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2013年10月18日 (金)

総理の悲劇

Img      日本の総理は就任直後は期待感で支持率は上がるが、漸次に低下し、辞める時には最悪最低となる。その典型が東條英機だろう。戦後、わが子に「英機」という名を命名した例をわたしは知らない。昭和16年のこの日、東條英機(1884-1948)は第40代内閣総理大臣に就任し、東條内閣が発足した。明治17年7月30日、陸軍中将・東條英教(1855-1913)の三男として東京で生まれた。兄二人が早死にしているので、事実上は長男に等しい。城北中学(現・戸山高校)から幼年学校・士官学校・陸軍大学校を出た。幼少のころは腕白で勉強もろくにしなかったが、幼年学校あたりから勉強を始め、士官学校は優等、そうして陸軍大学校は首席で卒業した。東條の有能ぶりが認められたのは陸軍省副官となったときで、陸軍の六法全書ともいうべき『成規類聚』をすべて読破し、マスターしたからという。

   昭和16年10月18日、首相に就任し、陸相と内相を兼ね、対米英開戦の最高責任者となった。昭和18年9月8日、イタリアの降伏とともに太平洋の南方前線を放棄し、敗色は濃厚となっていた。昭和19年6月、マリアナ沖海戦で海軍が壊滅的打撃を受けると、制海・制空権をまったく失い、昭和19年7月、「絶対確保線」の一角とされたサイパンがアメリカ軍に占領された。同年7月18日、東條内閣は総辞職した。

   巷間によくいわれる戦争の敗因としては、第一は飛行機の「質」において日本は遅れをとってしまった。開戦当時米英をひきはなしていたわが零戦は新しく出現したグラマンF6F(ヘルキャット)に対抗できなかった。「一機でも多く」ということが叫ばれたが、ほんとうは量より質で負けてしまっていた。第二には電探の出現で、日本海軍極意の戦法である奇襲や夜戦ができなくなってしまった。ひいては艦隊の輪型陣を帳ることもできなくなっていた。燃料も乏しくなっていた。戦争の勝敗はすでに明白であった。

   けれど東條はあくまで戦争を強行しつづけた。東條は首相、陸相、軍需相のほか、さらに参謀総長まで兼任してその独裁を強化しようとした。「飛行機がなくて海軍は戦争が出来ない」というのが海軍の悲痛な叫びであったが、資材の分け前はいぜんとして陸海軍均等の線がやぶれなかった。また兵員も、徴兵権を陸軍がもっていたために、甲種合格者は全部陸軍がとったりし、それがため海軍の予科練入隊者の三分の一は搭乗員として使いものにはならなかったりした。陸海軍の血で血を洗う抗争はその極に達していた。戦争がここまできてから、海軍はようやく海軍の空軍化の必要に気がついたのである。その空軍の指導権を海軍に取られまいとして陸軍は対抗したのである。アメリカはハワイ・マレーの戦いの体験から、航空母艦を主力艦とする「機動艦隊」の編成の切り替えに成功していた。もうまにあわなかった。はじめから無謀な戦争ではあったが、和平工作(終戦)が遅れたことが多くの犠牲者をさらに増やした。軍人・軍属の死亡・行方不明約186万人、一般国民の死亡・行方不明約66万人といわれる。(服部卓四郎『大東亜戦争全史』)

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コメント

東條さんは陸大を首席で卒業していません
優等でもありません
東條さんは大正4年陸大27期卒業で56名の卒業
生が居ます

首席 今村均
優等 鴨脚光弘
〃  鷲津鈆平
〃  本間雅晴
〃  三留喜兵衛
 〃 川辺正三
陸士も成績は優等組には入っていません

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