深夜の酒宴
椎名麟三(1911-73)は、昭和22年、「深夜の酒宴」(雑誌「展望」2月号)を発表する。既成作家も読者も、この作品の持つ暗鬱で重厚な実存的雰囲気に圧倒的な衝撃を受けた。6月には「重き流れのなかに」を「展望」に発表。この二作で、ほぼ戦後派作家としての世評は固まった。「深夜の酒宴」の主人公の須巻は、敗戦直後、両国の運河ぞいに焼け残った古い倉庫を改造したアパートに住んでいる。彼は元共産党員であり、獄中で狂気に陥ったと知られ、気味悪がられる存在である。アパートの人々の生活は悲惨の極である。栄養失調で死んでいく少年、知恵遅れの娼婦、14歳の息子を残して死んでいく喘息の女、そして夕食としては、一口最中一個だけしかない。アパートの中には希望はどこにもなく、人々は死刑囚のように死を待っているかのようだ。須巻にできることは娼婦の部屋で酒に酔いつぶれることだけだ。小説の設定は、戦後になっているものの、主人公の須巻に仮託された椎名の実体験には、投獄された友人に対する罪悪感、頼っていた父親がみせた冷酷な仕打ちなど、昭和10年前後まで遡れるものが少なくない。昭和9年、椎名は祖谷寿美子と結婚し、竪川と横十間川の交差箇所の近くに住み(現在の墨田区江東橋4-46)、目と鼻の先で、二本の運河が交差し、椎名はそれらの運河を「黒い運河」と言いあらわした。「黒い運河」は、「深夜の酒宴」の原型となった作品であり、現在、原稿と原稿用紙に浄書される前の創作ノート、断片的な草稿が残っている。昭和21年7月、富山の大牧温泉にこもり「黒い運河」を脱稿した。そして11月に「黒い運河」を改題改作した「深夜の酒宴」をいくつかの出版社に持ち込むが不調となり筑摩書房の「展望」へ郵送した。「深夜の酒宴」は、形而上の主題をめざしながら、観念だけでなく、底辺の生活を素材にした昭和10年代の実体験がもとになっている。この作品によって、初めて戦後文学の新しい世界が開けるのを感じた読者も多かった。
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