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2013年9月17日 (火)

幕末の南朝正統論

Img_1318164_51550387_3     昭和47年2月2日、横井庄一の「恥ずかしながら帰って参りました」の帰国声明が流行語になったが、グアム島のジャングル生活で心の支えとなった言葉は、南朝の忠臣・児島高徳の「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡無きにしもあらず」であった。横井は小学校時代の戦前の教科書でおぼえていたのであろう。児島高徳と並んで後醍醐天皇の忠臣といえば楠木正成である。皇居外苑に立つ銅像によってその雄姿をしのぶことができる。しかしながら、明治・大正・昭和と北朝の皇統でありながら、なぜ戦前の教科書では南朝の英雄を賛美したのであろう。それは幕末から明治初期にかけては、「日本外史」「大日本史」を読んで南朝正統論を信ずる尊王論者が大多数だったからであろう。とくに長州の吉田松陰などが再興すべしとする南朝とは、歴代にわたって長州が匿ってきた大室天皇家であった。鹿島昇説(明治天皇=大室寅之祐説)であれば、明治の世になって、実質的に南朝が復権したので、後醍醐天皇、楠木正成、児島高徳の事績を顕彰することで、忠孝を教えるという意図が説明できる。

    後醍醐天皇の皇子・満良親王(みつながしんのう)は延元3年9月に四国に渡り、同5年正月、新田某等と共に土佐国大高坂城を救援され、のち正平6年の頃には周防国に移り、常陸親王と称されたらしい。親王の子孫は大江氏がこれを匿っていたが、やがて大江氏が滅ぶと、毛利氏が長州においてその子孫を代々守ってきた。これが吉田松陰らの王政復古御維新を志した勤王運動である。松陰亡き後、木戸孝允が西郷隆盛に「我々はこの南朝のご正系をお立てして王政復古するのだ」と言うと、西郷は南朝の忠臣菊池氏の子孫であることから衷心より深く感銘してこれに賛同したという。(参考:鹿島昇「日本侵略興亡史」)

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