へセッド、神との契約の愛
汝わが面の前に我の外何物をも神とすべからず
金の子牛の礼拝に示されるエジプトの多神教は、広い影響力を持っていた
モーセはシナイ山の頂にひとりでよじのぼり、雷鳴や稲妻の中で神と出会い、十誡を受け取った。だが神との厳粛な契約してからも、イスラエルの民は早くも金の子牛を造って拝んで騒いでいた。多神教のエジプトの神々の風習である。十誡は、あらゆる時代のあらゆる人に適用し得る基本的な道徳上の軌範を定めたものである。最初の4つの戒めは神に対する人間の関係に関するものであり、残りの6つの戒めは人間同士の関係に関するものである。とくに十誡の第一は最高原理の提唱であり、最も重要なものである。「おまえたちは私のほかに何ものをも神としてはならない。おまえは、自分のために偶像、あるいは上の天にあるもの、下の地にあるもの、地の下の水にあるものにかたどったどのようなものをも造ってはならない。おまえらはそれらを拝んではならない。またそれらに仕えてはならない。おまえの神エホバである私はねたみの神であり、私を憎む父の悪を子に報い、3代、4代にまで及ぼし、私を愛し、私の命令を守る者には、千代に代わらぬ愛を示す」とある。ねたみの神であるエホバは外の神を崇拝することを絶対に許さない。エホバ神の独一性の主張である。従って、多神教と宗教的二元論を完全に排除することは明らかである。キリスト教のなかには世俗と宥和するため、新約のみを聖書とし、旧約は歴史的文献とみなすものもあるが、聖書は旧約・新約あわせた一環した神の言葉であり、そのなかでも十誡、とくに第一の誡は最高原理を示すものである。多神教との宥和、偶像の信仰は厳しく禁じられている。
神との契約の愛とは、へブル語でいうヘセッド(chesed)である。英訳聖書ではわずかな例外を除いて、loveing-kindness(あわれみ、いつくしみ)と訳される。契約を結んだ神とイスラエルの民とは、相手に対して誠実に契約を守ることを自分の生命にかけて誓うもので、その契約順守において示す「誠実さ」をヘセッド(へセド)という。しかし、イスラエルの民はわずか6週間後には金の子牛を崇拝し、神を裏切った。契約を破る者に対する罰は死である。しかし、モーセのとりなしの結果、イスラエルの民はかろうじて絶滅を免れた。
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エジプトを脱出しシナイ山に到着したイスラエルの民は、どれくらい宗教心を持っていたと思いますか。
アブラハム、イサク、ヤコブによって、その子孫に伝えられた信仰は、拝んでいる神の名前さえ知られていなかったでしょう。
聖書もありません、奴隷状態の他国への寄留者達は、その生活の中で、どんな礼拝をし、祭りをし、宗教的習慣があったでしょう。
レビ族は居ても、まだ宗教的役割は負って居ない筈です。
未形成の宗教で、どれ位父から子へと受け継がれて行って居たでしょう。
エジプト脱出に際して、エホバはモーセを通し大いなる奇跡を起し、エジプトから導き出しました。
しかし、民はモーセは目に見えるが、エホバは見ることができません。
モーセが雲隠れすると、途端にパニックになるのは当然と思えます。
何か目に見える対象を拝みたくなる、これは人間の本性だと言うことを示して居ます。
そして、唯一の神、創造主、全能、全宇宙を、過去から未来まで、命も死も、掌る神。
それはキリストによって一層明白にされた神。
契約によって人と応答される神。
まことにこの神を知らない人たちは、可愛そうな存在に思える。
投稿: guuchan | 2009年6月21日 (日) 19時54分
有益なお便りを感謝いたします。これからも聖書にまつわる事柄をつたない文章で書きつづりますが、もし、ご覧いただければ望外の喜びと感じています。
投稿: ケペル | 2009年6月22日 (月) 07時20分