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1955年ころ「鉄腕アトム」が、小学校の校庭で見せしめ的に焚書されたことがある。高度な未来社会を描く内容がデタラメだという理由である。一方「赤銅鈴之助」は親孝行な主人公を描いており、真空斬りは「かまいたち」という現象で科学的根拠がある、という奇妙な判断だった。鳩山一郎首相は「青少年に対し悪影響を与えていることは、まことに憂慮すべきことであります。政府としては広く民間団体の協力を得まして、早急にこれが撲滅のため適切有効な対策を講じ、もって明朗な社会の建設に邁進いたしたいと存ずるのであります」と衆議院本会議で述べている。1955年における日本の悪書追放運動は、アメリカの赤狩り(レッド・パージ)という風潮をもろに受けているらしい。ところが数年後、「鉄腕アニメ」がテレビでアニメ化されると、大ブームとなり、音楽の時間にリコーダーでテーマ曲を演奏するようになる。運動会の行進曲も赤銅鈴之助から鉄腕アトムに変った。子供の教育を口実にした愛国主義の押し付けは赤銅鈴之助と共に消えた。近年、政府よりの改憲派の識者が「はだしのゲン」の描写などに難癖をつけ、平成の焚書を画策したが、失敗に終わった。「はだしのゲン」閲覧制限撤回騒動とは何んだったのか?
1645年のこの日、オランダの法学者フーゴー・グローティウスが62歳で没した。若い頃、宗教上の対立に巻き込まれて牢獄に入れられたが、妻マリアの助力で、書物運搬箱に身を潜めて、からくも脱出した。彼は、牢獄の中でも、また亡命中にも、多くの学問的な著述を続けた。三十年戦争の悲惨な現実に直面して、人類を戦争の惨禍から救うにはどうすべきか考えた。彼の主著「戦争と平和の法」(1625)は1648年のウェストファリア条約に大きな影響を与えたといわれる。互いに対立する諸国家の関係に秩序と法をあたえ、これによって戦争を避け、国際平和を維持しようとする国際協調思想を法学的に基礎づけたのである。( keyword;Hugo Grotius,Westphalia,De jure belli ac pacis )
織田作之助(1913-1947)は三高(京都大学)在学中に酒場ハイデルベルクの女給・宮田一枝と駆け落ちする。一枝との同棲体験から名作「夫婦善哉」が誕生する。小説にも登場する自由軒の名物カレーとはどのようなものであろうか。
作之助はカレーを食べながら執筆するので、その際に皿を見なくて口にカレーを運べるようにライスとルーをあらかじめかき混ぜて出すように頼んでいた。自由軒の名物カレーとは、白飯にカレールーを混ぜ込み、真ん中を窪ませて生卵をひとつおとしこんだものである。当時25銭。小説「夫婦善哉」には「自由軒のラ、ラ、ライスカレーは御飯にあんじょうま、ま、ま、まむしてあるよって、うまい」とある。NHKドラマ「夫婦善哉」も忠実に再現している。
松江市教委が「はだしのゲン」制限をついに撤回した。ゲン制限は下村文科相も「子供の発達段階に応じた配慮で問題はない」と松江市教委政府は政府からもお墨付きをいただいていた。政府としては左翼勢力の反戦のシンボルともいえる「はだしのゲン」を禁書にする格好の機会であった。しかし世論の反対も激しく、ネット署名ではわずか5日で1.5万人を超えたという。過激描写を口実としているが、日本の侵略戦争や天皇の戦争責任にもかかわる作品で、保守層にとっては反日漫画として積年の嫌悪が爆発したものであろう。国連の潘基文事務総長も「日本政府は自らを深く顧みて、国際的なビジョンを持つべきだ」と苦言を呈しているが、最近の日本政府の動きは、麻生のワイマール憲法発言のように改憲に向けてエスカレートしている。「はだしのゲン」を松江市教委が撤回したからといって問題が解消したわけではない。全国の学校や公共図書館の管理者たちは保守的である。政府の意向に沿う思想や行動わとることのほうが公務員として出世や昇進は早い。ある公共図書館を教委幹部が視察して「はだしのゲン」が開架にあると、「ここの館長は、ゲンが好き」という評価を下すであろう。一種の思想の選別や査定に「はだしのゲン」が悪利用されることになる。つまり今後「はだしのゲン」や「従軍慰安婦」などの関係図書を意図的に除籍するような動きが図書館で起こらないとはいえない。役所や学校は隠蔽体質がある。
終戦直後、兵庫県加古川で、鹿島礼子(当時23歳)という地元で評判の美人がいた。ある夜、礼子が駅近くを歩いていると、数人の米軍兵士たちに突然襲われてレイプされてしまった。彼女は大きなショックを受けて、鉄道自殺した。そして怨霊となり、彼女の呪いは、レイプ犯である米軍兵士に向けられた。やがて兵士たちは次々と変死していく。こうして鹿島礼子は呪いを司る霊となり、この話を聞いた者には3日以内の夜に鹿島礼子が枕元もしくは夢の中に現れるという・・・・
大島優子主演「テケテケ」では、加古川の怨霊伝説を「てけてけ」と結びつけ、学童らによって広められた都市伝説に捏造している。「てけてけ」とは古くから伝わる下半身のない妖怪で、両腕を使い移動する際に「テケテケ」という音がするため、この名で呼ばれたとされる。下半身がないので、自分の足を捜しているとの説もある。この2本の腕だけで車よりも速く走ることができ、一旦狙われたら最期、逃れることができず、体中食い荒される。映画では胴体が一瞬のうちに切断される。
「てけてけ」と鹿島礼子の怨霊とは別ものであるが、映画化により両者が混同されるようになっている。都市伝説では、次の口裂け女のような質問が付加される。礼子が体の一部が欠損した美女として現れる。そして謎掛けの質問をする。「手を私にくれますか?」と言われたら、「今使っているからダメです」と答えなければならない。「足を私にくれますか?」と言われたら、「今必要だからダメです」と答えなければならない。さらに、「じゃあ私の足はどこにあるの?」と質問されたら、「名神高速道路にあります」と答えなければならない。「それじゃあ、私の名前はなあに?」と質問されたら、「カシマレイコです」と答えなければならない。しかし、場合によっては、「カは仮面のカ、シは死神のシ、マは魔神のマ、レイは霊魂のレイ、コは子供のコ」と答えなければならない。すなわち仮死魔霊子である。これらの質問に答えられなかったり、不正解を出すと、呪いでとどめを刺されて死ぬ。ホラー映画「テケテケ」では鹿島礼子の怨霊がテケテケになったとしているが、地元加古川では困惑気味である。実際、終戦直後の加古川は田舎町で進駐軍がいたとは考えにくい。加古川が都市化するのは昭和40年代以降である。
「夜のオフィス」 ミネアポリス ウォーカー・アート・センター蔵
エドワード・ホッパー(1882-1967)は、ニューヨーク市の近郊、ハドソン川沿いのナイアックで生れた。ホッパーのきわめて独創的な作品は、アメリカの現代生活の不安な精神を伝えているが、特に都会という環境におかれた人間の寂しさと孤独感が強調されている。
ニューヨークで、アシュカン派(ごみ箱派)の創設者のロバート・ヘンリに絵を学んだ。美術学校を卒業すると彼は商業美術の道に進み、42歳でようやくこの職をなげうって専業画家となった。1920年代にきわめて独特な画風を見出し、以降それはほとんど変わることがなかった。抽象画の全盛期に身をおきながらも、彼は具象絵画の伝統にかかわりつづけた。画家としての出発は遅かったが、アメリカはすぐさま彼に数々の栄誉を与えた。しかし、ホッパーはひっそりとして暮らしを守りつづけ、同じく画家であった妻ジョー・ヴァースティル・ニヴィソンとともに生涯を絵画にささげた。
「夜の会社」(1940年)というこの作品には、ホッパーの特徴がよくあらわれている。2人の人物のあいだには意思疎通はない。女性は、上司からの何かの合図をじっと待つようでいながら、同時に自分だけの世界に浸っているようでもある。人物相互のコミュニケーションはほとんど感じられない。それどころか、彼らは家具や建物によって互いに隔てられ、彼らをいっしょに結びつける明確な話の筋は、1つとしてないのだ。ホッパーは自分の作品に物語性をもち込むのを故意に避けているようにも思える。ある意味でホッパーの作品では人物よりも、人物と人物との空間が重要な意味をもっている。それが何か正確にはいえないが、どこかおかしいと感じさせるものがある。現代生活の味気なさを表わしているいるのかもしれないが、それが作品の魅力となっている。
NHK連続クイズ・ホールドオン!は夏休み親子スペシャル。小学生だからといっても出題のレベルは落としていない。お父さん、お母さんの頑張りが勝敗を左右する。
Q1940年に発表された短編小説「きりぎりす」は貧しい画家が名声を得た後に妻から別れを告げられるという内容ですがこの作品を書いた青森県出身の小説家はだれでしょう?井伏鱒二、太宰治、坂口安吾、川端康成。
四択クイズながら、「きりぎりす」は著名な作品ではない。青森県ということで太宰治。
Q日本でも見られる渡り鳥の一種で夏の間は日本におらずユーラシア大陸やアラスカ北部などで暮らし冬に日本にやって来る。英語ではシーガル(sea gull)とも呼ぶ鳥は何でしょう?(ストレート) A.カモメ
Q2011年のピーマン出荷量が日本一だったと都道府県は?A茨城県
小説はあくまでフィクションであるから、明らかに地名を特定していない場合は、舞台やモデルをあれこれ詮索するのは野暮なことである。しかし最近の読者は、村上春樹の小説に出てきた舞台とかモデルをやたら詮索したがる人が多い。自治体がガイドをつけて文学散歩団体ツアーも企画されたりするのを見ると、滑稽にみえてくる。
作者はモデルは無いといっているのに、こじつけたがるのである。それは今に始まったことではなく、川端康成の『雪国』が世に出たときもそうだった。場所やモデルが取り沙汰されて、結局、越後湯沢の高半が川端が滞在したことで、『雪国』の宿として宣伝に使われてしまった。駒子のモデルは置屋「藤田屋」の松栄といわれる。川端自身は困惑気味で、「モデルがあるという意味では駒子は実在するが、小説の駒子はモデルといちじるしくちがうから、実在しないというのが正しいかもしれぬ。島村は無論私ではない」(川端康成「雪国について」昭和23年、創元社版『雪国』あとがき)とある。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」と書き出しにあるから、舞台となる地は近くにトンネルがなければいないのであろうか。わたしはトンネルがなくても、雪国で温泉宿があれば、読者がそれぞれにイメージするところが一番いいのではないかと思う。日本国内には北海道のほぼ全域から、本州の日本海側のほとんどは雪国の光景が思い浮ぶはずである。東北地方、北陸地、長野県や岐阜県の北部、さらに山陰の温泉町でも、それぞれ好きな宿屋で自分が島村になった気分で読めばよいと思う。なぜ越後湯沢に固定する必要があるのだろうか。『雪国』の舞台は、ただ日本の雪国でよいのである。
文学が商業主義に利用されるとき、熱海の海岸の「お宮の松」のように観光地=見世物へと成り下がるのである。
吉川英治の「宮本武蔵」では、武蔵と小次郎は実在の人物であるが、お通、本位田又八、その親のお杉婆、恋人朱美、その母のお甲などはみな吉川英治が創作した架空の人物である。吉川英治が朝日新聞の夕刊に連載をはじめた昭和10年ころは、人気作家でありながら、自ら創刊した「青年太陽」が危機的状態で、最初の妻やすとは離別状態であった。そのころ43歳の吉川英治は16歳の池戸文子と銀座の料亭で知り合う。お通の描写が清々しいのはどうやらこの少女のイメージが投影されているからであろう。お通は小説では、こう描かれている。
孤児であるうえに、寺育ちのせいもあるのだろう、お通という処女は、香炉の灰のように、冷たくて淋しい。年は、去年が十六、許婚の又八とは、一つ下だった。
お通のイメージは吉川英治にとっても理想的女性像になっている。それは多分に古風で、貞節で、ひたぶる情熱を秘めた美しい女性像である。これまで映画化されたお通役の女優といえば、轟夕起子、宮城千賀子、相馬千恵子、八千草薫、入江若葉などである。お通になぜかタカラヅカ出身の女優が多いのは「清く、正しく、美しく」のモットーの表れであろうか。実はお通・タカラヅカに熱き想いをよせたのは我らが千恵蔵御大なのだ。
片岡千恵蔵は、昭和12年3月に千恵プロを解散し、日活「謳え春風」に続く第2作は吉川英治「宮本武蔵」(尾崎純監督)と決まった。ところが、お通が決まらなかった。千恵蔵は少し前、宝塚劇場に「モオンブルウメン」というミュージカルを見た。「あれ、なんとう女優だ?」「月組のトップスターで轟夕起子というんだよ。トルコという愛称で大変な人気だ」同行した曽我の説明を聞いて千恵蔵はうなずいた。そして引き続き、トルコさんがジュリア役を演じている「気まぐれジュリア」を見に行った。こんどは楽屋まで訪ねて、トルコはびっくりした。34歳の時代劇スターは、19歳のプリマドンナの甘く初々しい美しさに惹かれた。千恵蔵は製作会議で強硬に轟夕起子のお通起用を主張した。これまで宝塚から映画界入りは霧立のぼるくらいであまり例がなかった。この美男美女スターの共演は熱狂的な人気を呼んだ。続くマキノ正博監督「江戸の荒鷲」で轟が目を傷めた事件が婦人雑誌の大ニュースとなり、そのことが縁でマキノ正博と轟は結婚する。お通・轟は1本だけで終わった。千恵蔵にとつてみれば自分が宝塚から彼女を引き抜いてきたのに、まんまとマキノ正博に横取りされたかたちとなった。だが戦後のGHQ時代劇禁止時代の多羅尾伴内「シリーズ第一作七つの顔」(昭和22年)にも富豪令嬢・馬場きみ子役で轟とは共演している。千恵蔵が背広にソフト帽の姿で拳銃を撃つ。「ある時は老探偵多羅尾伴内、ある時は片目の運転手。またある時はインドの魔法使い。しかしてその実態は、正義と真実の人、藤村大造」この名台詞とともに映画は大ヒットした。やはり千恵蔵=轟共演は大衆に受ける要素があるようだ。
轟夕起子の引き抜きで日活と宝塚でいざこざはあったものの、次のお通も宝塚の東風うららという研究生が抜擢された。芸名は宮城千賀子に決まった。監督は稲垣浩。しかし撮影中に千恵蔵は病気となり完成までに1年を要した。「宮本武蔵」の映画は数多いがこの戦前の稲垣浩を第一とする人は多いであろう。戦後の稲垣浩(東宝)では三船敏郎・八千草薫だった。純情可憐な娘という容姿の点では八千草・お通が一番かも知れない。ここまでが、タカラヅカお通で、内田吐夢監督は入江たか子の娘入江若葉を起用、ダイナミックな演出とリアリズムの武蔵が生まれる。テレビにもお通はよく登場する。梓英子、古手川祐子、賀来千香子、鶴田真由、米倉涼子。今後も新進女優によるお通が生まれるであろうが、お通は日本的女性の理想像なのであまり現代的イメージの強い女優はふさわしくないような気がする。(参考:田山力哉「千恵蔵一代」)
世界陸上のモスクワ・マラソン競技大会を見ると、クレムリン宮殿の赤い城壁に沿って走るコースである。モスクワといえば「戦争と平和」や「ドクトル・ジバコ」などで酷寒の冬の印象がつよいが、夏はとても暑いことを世界に知らしめた。
モスクワは世界の主要な都市、北京、東京、ニューヨーク、パリ、ロンドンと比べて、どこよりも歴史が古い。新石器時代にすでに集落が存在したことが確認されている。モスクワがロシアの年代記の最初に言及されるのは、1147年のことでユーリー・ドルゴルーキー(手長公)の命により、モスクワ川とネグリンナヤ川との合流点に木造の要塞クレムリンが1156年から築城され、ここを中心にモスクワの町が発達した。15世紀イワン3世のころには、赤の広場も建設され、モスクワはロシア最大の都となった。1812年ナポレオンの侵入によって町の4分の3の家屋が焼失したが、もまなくモスクワは再建された。それはぶざまに広がるぬかるみだらけの町で、ペテルスブルクの貴族たちに「巨大な村」とばかにされた。モスクワが都市として着々と繁栄しはじめたのは、1861年の農奴解放後のことであった。農奴解放とともに、土地をもたない農民がモスクワの中心地となり、度重なる戦争、革命、飢饉などにもめげず、大都市に発展していった。1941年10月はじめ、ドイツ軍はクレムリンから40㎞のところまで迫っていたが、モスクワは陥落しなかった。しかし第2次世界大戦のロシアの被害は甚大で、全世界で約6000万人の犠牲者のうち、日本310万人、ドイツ1050万人、中国2050万人、ロシア2000万人といわれている。Moskva
明治16年7月に井上外交のあの鹿鳴館が麹町区内山下町1丁目1番地(現・千代田区内幸町1丁目)に完成し、明治20年前後には西洋的な女子教育のあり方が主張された。下田歌子(1854-1936)は、明治14年に桃夭女塾を創設し、明治18年11月には華族の子女を教育するための華族女学校が創設されたとき、教授兼学監の資格であったが、事実上は校長の仕事をしていた(初代校長は谷干城)。歌子は生徒に袴と靴を着けさせたが、当時これが大評判となり、明治の女学生風俗の「海老茶式部」とよばれるスタイルを原型となった。明治39年4月には華族女子学院が学習院に併合され、歌子は学習院教授兼女学部長となった。翌年10月、乃木希典大将が学習院長に任じられると、その11月に歌子は辞任している。歌子は女子学生に常に教えていた言葉に「娘のときは端麗であれ、嫁にいったら艶麗であれ」とあるが、歌子の軟派的教育を、剛毅謹直の乃木が嫌ったとも、女子学生の服装の問題を巡って激しい論争があったとも言われて真相は不明である。もっとも世間では「乃木将軍はロシアに勝って歌子に負けた」と面白がっていたという。
明治4年の岩倉使節団には、5人の女子留学生がのっていた。吉益亮子、上田貞子、山川捨松、永井繁子、津田梅子(1864-1929)。このうち7歳という最年少で渡米した津田は、明治15年11月、アメリカから帰国した。10余年にわたるアメリカ生活のため、まったく日本語を忘れ、通訳によって母や姉と話したという。そこで伊藤博文は津田を下田歌子に紹介し、日本語を学ばせた。そして津田は桃夭女塾に英語教師として通うようになる。つづいて華族女学校に奉職する。明治31年下田歌子は帝国婦人協会を設立し、会長となり、明治32年には実践女学校、女子工芸学校を設立する。津田は明治33年には津田英学塾を創設して、女子高等教育に尽くした。津田は女性の人権が確立しているアメリカで育ったので、女性の地位の極度に低い日本の生活になじめず、苦労した。下田歌子とは、共に華族女学院で女子教育に尽くすが二人が親しかったとは伝えられていない。アメリカで洗礼を受けた敬虔な清教徒として育った津田と、和歌と「源氏物語」など国漢の教養ある下田とは、水と油であったであろう。津田は昭和4年8月17日に亡くなるまでのおよそ30年を独立心に富む女性の養成にうち込み、現在の津田塾大学の名を不朽のものにした。津田梅子の墓は、ひところ青山霊園の津田家の墓に仮埋葬されたが、昭和7年、小平市に移転した津田塾大学構内に移された。津田が生涯独身であったためか「津田梅子の墓参りをすると結婚できなくなる」「墓参りをすると卒業から結婚まで10年かかる」という噂が1980年代の女子学生の間で広まったという。下田歌子は長命で昭和6年10月8日、82歳で亡くなっている。大正2年ごろと思われるインタビューの中で歌子は「わたくしの教育方針は、やはり現在の国情もよく参酌してはみますけれども、古い明治の真精神を継承して、しっかりと大地を踏みしめた着実質実な方針で進んでゆきたいと思います。わたくしは、だから目下の急務として、いわゆる新しい女をつくるまえに、古い女を完全なものにつくりあげるのが、ほんとうの教育だと信じます」という言葉が示すように、下田歌子と津田梅子、全く対照的な教育者である感がする。
むかし那智の東光坊の阿闍梨裕慶一行が山伏姿になって東国行脚に出かけ、陸奥の安達が原に差し掛かったとき、老婆の小屋に立ち寄って一夜の宿を借りる。老婆はもてなしのためにと裏山に薪を採りに出かけるが、そのさい奥の部屋を決してのぞいてはならぬと言い残す。裕慶らが好奇心からその部屋をのぞいたところ、そこには喰われてしまった人々の残骸が累々と重なっていた。
最近みたホラー映画「ホステル」も見知らぬ街を訪れた3人の若者たちが、次々と惨殺されているという恐ろしい話。旅は怖いものである。鬼婆ほどでなくとも、追いはぎ、雲助はでるだろう。柄本明がBSプレミアム「旅のチカラ」のロケ中、ペルーで強盗団に襲われてカメラなど撮影機材が奪われる被害にあった。幸い、柄本とスタッフにケガはなかった。BS放送の人気番組の1つは旅番組である。わたしも中山エミリーが国境地帯を訪ねる番組や野村佑香が「ぐるっと一周」する番組をよくみる。こんな可愛いい子が一人で大丈夫だろうか(もちろん大勢のスタッフ同行だけど)と不安におもう。ホラー映画のように恐ろしい目にあうシーンは自分の妄想と重ね合わせて見ている。世界ふれあい街歩きとホラーとは表裏一体ものものである。
「テラビシアにかける橋」(2007年)を観る。謎の転校生レスリーが可愛いい。アナソフィア・ロブ&ジョシュ・ハッチャーソンのカップルがお似合い。時よ止まれ、って感じだけれど、現実世界はもう19歳と20歳になっている。アナソフィアは「チャーリーとチョコレート工場」(2005)ではいつもチューインガムを噛んでいるひねくれた少女バイオレットだった。最近はテレビ出演で映画はご無沙汰のようでやはり少女スターという印象がある。志田未来と同じ1993年生まれ。第二のジョディ・フォスターになるのか、トレーシー・ハイドの道を歩むのだろうか。
俗に「子役は大成しない」という。マコーレー・カルキン(ホームアローン)、エドワード・ファーロング(ターミネーター2)、ハーレイ・ジョエル・オスメント(シックス・セント)らは薬物・アルコール依存などでスターへの道は険しい状況になっている。老婆心ながらアナソフィア・ロブやジョシュ・ハッチャーソンの活躍を見守ることにする。
アフリカ南西部、大西洋岸の国。リベリアが独立したのは1847年、アフリカ大陸ではエチオピアに次いで2番目に古い独立国である。19世紀初頭からアメリカでは奴隷解放の気運が高まってきていたが、1822年、アメリカ植民地協会が解放奴隷をいまのリベリアに植民させた。この解放奴隷が中心になってつくったのがリベリアである。国名を造語した人は、カーリー神父で、ラテン語のリベルliber(自由な)に、地名接尾辞イア-iaを合成し、「自由の国」の意味を持たせた。首都は当時のアメリカ大統領ジェームズ・モンローの名にちなんでモンロビアとした。Liberia,father Curley,Monrovia
本日は「中央アフリカ共和国」の独立記念日。8月はアフリカの独立記念日ラッシュだ。1日がダホメ(現在のベナン)、3日がニジュール、5日がオートボルタ(現在のブルキナファソ)、7日がコートジボワール、11日がチャド、13日が中央アフリカ、15日がコンゴ共和国、17日がガボン。旧宗主国フランスがアフリカ各地を歴訪し、独立の手続きを済ませ、式典に参加するため、順繰りに日程を組んだものであろう。
中央アフリカ共和国53年の歴史は内乱の半世紀といえる。2013年3月、フランソワ・ボジセは反政府勢力セリカに追われ、カメルーンに亡命。暫定政権ミシェル・ジョトディア(画像)が大統領に就任。国連安保理は武力による政権奪取を非難している。Michel Djotodia
外国俳優。星の数ほどあるスターのなかでもひときわ輝くビッグ・スター。広辞苑にも世界的な大スターは採録している。辞書に外国人名を採録する意味は大きい。日常の校正作業でかつてこんな体験をした。「ハンフリー・ボガードかボガートか?」広辞苑を引けば「ボガート」と確認できる。もちろんインターネットのない時代の話であるが。主な外国スターを調査し、採録ありには「○」を、採録なしは「×」をつける。
○ルドルフ・ヴァレンチノ
○ジェームズ・ディーン
○ハンフリー・ボガート
○ジェラール・フィリップ
×クラーク・ゲーブル
○ゲーリー・クーパー
○ジャン・ギャバン
○チャップリン
○ジョン・ウェイン
×スティーブ・マックイーン
×ヘンリー・フォンダ
×ユール・ブリンナー
×ジェームズ・ギャグニー
○ローレンス・オリヴィエ
×バート・ランカスター
○ジャン・ルイ・バロー
×マルチェロ・マストロヤンニ
○ジェームズ・スチュアート
×ジャック・レモン
○グレゴリー・ペック
○マーロン・ブランド
○マリリン・モンロー
○ブルース・リー
×テレサ・テン
「有楽町で逢いましょう」のフランク永井やアジアの歌姫「テレサ・テン」が所載されないのは残念である。「鄧麗君」でも収録されていない。近年、外国人俳優の採録のハードルは高くなりつつある。第7版新版には、ポール・ニューマン、チャールトン・へストン、ピーター・フォーク等は新収録されるだろうか。
レネー・ゼルウィガーはスイス人の父、ノルウェー人の母の間に生れた。とびきりの美人ではないが、親しみやすい笑顔と演技力が最大の武器である。同世代女優サンドラ・ブロックやグィネス・パルトローのように美形ではないが、なぜハリウッドで大成したのだろう。最新作「ケース39」を見てなんとなくその魅力がわかる。児童虐待を受ける少女リリーの調査を始めたソーシャルワーカーのエミリー。リリーからの電話で家に行くと両親はリリーをオーブンで焼くところだった。エミリーはリリーを里親が見つかるまで自宅で預かることにする。だが本当の物語はこれからはじまる。上質のホラー・サスペンス映画ながら日本では劇場未公開だった。次作「私自身のラブソング」も日本での公開はなかった。レネーは日本では不人気な女優なのだろうか。
北アフリカの中央部に位置するチャド共和国。1960年のこの日、フランスから独立した。歴史は古く、9世紀前半カネム帝国、16世紀にはボルヌ帝国が発展した。19世紀までバギルミ、ワダイなど王国が栄えた。チャドの首都「ンジャメナ」は世界でもめずらしい「ン」から始まる地名である。ヌジャメナ、ウンジャメナと表記されることもある。N'Djamena
1492年のこの日、初のコンクラーベによりアレクサンデル6世がローマ教皇に選出された。 ローマ教皇を選ぶコンクラーベでは穴の開いた椅子で教皇候補者の性別をチェックするという。その使い方とは、まず候補者が裸で座り、枢機卿の委員会が下から穴を覗いて、「Testculos habet et bene pendentes(彼には睾丸がある。そして、それはきちんとぶら下がっている)」と宣言する儀式が厳かに執り行われる。この珍妙な習慣は9世紀の女教皇ヨハンナがいたというスキャンダルがあったからである。キリスト教世界の最高権力者であるローマ教皇は男性だけに与えられる最高位の聖職である。ヨハンナの伝説は14世紀のボッカチオの物語にも記されており、タロットの女教皇はヨハンナがモデルである。在位は855年から858年までとれるが、実在は否定されている。(conclave)
2000年近い教皇史だが、初代ペテロから265代ベネディクト16世(在位2005-2013)を暗記している人はいるだろうか。高校世界史に登場する主要教皇21人をあげる。
ペテロ (在位64年) ネロ帝の迫害
マルケリヌス(296-304) ディオクレティアヌスの迫害
ミルティアデス(311-314) コンスタンティヌスのミラノ勅令
シリキウス(384-399) キリスト教がローマの国教となる
レオ1世(440-461) 異民族の侵攻を阻止
グレゴリウス1世(590-604) ゲルマン人への布教
レオ3世(795-816) カール大帝に加冠
ヨハネス12世(955-963) オットー1世に加冠
グレゴリウス7世(1073-1085) カノッサの屈辱
ウルバヌス2世(1088-1099) 十字軍を提唱
エウゲニウス3世(1145-1153) 第2回十字軍
クレメンス3世(1187-1191) 第3回十字軍
インノケンティウス3世(1198-1216) 教皇権の絶頂期
グレゴリウス9世(1227-1241) 第5回十字軍
インノケンティウス4世(1243-1254) 第6回十字軍
ボニファティウス8世(1294-1303) アナーニ事件
アレクサンデル6世(1492-1503) ルネサンスの保護者
レオ10世(1513-1521) ルターの宗教改革
ウルバヌス8世(1623-1644) ガリレオ裁判
ピウス7世(1800-1823) ナポレオンに加冠
ピウス12世(1939-1958) ホロコースト(ユダヤ人虐殺)
NHK「ぐるっとインドシナ半島300キロ」前編はハノイからホーチミン市まで。野村佑香がファンティエットでニョクマムを製造するベトナム人の家庭にホームステイする。ニョクマムとは魚介類を塩漬け発酵させた魚醤(ぎょしょう)のこと。タイのナンプラー、ベトナムのヌックマム(ニョクマムともいう)、秋田の「しょっつる(塩汁)」など。戦前は北部でニョクナムを製造していたが、1954年のインドシナ休戦協定でキリスト教徒だった一家は南部のファンティエットに移住したという。中国、フランス、日本、アメリカなどの侵略の歴史が影をおとしている。戦争でアメリカを退けた郁は、後にも先にもベトナムしかない。
Viet Nam,nuoc mam,Phan Thiet
NHK思い出のメロディー第45回が今年も10日(土)に放送される。曲目をみたが、よく耳にする歌ばかりだった。だんご3兄弟のCDが1999年のこの日に発売された。爆発的なヒットだったが、最近テレビでこの歌は聞かれない。数年前にヒットした「トイレの神様」もなぜか聞かれなくなった。ネットを見ると「トイレの神様」に対する批判的な記事がめだつ。反ブームの集団ヒステリーの臭いがする。サザンオールスターズ「TSUNAMI」(2000)やZONE「secret base~君がくれたもの」(2001)などもなかなかテレビなどで放送されない。歌番組で若手歌手が懐かしい歌を歌うが、なぜか「硝子のジョニー」(1961)だけは誰も歌わない。否、歌えないのか。アイ・ジョージの哀調にとても及ばないと知っているからだろうか。
1965年のこの日、シンガポールがマレーシア連邦から独立した。毎年パレードや花火などで盛大に祝う。マレー半島の最南端、ジョホール水道を隔てたシンガポール島(東西42キロ、南北23キロ)は、7世紀シュリーヴィジャヤ王国の支配下の時代、トマセック(トマシック、トエマセクなどとも表記、漢名は単馬錫)と呼ばれていた漁村だった。13世紀パレンバンの王子パメレスワラ(パラミシュワラ、パラメスワラ Paramisavara在位1402-1414)がここに都市を建設した。このころサンスクリット語で「獅子の都市」を意味するシンガプラSingapuraという名が定着している。だがシンガプラは16~18世紀には廃墟となり忘れ去られた。1818年スマトラのベンクーレンの総督として赴任したイギリス人のラッフルズ(1781-1826)が、ここを植民地として、港を築き、シンガポールと呼んだ。長くイギリスの植民地であったが、1959年6月3日、イギリス連邦内の自治領として独立し、1965年に正式に独立国となる。人口473万人(2008年現在)
市内マーライオン公園にマーメイド(人魚)とライオンとを合体させた「マーライオン」の像が作られたのは1972年。フレイザー・ブルーナーによって設計され、地元の彫刻家のリム・ナン・センによって作られた。高さ8mあるが、シンガポールが世界の観光地の名所となると、いかにも貧弱で、「世界三大がっかり」の筆頭格としてあげられることが多かった。2002年には、海際のセントーサ島にジャイアント・マーライオンが新設され、現在マーライオンは全部5体あり、汚名返上を図っている。(8月9日,Singapore,Singaoura,Merlion,National Day)
B級映画とは主に洋画の西部劇などの娯楽作品をさすことが多いが、新東宝の作品などは娯楽的趣向が満載でB級と呼ぶにふさわしい感じがする。昨夜みた「怪談海女幽霊」(1960)は夏に公開された映画だろうが、明智十三郎の警部、御木本伸介と万里昌代の復讐譚である。娘役の矢代京子が、とても清楚で美しく印象的だった。日活の小沢昭一「恋をするより得をしろ」(1961)も原作が司馬遼太郎という珍品。「宮本武蔵」で「お通」を演じた宮城千賀子が赤坂のクラブママで出演している。ほかに現代的な娘に清水まゆみ。「ピラニア3D」(2010)にエリザベス・シュー(リービング・ラスベガス)が出演している。スティーブン・R・マックィーンはスティーブ・マックィーンの孫。ジュリー・オコンネルはスタンド・バイ・ミーの少年。製作者の一人チャコ・ヴァン・リューウェンとは日活の悩殺女優・筑波久子であるとは驚きである。
「翻車魚」と書いて「まんぼう」と読む。「翻車」は水車のこと。むかしの本では、「萬寶」「萬歳楽」と表記することもある。温帯および熱帯の海域に分布、日本近海では北海道以南の各地で見られる。背鰭を振りながらのんびりと泳ぐ丸い姿は、愛くるしくも感じられる。しばしば海面に浮く。一度に極めて多数の産卵をする。マンボウの語源については定説はない。マンボウは方形なので満方の意か。榮川省三「魚名考」には、マンは、「円い」意味で、「ボウ」は、「魚(ウオ)」の転訛語であるから、マンボウとは、円型の魚ということであろう、とある。「マンボウ」は古くから、浮いている木を連想させる様子から「うきき」(浮木、浮木魚)と呼ばれることが多い。日本書紀には「枯査」と記される。正式学名は「モラ・モラ(Mola mola)
日本のカワイイ系ファッションやアクセサリーが世界でも注目を浴びている。昨年8月、アイドルのきゃりーぱみゅぱみゅが「原宿カワイイ大使」に任命され、カワイイのカルチャーを積極的に世界に発信するという。欧米では「可愛い」という概念を正しく言い当てた語がない。cuteも赤ん坊などの幼児に使われることが多い。ハローキティーやアニメのキャラクター、アイドルの少女趣味ファッション、ゆるキャラ、野球・サッカーなどの応援着ぐるみマスコットなど「カワイイ」はいたるところでみられる。NHK番組「東京カワイイ☆TV」など「可愛い」を片仮名で「カワイイ」と記している。。5月19日に行われたハロー・プロジェクト野音プレミアムライブにもハローキティが特別ゲストに出演していた。
朝ドラ「あまちゃん」もいよいよ終盤にむかう。アキはGMTから脱退し、家族で事務所を立ち上げ、アイドルとしてデビューするようだ。ところでドラマに頻繁に登場する外来語「アイドル」という言葉が日本語として定着するのはいつごろからか。シルビー・バルタンの「アイドルを探せ」(1963年)が一般化する契機となったものの、芸能人としてのアイドルという概念が定着するのはまだ先のことのようである。アイドルとはビートルズのような外国の芸能人を対象として呼称であり、日本の若手芸能人は「青春スター」という表現が一般的であった。日活映画「北国の街」(1965年)で舟木一夫が同級生の和泉雅子を「君はクラスのアイドルだ」という台詞がある。この映画の公開当時、昭和40年代には「みんなの憧れの的」という意味でアイドルと使っていたことがわかる。
ホラー映画「蝋人形の館」(2005)は意外と面白い。人間の肉体を蝋で固めるという猟奇的発想はビンセント・プライスの「肉の蝋人形」(1953)からきている。カーリー役のエリシャ・カスバートは「ガール・ネクスト・ドア」、ドラマ「24」のセクシー女優。身長157㎝と低いし、ジャガイモ顔だが米では人気がある。ほかにパリス・ヒルトンも出演している。廃村となった田舎の人が全て蝋人形という発想も奇抜である。House of Wax
女性エリシャ・カスバート(左)、パリス・ヒルトン(右)、男性は左からロバート・リチャード、チャド・マイケル・マーレイ、ジョン・エイブラハムズ、ブライアン・ヴァン・ホルト、ジャレッド・パタレッキ
エリシャ・カスバートはキルスティン・ダンストに似ている
1738年のこの日、上島鬼貫(1661-1738)は大坂で没す。享年78歳。摂津伊丹の人で、本名は平泉治房。若い頃は、筑後柳川候や大和の郡山候に仕えたが、1676年すでに西山宗因の席に列なった。東都の芭蕉に呼応して俳諧の正風化につくした先覚者である。俳論として「誠の外に俳諧なし」という卓抜な誠の説をのべた『独言』(1685年)の著がある。その俳風は極めて自然、素朴であり、なんら作為が認められない。伊丹の墨染寺の愛子永太郎の墓に遺髪、分骨が納められている。
花散つて又しづかなり園城寺
にょつぽりと秋の空なる富士の山
冬枯や平等院の庭の面
行水の捨てどころなき虫の声
何とけふの暑さはと石の塵を吹く
ひうひうと風は空ゆく寒牡丹
1291年のこの日、ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの3州が既得権益である自由と自治を守るたるスイス誓約者同盟を結成し、現在のスイスの元となった。スイスは国土の半分以上が高度1000メートルを越す山地で、古くからヘルヴェティア族がいたが、カエサルの征服によってローマ帝国の属州となったのが紀元前1世紀のことである。5世紀の中頃ブルグント族がこの地方の西南部に侵入し、ややおくれてアラマン族が東部に入った。前者はすぐにキリスト教に改宗し、ラテン語を使いはじめたが、後者の改宗はおくれ、ゲルマン語をすてなかった。
843年にヴェルダン条約でフランク王国が分裂したとき、スイスの東部は東フランク王国に、西部はロタール王国となり、888年にブルグント王国領となった。1033年以来スイスは神聖ローマ帝国領となったが、スイス諸州はかなりの自治を享受していた。しかるに、1273年にハプスブルク家のルードルフが皇帝になると、その支配は各州に強く及び、いわゆる原始3州などが同盟を結んで反抗した。シラーの描くヴィルヘルム=テルの伝説はこの時代を背景としている。農民軍は1315年にモルガルテンの戦いでハプスブルク軍を破り、翌年皇帝は3州の特権を承認した。16世紀にはチューリヒでツヴィングリが宗教改革運動を起こした。彼の死後スイスの宗教改革はカルヴィンによってジュネーヴ市を中心として展開され、全世界に大きな影響を与えた。スイスが正式に神聖ローマ帝国から独立したのはウェストファリア条約(1648年)においてであった。そしてスイスが永世局外中立の地位をえたのは1815年のウイーン会議(条約)においてである。Swiss
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