デュマと椿姫
アレクサンドル・デュマ(小デュマ)の1895年の忌日。アレクサンドル・デュマの庶子、デュマ・フィス(1824-1895)は、はやくから父の友人の文学者たちと交わり、はなやかな社交界に出入りしていた。ある日、デュマは連れの男とヴァリエテ劇場に行った。「あそこの女を見たかい」と、デュマは連れの男にたづねた。「やめてけよ。あの女にはとても近づけやしない。あれはマリー・デュプレッシーだぜ」と言った。
彼女こそ椿姫の主人公マルグリット・ゴーチェ、その実在のモデルとなった娼婦マリー・デュプレシー(1824-1847)である。当時の批評家ジュール・ジャナンによれば、彼女は娼婦ながら、あたかも貴族の女のような人品をそなえていたそうだ。マリーの本名は、アルフォンシーヌ・プレシー。父は行商人で、母は地主の娘だった。13歳で男を知り、14歳で妾になり、16歳でパリに出てきた。洗濯屋や洋服屋を転々としながら、グリゼットとなり、男に囲われる生活をする。フェルナン・ド・モンギュヨン、アンリ・ド・コンタデ、エドゥアール・ドレッセール、グラモン公爵の子息ド・ギッシュなどに見初められ、愛人となる。ギッシュはマリーに貴族的な教育をして、マリー・デュプレシーと名前を変える。その後もロシア人の78歳のスタックルベルグ伯爵の愛人になる。
若くて長身の美男だったデュマはマリーとの愉楽を次のような詩にしている。
あの夜をおぼえているか?恋人よ。
みだれたからだをキスのもとでよじらせ、
はげしい情熱に焼きつくされて
疲れた感覚のなかに待ち望む眠りを見だしたあの夜を!
彼女の好む花はただ一つ、椿だった。椿は華やかでいて、どこかはかなげだ。その花のように、二人の関係は長くは続かなかった。コルチザン(高級娼婦)と交際するだけの金を青年作家のデュマ・フィスは持ちあわせなかったからだ。
1846年、マリーはエドワード・ベレゴー伯爵と結婚したが、1年後の1847年2月3日、23歳の若さでその生涯を閉じた。椿の花はしおれることなく、一番美しい時期に、急に花がポトリと落ちるので、哀れなコルチザンの一生を象徴しているようである。パリのモンマルトルにあるマリー・デュプレシーの墓は、今でも献花が絶えないという。
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