ぬげた草履
昭和40年7月15日、中島さと子(1904-1974)は、ある婦人雑誌の企画「新時代の嫁と姑」というテーマで女優の左幸子と対談をした。その頃、さと子は4年前に書いた「咲子さんちょっと」がドラマ化され原作本もベストセラーとなり、文筆業で忙しくなっていた。夫の中島菊夫(1897-1962)はすでに3年前に他界していた。その日は真夏のこととてクーラーがよく効いていた。本題以外の雑談や食事もあって、3時間近くかかったであろう。その時間中に、私の片足の草履が、ひとりでにポトリと床に落ちた。別に気になるほどのことでもなかった。だが、対談が終わって玄関まで歩くとき、なんだか少し足が冷たすぎ、草履を重いと感じた。なんとかタクシーで家に着いた。自宅の門前に着いたとき、またもや草履が脱げて地面に落ちた。私の足はまるで鉄棒のように重くなり、魔術をかけられたみたいに地面へくっついていた。クーラーで冷えすぎたからだ思い風呂にはいり、血液の循環を促した。しかし湯からでても、膝から下はやはり冷たい。そうしているうちに、さと子は4、5日前の朝日新聞の病気相談「聴診器」の最近発生している奇病の記事を思い出した。それは7月11日の朝刊だった。相談者は「下痢後下半身が下からしびれ始め、現在は歩行困難、視力も衰える一方、診断は医師によりまちまち」という。東大医学部神経内科の豊倉康夫は「一見お互いに関係がないように見えるさまざまな診断が、病気がなにであるかを解くカギになりそうです。あなたの病気は最近全国的に流行してきた「腹部症状を伴う脊髄症」と言う病気である可能性が大きいと思われます。(略)」さと子は二度も三度も読んだ。そうして自分の病気もこれに関係があるかも知れないと思った。
スモン病は、整腸剤キノホルムを服用したことによる副作用だと考えられている。昭和30年ころから散発し、昭和42年、43年の大量発生で社会の注目を集めた。昭和47年までに全国で11127名の患者が確認されている。厚生省は昭和45年9月8日、キノホルムの製造販売及び使用停止を決定し、それ以降は新患者の発生はない。
中島さと子は明治37年10月15日、高知県に生まれる。高知師範卒後教職につき、中島菊夫と知り合い結婚して退職。昭和16年、菊夫の漫画「日の丸旗之助」が少年倶楽部に連載される。昭和36年、息子が結婚して、新妻との同居家族の記録が明るいホームドラマとして全国的に知られる。昭和40年、スモン発病。昭和49年12月25日、死去。
(参考:中島さと子「愛する力もてスモン病と闘う日々」)
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