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2013年12月 2日 (月)

隠れたる勤皇僧・宇都宮黙霖

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  宇都宮黙霖

  下田密航を企てて失敗し、萩の野山獄にあった吉田松陰(1830-1859)は、一人の旅の聾僧と文通を始めた。松陰より6歳年上の僧は宇都宮黙霖(1824-1897)といった。黙霖は急進的な尊王や討幕の考えを松陰にぶっつけ、松陰の尊王思想に大きな影響を与えた男である。いやそれ以上に、日本の近代の歴史を切り拓いた陰の立役者かもしれない。松陰はこれまで幕府に対して誤りを諌める考えであったのに対して、黙霖は徹底的に討幕を主張した。ある日、黙霖はほぼ100年前の山県大弐(1725-1767)の著書『柳子新論』(1760刊)を獄中の松陰に贈った。『柳子新論』の内容は幕府否定を論じ、天皇政治に復古すべきだと主張している。いまの幕府政治は、腐敗の極に達しているから、これを打倒するほかはないというのである。この書を読んで松陰の考えはついに討幕論にまで達する。松陰と黙霖との文通は1年余り続いたが、出獄後も、松陰が幽囚の身のため二人が会うことはついになかった。

    宇都宮黙霖は安芸国長浜(現在の呉市)の生まれ。俗名は真名之介。僧名は覚了、黙霖、雪卿と号した。還俗後は、宇都宮雄綱、字を絢夫という。苦労して神道、儒教、仏教を学び、その後、尊王思想を確立する。萩に出かけた際に松陰の獄中記『幽囚録』を読み、感激する。月性の紹介で、野山獄にいた松陰と文通を始めた。安政の大獄で逮捕されたが、僧だったので釈放された。釈放後も長州藩士と行動し、第一次長州征伐の際、再び捕らえられ投獄され、明治2年になって出獄。明治4年勤王の功により士族となり、大阪府貫属(地方官の一つ)となる。のち、湊川神社、石清水八幡宮(男山八幡宮)の神官を歴任、明治10年ごろ隠退し、余生を『大蔵経』の和訳に捧げ、明治30年、74歳で没した。(布目唯信『吉田松陰と月性と黙霖』 興教書院 昭和17年)

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