平清盛と富士参詣
平清盛は南都の焼き討ちなど後世の悪人説があるが、熊野権現参詣や厳島神社造営など基本的に信仰の篤い人物である。治承3年正月、清盛は念願の富士山への参詣を計画していた。ところが前日になって富士山への出立をとりやめ、かわりに武蔵国の知行国主を務めていた知盛を代行として派遣することにした。清盛が長い期間にわたって京都を離れることに不安を感じる一門たちの反対によるものである。しかし、この富士参詣が計画どおり実行に移されていたら、東国武士の制圧となり、頼朝の挙兵も起こらず、源平の命運を分けたことだったという学者もいる。(参考:野口実「平清盛と東国武士:富士・鹿島社参詣計画を中心に」立命館文学624 2012年1月)
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