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2013年12月31日 (火)

古代の封泥

C3cfb5e5b4c4b6ad091118    封泥(ふうでい)とは官印などを封印に捺した粘土塊のこと。古代中国において、貴重な物品あるいは公私の文書を縄などで縛り、その一部に粘土をつけてこれに印を捺し、その内容を人に見せないように封じたものである。漢代の官名や地名を読み取ることができ金石学の研究者たちが古くから調べている。封泥は中国だけでなく西アジアでも古くから使われている。2009年にはオーストリアの研究チームがエジプト北部のテル・エル・ダバ遺跡でバビロニア王国のハンムラビ王に仕えた高官の印影が残る封泥を発見した(画像)。ブラと呼ばれる封泥の中には、聖書中の人名が読み取れるものもある。「ユダの王ヨタムの子アハズのもの」とか「ユダの王アハズの子ヒゼキアのもの」と記されている。またエレミア書で言及されている、「バルク」「ゲマルヤ」「エラフメエル」「ユカル」「セラヤ」の名が見える。

寺田寅彦と厄年

Img_1105785_37969806_0     「コーヒーの苦味かぐはし寅彦忌」(寥々)

寺田寅彦の1935年の忌日である。最初の随筆集「冬彦集」に「厄年とetc.」という面白い一文がある

厄年の峠を越えようとして私は人並みに過去の半生涯を振り返って見ている。(中略)私は過去の旅行カバンの中から手探りにいろいろなものを取り出して並べて見ている。見ているうちに私はこの雑多な品物のほとんど大部分が皆もらいものや借り物である事に気がついた。自分の手で作るか、自分の労力の正当な報酬として得たもののあまりに少ないのに驚いた。これだけの負債を弁済する事が生涯にできるかどうか疑わしい。しかし幸か不幸か債権者の大部分はもうどこにいるかわからない。(中略)過去の旅嚢から取り出される品物にはほとんど限りがない。是だけの品数を一度に容れうる「鍋」を自分は持っているだろうか。鍋はあるとした上でも、これだけのものを沸騰させ煮つめるだけの「燃料」を自分はたくわえているだろうか。この点に考え及ぶと私は少し心細くなる。

一碧楼忌

 病めば蒲団のそと冬海の青きを覚え

 魴鮄一ぴきの顔と向きあひてまとも

 中塚一碧楼の1946年の忌日。大正・昭和戦前期の自由律俳句の俳人。昭和21年11月中旬ごろから胃を痛み、12月17日胃潰瘍で吐血。大晦日に永眠する。享年60歳。「冬海の青きを覚え」は、病床に伏しながらの静謐な人生の懐旧に作者の詩情を感じる。

2013年12月30日 (月)

知っていますか?「読書ゆうびん」

Sorachi1     学校図書館では今も「読書郵便」という読書を通じての交流を深めようとする取り組みが続けられている。読書郵便とは、図書室にポストが設置されていて、児童・生徒が本を読み、自分が紹介したい本の魅力を誰かに紹介して読んでもらう手紙のことである。この活動は古く、1952年、神奈川県川崎市立富士見中学校で始められたもので、そのユニークさと、手軽で効果的な活動が各地の学校図書館で取り上げられ、携帯やメールの時代になった21世紀も続けられているという。郵便ポストに似たものが設置されていて、児童・生徒が随時たよりを書き、投函できるようにし、閉館後、図書委員が整理し、翌朝、直接、宛名人に、あるいはまとめて学級担任かそのクラスの図書委員に届けるというのが、一般的に行われる方法である。はがきに書く内容は文章表現だけでなく、イラストや漫画などを用いたりして描くこともある。一般に読書のすすめは、教師や両親など大人から子どもに対して行われることが多いが、読書郵便では子どもから子どもへの読書への働きかけがなされる。無意識のうちに、お互いが影響しあって、子ども同士の関係が築かれて成長していく。読書郵便では、大人の意識的指導や干渉では生まれない、子ども同士の相互教育力によって読書の輪が広がり、心の成長がうながされる。参考:「学校図書館」1992年3月号

雍正帝と太子密建法

    康熙帝は早く皇太子を定めたが、皇太子をめぐる党派争いが激しく、ついに廃太子するにいたった。このような皇帝位争いのなかから雍正帝が1722年に即位するが、翌年、皇帝は皇太子を決定するがその名前は公表しない。皇太子名を書いた紙を小箱に入れ、乾清宮の玉座正面に掲げられた「正大光明」額の裏に置く。一方、密旨を内務府に蔵して、帝の没後これを開封して両者を照合するという方法を定め、皇太子決定の弊害を防ぐことにした。

2013年12月29日 (日)

世阿弥と佐渡

   絶海の孤島に流された歴史上の人物は幾多いるが、能の大成者、世阿弥もその一人である。世阿弥は今でこそ後世の文化・思想への影響から高い評価を得ているが、その著書「十六部集」が発見されたのは1883年のことであり、それまでは能楽師の間でもほとんど忘れた存在だった。1374年、足利義満の前で舞い、認められ、また関白二条良基にも気に入られてた。やがて猿楽を室町時代の代表的芸能にまで道をきわめた。ところが将軍が義教の代になり、1434年、71歳の世阿弥は突然、佐渡に配流されることになった。義教のどういう忌避にふれたかわからないが、世阿弥の配流は「金島書」によりかろうじて解るだけで、公的記録に佐渡遠流のことは一切ふれていない。その後は許されて都に帰ったのか、そのまま佐渡で最期を迎えたのか詳しいこともわからない。

2013年12月28日 (土)

行不由径(こうふゆけい)

00518_m    「行くに径(こみち)に由(よ)らず」 道を行くなら小道を通らない。回り道に見えても、まっすぐで正しい大道を行くことが、事を成就させる本道であるという。「大漢和辞典」の著者、諸橋轍次博士の座右の銘。

ぞっき本

   出版社が経営難などにより、売れ残りをそっくり売りに出した本を「ぞっき本」という。「ぞっき」の語源については諸説あるが、「殺屋(そぎや)」から「ぞっきや」(見切品の値を殺(そ)いで仕入れて、野師などに卸す問屋)に扱われた見切本の意味かと思われる。

騒音主義

    年末は音楽番組を聴く。昨夜の幕張メッセの「ミュージックステーション・スーパーライブ2013」EXILE、GLAY、浜崎あゆみ豪華アーティストがSPメドレーを披露。弘中綾香アナのたどたどしい司会も可愛い。ゴールデンボンバーの股間で「M」の字をつくるパフォーマンス、いきものかがり「じょいふる」、ももいろクローバーZなど騒がしい音楽も楽しい。音楽事典に「騒音主義」という語がある。イタリアのルイージ・ルッソロやプラテラが20世紀初頭に騒音を用いて作曲した音楽わいう。騒音を意識的に楽曲中に取り入れた音楽で、レスピーギの「ローマの松」のナイチンゲールの声、ガーシュウィンの「パリのアメリカ人」の自動車の警笛、サティの「バラード」のタイプライターの音など効果的に楽曲に加えられている。日本の楽曲をみると、70年代フォークや80年代ニューミュージックまでは、比較的静かに聞かせる楽曲、井上陽水やさだまさし、のようなポップスが全盛であった。やはりサザンオールスターズ以降であろうか。騒々しい音楽が当たり前になった。大晦日の「紅白歌合戦」は騒音主義で盛り上がる。

2013年12月27日 (金)

頼朝の肖像画

2010_04_30_02   1198年のこの日、源頼朝が落馬、これが元で翌年1月13日に死去した。

  京都神護寺にある「伝源頼朝像」(国宝)は武家政治の創立者である頼朝の凛とした風格で長年ふさわしい肖像として親しまれてきたが、近年、黒田日出男らによって足利直義とする説がでている。「平家物語」によれば、頼朝は顔が大きく優美で、背が低くかったという。

小野道風忌日

翁はとびこみ道風はとび上がり

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  966年のこの日、平安中期の能筆家の小野道風没。翁は芭蕉で、「古池や」の俳句。道風は柳に何度も何度も飛びつくカエルを見て、努力して、書道家になったといわれる。

2013年12月26日 (木)

ダスティン・ホフマンになれなかったよ

Img_307586_60296996_2    ダスティン・ホフマンの「新しい人生のはじめかた」(2008年)を見る。アメリカのCMピアニストが娘の結婚式でロンドンに行って恋するお話。当時71歳だがエマ・トンプソン(「日の名残り」)と息のあった演技をみせている。大塚博堂の歌を思い出す。「ラスト・シーンが心にしみる。なのにあの日僕は教会で君を遠くからながめているだけだった」。歌詞の中に「卒業」や「ジョンとメリー」がでてくる。70歳になっても恋愛映画をバッチリ決めるのはすごいと思う。余談ながら、ダスティン・ホフマンは実際にピアノが上手く、少年時代ピアニストになるのが夢だった。

香川の「年越しうどん」と「年明けうどん」

Img_362951_12419895_0 みちのくの雪降る町の
    夜鷹蕎麦(山口青邨)

    NHKニュースで香川県高松では名物の讃岐うどんで年を締めようと、年越しそばならぬ年越しうどんを食べようと、うどん店が賑わっているらしい。また、さぬきうどん振興協議会では新年にうどんを食べようと「年明けうどん」と称して2009年から普及活動が行われている。

  年の瀬の買いものでスーパーなどは混雑しているが、縁起物は見た目が美しいものの蒲鉾、数の子、おせち料理など高価である。健康面も考慮して来年から正月の食事は普段どおりのものにすることにした。

つん読の美徳

05081835  「よく本を読む人は、ときどき本を書きたがるものです」

これは18世紀の英国詩人ジョージ・クラブの有名な言葉である。これを「よく本を読む人は、つねに本を買いたがるものです」と変えてみたい。

 東大仏文科の辰野隆教授は、晩年、これまでの生涯をかけて収集した自分のすべての蔵書を調べてみて愕然とした。フランスの本を3000冊。しかし、そのうちまちがいなく目を通したのは1000冊。きちんと読んだといえるのは、そのうち半分で500冊。3000冊のうち2000冊は、ページも切っていないのだった。

Lens1332797_1281378830books_cartoon    最近の若い人などはタブレット端末を使った電子情報を利用し、多くの書物をもたないという。私の若い頃は、映画や食事代は節約してでも古本を購入した。もちろん図書館からも借りて読んだが、ほしい本は身銭を切っても買うべきだと考えた。だが苦労して集めた本も専門書など、時間が経つと関心が移って読まなくなる本も多い。歴史学でも古代史に関心があったかと思うと、近代史を勉強したくなる。だが高価な本ほど読まないことが多い。アーノルド・ベケットは「自分で読書的雰囲気を醸し出すために、君の周囲を書物で埋めることである。書物の本質から言えば、外面的なことではあるが、これは大切なことである。未経験者の想像以上に大切なことである」(「文学趣味 その養成法」より)と記している。(Arnold Bennett)

2013年12月25日 (水)

川端茅舎

  約束の寒の土筆を煮て下さい

Bousha_seinen1 病状が思わしくなく、なんとなく食欲がない。自分はいったい何が食べたいのだろうと自問したとき、以前約束しておいた「つくし」を思い出した。まだ冬で思うように手が入らないかもしれない。しかし、そんなことはどうてでもいい。とにかく「約束の寒のつくしを煮てください」

川端茅舎は若くして胸部疾患となる。10年以上も床に就く生活ののち、昭和16年、42歳で没した。茅舎の12歳上に異母兄の川端龍子がいる。父信吉は、和歌山の呉服商だったが、没落し、家族は上京する。寿山堂と号するほど芸術的趣味があり、兄弟の才能も父の影響が大きいものと思われる。

あたらしい時代

288   「まほろ駅前多田便利軒」という映画を見る。「頼まれた仕事は極力引き受けします」をモットーに、駅前に便利屋を営んでいる。瑛太と松田龍平がバツイチ男コンビを演じる。自然な演技で現代の若者のムードが感じられる。明らかに40年前の「俺たちの旅」の中村雅俊とは異なる。会社を辞めて便利屋をした話であるが、続編では社長や市長になって成功したという結末で、とてもつまらなかった。全共闘世代やフォーク世代のデカダンスや革命は似非だった。日本に市民革命はない。ルネサンスや宗教改革もない。自ら変革できず、外圧で変化しているだけである。資本主義の時代の話であり、その先の時代が知りたい。

   近代ヨーロッパの誕生はルネサンスと宗教改革の二大運動が起きたからであるとはよく言われることだが、この二つは大きく異なる。ルネサンスは長くうずもれていたギリシア・ローマの学芸を復興するという形をとったが、個人の独立・能力・自由・尊厳を強調していた。しかし新しい社会を形成することはについては、ほとんどふれることがなかった。

   これにたいして、宗教改革は、一見すると神に従っているようだが、自分の力で生きること、与えられた生活・職業に全力をあげることを、命じているのであって、結果としては独立生産者が新しい社会をつくっていくのを、神が支えることになる。その意味で、ウェーバーのように、プロテスタントの倫理が資本主義の精神の形成に重大な寄与をしたと、いうこともできる。

40歳過ぎたら自分の顔に責任がある

「四十歳を過ぎた人は自分の顔に責任をもちねばならない」

この有名な言葉はリンカーン大統領の名言の一つである。ある人が「この人を閣僚にしたらどうか?」と推薦してきた。その時、リンカーンは「顔が気に入らない」と断ったそうだ。そうしたら、推薦した人は「顔は生まれつきのものだから、本人には責任が無いはずだ」と言った。リンカーンはこう答えた。

Every man over forty is resensible for his face.

(40歳過ぎたら自分の顔に責任がある)

細見綾子の俳句

  年の瀬のうららかなればなにもせず

    細見綾子(1907-1997)。本名・沢木綾子。明治40年3月31日、兵庫県氷上郡芦田村(現・丹波市青垣町)に、父・細見喜市、母・とり、の長女として生れた。昭和4年に肋膜炎の闘病生活で、佐治町の医師・田村菁斎の勧めで俳句をはじめた。繊細典雅な作風で、日常生活で見たもの感じたものを率直によんだ句が多い。句集「桃は八重」「技芸天」「曼陀羅」等がある。

  鶏頭を三尺離れもの思ふ

  菜の花がしあはせそうに黄色して

  ふだん着でふだんの心桃の花

  チューリップ喜びだけをもってゐる

  来てみればほほけちらして猫柳

  そら豆はまことに青き味したり

ゴッホとゴーギャン

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 ゴーギャンが描いた「ひまわりを描くヴァン・ゴッホ」

  1888年、南仏アルル。ゴッホは画家たちの共同体を作ろうという理想に燃えて「黄色い家」に移り住んだ。しかし、ゴッホの熱のこもった呼びかけにもかかわらず、芸術家たちの反応は冷たかった。そんな中で、秋になってゴーギャンだけがやってきた。(彼は共同体に共感したのではなく、テオからの資金援助が目当てだったという説もある)共同生活の初めのうちは、ゴーギャンが指導的であった。しかし、一見粗雑にみえて、実はとても計算された優れた色彩感覚をもつことがわかってきた。「ひまわり」をみたゴーギャンは「これこそ花だ」とつぶやいた。だがゴーギャンは常に冷静であり、自己中心であり、賞賛するよりも、より多く軽蔑する。二人の口論が続いた。本来まったく異質の二人である。ロマンチックのゴッホと、プリミティフなゴーギャン。ゴーギャンはゴッホから危害が加えられるのではないか、という漠然とした恐れを感じるようになった。イギリスの新聞が最近「ゴッホの耳きり事件」は、ゴッホ自らの行為ではなく、ゴーギャンが発作のとき、かかってくるゴッホを、持っていたサーベルで返り討ちした、というドイツ人の説を発表し話題になっている。真偽のほどは謎だが、文筆家のジャン・ドランが著書「怪物たち」の中で次の言葉を残している。

ゴーギャンが「ヴィンセント」という時、その声はやさしい

  わずか二ヶ月あまりの共同生活だったが、美術史においても稀有なエピソードである。タヒチの渡ったゴーギャンの絵にひまわりが描かれていることが二人の友情を物語っている。(Gogh,Gauguin)

2013年12月24日 (火)

作家の人生経験

    やはり小説家は売れるまでに実生活でどれだけの経験をしているかが、後の創作活動の肥やしであり、貴重な原体験であるといえる。宮尾登美子は自伝的な歴史小説が多いが、満州から引き揚げ、昭和21年ごろ、保育園勤務の現場体験がある。遊郭や岩伍ものとは異なった体験は小説に幅をもたらしている。作家の職業体験は必要だが、戦争体験を余儀なくさせられた世代の作家は、やはり生死をみつめることと書くことへの執念が尋常ならざるものがある。梅崎春生は桜島の基地での通信員の体験をもとに「桜島」を書き、戦後の文壇にデビューした。中山義秀「テニヤンの末日」なども戦争体験したものでしか描けない秀作である。大岡昇平は俘虜体験をもとに「俘虜記」「野火」を書いた。後年、「レイテ戦記」では膨大な資料を駆使して、死者への鎮魂として小説を描いた。野間宏は「真空地帯」で軍隊内の腐敗と非人間的な実態を描いた。島尾敏雄は特攻体験をもとに「孤島夢」「島の果て」「出孤島記」を描いた。松本清張、司馬遼太郎には直接な作品は残さなかったものの文学の底流には軍隊体験が生きている。浅田次郎は2年間の自衛隊経験が作家修行に役立っている。

2013年12月23日 (月)

事項索引をつくる

4234    かつて公共図書館の多くには「件名目録」が設けられていた。自分の仕事も目録索引をつくることだった。だが十分にその機能を果たすことなく、コンピュータ化の時代に押しつぶされてしまった。ある図書に効果的な件名を与えることはほんとうに難しい作業である。「建築学概論」に「建築」という件名が与えられるが、分類や書名からのアクセスされるので、件名が活躍するケースは少ない。たとえば郡司次郎正の小説「侍ニッポン」に「桜田門の変」という件名を与えると効果的である。しかし新刊書をすべて読んで正しい件名を与える時間的な余裕はなかった。

   老後のすさびに、五十音順の事項索引をつくっている。何かこれをつかって役立ったという話はまだ聞いたことがない。でも最後まで作って完成させるつもりである。

2013年12月22日 (日)

わびさび論

Edomeisyozue     「わび」を広辞苑で引くと「閑寂な風趣」とある。わび、さびの境地をうちたてていった人物として村田珠光(1422-1502)がいる。彼は一休宗純に参禅して、禅院で茶湯の所作に点茶の本意を悟ったとされる。そして諸芸の人々と接しつつ、しだいに侘数奇(わびすき)の理念を深めた。茶湯は武野紹鷗によって洗練され、千利休によって大成される。武士の時代にあって戦国時代に茶湯は大流行した。近世になって文芸が庶民の時代となっても、わびさびは、自然と人生と芸術との融合された境地として、芭蕉によって閑寂の世界が完成された。

建築と芸術

   建築には、その民族、その時代に共通する様式が形づくられている。しかしこの様式が支配するのはせいぜい19世紀までに留まり、20世紀および現代の建築は創造性、芸術性に富んだ建築が現れる。

Casamalaparte   ファシズムの代表的な建築家アダルベルト・リベラが設計した、地中海に浮かぶカプリ島に建つマラパルテ邸は、映画「軽蔑」の舞台にもなった、20世紀で最も美しい住宅といわれている。

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岩の家 ポルトガル、ファフェ 4つの巨石と壁をつないで屋根をかけたもの

(Casa Malaparte,Rock House)

酸素をつくる

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過酸化水素から酸素をつくる

  過酸化水素に二酸化マンガンをふれさせると、過酸化水素が分解して、酸素が発生する。過酸化水素は、それだけでもいくらか分解して酸素をだすが、二酸化マンガンをはたらかせると、分解がはげしくなる。この場合の二酸化マンガンのような働きをするものを、触媒という。実験で使う過酸化水素は、薬局で売っているオキシドールを用いる。オキシドールは、3%の過酸化水素で消毒用に使われる薬品である。

藤堂高虎

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  「あまちゃん」挿入歌の「地元に帰ろう」や「暦の上ではディセンバー」が未だに耳についてはなれない。先日「連続クイズホールドオン」(311回)にこんな問題があった。戦国の武将、藤堂高虎は処世に岳て、浅井氏に属し姉川の戦では織田軍と戦ったが、その後、豊臣秀吉、徳川家康と主を変えて、大名となった。戦国武将の藤堂高虎にちなむ「藤堂とらまる」は毎年秋に行われる「高虎時代絵巻」を応援するなど地元に根付いていますがこのご当地キャラクターはどこのものでしょう?

岐阜市、大津市、津市、奈良市。

   だが4人のなかで正解者は一人もいなかった。「藤堂とらまる」の全国的知名度は低かった。わたしは関西人なので藤堂高虎が伊勢国津藩の初代藩主として津市の基礎を作ったことを知っている。やはりご当地ということは大きい。

 

   たとえば「草津」といえば、全国的には群馬県の草津温泉を思いうかべるだろう。だが関西人ならほとんどは滋賀県の草津である。東海道本線の関西の普通電車は西明石から草津を走っている。

 

   NHK地域発ドラマをBSで放送している。「田上(たなかみ)トパーズ」。「田上」とは新潟県田上町(たかみまち)や大津市田上町ではなく、滋賀県豊郷町が主な舞台だったのでややこしい。

キッチュ

O0640034012578277208   キッチュ(kitsch)、ドイツ語では元来は「俗悪なもの」を意味する。ポストモダンの表現では、何らかの支配的で優勢な価値を持ったもので統一することが不可能になっている。そのため、価値の低いもの、俗悪なものを寄せ集めて表現するという方法が取られることがあり、そのような方法によって作られたのがキッチュである。ポストモダンの表現、特に建築・デザイン・絵画などでは、意識的に俗悪なものを導入してキッチュを作ろうとすることがある。また、政治・宗教・スポーツなどの行事では、大衆の意識に迎合しようとするために、結果としてキッチュ的なものが生ずる場合もある。したがって、キッチュにはきわめて現代的なものであると同時に、俗悪なものであるという両面性がある。

怪談百物語「雨月物語」

    吉備の国に井沢庄太夫という男がいて、春は農耕、秋は刈入れと農業を専一にして、豊かに暮らしていた。(ドラマでは江戸の豪商という設定になっている)だが一人息子の正太郎(椎名桔平)は畑仕事を嫌って、酒と女に狂いふけり、父のいうことを聞こうとはしない。そこで、きちんとした家柄の器量のいい娘さんを正太郎の嫁にすることにした。そうすれば、あの道楽も自然におさまるだろうと。だが正太郎と磯良(富田靖子)の結婚の占いには吉備津の釜の音がしない。釜鳴りの大きいことは吉兆であるが、釜鳴りがないのは凶であった。二人は仲睦まじく暮らしていた。だが、根っからの放蕩な性質はどうにもならない。いつの頃からか、袖(佐藤江梨子)という遊女と深い関係に陥り、近くに妾宅を構えて、そこに寝泊りするようになった。磯良は袖に夫と別れるように大金を渡して懇願するが、あべこべに正太郎は袖を連れて駆け落ちする。夫に裏切られた磯良は憎しみのために、病で寝込んでしまう。だが、袖も磯良の祟りか、妻の怨霊か、生霊がついたのか、正太郎の看護の甲斐なくあの世に旅立ってしまう。正太郎は、こうなって独りになると、毎日のように袖の墓に参るのであった。そこで一人の美しい娘に出会う。生来の浮気心が擡げたわけではないが、またも正太郎は女に心をひかれた。彼女は正太郎を薄暗い林の中に連れて行くと、ぽつんと小さな茅葺の家があった。老師がいうには、正太郎には死霊がついているので、魔除けのお札を茅屋に貼り、49日間、戸を閉めて、厳重な謹慎をするように命じられた。ほんの一瞬であっても、この教えを破ると、命がないということであった。その夜から正太郎は毎晩、妻の磯良の怨霊に襲われた。あと一晩という日になって、正太郎は女の誘いにのって戸を半分ほど開けてしまう。ギャッ、と一声耳をつんざく正太郎の叫び声がした。正太郎の死体があるかと見渡したがない。そこには釜の中に男の髪を一束にした髻だけがあった。ドラマは上田秋成の「雨月物語」の一編「吉備津の釜」を脚色している。

2013年12月21日 (土)

鈴鹿峠の私雨

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  私雨(わたくしあめ)とは「不意に降る村雨。かぎられた小地域に降るにわか雨。麓は晴れて山上にばかり降る雨。有馬・鈴鹿・箱根などの山地でいう」と広辞苑にもある。とくに鈴鹿の私雨は、北西の季節風のときに、近江方面から吹いてきた北西の風が鈴鹿峠を越えて、伊勢平野に吹き降りるときに、西側の土山から峠にかけて雨になるので知られている。「坂は照る照る鈴鹿は曇る、間の土山雨が降る」と歌われる。

トウモロコシのキセニア現象

Mgzn082012    親から伝わった形質は、ふつう種子が育った子の植物に現れる。ところが、被子植物の胚乳は重複受精の結果できるので、受精の効果がすぐさま形質として現れる。たとえば、黄色粒トウモロコシの花粉が飛んで、白色粒トウモロコシり雄しべにつくと、トウモロコシの粒が黄色になる。この現象をキセニア(キセニアとは「もてなしがよく、すぐ受け入れる」の意味)という。xenia

クイズ世界の国々

次の国はどこか?

⒈1974年からチャウシェスク大統領の独裁体制が続いたが、1989年崩壊した。

⒉1986年グエン・バン・リン首相は社会主義型市場経済を目指すドイモイ政策を展開した。

答え⒈ルーマニア、⒉ベトナム

カネと女

   1999年のこの日、横山ノック大阪府知事が強制わいせつ罪で在宅起訴され、同日辞職願を提出した。猪瀬都知事は徳洲会からの5000万円借入問題で辞職を表明。政治家にはカネと女がつきまとう。猪瀬の場合、オリンピック準備と都政の停滞が辞職の理由で、会見では「アマチュア」という言葉を5回も繰り返した。それにしても大都市の有権者たちも著名人やタレントに弱いということも反省しなければならない。

さよならエマニエル

600fullsylviakristel   2012年10月シルビア・クリステルが死去した。1974年12月21日フランス映画「エマニエル夫人」が公開されると、シルビアはたちまち世界的スターになった。70年代、シドニー・ロームと共にセックス・シンボルだった。時代は世界がポルノ解禁に向っていた。75年のヒット映画は「タワーリング・インフェルノ」と「エマニエル夫人」。「タワーリング」の製作費が42億円。女性観客が多いことや無名女優のポルノ映画が超大作に匹敵するブームをよんだことが明るい話題だった。「チャタレイ夫人の恋人」(81)もシルビアの代表作。「続エマニエル夫人」のレズのお相手カトリーヌ・リヴェはどうしているだろう。(Sylvia Kristel,Catherine Rivet)

2013年12月20日 (金)

世界の十大ニュース 2013

ブラジルのナイトクラブ火災で230人死亡(1月)

インドの婦女暴行事件、インドのニューデリーで婚約者の男性とともに乗っていた23歳の女性が6人の男からレイプされ、殺される。

スペインの列車脱線事故、79人死亡(7月)

中国の大気汚染による濃霧拡大

フィリピンに台風「ハイエン」上陸、死者・行方不明者7000人。

シリア内戦、8月にはアサド政権が化学兵器を使用

スノーデン事件、米国家安全保障局の職員が暴露し、ロシアへ亡命。

エジプトの革命、ムルスィー大統領の解任、各地で衝突発生。

タイのデモ、バンコクでインラック政権の打倒を叫ぶ大規模抗議デモ。

中国月探査機「嫦娥」、月面着陸に成功。(12月)

ローマ法王に初の中南米(アルゼンチン)出身者が即位(3月)

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 エドワード・スノーデン

五胡十六国と仏教

01photo20    インドにおこった仏教は、西域をへてすでに1世紀ころに中国に伝わったというが、社会一般に広まったのは4世紀からである。とくに五胡十六国時代には、北方もしくは西方漢民族の支配のもとで、中国の伝統思想にしばられることがなかったために、皇帝の保護のもとで仏教が繁栄し、とくに北魏(386-534)では国家仏教としてさかんになった。山西省大同にある雲崗石窟は、453年に開鑿がはじまり、520年頃まで掘り続けられた。

   儒教は、漢人官僚社会の教養、道徳、倫理としてつづいたが、民衆はむしろ太平道にひきつけられこれに老荘思想を加味し、のちに道教とよばれ宗教が生まれた。三思想が融合に向かったが、道教がしだいに勢力を確立してくると、同じ宗教団体としての仏教と激しい争闘をおこすこととなった。このさい道教徒は、つねに権力者とむすんで仏教を排撃した。その代表的なものとしては、第一に寇謙之が北魏太武帝の尊信をうけて仏教に弾圧を加えた(446年)。ついで北周武帝の廃仏があり(574年)があり、第3回目にもっとも大規模な唐の武宗の廃仏がおこった(845年)。仏教はその後復活したが、仏教が支配階級によって受け入れられると、道教は庶民の中にいきつづけた。

パーントゥ

003     沖縄県宮古島で行われる悪霊払いの伝統行事。鬼神を意味するパーントゥの面をつけ、泥だらけのつる草をまとった青年3人が集落を巡り、家々や見物する人々に泥を塗る。厄を払い無病息災を祈願するもの。新築の家や赤ちゃんの生れた家には必ず回り、壁や畳に襖に所構わず泥を塗りつけていく。家主は笑顔で迎え、子どもたちは怖がって逃げ回る。にぎやかで楽しい厄払いだ。

てるくはのる

寒さにふるえた者ほど太陽をあたたかく感じる(ホイットマン)

ウォルター・ホイットマン(1819-1892)はアメリカの詩人。

全て偉大なるものは青春において作られる。その後の人生は注釈に過ぎない(ゲーテ)

  ゲーテ(1749-1832)はドイツの偉大な文学者。このような偉人の名言を集めた本は無数に出版されている。岡村浩昌はどのような気持ちで「すぐに役立つ名言名句活用新辞典」(あすなろ出版)を手にしていたのか。孤独な日々のなか、言葉はただ虚ろに響いていたのだろうか。

甘美なイメージを甘美なものとして、受け取ることの中にある青春を私は偽物であると断定する(伊藤整)

Img_0008_2       伊藤整の偽善的な青春に対する反発は共感するものがあったかもしれない。岡村は1999年12月に起こした京都小学生殺人事件の犯人で、識別記号「てるくはのる」と名乗っていた。この奇妙な名前の謎解きはマスコミが興味本位で色々と騒いたが、結局、名言辞典の索引ページに書かれた6つの末尾の文字をつなげただけのもので、特に意味はないものとして、やがて世間やマスコミの関心は薄れていった。岡村は2000年2月に投身自殺したため、被疑者死亡により不起訴処分となり、事件の真相は不可解なまま永遠のベールに包まれる。岡村は中学のときは成績優秀であったが、第1志望の高校の受験に失敗し、府立高校に入学した。高校生活は孤独であったらしく、1年休学して4年で卒業した。卒業時、単位が足りなかったが、追試を条件に学校側は岡村を卒業させることにした。1999年4月のある日、岡村は母校の担任教師を訪ね、「できれば、卒業せずに高校に残りたかった。単位が足りないのに卒業させられたことは納得いかず、すっきりしない」と言い、大検を受けたいので、卒業を取り消して中退扱いにしてくれと頼んだが、学校側には受け入れてもらえなかった。この経緯からは学校への不満とともに青年の潔癖さ、純粋性がみてとれる。岡村は学校や社会にメッセージを残したかったであろうが、手立てがわからず、差し当たり手元にあった名言集から選んだ。ただ伊藤整の言葉は岡村の言いたかったことを代弁しているような気がする。

島後(どうご)

2    「日本の島100」(山と渓谷社)で索引で「隠岐」を調べる。見つからない。隠岐諸島は島後水道を隔て、西に島前三島(どうぜんさんとう、西ノ島、中ノ島、知夫里島)、東に島後(どうご)の大小約180の島々からなる。ほぼ円形をした島後(面積241.58㎢)の面積は全国第11位の広さである。

    離島にもかかわらず、古代には隠岐国が置かれ、本土とは異なる独自の文化が栄えてきた。「牛突き」や「隠岐古典相撲」など、伝統芸能の宝庫。

人生の短さについて

「人生は長いにしろ短いにしろ、永遠のまえには無にひとしい」

10068876613     「嵐ヶ丘」で知られるイギリスの女流作家エミリ・ブロンテの言葉だ。彼女も30歳の若さで死んだ。日本史をみればやはり幕末維新の坂本龍馬を思い起こす。その32年の人生は、暗黒の幕末動乱期にあって、春風のように、温かみと爽やかさを感じる。

風船おじさん

10058898657    21年前、気球に乗って大空へ飛び立ったひとりの男がいた。ピアノ調律師、鈴木嘉和(1940₋行方不明)は1992年11月23日、滋賀県の琵琶湖周辺でテスト飛行中、「行ってきます」と言い残してそのまま飛び去ってしまった。「風船おじさん」として当時マスコミで取り上げられ話題になったが、消息は依然として不明である。鈴木は高校生のときフランス映画「赤い風船」を見ているので、その影響もすこしはあるかもしれない。「風船」ではなくファンタジー号という「気球」である。

漱石とイプセン

   漱石がイプセンを敬愛していたことは夙に知られている。「草枕」に「北欧の偉人イプセンは此革命の起こるべき状態に就て具さに其例証を吾人に与えた」(草枕)とか「イプセンは豪い。(中略)彼は其劇に於て吾人を人間意識の急所迄連れ込んで行く男である」(愛読せる外国の小説戯曲)などと書いている。その他、講演、書簡などにもイプセンの名はさかんに現れる。

「山路を登りながら、かう考えた」で始まる「草枕」は、原千代海によるとイプセンの長編詩「高原にて」の一節によく似ているという。東北大学付属図書館が所蔵する漱石の蔵書にもイプセンの著書が多数含まれている。(原千代海「漱石とイプセン」図書646号)

インドネシアとモナコの国旗はよく似ている

Bendera    両国とも赤白の二色旗のデザイン。同じように見えるが縦横比がちがう。インドネシアが2:3、モナコは4:5。上下を逆さにするとポーランドの国旗に近いが、やはり縦横比がちがう。赤の色味は印刷などでみると多少ちがうように見えるが、基本的に赤色は同じで違いはない。配色・デサイン同一の国旗とみなされ、両国間で協議されたが折り合いがつかず今日に至っている。(Indonesia,Monaco)

2013年12月19日 (木)

「豊かさ」への夜明け

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  1986年12月、ベトナムの改革派のグエン・バン・リン首相が社会主義型市場経済を目指すドイモイ政策をひとつのスローガンとした改革路線に転じた。ドイモイ(doi moi)とはベトナム語で「刷新」を意味する。改革当初、成長拠点都市は、北部のハノイ、中部のダナン、南部のホーチミンであった。この時期の問題は南部と北部の所得格差であった。90年代の初めにはインフレが落ち着き国際収支が均衡するマクロ経済の安定化を達成した。外国資本の流入も順調となり、92年以降は96年まで8%を超える高度経済成長を記録した。しかし、この過程で都市と農村の所得格差が問題となり、96年の共産党大会で社会政策を重視することになった。1997年5月、タイビン省で農民3000人が汚職と増税に抗議して、タイビン市までデモ行進をするという事件がおこった。このニャンザン事件は、村や地方自治体の運営が民主化されていないころに根本的な原因があった。

ダビデの兄の名前を知っていますか?

080224pt1   イスラエルの王ダビデは旧約聖書サムエル前書第16章から列王紀上第2章まで、および歴代志上第11~29章に記述がある。ユダのベツレヘムにエッサイの子として生れ、少年時代にすでにサムエルからサウル王の後継者として油をそそがれていた。サウル王に仕え、ペリシテ人ゴリアテを倒してその武勇を知られ、サウルの嫉妬をうけつつその子ヨナタンの友情や預言者たちの庇護によって助けられた。サウル王の死後、古代イスラエルの王となる。

   ダビデには何人の兄がいたのか?聖書には「エッサイには8人の息がいた」とある。すべての名前は記されていないが、一番年上の兄がエリアブ、二番目の子がアビナダブ、三番目の子がシャマである。そしてダビデは一番年下だった。

2013年12月18日 (水)

キエティスム

 キエティスム( 静寂主義)。17世紀の外面化した教会主義に対しピューリタン運動、クェーカー派、ヤンセン主義、敬虔主義等の宗教的運動とともに、信仰の内面化を求めて行われたカトリック教会内のひとつの神秘主義的傾向をいう。ラバディ、ブリニョン、ボアレなどによってオランダにおよび、フェヌロンやギュイヨン夫人をとおしてフランス神秘主義に、フランケ、ツィンツェンドルフらをとおしてドイツ敬虔主義に影響を及ぼしている。Quietism

およげ!たいやきくん

51neeq6oq5l__sl500_aa300_   「甦る 昭和の歌謡曲」レコード売上ベストテン。1位「およげ、たいやきくん」457.7万枚。2位「女のみち」、3位「黒ネコのタンゴ」、4位「恋の季節」、5位「なみだの操」、6位「クリスマス・イブ」、7位「夢追い酒」、8位「星影のワルツ」、9位「あなた」、10位「ダンシング・オールナイト」

2013年12月16日 (月)

皇后ジョゼフィーヌ

F0027   1809年のこの日、ナポレオンは子供が生れないことを理由に最初の妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと離婚した。ジョゼフィーヌは西インド諸島のマルティニク島の農園領主の娘。パリにでて結婚し、ボーアルネ子爵婦人となった。社交界ではおしゃべりで無教養な女と思われていたが、子爵との間には息子ウジェーヌ、娘オルタンスが生れた。しかし革命中、子爵は反革命分子として処刑された。彼女は総裁バラスの愛人となったが、ジョゼフィーヌに飽きたバラスはナポレオンに紹介した。1796年3月9日、ナポレオンと結婚した。ジョゼフィーヌは浮気であったが、ナポレオンは彼女を愛した。皇帝となったナポレオンは、世継ぎをえるため、ジョゼフィーヌと離婚し、ハプスブルグ家のマリー・ルイーズと結婚する。1811年、マリーはナポレオン2世を出産する。しかし翌年、ロシア遠征に失敗し、転落に追い込まれる。ジョゼフィーヌは、ナポレオンがエルバ島に流されていた間、マルメゾンの宮殿で死んだ。この知せを聞いたナポレオンは数日間ふさぎこんでいたという。ジョゼフィーヌはナポレオンにとっては勝利の女神だった。(Napoleon, Josephine)

2013年12月15日 (日)

奇石珍石

10f88ee4dd07f08d1d986aaa0613ccc4    木内石亭は諸国を旅して、奇石珍石を収集し、その由来を説き、「雲根志」に著わした。

2013年12月14日 (土)

赤垣源蔵、徳利の別れ

Ce183902a51dd0f0f20a0788acc8fe14   赤垣源蔵は大の酒好き。脇坂淡路守に仕える塩山伊左衛門という兄がいた。ある雪の夜、源蔵は貧乏徳利と土産の品をさげて、芝新銭座にある兄の家をひょっこり訪ねた。折悪しく兄は留守で、嫂は癪で臥せていた。いつもは着たきり雀の源蔵は、今日に限って珍しく小袖を着ていたが、下女のおすぎに暫く待たせてもらうと断わって、横になってひと眠りした。目が覚めたが兄はまだ帰らない。すると源蔵は、兄の羽織を出させ、衣紋かけに通して柱にかけ、湯呑みに冷や酒を注いでその前におくと、居ずまいを正して両手をつき、「兄上、今日はお暇乞いに参りましたが御不在、源蔵、力なく戻ります」といって、ホロリとひとしずく、おすぎに遠方へ行くといって、帰っていった。

   その夜、兄は若党をつれて帰ってきたが、明くれば元禄15年12月15日、雪の朝の日本晴れ。大勢の者が、「仇討ちの引きあげだ」と叫びながら駆けて行く。よく聞くと、赤穂の浪人が吉良上野介の屋敷へ討ち入り、引きあげる途中だという。伊左衛門は驚いて、すぐ若党を走らせた。若党は返り血を浴びた源蔵に会い、槍につけた短冊や笛、癪の薬、小判などを貰って帰ってきた。伊左衛門は源蔵が残したた貧乏徳利とそれらの品物を床の間におき、その前に両手をついて、「源蔵、昨日は残念であった」と語りかけた。

   これをみたおすぎはたまげて、「昨日は源蔵さまが着物に口をきいていらっしゃいましたが、今日は、旦那さまが徳利に口をきいていらっしゃいます」

   さて、このことが脇坂淡路守のお耳に入り、伊左衛門は五十石の加増、貧乏徳利は脇坂家の家宝になり、徳利の入った箱には、「忠義赤垣の徳利」と墨くろぐろと書かれたという。(参考:「決定版忠臣蔵のすべて」人物往来社)

2013年12月13日 (金)

エアポート75

Kblakc   ワシントンから飛び立ったボーイング747の操縦席に、小型飛行機が衝突。機長をはじめ、操縦士がみな重傷で操縦不能になる。代わりに客室乗務員のカレン・ブラックが無線からの指示で操縦する。ソルトレークの山はなんとか切り抜けたものの着陸は無理だ。高速ヘリからチャールトン・ヘストンが事故機に乗り込み、無事に着陸に成功した。めでたしめでたし。キャストが豪華で、グロリア・スワンソン、マーナ・ロイ、マーサ・スコット(「ベン・ハー」の母親)。リンダ・ブレアの母親役はナンシー・オルソン。リンダにギターの弾き語りをするシスターは歌手へレン・レディ。

2013年12月12日 (木)

ゾンビ特急地獄行

Horror_express     満洲で発見された類人猿の化石を北京からモスクワまで鉄道で運ぶ。だがそれは地球誕生のとき宇宙からやって来た異星人で、恐竜や人類に棲みついて生きていた。移送中に荷物から目を覚まし、乗客たちを次々と殺していく。シベリアではコサック兵の強盗にも襲われるが、異星人が殺す。だが死んだ人間がゾンビとなって生き返る。クリストファー・リーとピーター・カッシングが協力して列車のポイントを変えて、ゾンビたちが乗った列車を谷に落として退治する。ほかにテリー・サバラス(コサックの悪党)、シルヴィア・トルトーサ(伯爵夫人)が登場する。

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 シルヴィア・トルトーサ

小津安二郎

Oz_2   映画監督の小津安二郎は1903年のこの日、東京深川で生れた。小市民映画とよばれる現代劇に新境地を開き、その芸術性が世界中で高く評価されている。奇しくも没日は1963年12日12日で、生没同日。歴史上、生れた日と死んだ日が同日の著名人は、足利義教、夏目甕麿、坂本龍馬、中村是公、船越英二などである。

2013年12月10日 (火)

永遠のヒロイン、ジェーン・エア

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    シャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」ほど何度も映画・ドラマ化される世界文学は他にあるまい。真の愛と自由と自立を求めるヒロインのジェーン・エアに現代女性が共感できるからであろう。

Newondvdsuperblysparejaneeyrepra8ko    ジョーン・フォンテイン、スザンナ・ヨーク、ズィーラ・クラーク、シャルロット・ゲンズブール、ルース・ウィルソン、ミア・ワシコウスカなど数々の女優がジェーンを演じた。これほど女優によって雰囲気が変わるドラマも珍しい。当時25歳であったがシャルロット・ゲンズブール(見た目は幼くみえる)は、彼女の個性と良くあっていて、よくできた映画だった。「ロミオとジュリエット」や「ブラザー・サンシスター・ムーン」の監督フランコ・ゼフィレッリだから上質のメロドラマに仕上がっている。ジェーン・バーキンとセルジュ・ゲンズブールの娘だからフランス系だと思うが、しなやかな感じのジェーンだった。原作ではジェーンもロチェスターも美男美女ではないが、やはり映画になると美男美女のほうがいいだろう。松たか子のミュージカルもなかなか好評だったらしい。ミア・ワシコウスカのジェーンも良かった。

クレオパトラの鼻

Cleopatra   「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わったであろう」という言葉は17世紀の哲学者ブレーズ・パスカルの「パンセ」(随想録あるいは瞑想集)の中にある有名な警句である。原文を正確を訳すと少し異なる。

  人間のむなしさを十分知ろうと思うなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めてみるがいい。原因は、「私にはわからない何か」(コルネイユ)であり、その結果は恐るべきものである。この「私にはわからない何か」、人が認めることができないほどわずかなものが、全地を、王侯たちを、もろもろの軍隊を、全世界を揺り動かすのだ。クレオパトラの鼻。それがもっと短かったなら、大地の全表面は変わっていただろう」(「世界の名著24」前田陽一、由木康訳)

  われわれ日本人は鼻が高いことは美人であると考えるが、西洋人にはそのような美醜のニュアンスは含まれていない。つまり思いも寄らない些細なことで、世界は変わる、と言いたかったのであろう。芥川龍之介は「侏儒の言葉」の中で、

   クレオパトラの鼻が曲がっていたとすれば、世界の歴史はそのために一変していたかもしれないとは名高いパスカルの警句である。しかし恋人というものはめったに実相を見るものではない。いや、我々の自己欺瞞はひとたび恋愛に陥ったが最後、最も完全に行なわれるのである。アントニイもそういう例にもれず、クレオパトラの鼻が曲がっていたとすれば、つとめてそれを見まいとしたであろう。また見ずにはいられない場合もその短所を補うべき何か他の長所をさがしたであろう。

   芥川はそこから、「人間の自己欺瞞」ということを引き出して、「二千余年の歴史は眇たる一クレオパトラの鼻のいかんによったのではない。むしろ地上に遍満した我々の愚昧によったのである」と結論づけている。(KleopatraⅦ)

2013年12月 9日 (月)

テネシーの綴り

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  アメリカ合衆国中南部にあるテネシー州。綴りをみると「n」「s」「e」が2度重なっている。Tennessee。このような地名は他にもある。

マサチューセッツ  Massachusetts

ミシシッピ      Mississippi

フィリピン      Philippines

2013年12月 8日 (日)

風の息

P1242968     平均の風速に対し、風が瞬時、強弱を示す現象を「風の息(かぜのいき)」という。突風(スコール)と違うのは、変動の周期が息の場合は数秒~数十秒程度、突風は数分は持続する。風の息は、気流の中に地物や、熱的な原理によってたくさんの渦動ができるために起こる現象である

鳥取砂丘と民謡「貝殻節」

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    今でこそ全国的にもよく知られている民謡「貝殻節」であるが、戦前はほとんど知る人はなかった。「浜村貝殻節」は昭和8年、浜村温泉をPRするためレコードに吹き込まれた。しかし「貝殻節」が全国に広まったのは、昭和27年、朝日放送全国民謡大会で第1位になったからだという。貝殻節踊りも昭和8年には振り付けがなされたものの、戦時中はすたれ一時は忘れさられたが、昭和22年に再振り付けがなされたものである。

    もともと「貝殻節」は、山陰沖に発生した帆立貝を獲る漁をした漁師たちが歌った労働歌がもとになっている。記録によると、文政7年(1824年)に中国に帆立貝を大量に輸出したとあるから、それ以前から帆立貝の乾し身を産業としていたのであろう。また、「天保5年(1834年)、青谷海岸に帆立貝が集まる」と年表にもある。鳥取県の沖合いでは10年とか20年に1度、帆立貝(イタヤ貝)が大量に獲れた「貝殻年(帆立年)」があった。明治になってからは、明治10年、明治21年、明治22年、明治34年、明治35年、大正14年、昭和4年が貝殻年である。帆立貝を獲ることはほねのおれる仕事で、ジョレンという馬鍬のようなものを海の底に沈め、舟の櫓を漕いで底引きするのである。それで「なんの因果に貝殻漕ぎなろうた」と自虐的に歌うのである。因幡国の城主・亀井武蔵守に仕える若い侍がこの海辺にきたとき、帆立貝を採取する娘に見とれて、つい武士の身分を捨てて漁師となり、その因果で歌が生まれたという説もある。

    最近では、吉永小百合の「夢千代日記」の中でも芸者が座敷で歌い踊るシーンが出てくることから、ますます「貝殻節」が全国的に知られるようになっている。ところがドラマは兵庫県の湯村温泉が舞台なので「貝殻節」を鳥取県と思わない人もいるのではないだろうか。吉永はCDで「浜唄と貝殻節」という歌を吹き込んでいる。早坂暁が山陰に取材をしたとき、湯村にいい民謡がなかったので、鳥取の民謡を使ったのだろうが、東京の人からみると兵庫県の北部も鳥取県も山陰で、あまり違いを感じないないのだろうか。

   「貝殻節」の歌詞には、異なるものが多数存在する。

  なんの因果に 貝殻漕ぎなろうた

  (カワイヤノー カワイヤノー)

  色は黒うなる 身はやせる

  (ヤサホー エイヤー ホーエヤエー

  ヨイヤサノサッサ エンヤノエーエ)

   なお、貝殻節は浜村だけで歌われていたものではない。二番の歌詞「♪浜村沖から貝殻が招く」というところを、青谷では「青谷沖から」と歌い、賀露では「賀露の沖から」、泊では「泊沖から」と歌う。

ガレオン船

Img1234325141   ガレオン(Galleon)船は、主にスペインが軍艦またはアメリカ貿易に用いた大型帆船のことで、16世紀から18世紀にかけて大西洋、太平洋などで活躍した。キャラック(Carrack)から発展した船形であるが、形はさまざまで、3本以上のマスト、数門の大砲を備え、船首船尾の位置が高く、キャラックに比べ吃水が浅いためより速力が出る。東京デズニーシーに停泊中のルネサンス号は全長30メートルの大型ガレオン船である。

    ガレオン貿易はおもにスペインのそれをさすが、アメリカ大陸の領地とセビリアおよびカジス港を結んで、15から70,80隻からなる船団が貿易風を利用して往来、植民地の金銀や物産を運んだ。またメキシコとフィリピン間においては、アカプルコより銀を出荷し、マニラに集結した中国の絹・陶磁器などと交換、船団の規模は小さいが大型のガレオン船が用いられた。この太平洋のガリオン貿易はフィリピンの経済的生命線として、1749年まで続けられた。

    ポルトガルのガレオン船は、ゴア、オルムズ、マラッカ、マカオを中心に香料諸島の物産を中継。17世紀にはいるとオランダの東インド進出によってポルトガル勢力は後退し、また英・仏などの軽帆船の出現はガレオン船そのものを次第に時代遅れにしていった

海陵王

Xin_4831105270912828270202   金朝第4代皇帝、海陵王(1122-1161)は熱心な中国文化愛好者で、女真人の間ではすぐれた教養人であった。従弟の第3皇帝熙宗を殺して即位し、女真の旧習をすてて金を完全な中国的国家に作りあげようとし、皇族諸王や女真人有力者を殺害して反対勢力を根絶し、官制を改めて皇帝権の拡大をはかり、1153年旧都上京会寧府から燕京(北京)に遷都した。さらに南宋平定を企てたが、揚州で部下の顔元宣のために殺害された。死後、帝位を奪われて海陵王となり、のち庶民におとされた。

2013年12月 7日 (土)

年間に映画を何本見ますか?

Citizenkane    映画コメンテーターのLiLiCoが年間600本映画を観るとテレビ番組で言っていた。仕事柄、試写室で見ることが多いだろうが、やはり旧作はDVDで見るのだろう。一般人でもCSで放送されている映画は毎日無数であり、暇な老人なら3本、4本は見るだろう。つまり4×360=1440本となる。年間1000本見たとして、50年間で5万本。最近はアメリカだけでなく、ヨーロッパ、アジア、そして日本映画などの多様だから果てしない所業である。映画は20世紀を代表する文化である。1998年アメリカン・フィルム・インスティテュートが、選んだ100本のうちトップテンは、「市民ケーン」「カサブランカ」「ゴッドファーザー」「風と共に去りぬ」「アラビアのロレンス」「オズの魔法使」「卒業」「波止場」「シンドラーのリスト」「雨に唄えば」である。これら名作でも主演者や監督、粗筋を正確に言える人は少ない。

   最近見た映画。「まほろ駅前多田便利軒」、「終の信託」、「鈴木先生」、「誰かがあなたを愛してる」(チョー・ユンファ)、「ジェーン・エア」(ミア・ワシコウスカ)、「天使のくれた時間」(ニコラス・ケイジ)、「新しい人生のはじめかた」(ダスティン・ホフマン)、わたしの可愛い人シェリ」(ミシェール・ファイファー)、「恋多き女」(イングリッド・バーグマン)、「インタヴュー・ウィズ・ヴァンパイア」(トム・クルーズ、ブラッド・ピット)、「デビル」(ハリソン・フォード、ブラッド・ピット)、「悪魔のシスター」(マーゴット・キダー)。ジョン・フォードの「ドノバン珊瑚礁」を見る。ジョン・フォードといえば西部劇のイメージがあるが、西部劇ではない映画も多い。「怒りの葡萄」「わが谷は緑なりき」「タバコ・ロード」「静なる男」「ミスタア・ロバーツ」など。コメディ作品もある。

ルネサンスの貴婦人イザベラ・デステ

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「モナ・リザ」とイザベラ・デステの肖像デッサンは対応する

   15世紀イタリア、フェラーラ公の長女イザベラ・デステ(1474-1539)が1490年マントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガに嫁いだのは16歳のときだった。1499年、フランス軍はイザベラの義弟ロドヴィコのミラノ公国を滅ぼした。ミラノからやってきたレオナルド・ダ・ヴィンチがイザベラの肖像を描いたのは翌年の1月か2月のことであった。そこで少なくとも2点以上のデッサンをしたといわれる。そのときイザベラはちょうど妊娠中であった(長男フェデリコ)マントヴァにはすでにマンティーニャという宮廷画家がいたので、もう1人の宮廷画家を置くことができなかったが、イザベラはレオナルドが気に入り、1506年までに何度も絵の注文をしている。ルーヴル美術館にあるイザベラの横顔の肖像デッサンは「モナ・リザ」によく似ている。レオナルドはこの肖像デッサンをもってマントヴァを去っているということは、それをもとに油彩画を描くつもりがあったと考えられる。その持ち去ったデッサンが、あの「モナ・リザ」と呼ばれている像によく似たものであったのではないか、という想像をめぐらす。プリマ・ドンナ・デル・モンド(世界第一等の女性)といわれたゴンザーガ侯妃イザベラ・デステこそあのモナ・リザではないかという説もある。

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イザベラ・デステの肖像 ウィーン美術史博物館蔵

    結婚してまだ間もないころにフランチェスコ・フランチャに描かせた肖像画をもとに、ティツィアーノに1534年から1536年まで頃に複製させたという。

イザベラ・バードの日本人通訳

0003_r   イギリス人女性のイザベラ・バード(1831-1904)が日本に来たのは、明治11年のことであった。イザベラは横浜で伊藤(画像)という青年を通訳兼案内人として雇い、東京を起点に日光から新潟、山形、秋田、青森を経て、北海道まで北日本を旅行している。イサベラは著書『日本奥地紀行』で伊藤という青年を、狡猾な面もあるが、通訳としては優れていることを記している。たとえば「彼は普通の英語とは違って立派な英語を話したがっており、新語をおぼえようとしているが、正しい発音と綴りも身につけることを切望している。毎日、彼は私が用いるが彼には良く分からない単語を全部ノートに書き付けて、晩になると私のところへもってきてその意味と綴りを習い、日本語の訳をつける」とある。この伊藤という青年は、最近の調査で、伊藤鶴吉(1857-1913)であることが判明している。イザベラ47歳、伊藤鶴吉20歳の日本での旅行であった。だが伊藤の晩年について、詳しいことはなにも知らない。(Isabella Bird)

お軽・勘平

200906260632438e0   早野勘平は塩谷(えんや)家の譜代の家来だったが、判官が殿中で刃傷に及んだ日、判官の供をしていながら、たまたまかねて恋仲だった腰元のお軽と密会していたため、刃傷の場に居合わさず、不覚を取ってしまった。もはやこれまでと自害しようとしたが、お軽に止められ、本国から大星由良之助が帰るのを待って詫びをしようと、ひとまずお軽の実家へ落ちる。お軽の田舎で暮らすうち、誤って父与市兵衛を殺したと錯覚して勘平は切腹し、お軽は京祇園の一力茶屋へ身売りする。勘平が切腹するときに、「色にふけったばかりに」と後悔の述懐をする。勘平は身の潔白がたち、一味の連判に加えられて、その遺志は主君の敵討に参加する。一方、お軽が祇園一力茶屋の場で、二階から延鏡で由良之助の持つ手紙を見てしまう場面は「忠臣蔵」の中でも最も人気のある場面である。

2013年12月 6日 (金)

オンドル

Kankoku11   オンドル(温突)とは朝鮮・満洲の民家で普及している床下暖房。台所で調理する際の排気を利用した暖房システム。クドゥルともいう。朝鮮半島においてはすでに6世紀から見られるが、夏が蒸し暑い日本では受け入れられなかった。

河村瑞賢「小田原での決心」

  河村瑞賢(1618~1699)。近世初期の商人、海運、治水の功労者。伊勢の貧家に生まれ、江戸で材木商となり、明暦の大火で巨利を得て、以後、幕府、諸藩の事業を勤める。洪水の多発する淀川を改修させたほか、海運航路を東回り、西回りの両方とも整備させた。これにより、日本海側の米の大部分は大阪に集中するようになり、大阪は「天下の台所」といわれるようになった。

 瑞賢13歳の時に、江戸に出たが運命は開かなかった。そこで上方へ行こうと東海道を小田原まで来た。そこの宿屋に宿泊していた一老翁と談話し、老翁は笑って。日本の中心である江戸を去って上方に行くのは間違っている。お前の骨相を見ると、大いに成功する相があるから、江戸に帰って努力せよ、といった。瑞賢はこの老翁の言を信じて、江戸に戻ることとし、品川まで帰った。その時は7月の盂蘭盆の後であって、精霊にそなえた瓜、茄子が捨てられてあった。そこで乞食にわずかの銭を与えて拾い集めさせて、古桶を買って塩漬けにし普請場の労夫に売り歩いた。かなりの利益を得て、こうして漬物を売るあいだに、役人と知り合いになり、その信頼をえて人夫頭となったが、やがていつしか材木商を営むまでになる。瑞賢の成功の第一歩は捨てられていた野菜であった。

函館罹災史

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 函館市街全景 明治9年

    北海道の歴史は函館に始まる。北海道の玄関口であると同時に経済・文化の中心でもあった。函館は津軽海峡に突出している地形のため強風が吹くと大火を引起すことがある。また函館には大きな川がない。函館は日本一大火の多い町といわれる。明治40年には焼失戸数12390戸、昭和9年には24186戸に達する大火があった。とくに昭和9年の函館大火は3月といっても北国の函館はまだ寒い。焼死者が650人で、吹雪の中を逃げた被災者、負傷者のうち385人が凍死した。その後になっても収容後の死亡者も増加したので、死者2166人、重傷者2318人に達する大惨事となった。

明治からの災害を略記する。(火災は焼失戸数1000戸以上)

明治2年4、5月  戦災  箱館戦争

明治4年9月12日 大火  1123戸焼失

明治6年3月23日 大火  1314戸焼失

明治12年12月6日 大火  2326戸焼失

明治29年8月26日 大火  2280戸焼失

明治32年9月15日 大火  2494戸焼失

明治40年8月25日 大火   12390戸焼失

大正2年5月4日  大火  1532戸焼失

大正5年8月2日  大火  1763戸焼失

大正10年4月14日 大火  2141戸焼失

昭和4年6月 駒ケ岳大噴火  8ヶ村被害

昭和9年3月21日 大火   24186戸焼失

昭和20年7月14,15日 空襲  死者79人

昭和29年9月26日 洞爺丸沈没 死者1430人

なお、寺田寅彦には防災対策の必要性を説いた「函館の大火について」がある。(「中央公論」昭和9年5月)

2013年12月 5日 (木)

面白書写山枯松雪

   ある俳人が書写山を訪れた時に、俳句を所望された。それで、「面白書写山枯松雪」と書いた。所望した人が、漢詩ではなくて俳句をと言うと、俳人はこれは俳句ですよと言って、仮名で書いた。

おもしろしよしやさむかれまつのゆき

すなわち、

面白し よしや寒かれ 松の雪

である。

2013年12月 4日 (水)

ウルトラ美術クイズ

問1.ルーヴル美術館初代館長で、その名が「モナ・リザ」が展示されている「○○○翼」として残っている人物は?

問2.東洋画の技法の一つで、輪郭線を引かないで、直接、水墨や彩色の広がりある面によって描きあらわす技法を何というか?

081102101836 問3.古代ギリシアのパルテノン神殿にこの様式の源流がみられ、柱の中央がややふくらんでいることで、矯正する技法を何というか?

問4.ギリシアの神殿様式にはドリア式、イオニア式のほか何式があるか?

問5.江戸時代の陶工、尾形乾山の焼き物が1962年、栃木県で大量に発見された。真作か贋作か論争が続いている。それら焼き物は旧家の場所から「○○乾山」と呼ばれる。

問6.古代ギリシア初期の人物彫刻の口辺に見られる微笑を何と呼ばれるか?

問7.画家ワシリー・カンディンスキーはどこの国の人?

解答:問1ドミニク・ヴィヴァン・ドノン。問2没骨法(もつこつほう)。問3エンタシス。問4コリント式。問5佐野乾山。問6アルカイック・スマイル。問7.ロシア。

交通安全「ストップくん」

37a81e59b9773e25a7bfcbc20458ceb7cb6   2013年10月5日午後4時50分ごろ、タレントの桜塚やっくん(37歳)が車に撥ねられて亡くなった。熊本県荒尾市で6日に開催するコンサートに向かっていたという。10月1日にはイタリアの俳優ジュリアーノ・ジェンマ(75歳)が交通事故死したところである。

Svevowebsite    ウィリアム1世や源頼朝のように落馬事故で没した人物は除いて、自動車やバイクなどの近代的な乗り物で亡くなった最初の有名人は誰だろう。分かる範囲でいうと、1928年9月13日、イタリアの作家イタロ・ズヴェーヴォ(1861-1928)が道路を横断中に自動車に撥ねられて死んでいる。「ゼーノの意識」などの作品で著名な作家だった。

山のあなたの空遠く

220pxcarl_busse     ドイツの詩人カール・ブッセ、1918年の忌日。詩趣に富む新鮮な詩風で人生の歓喜を歌う。最初の「詩集」(1892)によって認められ、ついで「新詩集」(1895)「放浪者」(1901)等の詩集を出した。他に小説、評論の著作がある。(Karl Hermann Busse)

       *  *  *     

山のあなたの空遠く

「幸(さいわい)」住むと人のいう。

ああ、われひとり尋(と)めゆきて、

涙さしぐみかえりきぬ。

山のあなたになお遠く

「幸(さいわい)」住むと人のいう。

           上田敏訳

2013年12月 3日 (火)

近世俳句・冬の名句

Photo01232   江戸時代の遊女や李朝時代の妓生(キーセン)など性売買に携わっていた女性たちは、賤民として、はかない人生を送った。ファン・ジニ(黄真伊)は歴史にその名を残されてた極めて稀なケースだろう。小林一茶の句には遊女への優しい同情が感じられる。

  鳩部屋の夕日しづけし年の暮

                            其角

   年もおし詰まってなにかと慌しい世間とは無関係に、鳩部屋には冬の淡い夕日がさし、鳩がこもった声で静かに鳴いている。その鳴き声を聞いていると、私もいつしかなごみしずまるのである。

  霜がれや鍋のすみかく小傾城

                            一茶

   賑わっていた宿場も、冬には客足がぱったりとだえている。若い遊女が、家の裏手を流れている小川で、なりふりもかまわずに鍋墨をかいている。寒風にさらされながら水仕事をする遊女に身の哀れさを感じることよ。

江戸川柳

01_zou_togakusi    蕉風の俳句では、わび・さび・しをりを三要素としたが、川柳では、うがち・おかしみ・かるみを古くは三原則とした。「道問へば一度にうごく田植笠」などは俳句に近い境地であるが、俳句よりもかるみがある。「新世帯なにをやっても嬉しがり」などは人間心理の機微をうがち、「これ小判たった一晩ゐてくれろ」などには笑いの要素が強い。しかし風刺でも笑いでもあくどくなく、常に軽い風刺・軽い笑いがある。

江戸趣味

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    淡島寒月(1859-1926)は、若き日、西洋文化に憧れ、英会話を習い、髪はフランス流に分けていた。本気でアメリカに帰化したいと考え、アメリカへ行って日本のことを聞かれて答えられなければ恥ずかしいと思い、毎日、湯島聖堂の図書館へ通っていた。そこで初めて江戸の草双紙を読み、江戸文化を発見する。井原西鶴を紹介し、明治の江戸趣味研究家として知られるようになった。

2013年12月 2日 (月)

「暗室」いま男は子宮に帰る

  映画好きの母がよく日活といっていたのは、戦後の日活アクション映画ではなくて、戦前・戦中、山中貞雄、稲垣浩、内田吐夢、田坂具隆、島耕二らの名監督を配して時代劇から文芸名作までを連発していた時代の日活であろう。昭和58年の浦山桐郎「暗室」(清水紘治、三浦真弓、木村理恵、芦川よしみ)は創立70周年記念作品である。

  日本で最初の撮影所は吉沢商店の河浦謙一が映画事業を拡張して、明治41年、目黒の行人坂に建てた目黒撮影所グラス・ステージである。大正元年9月には、この吉沢商店と梅屋庄吉(エム・パテー商会)、横田永之助(横田商会)、田畑健造(福宝堂)の4社が合併して日本活動写真株式会社(日活)が誕生した。大正2年、向島撮影所が開所した。圧倒的に人気のあったのは目玉の松ちゃんの愛称で知られた尾上松之助の京都のチャンバラ映画であったが、向島撮影所からも、のちの巨匠、溝口健二、衣笠貞之助、稲垣浩などの人材を輩出している。震災により向島撮影所は壊滅するが、京都の撮影所から名作が続々生まれる。村田実「清作の妻」、溝口健二「日本橋」、伊藤大輔「忠次旅日記」などである。大河内伝次郎、岡田時彦、入江たか子、夏川静江、岡田嘉子などのスターがいた。戦後、日活は川島雄三、鈴木清順、今村昌平、浦山桐郎などの鬼才、異才の監督を育てた。昭和46年7月、日活は事実上倒産したが、低予算映画のロマンポルノ路線で再活動した。はじめロマンポルノは世間から軽蔑されていたが、昭和47年の神代辰巳「一条さゆり・濡れた欲情」から映画評論家から評価されるようになった。吉行淳之介の原作「暗室」は寡作作家の浦山によって見事に映像化された。

    官能的文学を得意とする中年作家・中田は妻の事故死という疑惑に満ちた過去を引きずりながら、華道の師匠、パトロンのいる女、レズビアンの女らとの多彩な女性関係を結び続ける。そして、濃密な情事の果てに、中田と訣別していく愛すべき女たち…。男にとって限りない「暗室」である女を追い求め、深い官能に浸りながら、いま男は子宮に帰る。この時代、「女性上位」という言葉がよく使われたが、浦山監督も意識していたらしい。「日活」「にっかつ」はその社会的な役割を果たし終えて消えていくのであろう。

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撮影現を訪れた吉行淳之介(中央)

へセッド、神との契約の愛

汝わが面の前に我の外何物をも神とすべからず

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金の子牛の礼拝に示されるエジプトの多神教は、広い影響力を持っていた

  モーセはシナイ山の頂にひとりでよじのぼり、雷鳴や稲妻の中で神と出会い、十誡を受け取った。だが神との厳粛な契約してからも、イスラエルの民は早くも金の子牛を造って拝んで騒いでいた。多神教のエジプトの神々の風習である。十誡は、あらゆる時代のあらゆる人に適用し得る基本的な道徳上の軌範を定めたものである。最初の4つの戒めは神に対する人間の関係に関するものであり、残りの6つの戒めは人間同士の関係に関するものである。とくに十誡の第一は最高原理の提唱であり、最も重要なものである。「おまえたちは私のほかに何ものをも神としてはならない。おまえは、自分のために偶像、あるいは上の天にあるもの、下の地にあるもの、地の下の水にあるものにかたどったどのようなものをも造ってはならない。おまえらはそれらを拝んではならない。またそれらに仕えてはならない。おまえの神エホバである私はねたみの神であり、私を憎む父の悪を子に報い、3代、4代にまで及ぼし、私を愛し、私の命令を守る者には、千代に代わらぬ愛を示す」とある。ねたみの神であるエホバは外の神を崇拝することを絶対に許さない。エホバ神の独一性の主張である。従って、多神教と宗教的二元論を完全に排除することは明らかである。キリスト教のなかには世俗と宥和するため、新約のみを聖書とし、旧約は歴史的文献とみなすものもあるが、聖書は旧約・新約あわせた一環した神の言葉であり、そのなかでも十誡、とくに第一の誡は最高原理を示すものである。多神教との宥和、偶像の信仰は厳しく禁じられている。

    神との契約の愛とは、へブル語でいうヘセッド(chesed)である。英訳聖書ではわずかな例外を除いて、loveing-kindness(あわれみ、いつくしみ)と訳される。契約を結んだ神とイスラエルの民とは、相手に対して誠実に契約を守ることを自分の生命にかけて誓うもので、その契約順守において示す「誠実さ」をヘセッド(へセド)という。しかし、イスラエルの民はわずか6週間後には金の子牛を崇拝し、神を裏切った。契約を破る者に対する罰は死である。しかし、モーセのとりなしの結果、イスラエルの民はかろうじて絶滅を免れた。

17世紀人名小事典

489pxedward_montagu   サー・エドワード・モンタギュ(初代サンドイッチ伯爵、1625-1672)はイングランドの貴族・軍人で、清教徒革命から王政復古へと至る一連の政変を乗り切り、サンドイッチ伯爵家の祖となった。また日記作家として知られるサミュエル・ピープスは母方の従甥に当たり、彼の秘書から海軍官僚となった。賭け事好きでサンドイッチの発明者である第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギュ(1718-1790)は彼の玄孫にあたる。

サミュエル・ド・シャンプラン(1567-1635)  フランスの探検家
ヨハネス・ケプラー(1571-1630)  イギリスの天文学者
モッラー・サドラー(1571-1640)  サファヴィー朝の思想家
トーマス・マン(1571-1641) イギリスの重農主義経済学者
ジョン・カーヴァー(1576-1621)  ピルグリム・ファーザーズ
ピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)  オランダの画家
ウィリアム・ハーヴェ(1578-1657)  イギリスの生理学者
キョブリュリュ・メフメット・パシャ(1578-1661)  オスマン朝の政治家
フーゴー・グロティウス(1583-1645) オランダの法学者
アルブレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァレンシュタイン(1583-1634) 三十年戦争のボヘミア傭兵隊長
アルマン・ジャン・デュ・プレシ・ド・リシュリー(1585-1642) フランスの政治家
トマス・ホッブズ(1588-1679)  イギリスの政治思想家
ロバート・フィルマー(1589-1653) イギリスの政治思想家
ウィリアム・ブラッドフォード(1590-1657) ピルクリム・ファーザーズ
シャー・ジャハーン(1592-1666) ムガール帝国第5代皇帝
ヤン・アーモス・コメンスキー(コメニウス、1592-1670) チェコスロヴァキアの教育思想家
ムムターズ ・マハル(1595-1631) シャー・ジャハーンの皇妃
ルネ・デカルト(1596-1650)  フランスの哲学者
ミハイル・ロマノフ(1596-1645)  ロシア皇帝ロマノフ朝の始祖
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598-1680)  イタリアの建築家
オリヴァー・クロムウェル(1599-1658)  イギリスの政治家、軍人で清教徒革命の指導者
ディエゴ・ベラスケス(1599-1660)  スペインの画家
ファン・テイク(1599-1641) ベルギーの画家
ジュール・マザラン(1602-1661) フランスの政治家
アベル・ヤンスゾーン・タスマン(1603-1659) オランダの航海者
レムブラント・ファン・レイン(1606-1669)  オランダの画家
ジョン・ミルトン(1608-1674) イギリスの詩人
ピエール・コルネイユ(1606-1684) フランス古典劇作家
キャーティプ・チェレビー(1609-1657)  オスマン朝の学者
エヴリヤ・チェレビー(1611-1648)  オスマン朝の旅行家
アンドレ・ル・ノートル(1613-1700)  フランスの宮廷造園家
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(1617-1682)  スペインの画家
アウランゼーブ(1618-1707)  ムガル帝国第6代の皇帝
シラノ・ド・ベルジュラック(1619-1655) フランスの剣豪作家
ジャン・バティスト・コルベール(1619-1683) フランスの政治家
フリードリヒ・ヴィルヘルム(1620-1688)  ブランデンブルク選帝侯
ジャン・バティスト・ポクラン(モリエール、1622-1673)  フランスの喜劇作家 
ブレーズ・パスカル(1623-1662)  フランスの宗教思想家
フェルディナント・フェルビースト(1623-1688)  ベルギー生れのイエズス会士
サー・エドワード・モンタギュ(1625-1672) イギリスの軍人
シヴァージー・ボンスレー(1627-1680)  インドのマラータ王国の創始者
ロバート・ボイル(1627-1691)  イギリスの化学者、物理学者
ジャック・ベニーニョ・ボシュエ(1627-1704)  フランスの宗教家
ジョン・バニヤン(1628-1688)  イギリスの説教者、寓意物語作家
アレクセイ・ミハイロヴィチ(モスクワ大公)(1629-1676)  ロマノフ朝の第2代皇帝
クリスティアン・ホイヘンス(1629-1695)  オランダの物理学者
ステパン・ラージン(ステンカ・ラージン)(1630-1671)  ロシア農民反乱の指導者
バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)  オランダの哲学者
ジョン・ロック(1632-1704)  イギリスの政治思想家
サミュエル・ピープス(1633-1703)  イギリス海軍書記官
カラ・ムスタファ・パシャ(1634-1683)  オスマン朝の政治家
アイザック・ニュートン(1642-1727)  イギリスの数学者、物理学者
ロベール・ガブリエ・ド・ラ・サール(1643-1687)  フランスの探検家
ウィリアム・ペン(1644-1718)  アメリカ・ペンシルヴェニア植民地の創設者
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)  ドイツの自然科学者
ジョアシャン・ブーヴェ(1656-1730)  フランス生れのイエズス会士

(世界史)

ニーチェの雨傘

20120509    あるバラエティ番組で山岸舞彩という美人アナが登場。「本を読んでいる知的な姿が好き」といい、ニーチェの「この人を見よ」をスタッフが出す。有田哲平が「哲学書を読んでいる奴はカッコつけているだけで、中味は分かっていない」という。難解な本ということで代名詞のようにニーチェが選ばれたのであろう。漱石や鷗外が日本に紹介してから、ニーチェのその存在は古典ともいえる。たとえば「永遠回帰(Ewige wiederkunft)とはニーチェの思想の基本概念のひとつである。著書「ツァラトゥストラはかく語りき」の中で「存在の車輪は永遠に回帰する。すべては滅び、すべてがふたたび花ひらく」とある。人間の悲喜こもごもの生をはらみつつ万有は永遠の円環運動をなすと解され、その根底には原子論的世界観が認められる。ちなみに井上陽水「傘がない」はニーチェが1881年にノートに書き込んだ断章にインスパイアーされて作ったというが本当であろうか。ジャック・デリダが同年1972年に「ニーチェと文体の問題」でこの断章を問題に取り上げている。

   「私は雨傘を忘れた」というメモは何を意味するのであろうか?

    逸話としてニーチェは、雨のときも晴天のときも赤い日傘を携えていたといわれる。その傘で、自分を頭痛から守ってくれる役割を期待していたのであろう。その大切な傘を忘れるということは、健康を取り戻し、病気に対する配慮をしなくてもいいようになったということであろう。つまりニーチェにとって、傘は病気を連想されるものであったが、「雨傘を忘れた」とは健康に対する不安がなくなったということを意味すると解する。(参考;清水真木「ニーチェにおける雨傘の問題」広島大学総合科学部紀要Ⅲ人間文化研究11,2002年)

白秋の妻・江口章子

Photo   江口章子(えぐちあやこ 1888-1946)は歌人であり、北原白秋の二番目の妻として知られている。明治21年、大分県西国東郡香々地町(当時は岬村といったが現在は豊後高田市香々地)で江口家の三女として生まれた。江口家は大阪通いの鉄の貨物船まで持った米屋と酒造業だった。章子は弁護士の安藤茂九郎と結婚し、福岡県柳川町へ移ったが、夫の放蕩に嫌気がさして離婚。大正4年、青鞜社に入り、生田花世の夫・生田春月の紹介で北原白秋(1885-1942)に出会う。

  北原白秋はその頃「邪宗門」「思ひ出」で詩人として輝かしい地位を占めていた。ところが明治45年に隣家の人妻・松下俊子(福島俊子)と恋に落ち、その夫の新聞カメラマン・松下長平から姦通罪で告訴され、拘置される事件が起きた。白秋は福島俊子と後に結婚するが、二人の仲は長く続かなかった。

    江口章子は白秋の離婚を待って、大正5年から同棲しはじめ、大正7年に入籍した。章子と白秋の結婚生活は僅か5年に満たないものだが、何度も転居を繰り返しながら、白秋の文学活動は充実した時期であった。とくに大正7年に鈴木三重吉が児童文芸誌「赤い鳥」を創刊するが、白秋は童謡において新境地を開くが、妻章子の影響が大きいといわれている。

    大正5年5月、二人の最初の新居は、千葉県東葛飾郡真間の亀井院の庫裏であった。7月には隣の南葛飾郡小岩村三谷(現・江戸川区)に移り、ここで1年2ヵ月を暮らす。ここを「紫煙草舎」と呼んだ。大正7年、小田原十字お花畑に転居。秋には小田原天神山の浄土宗伝肇寺に寄寓。大正8年夏には、伝肇寺の東側に「木兎(みみずく)の家」と方丈風の書斎を建てる。大正9年、木兎の家の隣接地に赤瓦の三階建洋館の建築を巡って二人にいさかいが起こり、離婚する。

    白秋との離婚後の章子の人生はじつに波瀾に富んだものであった。章子は大正11年8月、京都府下綾部の郡是製糸に入社する。もともと青鞜社にいたこともあり、京都の水谷長三郎(1897-1960)、山本宣治(1889-1929)ら社会運動家とも関係し、女工解放を叫んで、すぐに郡是を退社している。昭和になると江口章子は歌人・詩人として少しは世間に知られるようになり、「女人山居」(昭和3年)、「追分の心」(昭和9年)などを刊行している。ところが昭和6年に、京都帝大病院精神科に入院。1ヵ月後で退院するものの、その後、病気で苦しむ。昭和21年10月29日、死去。59歳。

映画と教養 

Photo_6    NHK連続クイズホールドオンにはよく映画に関する問題がだされる。173回は「昼」というテーマで2問あった。Q1952年に公開されたゲイリー・クーパー主演の西部劇で原題「ハイヌーン」という名称の日本でのタイトルは何でしょう?答えは「真昼の決闘」。Q「魅惑のワルツ」が印象的に使われた1957年の映画「昼下がりの情事」で主演していた女優は誰でしょう?答えはオードリー・ヘップバーン。2問とも私にはとても簡単な問題に思える。しかし回答者は2人ともわからなかった。武内アナも「生まれてないですもんねぇ」とコメントしていた。そうなのだ。50年以上前の映画を知っていたらスゴイことで、知らなくて当然の話である。100年の歴史をもつ映画作品が一般教養といえるだろうか。基礎学力や基礎知識を問う問題ではない。日本語とか英語とか語学力でもない。知っておきたい時事問題でもない。「一般常識」とは就職試験やTVクイズ番組に出題される範囲のかなり多くの人が知っている事項であろう。映画は大衆娯楽性の要素が強いのでテレビクイズに出題される頻度が高いと考えられる。出題するのはマスコミ関係者なので映像に興味のある人がつくる番組である。ではどのくらい知っていおくべきなのであろうか。「就職試験で必ず出題される一般常識問題集」によると14人の欧米の映画監督の名前が挙げられている。エイゼンシュテイン、ロッセリーニ、ヴィットリオ・デ・シーカ、チャップリン、ジャン・ルノワール、ジョン・フォード、オーソン・ウェルズ、ヒッチコック、ビスコンティ、フェリーニ、ゴダール、トリュフォー、コッポラ、スピルバーグである。それぞれの監督の代表作も覚えなければならない。わたしはジャン・ルノワールの「ゲームの規則」(画像)を見ていない。(1939年)解説によると「巨匠ジャン・ルノワールがミュッセの戯曲「マリアンヌの気まぐれ」に想を得て脚本を書き、自ら出演した恋愛喜劇の傑作」とある。14人の中にはウィリアム・ワイラーやエリア・カザン、キャロル・リード、デーヴィッド・リーンなどが含まれていない。映画情報は膨大な量がある。

今年の出来事と新語・流行語

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 2011年「なでしこジャパン」、2012年「ワイルドだろお?」。2013年のユーキャン新語・流行語は「今でしょ!」「お・も・て・な・し」「じぇじぇじぇ」「倍返し」が選ばれた。「じぇじえじぇ」ならぬ「ギョギョギョ」というのが昭和24年、内海突破のギャグで流行した。

 

 

 

愛上男(あいうえお) 恋愛上手な男性
アイソン彗星
アベノミクス
安堂ロイド
イプシロン
今でしょ
汚染水
男村田
お・も・て・な・し
ガールズバー
母さん助けて詐欺
亀岡暴走
巨大台風
グラティ(西岡ポーズ)
剛力ダンス
サルコペニア肥満
シライ
じぇじぇじぇ
塩対応
シャレオツ
進撃の巨人
人生捨てたもんじゃないよね
多崎つくる
弾丸登山
東京五輪
徳洲会
特定秘密
特別警報
土下座
NISA (ニーサ)
西岡決めポーズ
二刀流
倍返し
ハイヤン
白斑
ハダカの美奈子
ビッグダディ
ビッグデータ
富士山
ふなっしー
防空識別圏
ボカロ小説
まめぶ汁
メニュー偽装
レガシー

2013年12月 1日 (日)

ウィスキー税反乱

Whiskey_insurrection

    1794年米国ペンシルバニア州南西部の奥地農民が、唯一の換金産物たるウィスキーへの課税に反対して起こした暴動で、徴税官吏やその住居を襲い、連邦軍によって鎮圧された。(Whisky Insurrection)

兵庫県人国記

001    2013年は能年玲奈(神河町)や田中将大(伊丹市)など兵庫県出身者の活躍が目立った。元東京都知事の石原慎太郎(81歳)は昭和7年9月30日、神戸市須磨区大手町2-13で生まれている。ここでは厳密に出生地が兵庫県の明治以降の人物を選ぶ。在住、並びに兵庫県にゆかりがある者は除く。

  文化人では淡路出身の自然主義文学の岩野泡鳴(1873-1920)が筆頭であろう。ペンネーム「泡鳴」は鳴門の渦潮に因むのだろう。兵庫県福崎町には民俗学の柳田国男(1875-1962)、曽根町には国語学者の亀田次郎(1876-1944)、たつの市には三木露風(1889-1964)、三木清(1897-1945)がいる。哲学者の和辻哲郎(1889-1960)は姫路市。詩人の竹中郁(1904-1982)は神戸市。平凡社の下中弥三郎(1878-1961)は篠山市。英文学者の寿岳文章(1900-1992)、東洋史の森鹿三(1906-1980)、中国科学史の薮内清(1906-2000)、中国文学者の吉川幸次郎(1904-1980)、日本古代史の直木孝次郎は神戸市の生まれ。経済学者の大内兵衛(1888-1980)は淡路島。小説家の横溝正史(1902-1981)は神戸市中央区東川崎町。「深夜の酒宴」の椎名麟三(1911-1973)は姫路市。「真空地帯」「青年の環」の野間宏(1915-1991)は神戸市長田区。「敦煌の旅」の陳舜臣(86歳)は神戸市。「ミラノ霧の風景」の須賀敦子(1925-1998)は芦屋市。「ドミノのお告げ」の久坂葉子(1931-1952)は神戸市。「処刑が行われている」の三枝和子(1929-2003)は神戸市。山田風太郎(1922-2001)は養父市。車谷長吉(68歳)は姫路市。俳句では永田耕衣(1900-1997)は加古川市、赤尾兜子(1925-1981)は姫路市。

   芸術家では筝曲家・宮城道雄(1894-1956)は神戸市。明治の銅版画家・森琴石(1843-1921)は有馬湯山町。美しい女性の肖像画で知られた洋画家・小磯良平(1903-1988)は神戸市。今竹七郎(1905-2000)は神戸市。津高和一(1911-1995)は西宮市。イラストレーターの横尾忠則(77歳)は西脇市、永田萌(63歳)は加西市。「鉄人28号」の横山光輝(1934-2004)は神戸市、「忍たま乱太郎」の尼子騒兵衛(55歳)は尼崎市。南蛮美術コレクションで知られる池長孟(1891-1955)は神戸市。

    実業界では「新聞の父」と称された浜田彦蔵・ジョセフ・ヒコ(1837-1897)は播磨国加古郡。「帝国劇場」の設計者の横河民輔(1864-1945)は明石市。関西電力の太田垣士郎(1894-1964)は豊岡市。横浜正中銀行の原六郎(1842-1933)は朝来市。

    政界では兵庫県知事の阪本勝(1899-1975)は尼崎藩医の家系を継ぐ眼科医の長男。原健三郎(1907-2004)は淡路島。原口忠次郎(1889-1976)は神戸市長。

    芸能界では、新国劇の辰巳柳太郎(1905-1989)は赤穂市。俳優の志村喬(1905-1982)は朝来市。映画監督の浦山桐郎(1930-1985)は相生市。脚本家の和田夏十(1920-1983)・松浦亜弥は姫路市。映画評論家の淀川長治(1909-1998)は神戸市。作詞家の阿久悠は淡路島。音楽では歌手の神戸一郎(1938-2007)、佐川満男(74歳)、もんたよしのり(62歳)は神戸市。菅原洋一(80歳)は加古川市。石野真子(52歳)は神河町。堂本光一(34歳)は芦屋市。トータス松本(47歳)は西脇市。俳優では高島忠夫(83歳)は神戸市灘区。山口崇(77歳)、渡哲也(72歳)、渡瀬恒彦(69歳)、笹野高史(65歳)、上沼恵美子(58歳)らは淡路島。島田順司(75歳)、勝呂誉(73歳)は芦屋市。南野陽子(46歳)・有村架純は伊丹市、藤原紀香(42歳)・戸田恵梨香(27歳)・水原希子・水崎綾女は神戸市、植村花菜(30歳)・松下奈緒(28歳)は川西市、相武紗季(28歳)は宝塚市、上野樹里(27歳)は加古川市。大村崑(82歳)は神戸市長田区。ほかコメディアンは尼崎が多い。岡八郎(1938-2005)、島木譲二(67歳)など多数。落語家では桂枝雀(1911-1995)は神戸市、桂文珍(65歳)は篠山市。

   スポーツ関係では、登山家・加藤文太郎(1905-1936)は浜坂町。ザトペック投法の村山実(1936-1998)、本屋敷錦吾は神戸市。坂本勇人、田中将大は伊丹市。冒険家の植村直己(1941-1984)は豊岡市。将棋の内藤國雄は神戸市。谷川浩司(51歳)は神戸市須磨区。

   その他、「生長の家」の谷口雅春(1893-1985)は神戸市の出身。

サシャ・ギトリー

Avt_sachaguitry_48501    劇作家サシャ・ギトリー(1885-1957)はパリジャン、とくに上流の婦人たちに支持を受けた。父リュシアン・ギトリー(1860-1925)も名優の名が高く、父子のコンビはきわめてめずらしい。

    サシャは17歳の時にはじめて戯曲を執筆、生涯で120本以上の戯曲、30本以上の映画を残した。代表作は「鍵」「野番」「世界の終り」。映画は「とらんぷ譚」「夢を見ましょう」「びっこの悪魔」「ナポレオン」など。Sacha Guitry

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  とらんぷ譚(1936年)

柴野栗山と玄武洞

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  森崎月舟「柴野栗山像」

   柴野栗山の1807年の忌日。兵庫県の北部、豊岡に柱状節理の洞窟で知られる玄武洞がある。玄武岩の命名者は寛政の改革で松平定信の政治顧問としてしられる江戸時代の儒官・柴野栗山(1736-1897)である。栗山は文化4年にこの地を訪れ、中国の空想上の動物「玄武」の甲羅に似ていることから命名したという。明治17年、小藤文次郎(1856-1935)が、ここから採れる石に玄武岩の訳名を用い、学名として定着した。それにしても、なぜ高齢の江戸の儒者が但馬の地を訪れたのであろうか。江戸時代、播磨の医師、香川修徳(1683-1755)が「海内一」といい、城崎温泉は賑わいをみせており、湯治のため立ち寄ったと思われる。だが、同年の暮れに栗山は72歳で没している。

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