン市民を対象にしたものが多かった。

「東京家族」は「東京物語」のリメイクか?

Tokyo_monogatari_poster_2    山田洋次の「東京家族」を昨夜テレビで観た。リアルタイムでも視聴者の感想は「感動した」「泣けた」という声が多い。昨今は「感動した」「泣ける」が映画の高い批評となっている。だが作品そのものは小津作品のムードではなく、伝統的な大船調のホームドラマ的な印象を受ける。通俗的に受けはいいものの、小津のような芸術的な香りはない。戦争の傷跡の代わりに東日本大震災を使ったことも安易な感じがする。前作では原節子が戦争未亡人だが、現代に置き換えて、震災ボランティアで妻夫木と蒼井が知り合ったという設定になっている。つまり戦後の家族崩壊というテーマよりもむしろ震災後の希望と再生が大きなテーマになったといえる。やはり「東京家族」は「東京物語」とは全く異なる作品とみるべきだろう

2014年1月26日 (日)

ドラコン

Photo    紀元前621年ドラコンがアテネで最初の成文法を制定した。これはアリストテレスの「アテナイ人の国制」の伝承であり、ドラコンが制定した法がどのようなものだったかについては、アリストテレスは、「刑罰の重さによる過酷さのほかは、なんら記憶に値する独特なものはない」と記しているだけである。Drakon

英雄から卑劣漢へ「ウンベルト・ノビレ」

200712775h    ウンベルト・ノビレ将軍(1885-1978)を知っているだろうか?1926年、アムンゼンらとともに飛行船で北極海横断に成功した英雄である。だが1928年、ふたたび北極飛行した際に、墜落し隊員8名が遭難。救出活動によってノビレはスウェーデンの飛行機に、7名はロシア船で救助された。これがノビレだけが先に脱出したととられ、世間から卑劣漢として断罪された。将軍号は剥奪され、公職からも追放される。アメリカで淋しい余生を過ごした。(Umberto Nobile,Roald Amundsen)

世界の不思議 ノアの洪水の謎

Noahsark

   「後は野となれ山となれ」これに近い英語表現は、 

我々が死んだ後に大洪水よ起これ 

After us the deluge. 

   やはりノアの大洪水が基本にあるように思える。聖書に記されたノアの箱舟伝説は何を意味するのだろうか。伝説ではなく、ニネヴェで発見された粘土版には、大洪水について記された断片が見える。創世記6ー15によると、「長さ300アンマ、幅50アンマ、高さ30アンマ」とある。アンマとは、口語聖書ではキュービット、ほぼ腕の長さで約46cm。(神殿キュービットはさらに一手幅(7.5cm)を加える) つまり箱船の大きさは138×23×15mとなり、長方形だった。この船は3層をなし、なかには個室があり、側面には戸口があり、天窓が開くようになっている。ノアの箱舟を建造している人がいるだろうか。ノアの箱舟が流れついたとされるトルコのアララト山(標高5137m)に1829年フリードリヒ・パルロットはロシア登山隊を率いて初登頂に成功した。

(Noah)

気になることば「のろま」

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 野呂松人形

    江戸中期、人形浄瑠璃の一座に野呂松勘兵衛という人形の遣い手がいた。勘兵衛の扱う人形は、頭が平たく、色が黒かった。さらに、身なりがみすぼらしい上にとても鈍重な役である。ところが、その扱い上手だったので、大評判になった。しまいには、動作が鈍重な人を「あいつは、のろまつだ」と言ったりする流行語が生れた。これが「のろま」の語源で、つまり、「のろま」は「のろまつ」を略した言葉なのだ。(「雑学大全2」)

2014年1月25日 (土)

漢字一文字の題名の小説

Kokoro15   作家が小説の題名をつけるとき、どのような思いが込められているのかさまざまであろうが、漢字一文字という場合はことさらに印象が強い感がある。すぐに思いうかぶ作品は、芥川龍之介「鼻」、夏目漱石「門」、森鴎外「雁」の三作品。それから山本有三の「波」「風」、長塚節「土」、島崎藤村「春」、谷崎潤一郎「卍」「鍵」、カフカ「城」。室生犀星「蝶」、志賀直哉「兎」、上林暁「野」、三島由紀夫「剣」、司馬遼太郎太郎「峠」、竹西寛子「蘭」、中上賢次「岬」、富田常雄「面」、藤井重夫「虹」、河野多恵子「蟹」、丹羽文雄「顔」、宮尾登美子「蔵」「櫂」。綱淵謙錠には「斬」など48作が漢字一文字である。夏目漱石の「こころ」は自身が装幀した単行本の箱の背には「心」と漢字一文字である。

ヒッチコック映画の美女たち

Diane_baker     ヒッチコックのサスペンス映画には美女が登場する。ジョーン・フォンテーン(レベッカ、断崖)、テレサ・ライト(疑惑の影)、イングリッド・バーグマン(白い恐怖、汚名)、グレース・ケリー(ダイヤルMを廻せ、裏窓、泥棒成金)、キム・ノバク(めまい)、ジャネット・リー(サイコ)、ティピー・へドレン(鳥、マーニー)などが代表的である。助演だが「鳥」のスザンヌ・プレシェットや「マーニー」のダイアン・ベーカーも加えてもいい。スザンヌ・プレシェットは惜しくも他界したが、ダイアン・ベイカー(画像)は75歳で現在もプロデューサーとして活躍している。目鼻立ちのはっきりした美人だが、映画では比較的地味で、ドラマ「逃亡者」最終回でキンブル医師と結ばれるジーン・カーライル役が印象に残る。

   映画「マーニー」はマーク(ショーン・コネリー)が経営する出版社に求人広告をみてやってきたマーニーは女泥棒だった。マークはそれを知りつつ彼女を雇い、やがて2人は結婚する。マークは彼女の犯行が一種の発作であり、その真因が子どものときに受けたショックにあるとつきとめる。赤い恐怖は売春をしていた母親の客を殺した血の色だった。ダイアンの演じるリルはマークの亡くなった妻の妹役で、マークとマーニーの恋路を邪魔するという役どこだった。


ネコはなぜネコという名がついたのか?

Shocotanneko2  ネコという言葉は、寝子(ねこ)から来ているらしい。いつも寝てばっかりだからか。ネコは古くネコマといった。それは「寝子魔(ねこま)」の意で、高麗(こま)から渡来した動物で、よく寝るからそういう名がついたと考えられている。その中のマの字が次第に発音されなくなって、ネコになった。

2014年1月24日 (金)

伴食大臣

   無能な大臣。唐代、宮中に毎日出勤する高官には食事を賜った。そこで、会食をするだけで、実力も実権もない大臣を、あざけって「伴食大臣」と言った。

チッタゴン どこにありますか?

20090405bangladesh_travels100   チッタゴンはダッカに次ぐバングラデシュの第2の都市であり、最大の海港である。人口は350万人を超え、横浜市くらいある。第2都市とは、国家・地方など、ある特定の範囲内において、第1都市に次ぐ都市のこと。アジアにおける第2都市を人口を基準としてあげてみる。

 

カンダハール(アフガニスタン)
アブダビ(アラブ首長国連邦)
アデン(イエメン)
エルサレム(イスラエル)
バスラ(イラク)
マシュハド(イラン)
デリー(インド)
スラバヤ(インドネシア)
サラーラ(オマーン)
釜山(韓国)
シアヌークビル(カンボジア)
開城(北朝鮮)
ジッダ(サウジアラビア)
アレッポ(シリア)
キャンディ(スリランカ)
チエンマイ(タイ)
高雄市(台湾)
北京(中国)
アンカラ(トルコ)
バクタプル(ネパール)
ラホール(パキスタン)
ラマラ(パレスチナ自治区)
セブ(フィリピン)
パロ(ブータン)
トゥトン(ブルネイ)
ハノイ(ベトナム)
ジョージタウン(マレーシア)
マンダレー(ミャンマー)
ダルハン(モンゴル)
アカバ(ヨルダン)
ルアンパバーン(ラオス)
トリポリ(レバノン)

 

(Chittagong)

シャニダールの花粉はネズミが運んだものだった!?

Photo_4   イラク北部クルディスターンにあるシャニダール洞窟で1960年に9体のネアンダルタール人骨が発掘された。そのうち4体は埋葬されたもので、化石とともに数種類の花粉が発見された。アメリカの考古学者ラルフ・ステファン・ソレッキは「ネアンデルタール人には死者を悼む心があり、副葬品として花を添える習慣があった」という報告をしたため、約6万年前のネアンデルター人が現代人と同じような感情があるものとして世界的に知られるようになった。だが近年になって、ソレッキの説を疑問視する学者もいる。ネアンデルタール人が埋葬をしていたことは事実であるが、花粉が死者を悼むための花であったかは疑問も多い。ネアンデルタールがDNA解析で現世人類と異なる系統にあること、現代人のような前頭葉を持たないこと、などが理由にあげられる。近年、これらの花粉は洞窟の中に巣くっていたネズミが持ち込んだものという説が出されている。(Shanidar,Neanderthalensis,Ralph Stefan Solecki)

 

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永井久一郎と東京書籍館

Kyuichirou_nagai  永井荷風(1879-1959)は、明治12年12月3日、東京市小石川区金富町45番地(現在の文京区春日2-20-25)に永井久一郎、恒(つね)の長男として生まれた。父・永井久一郎(ながいきゅういちろう、1851-1913)は後年の官僚・実業家としての経歴以外に、禾原(かげん)と号し漢詩人として知られ、若い頃は明治初期の公共図書館のはじめである書籍館の運営に尽力したこともある。母・恒は尾張藩儒学・鷲津毅堂(1825-1882)の長女であり、荷風は鷲津の家系であることを誇りにしていた。 

   永井久一郎は愛知県愛知郡鳴尾村(:現在の名古屋市南区)に父・永井匡威、母よねの長男として生まれた。永井家は製塩業などを営む豪農として知られていた。名を永井匡温(ながいまさはる)といい、尾張藩儒の鷲津毅堂に漢学を学び、森春涛から漢詩を学び、箕作麒祥に英語を学んだ。 

   明治4年7月父の死去にともない、久一郎は家督を二男の永井松右衛門に譲り、名古屋藩の貢進生として渡米し、ラトガーズ大学グラマー・スクールで勉学する。帰国後の明治7年、工学寮二等少師となり、ついで文部省に9等出仕として、東京書籍館(帝国図書館の前身)に配属される。明治8年4月、文部省は書籍館を浅草から湯島に再び移転し再開したが、館長の畠山義成(1842-1876)は病気となり、8月2日、8等出仕永井久一郎は書籍館館長補に任ぜられる。畠山は翌年10月、渡米の船中で客死している。 

   明治10年2月15日に西郷隆盛が西南戦争を起こしたため、明治政府の財政を圧迫し、経費削減のため東京書籍館は閉鎖することになった。しかしその運営を東京府が申し出たため、3月28日、文部省は書籍館を東京府に引き渡しを決定し、永井久一郎は、諸準備を終えて、5月4日正式引き渡しとなった。この蔵書が完全に今日の国立国会図書館に引き継がれているのは東京府のおかげであり、また永井久一郎の尽力によるものが大きい。 

 東京府に引き取られた書籍館は、東京府書籍館と改称されて、5月5日開館となった。明治10年12月7日に専任館長としてニ橋元長が幹事(館長職)に任命され、翌11年11月19日学務課の所属となってその体制をととのえた。次いで明治12年4年9日には、岡千仭が2代目幹事として着任した。永井久一郎は内務書記官となり、明治17年ロンドン万国衛生博覧会に事務官として出張し、デンマーク万国衛生会議委員となる。

 永井久一郎著作目録
汽機学(訳書)  文部省  1885
衛生二大工事 巡欧記実 忠愛社 1887
西遊詩
西遊詩 続編 来青閣 1902
雪炎百日吟稿 1905
観光私記 1910
来青閣集 1913

連続クイズ・ホールドオンは参加するものでなく観るもの

126550_400     NHK平日昼に放送している連続クイズ・ホールドオンが3月末で終了するらしい。フランスの人気番組をベースに一般市民が参加する本格的クイズ番組だった。チャンピオンとなって勝ち続けると何回でも出場を続けることができる。物知り博士として有名になり、写真が飾られる。賞金はなく栄誉のみ。やはり申し込み者が少ないのは魅力的な賞品がないことであろう。公共放送としての限界がある。この番組を楽しみにしていたのは、クイズで新しい知識を得ることができたことにある。また自分がどのようなジャンルに弱いかがわかる。20代から50代の自分より若い世代が多く、趣味も多様であることも楽しみの一つ。旅行やスポーツなどさまざまな活動をしながら現代をアクティブに生きている。また家族が揃って応援している光景も楽しい。気になることもある。出場者の個人プロフィールを過剰に演出するあまり、ウザイと感じる視聴者もいるだろう。かつてのクイズ番組「アップダウン・クイズ」などは簡単な紹介だけで、10問正解するとハワイに行けた。家族が応援することもないし、趣味を聞かれることもない。ホールドオンは個人をさらして、簡単な問題に答えることができず、敗北感だけが残る。参加者が少ないのは、つくり笑いをさせられて、敗北感だけが残り、賞金なし、というのが本当の理由ではないだろうか。

2014年1月23日 (木)

確定申告不要でも「住民税」の申告が必要だ!!

M_e7a2bae5ae9ae794b3e5918a2014    いよいよ面倒な確定申告の時期が近づく。高齢者などの公的年金を受給されている方は確定申告が不要になる場合がある。①公的年金等の収入金額の合計が400万円以下②公的年金等に係る雑所得以外の所得金額が20万円以下。しかしながら所得税の確定申告書の提出義務のない方は、原則として市町村へ住民税の申告書を提出する義務がある。一般にあまり知られてないが、実は「住民税の申告が必要」なのでとくに注意する必要がある。もし住民税の申告をしていなければ、高額の住民税や国民保険料の請求が届いてたいへんおどろくことになるので必ず届出は済ませておこう!住民税(市・県民税)の申告に必要な書類は、①申告書、②印鑑、③年金や給与の源泉徴収票、④生命保険料・社会保険料等の支払証明書、医療費の領収書、障害手帳等。

曹操の墳墓「高陵」は本物か?

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    220年のこの日、魏の曹操は65歳で没した。曹操は蜀の先主劉備、呉主孫権に較べて甚だ不人気な人物である。それらは専ら「三国志演義」などの語り物や芝居の世界から来るものであろう。しかし、歴史上の曹操は、ながい中国の歴史の中でも、ほかに見出しがたい稀代の英雄である。その曹操の陵墓とみられる「高陵」(河南省安陽県安豊郷西高穴村)の発掘調査が行われた。中からは、200点以上の金銀や鉄、銅などの埋葬品や鉄剣が見つかった。曹操の墓であるとする碑文も出土し、「高陵」が曹操の墓と断定された。曹操は「建安25年正月、洛陽に崩ず。年66」と三国志に記されており、「棺におさめる時には平服を用い、金銀の珍宝を入れてはならぬ」という遺命を残して死んだと伝えられており、歴史文献と考古学出土文物との整合性が興味あるところとなっている。しかし、墓は盗掘されており、観光地化を狙った地元のでっち上げではないかという声もある。そこで中国全土の「曹」の姓をもつ男性から血液を採取して、墓から出た遺体のDNAと比べて科学的に検証するという。はたして曹操の墓は本物か?

2014年1月21日 (火)

「虎魚」何と読むの?

①虎魚

②大蒜

③白膠木

④慈姑

⑤菠薐草

⑥凌霄花

⑦石蓴

⑧縋りつく

①おこぜ、②にんにく、③ぬるで、④くわい、⑤ほうれんそう、⑥のうぜんかずら、⑦あおさ、⑧すがりつく

音楽に国境はあるのか?

A0008885_2314950   「音楽に国境なし」とは広くいわれる言葉であるが、堂本光一は「ちょこっとサイエンス」という番組で「悲しい曲を聞いたら、世界のどの民族も悲しく感じるのか?」という疑問を投げかけていた。番組での回答はまだ見ていない。数年前、南アフリカでサッカーのワールドカップが開催されたおり、民族楽器のブブカの音色は不快な雑音にしか聞こえなかった。楽しい音、悲しい曲と感じるのは民族によって相違があると思う。そもそも「短調は暗く、長調は明るい」というのは西洋クラシック音楽によって世界に広まったものであり、全民族共通の感覚というより西洋音楽が広まった結果に他ならない。明治の初めに来日した外国人の音楽教師たちは、江戸伝統の邦楽に親しんだ日本人は到底西洋音楽は理解できないと感じたらしい。それが150年経つとJ-POPとやらで若者と老人との間には音楽のジェネレーション・ギャップがあるみたいだ。しかしこんな実験結果もある。心臓移植をされたマウスにオペラ「椿姫」の「乾杯の歌」を聞かせると、モーツァルトの音楽を聞かせたマウスよりも拒絶反応が抑えられ生存期間が延びたという。帝京大学の新見正則教授はこの研究成果により2013年イグ・ノーベル賞を受賞した。

2014年1月20日 (月)

オードリー・ヘップバーンの2人の息子

Seanhferrerlucadotti201010161421386   1993年のこの日、永遠の妖精オードリー・ヘップバーンは、結腸ガンのため63歳でスイスで永眠した。死後20年経ても今なおファンに愛されるオードリー・ヘップバーン。NHK「永遠の妖精オードリー」で女優の松下奈緒がオランダ、フランス、イタリア、スイスを旅する。オードリーは2度結婚している。最初の夫は俳優のメル・ファーラー。1960年に長男のショーン・ヘプバーン・ファーラーが生れる。2度目はエーゲ海クルーズの際に船上で知り合ったイタリア人精神科医アンドレア・マリオ・ドッティ。1970年にルカ・ドッティが生れる。番組でルカが母オードリーの思い出を語る。料理はトマト・ソースのスパゲッティ。チョコレートのタルト。ローストチキン。そしてオードリーの形見の椅子を披露する。「花は必要」(1974)という童謡が想い出。そして松下は晩年住んだスイスのペジーブルを訪ねる。村人はいまでもオードリーの思い出を楽しそうに話す。ガーデニング、犬と散歩、青空市、家族、スイスでの生活は静かで幸せだった。晩年はロバート・ウォルターズというオランダ人俳優と同棲していた。彼はマール・オベロンの最後の夫でもある。 

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新婚のオードリーだが、メル・ファーラーには前妻との間に4人の子がいた

2014年1月18日 (土)

樋口則義

100_higuchi31     樋口一葉の父、樋口則義(1830-1889)は小前百姓樋口八左衛門、ふさの長男として甲斐の国山梨郡中萩原村(現:甲州市塩山)に生まれた。幼名を大吉、後に大輔、八十吉、八代吉、八十之進、為之助などと称した。農業より学問を好んだ。一葉の文学的素質はおそらく父の影響であろう。侍になりたい志をもち、江戸にのぼり、菊地大助という旗本の家に入り、のちに八丁堀の与力・浅井竹蔵の株を買って幕臣となった。大吉が武士でいられたのは1年足らずだった。明治維新後、横滑りのような形で東京府記録方に勤務。東京府庁、警視庁での大吉の官位は最後まで九等官で終わった。最初の月給は10円、明治20年の警視庁退職時は25円だった。明治22年、則義は荷車請負業の事業は失敗し、失意のうちに死亡した。享年60歳。

ジョン・ウィリアムズ

17349868n9ykhpumsqkt4r2b7lch3ch2elv   オードリー・ヘプバーン主演第2作「麗しのサブリナ」(1954年)。ハンフリー・ボガート共演で「カサブランカ」を意識した脚本。たとえばサブリナと弟ウィリアム・ホールデンを結びつけようと工作するのは、船と飛行機との差はあれ、イルザとラザロを亡命させたことを思い起こさす。

   富豪ララビー家のお抱え運転手でサブリナの父トーマス・フェアチャイルドを演ずるのはジョン・ウィリアムズ(1903-1983)。ヒッチコックの作品に多数出演している。

2014年1月17日 (金)

日光東照宮唐門「舜帝朝見の儀」

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    有名な陽明門をくぐると唐門がある。彫刻「舜帝朝見の儀」舜帝は堯帝のあと、禅譲によって帝位に就いた伝説の人物。古来から中国では、堯と舜の2帝が最もよく国が治まった理想の時代といわれている。徳川幕府が目指すべき政権は孝行者として知られた有徳の治世である、との考えを示している。現在の平成の元号も、この舜帝が残した「内平外成」の言葉からとったものである。

洛杉机

New_la_infobox_pic_montage_5 明治期に外国地名を漢字を当てて表記したものが今でもつかわれることがある。倫敦、巴里、羅馬などはだれでも読めるだろう。しかし「羅府」や「桑港」をロサンゼルス、サンフランシスコと読むのはすこし上級だろう。だが現代の中国語表記は日本の漢字表記とは異なるので注意する必要がある。洛杉机、三藩と表記する。

       日本語    中国語
アメリカ  亜米利加  美国
イタリア  伊太里   意太利
ロシア   露西亜   俄羅斯        

削り友達

  「日漢辞典」(商務印書館)を見ていると、「削友達(けずりともだち)が載っている(2398p)。意味は「飲酒(東京木匠的行話」とある。つまり江戸期の大工の隠語で「酒」、「酒飲み仲間」のこと。日本人でも知らない言葉が中国の辞書にあることに驚く。

トライアングル

19149186_jpgr_640_600b_1_d6d6d6f_jp   映画「トライアングル」(2009年)には幽霊船が登場する。誰もいない1930年代の大型客船は不気味である。ジェス(メリッサ・ジョージ)は自閉症の子どもを抱えるシングルマザー。彼女は育児に疲れてノイローゼー気味になっている。友達にヨットに誘われる→嵐で遭難→大型船に乗る→殺し合い→無事に脱出→帰宅するが、家には過去の自分が子どもを殴っている→過去の自分を殺し、車で死体を運ぶ→交通事故→子どもは死ぬが、自分だけ一命をとりとめる→港へ行き、またヨットに乗る。物語は最初にもどり永遠に終わることなく続く。

ワニの涙

Crocodiletear   ワニは餌を食べながら涙を流すという伝説から、他者の哀れみを誘うことを意図した空涙のことを英語で「crocdile tears」(ワニの涙)と表現する。また食事のとき涙分泌が起こる現象を「ワニの涙症候群」という。

2014年1月16日 (木)

文豪の書斎と机

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 司馬遼太郎記念館

   関西には川端康成(茨木市)をはじめ与謝野晶子(堺市)、佐藤春夫(新宮市)、志賀直哉(奈良市高畑)、谷崎潤一郎(芦屋市)、司馬遼太郎(東大阪市)など日本を代表する作家の文学記念館や旧居がある。書斎を再現しているところもあり、生前のままに日用品が置いている。文豪にとって机は切っても切れない相棒である。宇野千代は「書くことよりも大事なのは机の前に座ること」と言っている。

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 志賀直哉が使用していた机

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谷崎潤一郎が使用していた根来塗の机(倚松庵)

  これら文豪は関西以外にも各地に展示室が散在している。

 

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三国路与謝野晶子紀行文学館「椿山房」(群馬県利根郡みなかみ町) 与謝野晶子愛用の黒檀の机

情熱の国スペイン

   「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出す。そしてスペイン人は、走ってしまった後で考える」 行動・思考・情熱の三要素を軸に国民性を見事に比較したのは評論家サルバドール・デ・マダリアーガ(1886-1978)の名言である。▽「アメリカがくしゃみをすれば日本が風邪をひく」といわれるが、もともとは「スペインがくしゃみをすればヨーロッパが風邪をひく」だった。16世紀前半、カール5世、フィリップ2世治世下における最盛時代のスペインについて言われる諺であるが、元来は「スペインが動けば世界はふるえる」と言ったのをおもしろくひねったものらしい。▽「スペインに城を建てる」スペインは憧憬の国だったので、外国人からみてスペインに城を建てることは、他愛もない実現不可能の計画なので「空中に楼閣を築く」という意味である。▽「ピレネーからアフリカが始まる」スペインはヨーロッパにあってもどこか異国風である。乾いた不毛の大地、刺すように照りつける太陽、ローマ帝国やムーア人の侵入と支配により残された特異な文明である。
▽「ジブラルタ・ロックのように安心」ジブラルタ生命のコピー。イベリア半島の南端、地中海と大西洋と結ぶ狭いジブラルタル海峡は、古来から軍事上の要衝地。1713年のユトレヒト条約によってイギリスの手中に帰したものだが、以来イギリスはスペインの度重なる返還要求を頑として拒み続けている。▽毎年8月下旬に「トマティーナ」と呼ばれるトマトを投げ合う祭りがブニョールで開催される。(雑学)

2014年1月15日 (水)

地球の中心から測った場合の世界最高峰は?

Fig3    世界でいちばん高い山がエベレスト(またはチョモランマ、サガルマータともいう)であることは小学生でも知っている。しかし、本当にエベレストが世界でいちばん高いのだろうか。この8848mは海抜、すなわち海面からの高さだが、地球全体をとらえた視点からするなら、山の高さは海面よりむしろ地球の中心からの距離でみるべきだ。ご存じのとおり地球は完全な球形ではなくて、赤道方向に20㎞あまりもふくらんでいる。だとすると、地球の中心からの距離を山の高さと考えるなら、赤道付近の山は南北両極付近の山よりはるかに高くなる。ハワイのマウナケアとエクアドルのチンボラソがエベレストに代わる世界最高峰とする説もある。

AKB48のグループ名の由来

Image_2_3382698    AKB48SHOW新年1回目は完全密着「紅白舞台裏」。大島優子が突如の卒業を発表。AKB48という国民的アイドルは知っているつもりでも知らないことが多い。AKBがホームグラウンドの秋葉原の略称であることはよく知られているが、数字「48」をメンバー48人と誤解されることがある。正規メンバーが48人程度で活動していた時期が長くあったが、メンバー数は固定ではなく、一軍24人、二軍24人という目安で、現在は正規メンバーと研究生を合わせて87人、NMB48など姉妹グループを合わせると総勢300人を超す大所帯となっている。結成当初の事務所社長がoffice48の芝幸太郎といい、姓のシバ(48)から名付けられたといわれている。

汗牛充棟

140111_main   蔵書が極めて多いことを「汗牛充棟」という。運ぶときには牛に汗をかかせ、家で積み上げるときには棟木まで届く、の意味。MBSテレビ「住人十色」(File270)で8000冊の蔵書家を紹介。東京都・立川市に住む大学教員は蔵書の収納に困っていたが新築。高さ3mの壁面書架をつくり、8000冊を収納した。本の高さの2㎝余した間隔で省スペース化を図った。リポーター諸岡なほ子は1988年「スターは君だ」でグランプリを受賞した元アイドル。身長168cmというスタイルとキュートな笑顔だったがなぜか売れなかった。その後ミステリーハンターとして地道に活動し、2011年には結婚。38歳には見えないほど若々しい。

飛躍する「あまちゃん」世代の女優たち

E61a6512d72ab45bf0cc008f4fc50ea4_40    NHK朝ドラ「あまちゃん」には能年玲奈、橋本愛、有村架純の他にも個性ある若手女優が生まれた。「GMT47」のリーダー入間しおり(埼玉代表)を演じた松岡茉優は深谷ネギのPRに貢献したとして埼玉県知事から感謝状が贈られた。4月から放送の木曜時代劇「銀二貫」ではヒロインを演じる。演技力があるだけに期待できる。喜屋武エレン(沖縄代表)の蔵下穂波は芸歴は古く8歳で「ホテル・ハイビスカス」(2002年)で主演デビューしている。

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2014年1月14日 (火)

名古屋から那覇です

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  「名古屋から那覇です」聞きなれたフレーズである。NHKニュース土日の気象キャスター、寺川奈津美。全国16の主要都市の週間天気を紹介する。札幌から東京まで、次いで画面が変わり「名古屋から那覇です」という。16都市を暗記しようとしたができなかった。ネットで調べて札幌、釧路、秋田、仙台、新潟、金沢、長野、東京、名古屋、大阪、松江、広島、高知、福岡、鹿児島、那覇。暗記力が弱くて16都市も記憶できない。東京23区は千代田区、中央区、港区、新宿区、文京区、台東区、墨田区、江東区、品川区、目黒区、大田区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、練馬区、足立区、葛飾区、江戸川区。原口證は2006年に円周率10万桁の暗唱に成功したという。3.14159265・・・と無限に続く。円周率10万桁の暗唱は無意味にも思えるが、ポピュラーな暗記物は何か。子丑寅卯辰巳午未申戌亥も漢字で正確に書くのは難しい。家康、秀忠、家光、家綱、綱吉、家宣、家継、吉宗、家重、家治、家斉、家慶、家定、家茂、慶喜と徳川十五代将軍も暗唱は難しい。 

   記憶の種類は手順記憶、恐怖記憶、エピソード記憶、意味記憶の4つに分けられる。手順記憶は楽器の演奏、自転車の乗り方など、繰り返しからだでおぼえる。恐ろしい体験のような心のおくで深く傷ついた記憶は篇桃体がたくわえている。自分の経験にもとづいたエピソード(物語)記憶は海馬で情報を記号化したあと大脳皮質のいろいなところにたくわえる。地図の上の地名、人名、食べ物の味など、いろいろな知識は大脳の側頭葉の大脳皮質で記号化され、取り出すときは前頭葉がはたらく。

道聴塗説

  どうちょうとせつ。論語に、「道に聴きて塗(みち)に説くは、徳をこれ棄つるなり」とある。道端で聞いたことを、すぐにまた他人に向かって説いて聞かせるのは、よいことを聞いても、深く考えて自分のものにせず、そのまま人に話してしまうことを戒めたことばである。

欣游暢神

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 欣游暢神(きんゆうちょうしん
)

   「楽しくあそんで精神をゆったりさせること」の意。明治20年、伊藤博文は湯田温泉松田屋ホテルのために書いた。景勝地を訪れ精神を癒すことも必要。仙人たちの楽園は蓬莱、泰山、崑崙などの異境の霊域であるが、地上の楽園もいいだろう。人里離れた郊外へ行くのもいい。現代の桃源郷を探してみよう。

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 錦帯橋の桜

2014年1月13日 (月)

イギリスの古城、ドーヴァー城

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    イングランド南東端の断崖ドーヴァーには早くから城砦が築かれたが、ローマ軍が撤退したのちはアングロ・サクソン人が引き続いてここに城郭を構えた。1066年10月14日、ノルマン王ギョームが対岸のノルマンディから海岸を渡ってイングランドを制圧しようとするや、これを察したイングランド王ハロルドは1064年にドーヴァー城をいっそう強化して待機したが、ノルウェー軍との交戦中に不意をつかれて別の場所に上陸されてしまった。あわてて引き返して応戦したもののハロルドは敗死してしまい、その後は、征服王ウィリアム1世(ギョーム)によるノルマン朝の時代に入る。ウィリアム1世は、この港町を重視してドーヴァー城の防備を厳にした。だが、ドーヴァー城が今日みられるように整備されて高度の城郭となったのは、プランタジネット朝の初代、ヘンリー2世(在位1154-1189)の時代である。中心をなすキープからこれを取り巻く城壁や空濠、塔や城門までが完全に残っており、ドーヴァー城はイギリスを代表する古城である。

「ハゲ」はどっちだ

Photo_6   9回裏ツーダン満塁。猛追するもあと一歩及ばず、惜敗。野球に限らず「あと一歩及ばず」ということはよくある。一番違いのハズレ宝くじ。入学・就職も一番差で落第・不採用になる。先日の芦屋市議選挙で1票差で落選した議員が異議申し立てをしているそうだ。むかし滋賀県琵琶市議選でもやはり1票差が問題となった。1票差で落選した松田候補が、最下位で当選した孫候補が得た「ハゲ」と書かれた票は無効だとして訴えたのである。2人の頭皮を検査したところ、松田は見た目でわかる「ハゲ」だった。だが孫は「ハゲ」を隠してカツラをしていた。どちらが本当の「ハゲ」であるかをめぐって裁判沙汰となった。判決は「ハゲは一般的には松田候補を指すものと見られるが、両者の現実的な頭髪状態を考えると、どちらを指しているかは不明確である」として原告の訴えを認め、投票の無効を命じた。

   禿の判定はさて置き、「あと一歩」がリサーチャーには大切なことである。参考奉仕において重要なポイントは手抜きせず、粘り強く深く調べ続けることである。「あと一歩、あと一歩」と念じながら。

もう一枚のモナリザ

Ph_01    レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザは、ルーブル美術館のほかにもう一枚が存在したという。イギリスのサマセットの貴族の家から発見された「アイルワースのモナリザ」ではない。アイルワースは現在多くの美術史家はダ・ヴィンチ自作に否定的な見解を示している。イタリア文化遺産委員会シルヴァーノ・ヴィンチェッティ会長がBS朝日の番組「滝川クリステルのフィレンツェ紀行 もう1枚のモナリザとダ・ヴィンチの謎」で公開した絵画は2010年ロシア人のコレクターが所有している絵画である。このモナリザはルーブルと非常によく似ているが、背景に2本の柱がある。ダ・ヴィンチのモナリザの瞳の瞳孔には、裸眼では見えないが、右眼には「S」、左眼には「L」の文字が黒で描かれている。ロシアで発見されたモナリザにも右眼に「S」の文字が超高解像度の写真で確認できる。Sは弟子のサライ、Lはリザと説明する。つまり、ダ・ヴィンチは男性的要素と女性的要素を共有した人物を理想的と考えていたとおもわれる。だがモナリザの謎は、モナリザのモデルの戸籍調べではなく、「微笑み」の謎であろう。番組はこの点については何も答えてくれなかった。Silvano Vinceti

2014年1月12日 (日)

播磨国黒田氏系図

   ドラマ「軍師官兵衛」では黒田官兵衛は祖父・重隆の代に備前の福岡(現在の岡山県長船町)から播磨に移ったという設定で、小寺の重臣たちから常に外様扱いされたことになっている。しかし、近年の研究によると、播磨国黒田氏系図に九代、二百余年にわたる播磨国黒田氏の一族とみられ、播磨の豪族の家系とみられる。赤松円光の息子・重光ー重勝ー重康ー光勝ー重貞ー重昭ー重範ー重隆と続いた。重隆(1508-1564)の嫡男・治隆が合戦で戦死する。二男・孝隆は、1545年、政敵であった香山重道を討って、その功績により小寺の姓を与えられ、小寺職隆(1524-1584)と称した。播磨黒田氏の血脈は絶えたが、その子、小寺官兵衛に受け継がれる。これが謀将として知られる黒田官兵衛(如水、1546-1604)である。

五十万人の遺産

Img_148849_47867235_0    終戦時フィリピンに日本軍の山下奉文が隠したとされる山下財宝、いわゆるマル福金貨を探すため6人の男たちが暗躍する。三船敏郎、三橋達也、山崎努、堺佐千夫、田島義文、それにフィリピンに残りイゴロット人となった日本兵・土屋嘉男。日本に帰還することを望む土屋が、現地の女、浜三枝に弓矢で殺されるところがよい。主役の三船よりも脇役陣の見せ場が多い。堺佐千夫は若大将シリーズの「赤まむし」、土屋嘉男は「ガス人間第1号」。娘の星由里子が阪急電鉄、逆瀬川駅から降りてくるシーンがある。

   金貨の総数は25000枚といわれ、そのサイズは直径3㎝、重さ31g。議会で不正蓄財の嫌疑をかけられたマルコス大統領は、山下財宝を発見して財をなしたと説明した。

2014年1月11日 (土)

ヒビキ一郎が観客席にいた

20140101_632046    紅白歌合戦にユイちゃんの追っかけ鉄道ファンのヒビキ一郎が観客席にいた。俳優の村杉蝉之介である。BSで正月早々「日本沈没」(2006年)を放送していたら、「大噴火は回避されました」と研究者の役で村杉が出演しているではないか。「あまちゃん」がブレイクしたため彼の知名度もかなりアップしたであろう。NECOで日活「人間に賭けるな」(1964)を観る。藤村有弘、ドン・ガバチョが主役というのも珍しい。マラリーマンの藤村は大宮競輪場でヤクザの妻・渡辺美佐子と出会う。渡辺は異常なまでの執念で競輪選手の川地民夫に賭けている。川地には若い恋人、結城美栄子がいる。当時21歳の結城がとても可愛い。

女預言者ミリアム

    モーセは前13世紀頃の旧約聖書「出エジプト記」に記されているイスラエル人の指導者。モーセより3歳年長の兄にアロンがいる。さらにアロン、モーセの姉にミリアムがいる。彼女はモーセが外国人の祭司エトロの娘チッポラを娶ったことでモーセを非難する。神はミリアム、アロンを叱り、ミリアムは重い皮膚病となり死んでしまう。

敵に塩を送る

   1569年のこの日(新暦1月27日)、上杉謙信が、塩不足に悩む交戦中の武田信玄に塩を送ったとされる。この故事にちなみ本日を「塩の日」としている。

   甲斐の国は、海に面していないので、塩を作ることができなかった。塩は交易によって他国から購入するしかなかった。そこで今川氏真と北条氏康は共謀して甲斐への塩の輸送を断つ「塩留(しおどめ)」を行った。これを聞いた上杉謙信は今川・北条の行為は卑怯だとして、宿敵信玄に義塩を送ったという。この話は、江戸時代の学者、頼山陽によって有名となった「敵に塩を送る」だが、実際に行われたかどうかは定かではない。塩留は現在の経済制裁によく似ている。

新幹線ぼうこう爆破事件

Img_985337_26792183_0    2013年10月11日、東京駅発郡山駅行き東北新幹線「なすの253号」の乗客から男が「車内で爆破する」と言っていると110番通報があった。列車はJR那須塩原駅で停車。乗客ら72人を降ろし、約30分にわたり車内を捜索したが不審物は見当たらなかった。警察によると、酒に酔った男が車内で携帯電話をかけており、「小便したくて膀胱が爆発しそうだ」といった言葉を乗客が聞き間違えたらしい。しかし、「ぼうこうばくはつ」がどのようにして「しんかんせんばくは」と繋がるのか謎である。アホな音韻連鎖はよくある。「府中原産トマト」(宇宙戦艦ヤマト)、「汚職事件(お食事券)」、「札幌、稚内」(さっぱりわからない)」。国語研究所は携帯電話が世の中に氾濫するなか、早急に音韻連鎖対策マニュアルを作成すべし。

2014年1月10日 (金)

ツヌガアラシト

5109f251e335c9866cb7b07f118d34cc     崇神天皇の時代に渡来した意富加羅国(おおからこく)の王子。はじめ穴門(あなと)(長門)にたどり着き、日本海づたいに北陸の角鹿(つぬが)(敦賀)にたどり着いた。都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、アメノヒボコの別名。敦賀駅前に像が建てられている。

郵便料金の値上げ

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   郵便料金が4月から手紙82円、はがき52円になる。切手のデザインは82円がウメ、52円がソメイヨシノ。2円切手は、以前は秋田犬だったが、北海道に生息するエゾユキウサギに変更する。1883年からハガキ料金のうつり変わりを調べると、明治・大正期の一銭五厘、戦後の5円などが懐かしい。

明治16年  1銭
明治32年  1銭5厘
昭和12年  2銭
昭和20年  5銭
昭和21年  15銭
昭和22年  50銭
昭和23年  2円
昭和26年  5円
昭和41年  7円
昭和47年  10円
昭和51年  20円
昭和62年    40円
平成3年   41円
平成7年   50円
平成26年  52円

110番の日

F7682   110番はGHQの勧告で1948年10月1日に、東京等の8大都市で始められた。東京では最初から110番だったが、大阪・京都・神戸では1110番、名古屋では118番、と地域によって番号が異なっており、全国で110番ら統一されたのは1954年からだった。

    アメリカの緊急ダイヤルは警察と救急が同じ番号で911番。(emergency dial)

2014年1月 9日 (木)

もう走れません

Photo   1968年のこの日、東京五輪銅メダリストのマラソンランナー円谷幸吉は「もう走れません」と遺書を残して自衛隊体育学校の宿舎で、頚動脈を安全剃刀で切って自死した。まだ27歳の若さだった。

    広辞苑には多数の人名項目を採録しているにもかかわらず、映画監督の円谷英二はあるが円谷幸吉はない。昭和スポーツ史で欠くことできないアスリートの1人ではないだろうか。

2014年1月 8日 (水)

ローマ、愛の部屋

   スペイン人の女性(エレナ・アヤナ)とロシア人の女性(ナターシャ・ヤロヴェンコ)が旅先であるローマで、最後の夜に出会い、一夜を過ごすレズビアン映画。スレンダーな裸体が美しいが、文学的、芸術的な香りがただよう。エレナ・アヤナはスペインの名女優である。

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早起きは三文の得

  古今東西を問わず、言い慣わされている言葉がある。早寝、早起きに象徴される規則正しい生活習慣は、健康に欠かせない。肉体と精神の健康を保って仕事に励めば、お金もたまるし、賢くもなるのである。より古い形では「朝寝八石の損」という。それだけとりいれが減るというのを、お金に換算して「朝起三両」などともいう。

The early bird catches the warm.

早起きの鳥は虫を捕らえる(イギリスのことわざ)

「十誡」現代篇

Thetencommandmentsnitanaldirodlaroc     サイレント期のヴァンプ女優といえばセダ・バラともう一人、ニタ・ナルディがいる。代表作はヴァレンティノと共演の「血と砂」であるが、セシル・B・デミルの「十誡」現代篇に出演している。「十誡」はモーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出する歴史劇だが、サイレント版には現代篇がある。マーサ・マクタヴィッシュ夫人には2人の息子がいた。兄弟は大工を職としていたが、兄のジョンは正直な男で、弟のダンは多少の不正をしても金銭を得ようと望んでいる男であった。ダンはメリーと結婚して、数年後には建築業者として相当の地位を得ていたが、兄のジョンは依然として一介の大工にすぎなかった。ダンはサリー・ラング(ニタ・ナルディ)という妖婦に迷っていたが、ある教会の建築工事を引き受けた時、セメントの混合に砂を多く混入し不正の利益を働いていた。一日、母がダンを訪ねて来たとき、俄然壁が崩れ落ちて母は下になっ非業の死を遂げた。ダンの不正な事実は世に暴露され、彼はサリーに金策を要求して拒絶された。これを射殺し、逃れる途中激浪におぼれて死ぬ。彼の妻メリーは義兄のジョンに慰められて微かに前途の光明を認めたのであった。

禁煙パイポCMのあの人は今

Img_1180729_30543743_0    1984年に放送されたマルマンの禁煙パイポのCM、真面目そうな男性が小指を立て、「私はこれで会社を辞めました」が流行した。手塚和重は現在73歳で、シルバー人材センターで庭師をやっている。昨夜放送「芸能人今でもスゴイ100人すべて見せます」100人とは映像出演とスタジオゲストを含め、懐かしい顔がそろう。小川ローザ、レジー・ベネット、小磯勝弥、皆川おさむ、山上兄弟、アントン・ウィッキー、オスマン・サンコン、宮田恭男、胡桃沢ひろこ、岸ユキ、相川梨絵、高野浩和、高柳良一、直江喜一、キグルミ、松野有里巳、宮前真樹、武田久美子、中村由真、八反安未果、山口リエ、坂木優子、天馬ルミ子、中條かな子、安西マリア、杉山清貴、小坂明子、庄野真代、黒沢博、小比類巻かほる、平松愛里、やや、中沢けんじ、石井明美、麻倉未稀、SATSUKI、堤大二郎、竹本孝之、中村繁之、森次晃司、押阪忍、川津祐介、マキ上田、ブル中野、キューティー鈴木、B&B、ゼンジー北京、佐藤蛾次郎、大木凡人。

  個人的に「あの人は今」懐かしいアイドルは、「くちづけが怖い」で日本レコード大賞新人賞の久美かおり(現在64歳)。ドラマ「おさな妻」の女優、麻田ルミ(現在58歳)。「ミドリ色の屋根」を歌っていたカナダの歌手ルネ・シマール(当時13歳、現在52歳)。

2014年1月 7日 (火)

人と思想

   清水書院の「人と思想」シリーズは、1966年発刊以来、現在まで193点を刊行し、最近は「ハーバーマス」「ミダース王」「陸奥宗光」とかまで出している。170番以降を掲げる。

 

170「ミュッセ」
171「ヘルダーリン」
172「チェスタント」
173「キケロー」
174「紫式部」
175「デリダ」
176「ハーバーマス」
177「三木清」
178「グロティウス」
180「ハンナ・アーレント」
181「ミダース王」
182「ビスマルク」
183「オパーリン」
184「アッシジのフランチェスカ」
185「スタール夫人」
186「セネカ」
187「ペトロ」
188「ジョン・スタインベック」
189「漢の武帝」
190「アンデルセン」
191「ライプニッツ」
192「アメリゴ・ヴェスプッチ」
193「陸奥宗光」

加茂偲昔館

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  「かもしのぶむかしかん」と読むそうだ。加茂神社の境内の一角にひっそりとある。幕末から明治大正期の農機具や生活用品など古い民具100点余りが展示・保存されている。一度は訪れたいと思っているがまだその機会がない。廃校になった加茂小学校の校舎の一部を再利用して建設した。昭和52年4月1日開設。所在地は三田市加茂742、広野駅から300m。

Photo

   1981年刊行の「兵庫の博物館」には他に「青がえる人形館」が所載されている。全国各地の人形約6000点を収集した個人博物館らしい。神戸市東灘区本山北町4丁目9にあったらしいが、ネットでは一切出てこない。過去に存在したことすら記録として残っていないのは淋しい。

猫に九生あり

F0146804_2313923    猫に九生あり(A cat has nine lives.) 猫は高いところから落ちても足を下にしてふわりと落ちて怪我を免れ、生来敏捷で狡智なため、他の動物よりもしぶとくいきのびるところから生まれたことわざ。反対に「猫も心労にゃ殺される」ということわざもイギリスにある。▽ユダヤ人は猫が嫌いだが、エジプト人は猫をミイラにするほど崇拝している。▽唐の則天武后は猫が嫌いで、宮中で猫を飼うのを禁じた。▽声帯模写の江戸家猫八。現在は4代目だが、初代は祖父にあたる。

昔の名前で出ています

   大河ドラマ「軍師、官兵衛」がスタート。黒田官兵衛のほかにお馴染みの織田信長、豊臣秀吉など著名人も登場。著名人といえば、世の中、復古調らしく、都知事選にも元総理の殿様や元航空幕僚長、元厚生労働大臣などの名前が挙がっている。いっそのこと東条英機や山本五十六の子孫をかついだらよかろう。とくに山本は真珠湾奇襲の大成功で国民的な英雄となった。山本が戦死したときは、国民の大きな悲しみのなかで国葬が営まれ、山本元帥(死後昇進)の仇をとることを誓い、戦争を邁進したのである。結局、真珠湾の博打はうまくいったけれど、あれがきっかけでアメリカ国民の敵愾心を煽ることになった。日本より以上に、アメリカのほうが総戦力の体制を急速に強めた。戦艦大和の艦長だった松田千秋は「山本長官のやった戦さは、あれは素人の戦さですよ」とまで言って、山本を批判している。山本は海軍大臣にすべきで、連合艦隊司令長官は嶋田繁太郎のほうがよかったといっている。つまり海軍人事の失敗が敗因と分析した。それにしても人選に失敗しても懲りないのが日本人の特質である。(「艦長たちの太平洋戦争」 光人社)

スカーレットの2人の妹

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   左からキャリーン、スカーレット、スエレン

    映画史に残る数ある名作のなかでも「風と共に去りぬ」(1939)ほど長く世界中で見られる映画はほかにないだろう。キャストはヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル、レスリー・ハワード、オリヴィア・デ・ハヴィランド、トーマス・ミッチェル、ハディー・マクダニエル、バーバラ・オニールなど。だが脇役の悲しさ、スカーレットの2人の妹、スエレンとキャリーンを演じた女優の名前を覚えている方はよほどの映画マニアだろう。次女スエレンはイブリン・キース(1916-2008)、三女キャリーンはアン・ラザフォード(1920-2012)。アンは2012年6月11日、ビバリーヒルズの自宅で死去した。94歳だった。ヴィヴィアン・リーが生きていればちょうど100歳である。アシュレイの妹を演じたアリシア・レットも98歳で亡くなった。オリヴィア・デ・ハビランド(97歳)、メアリー・アンダーソン(93歳)、ミッキー・クーン(81歳)が健在。

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 アン・ラザフォード

2014年1月 6日 (月)

弘法は筆を選ばず

Main01    書の名人である弘法大師は、字を書くのに、筆を選り好みしない。ほんとうに物事に巧みな人は、道具や材料に文句を言わずにうまくやりこなす、という意。

A bad workman quarrels with his tools.

へたな職人は道具に難癖をつける

2014年1月 5日 (日)

夏目漱石の生い立ち

    夏目漱石は、慶応3年1月5日(1867年新暦2月9日)、江戸牛馬場下横町の名主(なぬし)夏目小兵衛直克(なおかつ)の五男として生まれ、金之助と名づけられた。1月5日は庚申の日にあたり、その日生まれたものは大泥棒になるが、名前に金の字を入れれば難を避けられるという俗信があったので、夏目金之助という名前が誕生したのだ。

   漱石は雅号で、「枕石漱流」(ちんせきそりゅう)すなわち「石に枕して流に漱ぐ」という中国の故事からつけられたものである。その意味は、「負けおしみ」ということで、他人から変人あつかいされていたので、それから考えついたものである。

   明治元年が慶応4年にあたるので、慶応3年は明治改元の1年前ということになる。つまり、簡単にいうと、明治に生まれたといってよく、大正5年、数え年50歳でなくなったから、明治に生まれ、明治を生きぬいた生粋の明治人、江戸の郷士出身の純粋の江戸っ子といえるだろう。慶応3年生まれというのは、幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉の三人もあい前後して生まれており、ともに明治の文豪といわれるようになったのだから、この年は、日本の近代文学史上、記念すべき年である。

   漱石は、父・夏目直克53歳(1817-1897)、母は後妻で千枝40歳(1826-1881)、五男で末っ子である。夏目家は名門で、牛込馬場下横町以下九ヵ町を支配していたいわゆる名主で、紋どころが、井桁に16弁の菊なので、明治になって新たに町名を決める時、喜久井町としたりするくらいの有力者であった。祖父小兵衛直基(1852没)は養子で、武州多摩郡中野邑名主堀江卯右衛門の弟、同州内藤新宿名主高松善六の甥にあたり、高松家を実家として夏目家に入り、道楽者で一代で身代を傾けたといわれる。

   母の千枝は、四谷大番町の質商鍵屋こと福田庄兵衛の三女で、武家奉公をしてきたからさる質屋に嫁したが、まもなく去り、長姉かく(鶴)の婿芝金杉一丁目高橋長左衛門(炭問屋)の養女として28歳の時直克の後妻が来た。これまで、千枝の生家とされていた新宿仲町の遊女屋伊豆橋は、生家を継いだ次姉ひさ(久)一時経営していたものである。漱石の次男伸六が調べた結果、事実、千枝は質屋の娘だったことがわかった。(『父・夏目漱石』所収「漱石の母とその里」)。千枝は、ながく御殿女中をつとめていたことがあり、教養も高かった。漱石は、遺伝的には、母のすぐれているところを受け継いでいるらしい。

    夏目家は名門であったが、維新の変動で、生活がだんだん苦しくなっていった。夏目金之助には、さわ(佐和、1846-1878)、ふさ(房、1852-1915)の異母姉、大一(大助、1856-1887)、栄之助(直則、1858-1887)、和三郎(直矩、1859-1931)、久吉(1864-1865)、ちか(1864-1865)の兄弟があった。末子の出生は祝福されず、生後すぐ四谷の古道具屋(一説によれば源兵衛村の八百屋)に里子に出されたが、やがて連れ戻された。

    慶応4年、金之助、満一歳のときに新宿の名主であった塩原昌之助(29歳)の養子にやられ、9歳のころまで塩原家にやしなわれた。塩原昌之助の父は四谷太宗寺門前の名主で、昌之助が11歳の時死んだので、夏目直克が後見人となり、手元に引き取って書生とし、14歳に至って父の跡目を継がせた。塩原家は内藤新宿北町裏16番地にあった。養母やす(29歳)は武州多摩郡榎戸新出の農榎戸覚左衛門の次男榎本現二の長女で、昌之助との仲人には直克がなったといわれる。

    その後、養家は養父母の間にもめごとが起こったために、実家に養母とともにひきとられたが、籍は21歳になるまで、塩原家に残っていた。つまりこのときまで塩原金之助といっていた。養父との間にゆううつな金銭的交渉が後をひいていたことは、『道草』の中に描かれている。

    この出生を漱石自身がどんな風にうけとめていたかその言葉をひろってみる。

私は両親の晩年になって出来た所謂末ッ子である。(『硝子戸の中』)

先生自身の言葉によれば 「余計な要らぬ子」として遇せられ、生まれ落ちると直ぐに、その頃家に使ってゐた女中の実家へ里子に遣られた(森田草平『漱石の文学』)

何、僕の故家かね、君、軽蔑しては困るよ。僕はこれでも江戸っ子だよ。しかし大分江戸っ子でも幅の利かない山の手だ。牛込の馬場下で生まれたのだ。(談話筆記『僕の昔』)

私は明治維新の丁度前に生まれた人間でありますから、/どつちかといふと中途半端の教育を受けた海陸両棲動物のやふな怪しげなものであります。(講演『文芸と道徳』)

2014年1月 4日 (土)

邪馬台国の謎を解く

Img_757235_62235075_0     邪馬台国がどこにあったのか?これまで九州説、大和説はじめ数多くの説が登場したが、最新の研究成果が知りたい。番組「ナゾ解き邪馬台国」では漫画家やくみつると小塚舞子がわかりやすく案内してくれる。解説は小路田泰直(奈良女子大教授)。考古学界の主流は圧倒的に畿内説となり、この番組も畿内説。▽邪馬台国への行程は魏志倭人伝の記述を素直に読み解く。▽福岡県糸島市にある平原遺跡から「大型内行花文鏡」(直径46.5cm)をはじめ、40面の鏡が出土している。糸島は「伊都国」と決定。▽魏志倭人伝に書かれた「南」ではなく「東」と読み替える根拠は、古代中国人の地理認識が日本列島を東西ではなく、南北に連なっていると考えていたからである。▽奈良までのコースは、瀬戸内海ではなく日本海コースをとる。出雲を「投馬国」とする。そして天橋立まで行くが、画像では直線的に進んでいるが、小路田は由良川→加古川→難波→紀ノ川→奈良と迂回コースで陸行一月を説明する。▽北九州最大の弥生集落「吉野ヶ里」は邪馬台国と敵対した狗奴国の前線基地と考える。▽遠山美都雄は卑弥呼は個人名ではなく、地位、身分の名であり、ヒメミコにあたるとする。実際は男の王がおり、卑弥呼は宗教的儀式(鬼道)を担当した。▽小路田は箸墓古墳の被葬者を卑弥呼と断定するが、今尾文明はなお断定をさけた。▽桜井市の纒向遺跡は卑弥呼の宮殿跡とする。▽卑弥呼を倭迹迹日百襲媛命とし、台与(とよ)は檜原神社の祭神、豊鍬入姫宮とし、伊勢神宮と関係すると解く。

2014年1月 3日 (金)

小池栄子は演技が上手い

   年末年始のドラマ・映画。小池栄子の出演作が多い。「八日目の蝉」「花咲くあした」「パーマネント野ばら」「北のカナリア」そして2日深夜に放送していた「30分だけの愛」。マッサージ師と脳卒中の後遺症に苦しむエリート・サラリーマンとの愛。脚本家、遊川和彦がダーツでいくつかあるお題の中から、ドラマのテーマを決めたという。

世界一美しい書店セレクシーズ・ドミニカネン

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    オランダの書店チェーンであるセレクシーズが、マースリヒトにある1294年に建てられた聖ドミニカ教会を店舗に改装し、2006年12月にオープンした。この店舗はゴシック様式の教会を利用しており、歴史的な遺産として指定されている天井の壁画を修復することや教会としても使えることなどを条件に許可された。いまや世界一美しい書店として知られ世界中から観光客が来店している。Selexyz Dominicanen

2014年1月 2日 (木)

多田便利軒の悲哀

 ドラマ「まほろ駅前番外地」第2話「麗しのカラオケモデル、探します」。昔のレーザーカラオケのモデルに恋した男が、そのモデルを探してほしいという依頼を受ける。行天は「もう50過ぎのオバサンになっていんじゃない」という。依頼者は「黒木瞳だって51歳だ」という。多田と行天は女の所在をつきとめる。だが女は薬と酒で変わり果てていた(なんと風祭ゆきが演じている)。横浜でバーを開いていて、今夜だけ一回なら会ってもいいという返事がきた。依頼者が会った女性はカラオケそのままの若く美しい女性だった。多田は女の娘を身代りにしたてて、男の夢を叶えさせたのだった。ショート・ストーリーに人生のペーソスがあふれている。

「潮騒」(1971年版)千代子のほうが有名女優

   「あまちゃん」の挿入歌「潮騒のメモリー」の歌詞「来てよ、その火を飛び越えて」は秀逸である。三島由紀夫の「潮騒」を想起させる。嵐の日に監敵哨跡で密会する新治と初枝が焚火を挟んで互いの裸体を見つめ合う。そして初枝は「その火を飛び越えよ」といい、二人が抱擁する場面が有名である。これまでヒロイン初枝には青山京子、吉永小百合、小野里みどり、山口百恵、堀ちえみが演じている。新治と初枝には美しい肉体を持った野性的な男女が望まれるが、アイドル映画となり適役を選ぶのは困難である。小野里みどりは演技的にも未熟で美形でないが、スタイルがよく(東京女子体育大学)5度の映画作品で唯一、乳房全開のヌードを披露している。新治の幼馴染で灯台長の娘、千代子は新治に思いを寄せている。初枝への嫉妬から二人の悪い噂を村中に流してしまう。結局、失恋して東京に戻る。この千代子を演じた女優は過去、宮桂子、松尾嘉代、木内みどり、中川三穂子、高橋ひとみ、である。主役の小野里みどりより木内みどりのほうが知名度が高いというのも珍しい。

2014年1月 1日 (水)

こんな紅白は嫌だ!!

鉄拳、時間の都合でネタ披露できず▽泉谷しげる、観客に向かって「手前ら、拍手するな」と怒声▽綾瀬はるか復興支援曲で号泣▽くまもんとふなっし~が大喧嘩▽大島優子の突然の卒業宣言で北島かすむ▽有働アナのセクシー衣装▽脱がないで着物で踊る壇蜜

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