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2013年8月19日 (月)

『雪国』の舞台は雪国でよい

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    小説はあくまでフィクションであるから、明らかに地名を特定していない場合は、舞台やモデルをあれこれ詮索するのは野暮なことである。しかし最近の読者は、村上春樹の小説に出てきた舞台とかモデルをやたら詮索したがる人が多い。自治体がガイドをつけて文学散歩団体ツアーも企画されたりするのを見ると、滑稽にみえてくる。

220pxmatsuei     作者はモデルは無いといっているのに、こじつけたがるのである。それは今に始まったことではなく、川端康成の『雪国』が世に出たときもそうだった。場所やモデルが取り沙汰されて、結局、越後湯沢の高半が川端が滞在したことで、『雪国』の宿として宣伝に使われてしまった。駒子のモデルは置屋「藤田屋」の松栄といわれる。川端自身は困惑気味で、「モデルがあるという意味では駒子は実在するが、小説の駒子はモデルといちじるしくちがうから、実在しないというのが正しいかもしれぬ。島村は無論私ではない」(川端康成「雪国について」昭和23年、創元社版『雪国』あとがき)とある。

   「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」と書き出しにあるから、舞台となる地は近くにトンネルがなければいないのであろうか。わたしはトンネルがなくても、雪国で温泉宿があれば、読者がそれぞれにイメージするところが一番いいのではないかと思う。日本国内には北海道のほぼ全域から、本州の日本海側のほとんどは雪国の光景が思い浮ぶはずである。東北地方、北陸地、長野県や岐阜県の北部、さらに山陰の温泉町でも、それぞれ好きな宿屋で自分が島村になった気分で読めばよいと思う。なぜ越後湯沢に固定する必要があるのだろうか。『雪国』の舞台は、ただ日本の雪国でよいのである。

   文学が商業主義に利用されるとき、熱海の海岸の「お宮の松」のように観光地=見世物へと成り下がるのである

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