ゴッホとゴーギャン
1888年、南仏アルル。ゴッホは画家たちの共同体を作ろうという理想に燃えて「黄色い家」に移り住んだ。しかし、ゴッホの熱のこもった呼びかけにもかかわらず、芸術家たちの反応は冷たかった。そんな中で、秋になってゴーギャンだけがやってきた。(彼は共同体に共感したのではなく、テオからの資金援助が目当てだったという説もある)共同生活の初めのうちは、ゴーギャンが指導的であった。しかし、一見粗雑にみえて、実はとても計算された優れた色彩感覚をもつことがわかってきた。「ひまわり」をみたゴーギャンは「これこそ花だ」とつぶやいた。だがゴーギャンは常に冷静であり、自己中心であり、賞賛するよりも、より多く軽蔑する。二人の口論が続いた。本来まったく異質の二人である。ロマンチックのゴッホと、プリミティフなゴーギャン。ゴーギャンはゴッホから危害が加えられるのではないか、という漠然とした恐れを感じるようになった。イギリスの新聞が最近「ゴッホの耳きり事件」は、ゴッホ自らの行為ではなく、ゴーギャンが発作のとき、かかってくるゴッホを、持っていたサーベルで返り討ちした、というドイツ人の説を発表し話題になっている。真偽のほどは謎だが、文筆家のジャン・ドランが著書「怪物たち」の中で次の言葉を残している。
ゴーギャンが「ヴィンセント」という時、その声はやさしい
わずか二ヶ月あまりの共同生活だったが、美術史においても稀有なエピソードである。タヒチの渡ったゴーギャンの絵にひまわりが描かれていることが二人の友情を物語っている。(Gogh,Gauguin)
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