ジェーン・ワイマン
2012年のこの日、ジェーン・ワイマンがカリフォルニア州パームスプリングの自宅で老衰のため死去した。享年93歳だった。映画女優であり、レーガン大統領とは1940年から1948年まで夫婦だった。 映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のワン・シーン。若き日のドク(クリストファー・ロイド)がタイムスリップしたマーティー(マイケル・J・フォックス)に「ロナルド・レーガンが大統領なら、ファースト・レディはジェーン・ワイマンかい?」というセリフがあった。実際にはジェーン・ワイマンは早くにレーガンと離婚したので、ファースト・レディになることはなかったが、ジョークとして面白い。
本名はサラー・ジェーン・フォークス。1914年1月5日、 ミズーリ州セントジョセフに生まれた。誕生名はサラ・ジェーン・メイフィールド。父は町長。8歳の時、両親が離婚したので、彼女の名前はサラ・ジェーン・フォークスとなった。女優であった母の希望で幼い頃からダンスを習い、ロサンゼルスへ移住。10代でハリウッドで仕事を探したが失敗。帰郷してミズーリ大学卒業後、ネイリストや電話交換手をしていた。1932年頃、ラジオのコーラスガールとなり、ジェーン・デュエルという芸名で歌手となったが、やがてハリウッドへ行く。1936年、ワーナーブラザーズと契約し、「踊る三十七年」でジェーン・ワイマンに改名したが、その後もなかなかチャンスは掴めずブロンド娘役など脇役をしていた。「カナリヤ姫」「ハリウッド玉手箱」などで次第に脇役から主役級になっていく。1945年に「失われた週末」のアル中のレイ・ミランドを支える恋人役で注目されるようになった。クラレンス・ブラウン監督の「子鹿物語」(1946年)で厳格な南部の開拓農民の妻に扮してアカデミー主演女優賞にノミネートされた。「ジョニー・ベリンダ」(1948年)で聾唖のレイプ被害者を演じ、アカデミー最優秀主演女優賞を獲得した。「青いヴェール」(1951年)で二度目のオスカーをとりそこなったものの、1950年代半ばになると、ダグラス・サーク(1897-1987)監督のメロドラマで演技派女優としての貫禄が加わってきた。「心のともしび」(1954年)「天はすべて許し給う」(1955年)でロック・ハドソンと共演。ジェーン・ワイマン主演の作品はやがてお涙頂戴ものの陳腐なメロドラマとしてアメリカでは評価が低かったが、70年代になってヨーロッパでダグラス・サークの評価が高まった。母を演じ、妻を演じ、そして年下の青年との恋に苦悩するメロドラマ。50年代ハリウッド映画界には、ジェーン・ワイマン、ラナ・ターナー、スーザン・ヘイワード、デボラ・カー、ドロシー・マクガイアなどの名女優が健在であった。日本でいえば、三益愛子、月丘夢路、高峰三枝子といった感じであろうか。私生活では、マイロン・ファーマン、ロナルド・レーガン、フレデリック・カーガーの3人の男性と4度の結婚をしている。このほか「西部戦線異状なし」の俳優リュー・エアーズとのロマンスの噂もあった。レーガンとの娘モーリンはTV女優として活躍している。
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ジェーン・ワイマンの人気が全盛であった頃の「映画の友」の記事を紹介する。「ドリス・デイには虫がおさまらぬ事がただ一つ、それはジェーン・ワイマンがビング・クロスビーとの共演以来(花婿御入来、あなただけの為に)、レコードにデイ張りの唄い方をすることです。これにはさすがのドリスもすっかりツムジを曲げ、今のところ、イッカナ仲のとりなしようもありません。そのジェーン・ワイマンは先日、ビング映画を監督の為欧州へ旅立ウィリアム・パールバークの為に大パーティを催して、ハリウッド各方面の名士が総出席、朝まで盛大に踊りぬきました。スタアではグリア・ガースン、ゲーリー・クーパー、ヴァン・へフリン、ヴァン・ジョンソンの奥方イーヴァーは一人で現れフランス語の唄を歌ってバーバラ・スタンウィックと一緒に来たジャン・ピエール・オーモンを顔負けさせ、ベティ・ハットン、チャールス・オカーラン(振付師)夫妻は得意のダンスをご披露し、タイロン・パワーはバンドに交じってドラムをたたく脱線ぶりの賑やかさでした。」(映画の友、1953.1、91p)
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