近藤勇(1834-68)新選組局長。文久3年2月、清河八郎らの呼びかけに応じて、将軍家茂警護に名をかりた尊王浪士隊に参加、清河の帰東後京都に残って新選組を結成した。同年9月、乱行の多い芹沢鴨一派を暗殺して新選組の実権を握り、池田屋事変で勇名をはせ、禁門の変その他に活躍。しかし、歴史状況の変化がめまぐるしく、新選組は滅びの道をたどり、鳥羽・伏見の戦いに敗れ、同志で組織した甲陽鎮撫隊も敗走。下総流山に屯集されているところを東山道鎮撫総督府参謀有馬藤太に追撃され、慶応4年4月25日、板橋で斬首される。
土方歳三(1835-69)文久3年浪士隊に加わり、京都で近藤とともに新選組を結成した。近藤の包容力に比して、知将、謀将の怜悧さで新選組の秩序をまもり隊士をきびしく処断した。近藤が処刑されたのちも、会津、東北、箱館と戦いぬき、幕臣でもないのに、最後まで自己の信条に忠実に生き抜いた男であった。
沖田総司(1844-68)奥州白河の浪人だというが、土方と同じ日野に住んでいた。慶応4年5月30日、江戸千駄ヶ谷池尻橋付近の植木屋平五郎宅で病死。剣術の達人。
斎藤一 (1844-1915) 明石藩足軽・山口祐助の次男。19歳の時に、旗本を殺してしまい、京へ上り、浪士組上洛直後に入隊する。伊東甲子太郎らが、新選組を離脱すると、斎藤も同調し、高台寺党に参加した。これは、近藤の密命を受け、間者として潜り込んだものであるらしく、近藤暗殺計画があることを伝えた。その後帰隊する。そして、油小路の変で、伊東らを暗殺する。鳥羽伏見の戦いの後、会津藩の一員として戦い続けた。明治5年、警視局に入り、後に警部補に任ぜられる。西南戦争にも出陣した。大正4年、没する。
山南敬助(?-1865)新選組総長。学問があり、新選組を単なる人斬り集団でなく思想集団に育てようとした。土方と対立。慶応元年1月、隊を脱走し、大津で沖田総司に追いつかれ、同年2月23日、隊規により前川邸で切腹した。
島田魁(1828-1900)大垣藩出身。池田屋事変、三条大橋制札事件、油小路事件に活躍。新選組瓦解後も各地に転戦したが、五稜郭落城後降伏した。
原田左之助(?-1868)伊予松山藩の足軽の子。新選組十番隊長。池田屋事変から上野戦争まで、ほとんどの事件、戦いに出動している。慶応4年彰義隊に参加して上野の山で戦い、重傷を負って5月17日死亡。
山崎丞(?-1868)新選組副長助勤、諸士取調役兼監察。香取流棒術に長じていた。密偵邸の仕事を受けもっていた。慶応4年鳥羽伏見の戦いで負傷し、富士山丸で江戸に向かったが、紀州沖で死亡した。
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