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2013年9月 4日 (水)

函館青柳町時代の啄木

Photo
 円内上 吉野章三 大島経男
 円内中 岩崎正   宮崎大四郎
 円内下 並木武雄
 円外   石川啄木 西村彦次郎 

  石をもて追はるるごとく故郷渋民村を去った石川啄木が、函館に到着したのは、明治40年5月5日のことである。宮崎郁雨の好意で青柳町18番地に新居を構え、妻節子と子・母・妹光子を迎え、一家五人の生活は明るく楽しいものであった。日記に「我が函館に於ける新家庭は漸く賑やかになり、京ちゃんは日増しに生長したり、越て数日小樽なりし妹光子は脚気転地のため来れり、一家五人家庭は賑はしくなりたれどもそのために予は殆ど何事をも成す能はざりき、六畳ニ間の家は狭し、天才は孤独を好む、予も亦自分一人の室がなくては物かく事も出来ぬなり」と書いてその不便をかこっている。

函館の青柳町こそかなしけれ

友の恋歌

矢ぐるまの花

(解釈)函館の青柳町時代がとりわけて懐かしいことだ。家の周囲に矢ぐるまの花が咲き、友の恋歌を聞いて楽しんだあのころの生活が。

    この青柳町の新居はやがて啄木の主宰する文芸雑誌「紅苜蓿」の本拠となり、岩崎正(白鯨)、松岡政之助(蕗堂)、大島経男(流人)、並木武雄(翡翠)、西村彦次郎、吉野章三(白村)、宮崎郁雨たちは暇さえあれば文学を論じ人生を語りあった。友人のひとり岩崎正は当時函館郵便局の為替係として勤務していた。後年相次ぐ家庭の不幸に妻を娶ることもなく、大正3年9月5日、肺結核のために薄幸不遇の生涯を閉じた。

目を閉じて

傷心の句を誦してゐし

友の手紙のおどけ悲しも

(解釈)友人の岩崎白鯨は常に目をとじて悲しみの歌を口ずさんでいたが、この薄幸不遇の友の手紙に、おどけた言葉が書かれてあるのも悲しいことだなあ。

    明治40年8日25日に函館の大火があった。焼失家屋12000余、死者8人、負傷者1000人。啄木一家は焼失を免れたが、勤務先の弥生小学校、函館日日新聞社ともに焼失した。函館は当分再興の見込みなしと判断し、札幌行きを決心する。在函期日132日なり。

函館のかの焼跡を去りし夜の

こころ残りを

今も残しつ

    啄木日記より。「八月二十五日此夜十時半、東川町より火を失し、折柄の猛しき山背の風のため、暁にいたる六時間にして函館全市の三分の二を焼けり。この函館に来て百二十有余日、知る人一人もなかりし我は、新しき友を得ぬ。我友は予を恋ひせんとす。而して今予はこの記念多き地を去らんとするなり。別離といふ言ひ難き哀感は予が胸の底に泉の如く湧き、今迄さほど心にとめざりし事物俄かに新しき色彩を帯びて予を留めむとす。」

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