下田歌子と津田梅子
明治16年7月に井上外交のあの鹿鳴館が麹町区内山下町1丁目1番地(現・千代田区内幸町1丁目)に完成し、明治20年前後には西洋的な女子教育のあり方が主張された。下田歌子(1854-1936)は、明治14年に桃夭女塾を創設し、明治18年11月には華族の子女を教育するための華族女学校が創設されたとき、教授兼学監の資格であったが、事実上は校長の仕事をしていた(初代校長は谷干城)。歌子は生徒に袴と靴を着けさせたが、当時これが大評判となり、明治の女学生風俗の「海老茶式部」とよばれるスタイルを原型となった。明治39年4月には華族女子学院が学習院に併合され、歌子は学習院教授兼女学部長となった。翌年10月、乃木希典大将が学習院長に任じられると、その11月に歌子は辞任している。歌子は女子学生に常に教えていた言葉に「娘のときは端麗であれ、嫁にいったら艶麗であれ」とあるが、歌子の軟派的教育を、剛毅謹直の乃木が嫌ったとも、女子学生の服装の問題を巡って激しい論争があったとも言われて真相は不明である。もっとも世間では「乃木将軍はロシアに勝って歌子に負けた」と面白がっていたという。
明治4年の岩倉使節団には、5人の女子留学生がのっていた。吉益亮子、上田貞子、山川捨松、永井繁子、津田梅子(1864-1929)。このうち7歳という最年少で渡米した津田は、明治15年11月、アメリカから帰国した。10余年にわたるアメリカ生活のため、まったく日本語を忘れ、通訳によって母や姉と話したという。そこで伊藤博文は津田を下田歌子に紹介し、日本語を学ばせた。そして津田は桃夭女塾に英語教師として通うようになる。つづいて華族女学校に奉職する。明治31年下田歌子は帝国婦人協会を設立し、会長となり、明治32年には実践女学校、女子工芸学校を設立する。津田は明治33年には津田英学塾を創設して、女子高等教育に尽くした。津田は女性の人権が確立しているアメリカで育ったので、女性の地位の極度に低い日本の生活になじめず、苦労した。下田歌子とは、共に華族女学院で女子教育に尽くすが二人が親しかったとは伝えられていない。アメリカで洗礼を受けた敬虔な清教徒として育った津田と、和歌と「源氏物語」など国漢の教養ある下田とは、水と油であったであろう。津田は昭和4年8月17日に亡くなるまでのおよそ30年を独立心に富む女性の養成にうち込み、現在の津田塾大学の名を不朽のものにした。津田梅子の墓は、ひところ青山霊園の津田家の墓に仮埋葬されたが、昭和7年、小平市に移転した津田塾大学構内に移された。津田が生涯独身であったためか「津田梅子の墓参りをすると結婚できなくなる」「墓参りをすると卒業から結婚まで10年かかる」という噂が1980年代の女子学生の間で広まったという。下田歌子は長命で昭和6年10月8日、82歳で亡くなっている。大正2年ごろと思われるインタビューの中で歌子は「わたくしの教育方針は、やはり現在の国情もよく参酌してはみますけれども、古い明治の真精神を継承して、しっかりと大地を踏みしめた着実質実な方針で進んでゆきたいと思います。わたくしは、だから目下の急務として、いわゆる新しい女をつくるまえに、古い女を完全なものにつくりあげるのが、ほんとうの教育だと信じます」という言葉が示すように、下田歌子と津田梅子、全く対照的な教育者である感がする。
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