« 2013年8月 | トップページ | 2013年10月 »
「壮烈新選組 幕末の動乱」(1960)は佐々木康が監督した東映オールスターキャストの娯楽大作である。近藤勇(片岡千恵蔵)土方歳三(黒川弥太郎)沖田総司(若山富三郎)永倉新八(伏見扇太郎)藤堂平助(片岡栄二郎)原田佐之助(品川隆二)、芹沢鴨(山形勲)や伊東甲子太郎(月形龍之介)一派は悪役を配している。勤皇派の桂小五郎(高田浩吉)倉橋新兵衛(大友柳太朗)但馬総之助(大川橋蔵)は善玉組。松平容保は里見浩太朗。
原作は司馬遼太郎ではなく、白井喬の「新撰組」である。倉橋と但馬は白井の創作らしい。白井の小説は当時1924年から1925年にかけてサンデー毎日に連載され、大評判となった小説である。数年後にテレビドラマとなった土方を主役とした司馬遼太郎「新選組血風録」と何処が大きく異なるのか。司馬作品は新選組隊士の一人一人がよく描けていることであろう。たとえば斎藤一や山崎烝が大きな位置をしめている。新選組は実録物だけに史実に近いほうがより面白い。なお100名以上いる出演者の中で存命なのは品川隆二、里見浩太朗、沢村精四郎、大川恵子、花園ひろみ、植木千恵くらいであろうか。
「便秘」は英語で、constipation
1920年代、ビーチャム社の広告を見ると、「a source of many ills」「constipation」多くの病気の源「便秘」とある。
では「うんち」と「おなら」は英語で何と言う。
「excrement 排泄物」
「relieve oneself 用便をする」
「bowel movement 排便する」
大便は、「feces(英faces)」、「bowels(婉曲的にBMと略す)」「shitは日本語の「くそ」に当たり、下品な言葉とされる」
「break wind おならをする」「pass gas」「fart」長新太の絵本「おなら」は世界中で翻訳されている。「THE GAS WE PASS」「The Story of Farts 」という表題がついている。
いよいよ30日から「ごちそうさん」がスタート。「あまちゃん」が好評だったので、杏さんには視聴率というプレッシャーがのしかかりそうだ。ところで英語で「いただきます」「ごちそうさま」を言えますか?英語で決まったフレーズはないそうです。食事が終わったときの「ごちそうさま」は、Thank you for the delicious dinner.で良いでしょう。
I really enjoyed the meal.
That was a wonderful meal.
It was good.
That was a delicious meal!
I have enjoyed the meal very much.
ファミリー劇場で「おさな妻」(1970)を放送している。大映の関根恵子が有名なのでロリータものを期待するかもしれないが、テレビ版はホームドラマである。16歳の女子高校生レイ子(麻田ルミ)が30歳の子連れ会社員(井上孝雄)と結婚し、妻として母として高校生として三役をはたしながら懸命に生きる姿を描く。主演は西野バレエ団の新人15歳の麻田ルミ。ショートカットで主題歌も歌う。おさない性と清純さは後年の山口百恵を彷彿させるものがある。ドラマ・レギュラー陣には黒柳徹子(ラーメン屋)、春川ますみ、悠木千帆(アパートの住人)など多彩な顔ぶれである。35回には小柳ルミ子も出演している。1970年ころは「ルミ」という名が流行した。「気になる嫁さん」榊原るみ、「巨人の星」アイドル歌手の橘ルミ。「ルミ」ブームの火付け役は小山ルミだろう。
女優・森光子は舞台「放浪記」で1961年の初演以来、somersaultを1858回している。初期には3回転しており、通算では2800回以上も回ったことになる。鉄棒の技ムーンサルトMoonSaltoは月面宙返りを意味する和製英語。
somersault でんぐり返し、宙返り
handstand 逆立ち
wig かつら
albatross あほうどり
zillion 無数
devilment 悪魔の行為 酷いいたずら 悪ふざけ
lightning 稲妻
invalid 無効
pumps 婦人靴
hang oneself 首つり
morals 道徳
rowboat 手こぎボート
hymen 処女膜
sanitary napkin ナプキン
(英語、英単語)
ウラジミール・バレンティンが年間本塁打の最多記録を更新中である。「55」という数字には魔力のようなものがある。コント55号の「55」の意味は王貞治の年間最多本塁打にあやかって「お笑い界のホームラン王」が込められているといわれる。しかしこれは俗説で坂上二郎は次のように語った。
1966年10月、浅草松竹演芸場の支配人からコンビ名を「君たちはいつも楽屋へ帰ってくると喧々囂々とコントの打ち合わせをして、前身、前身、ゴーゴーゴーという感じだから「コントゴーゴーゴー」ってのはどうだ」とおっしゃったので、「じゃあそれでお願いします」ということになった。その頃007の映画が流行っていたからゴーゴーは数字55にして、台風みたいに号をつけて「コント55号」に決まった(坂上二郎談)。
オードリー・ヘプバーンは自分のラッキー・ナンバーを「55」と決めていた。「ローマの休日」と「ティファニーで朝食を」では55番の楽屋だったので、以後、縁起をかついで自身の楽屋はいつも「55番」と要求していた。
巨人の2008年ドラフト1位の大物ルーキー大田泰示は松井秀喜と同じ背番号55だった。5年で通算本塁打はわずか2本。背番号が重荷となっている。
赤松則村(法名は円心)が29歳の頃、京の路上で若い僧に出会い、僧から「将来、あなたはきっと出世します」と告げられた。まだ播磨の田舎侍だった則村は、「うれしいことです。もし本当なら、出世したあかつきには、貴僧に恩返しいたしましょう」と答えた。のち則村は足利尊氏に味方し、播磨守護となる。赤松氏繁栄の基を築く。守護になった則村は法雲寺を建立し、高僧を招いた。則村の前に姿を現した高僧は、かつて京の路上で「出世する」と予言した雪村友梅だった。
赤穂四十七士の1人、赤垣源蔵は巷説で、本名は赤埴重賢(1669-1703)。赤垣源蔵徳利の別れは有名だが、実際は下戸だったといわれる。新劇俳優信欣三の夫人・赤木蘭子(1914-1973)は東宝争議の際、「来なかったのは軍艦だけ」と言った。
「赤星」といえば阪神タイガース盗塁王の赤星憲広だが、明治の実業家に赤星弥之助(1853-1904)がいる。古美術コレクターで、その子が鉄馬、四郎、五郎、六郎。赤井米吉(画像 1887-1974)は明星学園創立者。西田幾多郎は叔父。赤尾好夫(1907-1985)は旺文社の創設者。漆芸家の赤塚自得(1871-1936)、ギャグ漫画の赤塚不二夫(1935-2008)。赤川次郎は推理作家には珍しく本名である。
ぜんじろうのやったるでぇ~。
It looks like rain.
雨が降りそうだね。
look like...は、「…になりそうである」と言いたいときに便利な表現である。それから、「…に似ている、…のように見える、…のように思える」といったことも言い表すことができる表現である。
It looks like rain.はIt looks as if it were going to rain.(雨が降りそうな気配です)というのを短く言い表わしたものである。会話ではas if を使わないで、It looks like it's going to rain.と言います。
NHKはじめよう英会話(2000年4月)すぐ使える基本表現スタンダード40のひとつ。
世の中、紛らわしい地名がある。ヨーロッパに位置するオーストリアと南半球のオーストラリアを混同することがある。アイスランドとアイルランドも紛らわしい。ロシア連邦のヴォルガ連邦管区に所属するモルドヴィア共和国(首都サランスク)と旧ルーマニアのモルドバ共和国(首都キシナウ)も紛らわしい。国土の広いアメリカには同一地名はざらにある。東部にあるコロンビア特別区をなすワシントンD.C.と西海岸にあるワシントン州。コロンビアは南米の国家コロンビア、カナダのブリティッシュ・コロンビア州のほかメリーランド州、サウスカロライナ州、ミズーリ州に同名の地名が存在する。地名の重複はあまり気にしないらしい。
一方、国土の狭い日本では「市名の重複は望ましくない」というのが従来からの国の方針である。ところが現実には重複市名は存在する。伊達市(北海道、福島県)と府中市(東京都、広島県)である。仙台藩の亘理領主・伊達邦成(1841-1904)は明治3年、家臣を率いて北海道に移住、胆振国有珠郡(現在の伊達市)を開拓した。伊達市の市名はその名に因む。駅名は伊達紋別駅、伊達駅、府中本町駅、府中駅とそれぞれ異なる。ほかに紛らわしい都市はある。例えば、群馬県の太田市は点が付き、島根県大田市は点が付かない。嗚呼ややこし、ややこし。
条約改正で名を残す明治の外交官・青木周蔵(画像)は大恋愛の末、プロシアの貴族エリザベートと結婚した。写真の周蔵の隣にいる娘がハナ。ハナはのちにドイツ・シレジア伯爵と結婚する。甘藷先生こと青木昆陽、洋画家の青木繁、中国文学の青木正児。
野球の青井鉞男(1872-1937)は1896年、米国チームから初勝利した投手。NHKアナ青井実の祖父は丸井創業者、青井忠治(1904-1975)。
青山姓は徳川大名に多い。青山氏の始祖は青山師重(14世紀)、青山信昌(?-1547)、青山吉次(1542-1612)、青山忠俊(1578-1643)、青山忠裕(1768-1836)。東大内科教授の青山胤通(1859-1917)。
会沢正志斎(1781-1863)は幕末の水戸学者で尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。会津姓には侠客の会津小鉄(1845-1885)、歌人の会津八一(1881-1956)、相沢姓には昭和期の軍人・相沢三郎(1889-1936)、考古学の相沢忠洋(1926-1989)、相沢さなえ(天気予報)、相沢舞(声優)。会田姓には和算家の会田安明(1747-1817)、ルネサンス研究の会田雄次(1916-1997)、福澤諭吉研究の会田倉吉(1914-1976)がいる。愛甲姓には薩摩藩儒の愛甲喜春(1605-1697)、愛甲猛(野球)がいる。政治家の愛知揆一(画像、1907-1973)の名「揆一」の由来は孟子の「先聖後聖其の揆一なり」(いつの世にも聖人の立てる道筋というのは変らない)から。ところが揆一がひっくり返ると、百姓一揆などの暴動となる。もともと「其の揆を一つとすべし」という良い意味で使われていたが、いつしか暴動のことを一揆というようになった。
相原姓に「平泉雑記」を著わした相原友直(1703-1782)、統計学の相原重政(1847-1914)、板垣退助襲撃犯の相原尚褧(なおぶみ)、富士山画家あいはら友子(旧芸名・相原友子)、ミュージカル「ピーター・パン」相原勇がいる。饗庭姓には小説家・饗庭篁村(1855-1922)、フランス文学の饗庭孝男がいる。
その他、「ミカンが実る頃」の藍美代子、書家の相田みつを、TVジョッキー相本久美子、「家政婦のミタ」の相武紗季など。
最近むかし録画しておいたビデオを見て寝ることにしている。昨夜は大映「千姫」(木村恵吾監督,1954年)である。画質が悪いが、千姫の衣装などとても美しい作品である。日本映画初期のカラー作品だけに色彩に留意している。当時、京マチ子30歳、市川雷蔵23歳、菅原謙二28歳である。家康の大河内傳次郎は56歳だがもっと老けてみえる。雷蔵は映画デビューの年で菅原謙二のほうが役が大きい。ところで日本最初のカラー映画は「千人針」(三枝源次郎監督、1937年)であるが短編作品。1951年の松竹「カルメン故郷に帰る」が日本最初の長編カラー映画として知られている。1951年から1954年までの間に何本のカラー映画が作られたのか知らないが、当時ポスターには「総天然色映画」という文字が大きく記されていた。子どもながらも白黒よりカラー作が好きであった。長じて白黒を好むようになったが。
いま80年代アイドルに再び注目が集まっている。火付け役は「あまちゃん」出演のキョンキョンだろう。かなり自身の地をいくような台詞が受けた。1982年デビューの小泉今日子は現代型アイドルの基本像を作り上げたといえる。
本日のスタジオパークで菊池桃子が登場。アイドル時代と変らぬ優しく女性らしい物腰。「ガラスの家」の番宣だが、戸板女子大客員教授らしくトークが上達している。学業、病気、離婚、2児の母などのこれまでのキャリアが人間としての成長を示している。今年は芸能活動30周年となる。80年代のトップアイドルの一人だったが、大人しく控えめな性格が災いしてか高い人気の割にイマイチ決定打がなかった。アイドル時代のヒット曲は「雪に書いたLOVE LETTER」「卒業」「BOYのテーマ」「もう逢えないかもしれない」「夏色片思い」「Say Yes」1985~87が全盛。45歳になって知性派女優、菊池桃子の逆襲が始まる。
昭和47年2月2日、横井庄一の「恥ずかしながら帰って参りました」の帰国声明が流行語になったが、グアム島のジャングル生活で心の支えとなった言葉は、南朝の忠臣・児島高徳の「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡無きにしもあらず」であった。横井は小学校時代の戦前の教科書でおぼえていたのであろう。児島高徳と並んで後醍醐天皇の忠臣といえば楠木正成である。皇居外苑に立つ銅像によってその雄姿をしのぶことができる。しかしながら、明治・大正・昭和と北朝の皇統でありながら、なぜ戦前の教科書では南朝の英雄を賛美したのであろう。それは幕末から明治初期にかけては、「日本外史」「大日本史」を読んで南朝正統論を信ずる尊王論者が大多数だったからであろう。とくに長州の吉田松陰などが再興すべしとする南朝とは、歴代にわたって長州が匿ってきた大室天皇家であった。鹿島昇説(明治天皇=大室寅之祐説)であれば、明治の世になって、実質的に南朝が復権したので、後醍醐天皇、楠木正成、児島高徳の事績を顕彰することで、忠孝を教えるという意図が説明できる。
後醍醐天皇の皇子・満良親王(みつながしんのう)は延元3年9月に四国に渡り、同5年正月、新田某等と共に土佐国大高坂城を救援され、のち正平6年の頃には周防国に移り、常陸親王と称されたらしい。親王の子孫は大江氏がこれを匿っていたが、やがて大江氏が滅ぶと、毛利氏が長州においてその子孫を代々守ってきた。これが吉田松陰らの王政復古御維新を志した勤王運動である。松陰亡き後、木戸孝允が西郷隆盛に「我々はこの南朝のご正系をお立てして王政復古するのだ」と言うと、西郷は南朝の忠臣菊池氏の子孫であることから衷心より深く感銘してこれに賛同したという。(参考:鹿島昇「日本侵略興亡史」)
テレビでお馴染みのタレントたち、伊集院光、石塚英彦、松村邦洋、内山信二を「デブタレ四天王」という。みんな性格がよさそう、特技がある、面白い、話題が豊富、など共通点がある。デブの人は内気、おとなしい、いい人、という一般的な印象があるがアメリカでも同様だ。
「逃亡者」第10話「Fatso」「(軽蔑的に)でぶ」という意味。いまは英語で「fat」「fatty」という単語は別の言葉におきかえられるらしい。日本でも「でぶ」は名誉毀損用語として扱われる。ところで「でぶ」は江戸時代の「でっぷり」という擬態語が派生して「でぶ」になったといわれる。逃亡者の「真犯人はオレだよ」は、8年前に馬小屋火事の犯人とされたデビーという太った男は何かに逃れるために過食症やアル中になったりする。医師の使命としてキンブル(ヒポクラテスの誓約をしている)はその8年前の事件の真相を探り、弟が農場の財産を独り占めするため兄のデビーに罠を嵌めたことを知る。ジェラード警部の追跡をかわしながら、デビーの濡れ衣を晴らすという正義感のキンブル先生でした。タイトル「Fatso」でつまづく。「fat」が「太った」という形容詞と知っていても、「fatso」がわからない。最近は英語の辞書をテレビの横において引くことにしている。
大坂城落城後、千姫(1597-1666)は江戸へ送られた。1616年、本多忠刻と再婚、姫路城に移り、平穏に暮らすも、忠刻と死別し江戸に帰って髪を下ろし、天樹院と号し、江戸城北の丸の竹橋の屋敷で過ごす。「吉田通れば二階から招く。しかも鹿の子の振袖で」の俗謡が生まれ、吉田御殿の千姫淫乱の噂は事実無根である。千姫は慎ましやなか女性で、竹田御殿で余生を過ごし、70歳で波乱の人生を閉じた。遺骨は小石川の伝通院(文京区)、飯沼弘経寺(常総市)に葬られる。京都知恩院、高野山奥の院にも千姫の墓がある。
大坂城落城の際、孫娘の千姫を助けた者に妻として与えることを家康は約束し、坂崎出羽守が無事に千姫を救出した逸話は有名である。史実は千姫は豊臣方の武将である堀内氏久(1595-1657)に護衛されて出羽守の陣まで届けられ後、出羽守が秀忠の元へ送り届けたとする説がある。堀内はその功によ、下総国内で500石を給され旗本として召抱えられた。
大河ドラマでは、これまで7人の女優が千姫を演じている。惣那汐里(江)、川島海苛(天地人)、鶴彩未(功名が辻)、大河内奈々子(葵)、伊藤麻衣子(独眼竜政宗)、石原真理子(徳川家康)、木村菜穂(春の坂道)。しかし堀内氏久は1度も登場していない。
英語の綴りで pneumonia(肺炎)は、「ニューモニエ」と発音するが、発音しない「P」が頭につく。これを黙字(Silent Letters)という。
answer(答える) w
knead(こねる) k
handsome(ハンサム) d
Christmas(クリスマス) t
island (島) s
doubt(疑う) b
knee(ひざ) k
honest(正直に) h
often(しばしば) t
dumb(ばかな) b
match(試合) t
walk(歩く) l
talk(話す) l
knock(ノックする) k
thumb(親指) b
comb(くし) b
knot(結び目) k
wrist(手首) w
aisle(通路) s
write(書く) w
wrap(つつむ) w
castle(城) t
hymn(賛美歌) n
knapsack(ナップザック) k
knight(騎士) k
knife(ナイフ) k
climb(登る) b
calm(平静な) l
東京五輪が決定してから三波春夫(1923-2001)のことを思い出した。なぜか年末の紅白歌合戦で三波が「東京五輪音頭」を歌った記憶がなかった。調べてみると過去31回の出場で、「東京五輪音頭」を披露したのは晩年の1989年のことであった。それから10年間は出場はなく、1999年12月31日に「元禄名槍譜 俵星玄蕃」が最後の曲目となった。三波春夫の生歌は1999年から2000年に変るミレニアムを最後に聞けなくなった。西暦2000年前後とは何だったのだろう。世界でミレニアムを2000年とするか、2001年とするかで議論になった。結局、2000年と2001年の2度祝うところが多かった。心配したコンピュータの誤作動もなかった。南太平洋のキリバス共和国が世界の注目を集めた。日付変更線の東側にあるため、日付が世界で一番早く変る。キリバスが2000年1月1日を迎えた3時間後、日本が新年を迎え、12時間後にはイギリスのグリニッジ標準時が新年を迎える。サン・ピエトロ大聖堂前の広場には多くの信者が集まり、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世のお言葉を聞いた。法王はパーキンソン病を患っており、5年後の2005年4月に84歳で亡くなられた。日本ではこの年の紅白総合司会は宮本隆治、紅組は久保純子、白組は中村勘九郎(2012没)だった。世界の元首をみてみよう。小渕恵三(2000没)、江沢民(中国)、金大中(韓国2009没)、金正日(北朝鮮2011没)、ナラヤナン(印2002没)、クリントン(米国)、ブレア(英国)、シラク(仏)、ヨハネス・ラウ(独2006没)。ロシアのエリツィン(2007没)が12月31日に大統領を辞任している。
Do you have any plan?
何か予定あるの
I'm planning a trip to Hawii.
ハワイへ旅行する計画を立てているんだ
I don't have any plans.
予定はありません
反対語(アポズィット opposite)を集める。厳密には対照語、関連語も含まれる。「粋」と「野暮」は英語でなんと言うのだろう?senseとsenseless?。「与党と野党」the government party,oppostition party。
愛・憎 love hate
哀・楽 sad happy
アウト・イン out in
赤字・黒字 deficit surplus
悪・善 bad good
明日・昨日 tomorrow yesterday
新しい・古い new old
暑い・寒い hot cold
粋・野暮 sense senseless
医者・患者 doctor patient
1番の・びりの first last
大きい・小さい big little
押す・引く push pull
男・女 man woman
男の子・女の子 boy girl
重い・軽い heavy light
具体的な・抽象的な concrete abstract
肯定的な・否定的な affirmative negative
自然な・気取った natural affected
高い・低い high low
強い・弱い strong weak
年とった・若い old young
長い・短い long short
昼・夜 day night
前・後ろ front back
まちがった・正しい wrong right
右・左 right left
明・暗 light dark
名誉・不名誉 honor dishonor
原因・結果 cause result
飢えた・腹いっぱい hungry full
ここ・そこ here there
連続クイズホールドオン(251)「地球から見えない、月の裏側を初めて観測したのは宇宙船ルナ3号でしたがどこの国の宇宙船だったでしょう?」正解はソビエト連邦。回答者はロシアと答えたのでアウトと判定された。出題文に「当時の国」という言葉がないので、「ロシア」を不正解とするのは厳しすぎる。例えば、「真珠湾奇襲攻撃をしたのはどこの国か?」という問題で、「日本」と答えると不正解で、「日本帝国」(1867-1945)を正解とするようなものである。ベートーヴェンの生国はドイツではなく、神聖ローマ帝国。
おそらく外国人であればRussiaと解答するであろう。ロシアは9世紀「ルスの国」が由来で、ロシア帝国、ソビエト連邦、そして現在を含む慣習的呼称である。清や中華民国など含めて「中国」と表現するのと同様である。回答者が「ロシア」と答えたことは間違いとはいえない。
日本の小学生が通学時に教科書、ノートなどを入れて背中に背負う鞄をランドセルという。幕末に洋式軍隊制度を導入する際、将校の携行物を収納するための装備品とした。オランダからもたらされて、背嚢のオランダ語ランセル(ransel)が訛ってランドセルになった。明治になって学習院が馬車・人力車による登校を禁止し、通学鞄として背嚢が導入されたが、当時はリュクサックのような形であった。1887年、皇太子が学習院初等科入学の際、伊藤博文が祝い品として帝国陸軍の将校背嚢に倣った鞄を献上し、それがきっかけでランドセルが徐々に浸透していった。
学校で教師が黒板にチョークで書いた文字を消すための道具を何というだろうか?一般に「黒板消し」あるいは「黒板拭き」(英語でブラックボード・イレイザー)という。でももし、「ラーフル」と呼んでいたら、その人は鹿児島県、宮崎県、愛媛県いずれかの出身である可能性が高いという研究がある。オランダ語で「ほつれ糸」や「こすること」などを意味するrafelが語源と考えられる。明治初期、チョークで書いた文字を消す際にほつれ糸を束ねたモップ風の物や、糸のほつれにほろ切れを使うことが多かったため、その材質から「ラーフル」という呼称が生じたらしい。明治初期の小学校では校旗、机、ランドルセルなどのようにオランダ語に由来する言葉が多く見られるが、ラーフルもその一つと考えられる。blakboard eraser
1960年のこの日、寿屋(現サントリー)が「トリスを飲んでハワイへ行こう」キャンペーンを開始。今年の流行語は「じぇじぇじぇ」。
昭和の流行語が懐かしい。「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂」「ゴホンといえば龍角散」「クシャミ3回ルル3錠」「ワワワ、輪が三つ」「ナンデアル、アイデアル、じょ~しき」「わんぱくでもいいたくましく育ってほしい」「スカットさわやかコカ・コーラ」「ファイト!一発」いまでも現役のキャッチ・コピーもある。キャンペーン広告「トリスを飲んでハワイへ行こう」は流行語にもなった。ところが、すぐにハワイへ行けたわけではなく、旅行積立金証書がもらえ、海外渡航自由化になってはじめて旅行が実現できるというものだった。(9月11日)
新発見された「モンマジュールの夕暮れ」(1888年)これまで偽物と見られていたが、ゴッホ美術館が調査した結果、ゴッホの本物であることが分かった。
アメリカの2人の作家はゴッホは自殺ではなく、他殺だったと主張している。ゴッホは1890年7月27日にピストルで自殺を図り、29日に死んだというのが定説である。スティーブン・ネイファーとグレゴリー・ホワイト・スミスが共同執筆したゴッホの伝記では、ゴッホはオーヴェル・シュル・オワーズの農場で兄弟2人に殺害されたとする。ネイファーはテレビ番組の中で故意、あるいは事故て゜殺害された可能性を指摘し、その瞬間に何が起こったかを正確に知ることは難しい」と付け加えている。
2012年のこの日、ジェーン・ワイマンがカリフォルニア州パームスプリングの自宅で老衰のため死去した。享年93歳だった。映画女優であり、レーガン大統領とは1940年から1948年まで夫婦だった。 映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のワン・シーン。若き日のドク(クリストファー・ロイド)がタイムスリップしたマーティー(マイケル・J・フォックス)に「ロナルド・レーガンが大統領なら、ファースト・レディはジェーン・ワイマンかい?」というセリフがあった。実際にはジェーン・ワイマンは早くにレーガンと離婚したので、ファースト・レディになることはなかったが、ジョークとして面白い。
本名はサラー・ジェーン・フォークス。1914年1月5日、 ミズーリ州セントジョセフに生まれた。誕生名はサラ・ジェーン・メイフィールド。父は町長。8歳の時、両親が離婚したので、彼女の名前はサラ・ジェーン・フォークスとなった。女優であった母の希望で幼い頃からダンスを習い、ロサンゼルスへ移住。10代でハリウッドで仕事を探したが失敗。帰郷してミズーリ大学卒業後、ネイリストや電話交換手をしていた。1932年頃、ラジオのコーラスガールとなり、ジェーン・デュエルという芸名で歌手となったが、やがてハリウッドへ行く。1936年、ワーナーブラザーズと契約し、「踊る三十七年」でジェーン・ワイマンに改名したが、その後もなかなかチャンスは掴めずブロンド娘役など脇役をしていた。「カナリヤ姫」「ハリウッド玉手箱」などで次第に脇役から主役級になっていく。1945年に「失われた週末」のアル中のレイ・ミランドを支える恋人役で注目されるようになった。クラレンス・ブラウン監督の「子鹿物語」(1946年)で厳格な南部の開拓農民の妻に扮してアカデミー主演女優賞にノミネートされた。「ジョニー・ベリンダ」(1948年)で聾唖のレイプ被害者を演じ、アカデミー最優秀主演女優賞を獲得した。「青いヴェール」(1951年)で二度目のオスカーをとりそこなったものの、1950年代半ばになると、ダグラス・サーク(1897-1987)監督のメロドラマで演技派女優としての貫禄が加わってきた。「心のともしび」(1954年)「天はすべて許し給う」(1955年)でロック・ハドソンと共演。ジェーン・ワイマン主演の作品はやがてお涙頂戴ものの陳腐なメロドラマとしてアメリカでは評価が低かったが、70年代になってヨーロッパでダグラス・サークの評価が高まった。母を演じ、妻を演じ、そして年下の青年との恋に苦悩するメロドラマ。50年代ハリウッド映画界には、ジェーン・ワイマン、ラナ・ターナー、スーザン・ヘイワード、デボラ・カー、ドロシー・マクガイアなどの名女優が健在であった。日本でいえば、三益愛子、月丘夢路、高峰三枝子といった感じであろうか。私生活では、マイロン・ファーマン、ロナルド・レーガン、フレデリック・カーガーの3人の男性と4度の結婚をしている。このほか「西部戦線異状なし」の俳優リュー・エアーズとのロマンスの噂もあった。レーガンとの娘モーリンはTV女優として活躍している。
* * * * * * *
ジェーン・ワイマンの人気が全盛であった頃の「映画の友」の記事を紹介する。「ドリス・デイには虫がおさまらぬ事がただ一つ、それはジェーン・ワイマンがビング・クロスビーとの共演以来(花婿御入来、あなただけの為に)、レコードにデイ張りの唄い方をすることです。これにはさすがのドリスもすっかりツムジを曲げ、今のところ、イッカナ仲のとりなしようもありません。そのジェーン・ワイマンは先日、ビング映画を監督の為欧州へ旅立ウィリアム・パールバークの為に大パーティを催して、ハリウッド各方面の名士が総出席、朝まで盛大に踊りぬきました。スタアではグリア・ガースン、ゲーリー・クーパー、ヴァン・へフリン、ヴァン・ジョンソンの奥方イーヴァーは一人で現れフランス語の唄を歌ってバーバラ・スタンウィックと一緒に来たジャン・ピエール・オーモンを顔負けさせ、ベティ・ハットン、チャールス・オカーラン(振付師)夫妻は得意のダンスをご披露し、タイロン・パワーはバンドに交じってドラムをたたく脱線ぶりの賑やかさでした。」(映画の友、1953.1、91p)
「レガシー(legacy)」という英単語が話題となっている。もちろん自動車ではない。
ロンドン郊外の豪邸。むかしこの館の女主人マギーが火刑に処せられたが、自分の霊魂を相続人としてある女を選ぶ。選ばれた女は当時「卒業」で人気だったキャサリン・ロス。このオカルト映画の題名は「レガシー」(1978年)。意味は「遺産」「過去からの遺物」。
ブエノスアイレスIOC総会での招致プレゼン。「私たちは、大会開催によって、都市とスポーツに新しいレガシーをもたらします。45億ドルもの大会準備基金がそれを可能にします」猪瀬東京都知事はこうスピーチした。つまり1964年の東京大会の経験を受け継いで、過去からの遺産を新しい遺産とする、という意味なのだが外国人にはとても違和感がある表現らしい。「レガシー」は基本的に「過去からの遺産」であって「未来への遺産」としての意味なく、使われない表現なのだ。しかし日本では数年前から論文などで「オリンピック・レガシー」は流行語のように用いられている。例えば、「オリンピック開催により築いたハード・ソフト両面のレガシー(遺産)をいかに次世代に継承するか」というように使われている。しかし英語ではあくまで「遺産」の意味でしかなく、「新しいレガシーをもたらす」という表現はしない。
1991年のこの日、マケドニアがユーゴスラビアから独立した。一般に「マケドニア」というとアレクサンドロス大王を思い起こさせる。紀元前4世紀、マケドニアはギリシア全土を平定し、大王は東方に大遠征し、ペルシア帝国を滅ぼして大帝国を建設し、ヘレニズム文化が生れたことで知られる。ただし古代マケドニアはギリシア系住民が多くいたが、現在のマケドニアは南スラブ系67%、アルバニア系23%でギリシア系はほとんどいない。1991年の独立のとき、国旗に古代マケドニア王国の旗である「ヴェルギナの星」を使用したため、ギリシャが反発し問題となった。1995年にマケドニアは国旗の形状を変更した。現在の国旗のデザインが我が国の旭日旗に似ているが、それに対して韓国が反発しているかは知らない。
国連はマケドニアの呼称を「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として1993年に加盟を承認している。ただし、ギリシャはその後もマケドニアの国号を改めるように要求している。Makedonija,Vergina
690年のこの日、則天武后が、睿宗を廃し、自ら聖神皇帝と称して国号を周とした。中国皇帝のなかで唯一の女帝である。
女性は古来、浮薄で、浅はかで、愚かで、思慮に欠け、気まぐれとされる。こう書けば女性から非難されるかもしれないが、世界史に登場する女帝・女傑には悪女が多い。クレオパトラ、ルクレツィア・ボルジア、メアリ・スチュワート、カトリーヌ・ド・メディチ、マリー・アントワネット、呂后、楊貴妃、西太后などなど。奢侈に耽って王室費を乱費したため財政破綻で国を滅ぼす。その中で、則天武后も残忍で専横にふるまいがあったが、近年の研究では、有能な新興官僚の抜擢や文化事業の推進といった革新性を高く評価する見方もでている。
数年前に日本の美術展で公開された絵が思い出せない。ポスターに使われたロシアの代表的な作品のひとつ。雪景色をバックにして馬車に乗った若い女性が何やら物憂げな表情を浮かべている。アンナ・カレーニナを思い出させる。濃いまつげと赤い唇。流行の黒い毛皮のコートと帽子。なまめかしい感じである。だが顔が思い出せない。
過去において経験し、学習したことを思い出す能力を記憶という。日常生活において年をとるにつれて健忘失語の例は多くなる。失語症(aphasia)という脳に障害があるのではなく、ちょっとした ど忘れは誰にもある。喉まででかかっているのに、思い出そうとしてもなかなか思い出せない。英語で Tip-of-the-Tongueと表現するところから、TOT現象という。脳科学での研究によれば、大切なことは、TOT現象では途中で脳活動を諦めない(思い出そうという努力を続ける)ことだという。脳の前頭葉を中心に活性化するという。
「記憶の鍵」という言葉がある。思い出せない言葉、過去の出来事、人、歌(メロディー)などがあっても、それに関連すること、場所とか匂いとか、部分的な事柄が浮かんでくることがある。韓国映画「オーバー・ザ・レインボー」(2002)では8年間愛した自分の恋人の顔が思い出せない。ただその人がフリージアの花が好きだったことだけが記憶にある。人はみな小さなことから遠い記憶を再生しようとしているのかもしれない。
冒頭に記した絵画はイワン・クラムスコイの「見知らぬ女」あるいは「忘れえぬ女」(1883年)という題のトレチャコフ美術館が所蔵する作品である。2009年ごろ「国立トレチャコフ美術館展 忘れえぬロシア」で出品されていた。「ロシアのモナリザ」といわれる。
本日は二十四節気のひとつ「白露」。大気が冷え込み、草花に白い露が宿りはじめる頃。満月を愛でながら、収穫を祝う「お月見」をするのもこの頃。
露の世は 露の世ながら さりながら
文化13年4月に生まれた長男千太郎が翌年5月に亡くなった。去年文政元年5月に生まれた長女さとが今年文政2年6月21日、亡くなった。この世がはかないものであることはよく承知しているのだが、それにしてもあきらめきれないものである、との意。
秋の雨 小さき角力 通りけり
いまの平成の世も大相撲では序ノ口力士に対する親方・兄弟子の暴行が問題になっている。180年前、一茶にはすでに弱いものに対するやさしいまなざしがあった。しょぼしょぼと降る秋の雨は、なかなかに侘び侘しいものである。その侘しい秋の雨降るとある村を、褌かつぎらしい小柄な角力取りが、一行に遅れたのであろう、ただ一人冷飯草履でぴしゃぴしゃとはねを上げながら、うすら寒そうにして通って行く。なんとわびしく、哀れな姿であろう、との意。
秋風に 歩いて逃る 蛍かな
秋風の吹くま昼。おとろえかけた蛍が草の葉の上をはっている。何かに追われて逃げているようだ、との意。
名月を 取ってくれろと なく子哉
秋風に むしりたがりし 赤い花
おさな子や ひとり飯くふ 秋の暮
古郷の 留守居も一人 月見哉
麦秋や 子を負ひながら いはし売
仰のけに 落ちて鳴けり 秋の蝉
なきながら 蟲の流れる 浮木かな
又人に かけ抜かれけり 秋の暮
一人と 帳面につく 夜寒かな
本日は「妹の日」。妹の可憐さを象徴する乙女座の中間の日の前日にあたる。ドラマ「ムー一族」で郷ひろみの妹役オーディションに合格して芸能界入りした桂木文。その後、落語家と結婚するもスピード離婚だった。
芸能界、新人女優は妹のイメージで売り出すのが常套手段だった。田中絹代主演の「私の兄さん」(1934)兄貴は長谷川一夫。「姉妹」(1955)の中原ひとみはバンビみたいに可愛いい。「兄貴の恋人」(1968)加山雄三の妹はもちろん内藤洋子。水沢有美は西郷輝彦と「兄妹の星」(1966)でデビュー。かぐや姫のヒット曲「妹」(1974)は秋吉久美子。歌では「器量がよくない」とあるが映画では器量はよかった。1970年代から空前の妹ブーム。火付けは岡田奈々だろう。「俺たちの旅」(1976)カースケに淡い想いを寄せる女高生は親友オメダの妹だった。1977年「あこがれ」デビュー大場久美子のキャッチフレーズは「1億人の妹」。郷ひろみの妹は桂木文だったが、いつのまにか高田みずえ(カックラキンの印象が強い)。「玉ねぎむいたら」では桜田淳子の妹として松田聖子が登場。しかし売れっ子でほとんどドラマに登場せず。西城秀樹の妹は河合奈保子。木村拓哉の新番組「安堂ロイド」ではAKB大島優子がキムタクの妹に抜擢される。年齢差16歳のちょっと離れすぎの強引な設定でも兄妹関係売り出し方式はハリウッドに見られない日本固有の文化なのか。
日本国民は、第二次世界大戦で人類としてはじめて原子爆弾を受け、戦争のおそろしさを身をもって体験した。憲法で戦争放棄と軍備をもたないことを明記したことは世界に例をみない、徹底した平和主義といわれてきた。しかし、現実的な国際関係の中で、自衛隊を設け、その活動範囲を漸次拡大していき、国防軍というべき立派な軍隊にまで成長している。いまだ米軍基地が国内に多数存在し、これまでベトナム戦争はじめ西側陣営の重要な基地としての役割を果たしてきている。イラク戦争、そして今回のシリア問題と日本は米英の側に立つことでわれわれの安全と平和を維持してきたといえる。「日本国民は、恒久平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われわれの安全と生存を保持しようと決意した」と憲法前文にある。このような平和憲法が不備なのではなく、戦後、日本政府や政治家が憲法の理念を世界に向かって正しく実践してこなかったことにこそ問題があると考える。平和と安全を武力や戦争によって守られる、というアメリカ流の考えと日本国憲法は大きく異なるものなのである。
松坂大輔は昭和55年9月13日の生まれで、この年の甲子園で活躍した早稲田実業の荒木大輔にあやかっての命名である。この年や翌年に生れた赤ちゃんで「大輔」が何人いるかは未調査であるが、かなりの数にのぼるであろう。つまり同時代に生れた人は同じ名が多いといえる。これは世界史においてもいえるのであろうか。歴史上の著名人で同時代に生きて同名といえばフランスの政治家コルベール(1617-1683)と劇詩人ラシーヌ(1639-1699)である。2人はともにジャン・バティストである。このほか、作曲家リュリ(1632-1687)、画家グルーズ(1725-1805)、博物学者ラマルク(1744-1829)なども同名である。
平清盛は南都の焼き討ちなど後世の悪人説があるが、熊野権現参詣や厳島神社造営など基本的に信仰の篤い人物である。治承3年正月、清盛は念願の富士山への参詣を計画していた。ところが前日になって富士山への出立をとりやめ、かわりに武蔵国の知行国主を務めていた知盛を代行として派遣することにした。清盛が長い期間にわたって京都を離れることに不安を感じる一門たちの反対によるものである。しかし、この富士参詣が計画どおり実行に移されていたら、東国武士の制圧となり、頼朝の挙兵も起こらず、源平の命運を分けたことだったという学者もいる。(参考:野口実「平清盛と東国武士:富士・鹿島社参詣計画を中心に」立命館文学624 2012年1月)
円内上 吉野章三 大島経男
円内中 岩崎正 宮崎大四郎
円内下 並木武雄
円外 石川啄木 西村彦次郎
石をもて追はるるごとく故郷渋民村を去った石川啄木が、函館に到着したのは、明治40年5月5日のことである。宮崎郁雨の好意で青柳町18番地に新居を構え、妻節子と子・母・妹光子を迎え、一家五人の生活は明るく楽しいものであった。日記に「我が函館に於ける新家庭は漸く賑やかになり、京ちゃんは日増しに生長したり、越て数日小樽なりし妹光子は脚気転地のため来れり、一家五人家庭は賑はしくなりたれどもそのために予は殆ど何事をも成す能はざりき、六畳ニ間の家は狭し、天才は孤独を好む、予も亦自分一人の室がなくては物かく事も出来ぬなり」と書いてその不便をかこっている。
函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花
(解釈)函館の青柳町時代がとりわけて懐かしいことだ。家の周囲に矢ぐるまの花が咲き、友の恋歌を聞いて楽しんだあのころの生活が。
この青柳町の新居はやがて啄木の主宰する文芸雑誌「紅苜蓿」の本拠となり、岩崎正(白鯨)、松岡政之助(蕗堂)、大島経男(流人)、並木武雄(翡翠)、西村彦次郎、吉野章三(白村)、宮崎郁雨たちは暇さえあれば文学を論じ人生を語りあった。友人のひとり岩崎正は当時函館郵便局の為替係として勤務していた。後年相次ぐ家庭の不幸に妻を娶ることもなく、大正3年9月5日、肺結核のために薄幸不遇の生涯を閉じた。
目を閉じて
傷心の句を誦してゐし
友の手紙のおどけ悲しも
(解釈)友人の岩崎白鯨は常に目をとじて悲しみの歌を口ずさんでいたが、この薄幸不遇の友の手紙に、おどけた言葉が書かれてあるのも悲しいことだなあ。
明治40年8日25日に函館の大火があった。焼失家屋12000余、死者8人、負傷者1000人。啄木一家は焼失を免れたが、勤務先の弥生小学校、函館日日新聞社ともに焼失した。函館は当分再興の見込みなしと判断し、札幌行きを決心する。在函期日132日なり。
函館のかの焼跡を去りし夜の
こころ残りを
今も残しつ
啄木日記より。「八月二十五日此夜十時半、東川町より火を失し、折柄の猛しき山背の風のため、暁にいたる六時間にして函館全市の三分の二を焼けり。この函館に来て百二十有余日、知る人一人もなかりし我は、新しき友を得ぬ。我友は予を恋ひせんとす。而して今予はこの記念多き地を去らんとするなり。別離といふ言ひ難き哀感は予が胸の底に泉の如く湧き、今迄さほど心にとめざりし事物俄かに新しき色彩を帯びて予を留めむとす。」
冬のパリ。アパートの空き部屋で中年男のポールは、そこで出会った若い娘、ジャンヌを犯す。だがふたりは何事もなかったかように別れる。ジャンヌにはTVディレクターの恋人がいる。常識的な彼に満たされないものを感じている。一方、ポールは妻が自殺したばかりだった。アメリカ人のポールは5年前にこのホテルの客として泊まり、以来、夫婦となっていた。妻の浮気も知らず、花に埋もれた死体に泣きくずれる日々をすごす。そして再びポールとジャンヌは再会し、タンゴのコンテスト会場で踊る。ジャンヌのアパートに追いかけてきたポールに向けてピストルが発射される。セックス描写だけが話題となったが、現代人の孤独と悲哀をこれほど切なく描写した映画はほかにない。白髪と薄毛、腹がでている、痔、インポテンツ、友達がいない、中年の悲哀をブランドがよく演じている。彼はまだ48歳だったが。2004年にマーロン・ブランド、2011年にマリア・シュナイダーが他界した。
1965年のこの日、アルベルト・シュバイツァーは90歳で永眠した。へレーネ・ブレスローと結婚したシュバイツァーは、1913年、夫婦でフランス領赤道アフリカ、ガボン地方へ行き、ランバネラ病院を建設。この病院は、治療代、入院費をいっさい取らない。その代り、付添いや患者も働けるものはみんな病院のために労力奉仕をする。病院はそれ自体果樹園であり、野菜園であり、動物園である。博士の愛は虫一匹にも及び、ニワトリ、アヒル、犬、猫、猿などがわがもの顔にふるまっている。
シュバイツァーは体格も大きく強いエネルギーと鋭い集中力をもち、その容貌は力強く、同時に人類愛にあふれていた。また事務的手腕にも病院経営にもすぐれていた。最初病院の経費は欧州でのオルガン演奏会、講演会、著書の印税などによって維持されていたが、のちには多くの国の個人や財団からの寄付によって運営されるようになった。
日本では「庭の千草」として知られているこの歌には、「白菊」が登場する。原曲はバラを歌ったもので、アイルランドの国民詩人トマス・ムーアによる美しい詩に、ジョン・スティーヴンソンが曲をつけた。
box つげ
bracken しだ
broom えにしだ
camellia つばき
catalpa カタルバ
chastnut くりの木
chickweed はこべ
china aster えぞぎく
cineraria シネラリヤ
clove ちょうじ
clover クローヴァー
columbine おだまき
common marigold えんこそう
copper beech あかがねぶな
cornelian-tree コーネリアン
cowslip きばなくりんそう
crab 山りんご
cranberry つるこけもも
crocus クローカス
crosswort よもぎ
crow-flower うまのあしがた
cuckoo-flower かっこうばな
cyclamen シクラメン
daffodil らっぱすいせん
daisy ひなぎく
damsk rose ダマスコローズ
dog violet 野生すみれ
double peony ぼたん
eglantine エグランイン
elder-tree せいようにわとこ
elm にれ
flower-de-luce きしょうぶ
flowering fern ぜんまい
forget-me-not わすれなぐさ
forsythia れんぎょう
freesia フリージア
fritillary ばいも
garlic にんにく
gillyflower じゃこうなでしこ
gingko いちょう
harebell ヘアベル
hawthorn さんざし
hepatica ゆきわりそう
hyacinth ヒヤシンス
iris きしょうぶ
japonica つばき
jonquil きずいせん
左上からオミナエシ ナデシコ クズ ススキ キキョウ フジバカマ(ヒヨドリバナ) ハギ
万葉集に山上憶良が「秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種花」「萩の花尾花葛花瞿麦の花女郎花また藤袴朝貌の花」と詠んでいる。萩の花(ハギ、ヤマハギ)、尾花(ススキ)、葛花(クズ)、瞿麦(ナデシコ)、女郎花(オミナエシ)、藤袴(フジバカマ)についてははっきりしているが、朝貌については諸説がある。ムクゲ、ヒルガオ、アサガオ、キキョウなどがあげられているが、今日ではキキョウとする説が有力である。
bush clover ハギ
Japanese pampas grass ススキ
bellflower キキョウ
a pink ナデシコ
Patrinia scabiosaefolia オミナエシ
kudzu(vine) クズ
thoroughwort フジバカマ
秋のことはアメリカではフォール、イギリスではオータムという。もともとイギリスでは両方使われていたらしい。イギリスでオータムが使われたのは14世紀ころからで、フォールは16世紀になってからのこと。落葉の季節、fall of the leaf がいつしか、秋そのものを英語でフォールと呼ぶようになった。かつてのイギリスではこの両方の単語が存在していたが、やがて英語のフォールは廃れ、オータムが生き残った。反対にアメリカ人はフォールのほうを好み、オータムは堅苦しくて形式ばった場合のみ使われるようになった。
ところでジャズのスタンダード・ナンバーに「ニューヨークの秋」(1934年)がある。作曲・作詞はヴァーノン・デューク(1903-1969)。「ローマの秋」Autumn in Romeもあり、詩にすると秋はオータムと表現するほうがいいようである。
貂蝉(ちょうせん)は、後漢の司徒・王允のかかえていた歌姫の美少女で、歳は16歳であった。董卓の暴政に悩む大臣の王允の苦しむ姿を見て、娘同様に可愛いがられていた貂蝉は王允に訴えた。「殿様のお役に立てるならどんなことでもいたします」その姿を見てひらめいた王允は貂蝉の前にひれ伏して言った。「天下の逆賊の董卓と養子の呂布はどちらも好色のやからゆえ、連環の計を用いようと思う」と言ってふたりは打ち合わせた。呂布は貂蝉をひと目見るなり気に入り、貂蝉も意味ありげな視線を呂布におくった。そこで王允が側室として貂蝉を輿入れさせたいと申しでたので話はとんとん拍子に進んだ。しかし、呂布はいくら待っても貂蝉は嫁に来ない。それもそのはずで、貂蝉はとうに董卓の側女になっていたのである。呂布は王允に怒鳴り込んだが、王允は董卓が貂蝉をむりやり連れていったという。呂布はこっそり、董卓の寝所に行って貂蝉に確かめると、「わたしの身は汚されてしまいました。死んでわたくしの心をお見せいたします」とけなげなことを言ったので呂布は董卓を恨むようになり、王允もけしかけたのでついに董卓を殺害したのである。呂布は、その後、李催(りかく)・郭汜(かくし)に洛陽を追われるが、貂蝉は呂布が死ぬまでついていった。
貂蝉は羅貫中の創作上の人物であるが、その美貌は中国四大美女(西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃)の一人に数えられている。
2011年12月、平安京の藤原良相(813-867)邸宅跡から出土した9世紀後半の土器破片に「かつらきへ」(葛城へ)と書かれた平仮名が発見された。これまで平仮名の成立は10世紀頃、紀貫之が著わした「土佐日記」(935年)の仮名などが古い資料であるが、これによって平仮名の歴史は半世紀さかのぼることになった。吉野秋二准教授は「平仮名の確立は10世紀といわれていたが、半世紀さかのぼる」としている。
平仮名のもとになった片仮名は、これまで平安時代に日本人が独自につくったという説が定説であったが、21世紀になって小林芳規(広島大学名誉教授)が8世紀の仏典から新羅口訣の跡を調査した結果、当時の新羅の漢文読法が日本に影響を与え、片仮名の成立につながっているという説が有力視されている。
参考文献:小林芳規「大谷大学所蔵角筆文献について 特に、「判批量論」に書きいれられた新羅の文字と記号」 書香19 大谷大学 2002年6月
若杉慧(1903-1987)の「エデンの海」が「朝日評論」に発表されたのは戦後すぐのころである。舞台は瀬戸内海。(広島県忠海)
巡航船が白い波を駆り立てて入海に入っていくのが見える。女学校の南風寮。その窓下の塀外に、白シャツの中学生がハーモニカを吹いて、喧しく誘いに来ている。隅の方で宿題をしていた一人が、水を頭上にザブリと浴びせ、中学生が塀を壊しにかかると、彼女はほうきをもって室から飛び出していった。「巴ちゃん、だめよ…」と呼ぶ級友の声も耳にはいらないようだ。…夕焼け雲が美しい。岬の突端は、奇岩が重なって、なかでも冠岩と呼ばれる巨岩が目立つ。その上に、巴がひとり、遥かな水平線を見つめている。健康そうな顔、髪を汐風になぶらせて、唇からは南国の民謡が流れていた。足音にふり向くと、そこには、いつの間に来たのか、白麻の背広を着た青年が、じっと巴を見下ろしている。彼女はわけもなくあわてて、岩から飛び降りると駆けだしていた。
女学生・清水巴と東京から赴任してきた生物学専攻の青年教師・南条一男との恋愛を、暖かい瀬戸内海の女学校生活を舞台に描いた「エデンの海」は、石坂洋次郎の「若い人」とともに永遠の青春の文学といえる。情景が絵画的であることから、昭和24年には舞台と映画で大人気となった。舞台では、角梨枝子、千秋実、映画では藤田泰子、鶴田浩二だった。その後も、日活で昭和38年、和泉雅子、高橋英樹、ホリプロで昭和51年、山口百恵、南条豊で映画化されている。「おい、おい、おろしてくれ」と叫ぶ南条を清水巴が白い水着で裸馬に乗せて学校に乗り込んでくる場面が有名である。そしてヒロイン清水巴は江波恵子(「若い人」)、寺沢新子(「青い山脈」)とともに自由奔放な永遠の女学生像である。
若杉慧は明治36年、広島県安佐郡戸山村(沼田町)に生まれる。若杉は大正15年から昭和2年まで忠海高等女学校の教師として在職し、その時の経験をもとに「エデンの海」を書いた。昭和21年に「エデンの海」を発表後、文筆活動に専念する。晩年は石仏に心を寄せて「野の仏」「石仏讃歌」などの著書がある。
1666年のこの日から、ロンドンは4日間にわたって燃え続け、市街85%(43エーカー、1万3200戸)を焼失した。ロンドン橋畔のパン焼きかまどから出火し、旧セント・ポール大聖堂、ロイヤル・エクスチェンジ、税関、ギルド・ホールなどを焼いた。この大火で燃えた本の数も計り知れない。その後家屋の不燃化、煉瓦建てが進められ、ハイ・ストリートの建設などの街路計画を含めて1671年までには復興も完了し、大火記念碑がシティーに建てられた。1820年には人口110万人の大都市となり、郊外から市内への通勤が増加した。現在人口約750万人のロンドンの街の中央に今もテムズ川が流れる。「ガリア戦記」ではサンスクリット語のタマサー(暗黒の川)と同語源のタメシス川と記されている。TemeseからThamesへと変化したといわれる。かつて海からロンドンへ入るには必ずテムズ川(全長336㎞)をわたらなければならなかった。1894年6月30日タワー・ブリッジの使用が始まる。テムズ河畔にはロンドン塔、ビックベン、英国会議事堂、イングランド銀行、ギルドホールが並び政治経済の中心地として重要な位置を占める。だがテムズ川周辺地区は、地盤は比較的軟弱で、海抜ゼロメートル地域が続く。ロンドンのラテン名であるロンディニウムはケルト語のリンディン(沼沢地の砦)にその語源があるらしく、ロンドン塔付近のテムズ川は水位も高く、堀には水がたたえられていた。そして近年の地球温暖化による水位の上昇は、テムズ川氾濫の危険性を増大している。ロンドンは世界でも最も洪水に強い都市と言われてきた。1953年には高潮により大きな被害を受けたロンドンであるが、1980年代にはテムズ・バリア(堰)と呼ばれる潮汐を調整するための巨大な施設を建設した。しかし水位の上昇はさらに当初の想定を超えるようになった。ニューオーリンズでも起こったことはロンドンでも起こるかもしれない。いま万全な洪水対策が問題となっている。(Londinium,Lyndyn,River Thames,The Great Fire of London)
一般にイギリスでは、8月、9月、10月を秋といい、北アメリカでは9月、10月、11月を秋という。秋はイギリスでは主にオータムautumnを使い、アメリカではフォールfallを使う。イギリスでオータムが使われ始めたのは、14世紀ころからで、英語のフォールは16世紀になってからのことである。「木の葉の落ちる季節」を意味する。
マッシュルームmushroomとは、キノコ(toadstool,puff-ball,morelなどを含む)をいい、マツタケ科の食用キノコもいう。トードストールはおもに有毒なキノコをいう。ファンガスfungusは菌類の総称。
英語で大学を意味するのはユニバーシティuniversityとカレッジcollegeがある。ユニバーシティはカレッジより大きい大学のことで、ユニバーシティは「総合大学」、カレッジは「単科大学」という意味で使われる。ほかに、イギリスではネイバル・カレッジnaval collegeが「海軍兵学校」を意味するように、特殊な専門学校を指すときにも使われる。
最近のコメント