寺田寅彦と煙草
ケペルはタバコは吸わないが「しんせい」という名前を聞くと懐かしさがこみ上げてくる。親父が愛煙家で「しんせい」を一日に何箱も吸っていたからだ。ハイライトなどのフィルター付タバコが普及しても、頑固に吸い続けていた。昭和24年の戦後の発売で「新生」というネーミングも戦後の世相を現していることをはじめて知った。ゴールデンバットもしんせいもいまも発売されているそうだ。バットは明治39年の発売なので、発売されているなかでは最も古いタバコである。そもそもタバコ専売は、日露戦争の巨額な戦費を捻出するため、政府は煙草に目をつけ、明治37年、煙草専売法を公布し、7月に敷島、大和、朝日、スター、チェリーを発売した。官制煙草が出る以前は岩谷松平の天狗煙草や村井吉兵衛(1864-1926)のサンライズなどが人気だった。寺田寅彦の「喫煙四十年」(昭和9年)にはずいぶんと古い話がでてくる。
巻き煙草を吸いだしたのはやはり中学時代のずっと後のほうであったらしい。宅には東京平河町の土田という家で製した紙巻きがいつもたくさんに仕入れてあった。平河町は自分の生まれた町だからそれが記憶に残っているのである。ピンヘッドとかサンライズとか、その後にはまたサンライトというような香料入りの両切り紙巻きが流行しだして今のバットやチェリーの先駆者となった。そのうちのどれだったか東京の名妓の写真が一枚ずつ紙箱に入れてあって、ぽん太とかおつまとかいう名前が田舎の中学生の間にも広く宣伝された。煙草の味もやはり甘ったるい、しっこい、安香水のような香のするものであったような気がする。
ぽん太は新橋玉の家かかえの名妓。鹿島清兵衛に落籍され貞淑をもって有名。おつまも「洗い髪のおつま」というわれた名妓である。
ところで、科学者、随筆家として知られる寺田寅彦は、喫煙と健康についてどのように考えていたのだろうか。寺田寅彦も愛煙家として知られたが、健康には恵まれなかった。「喫煙四十年」に次のような一文がある。
先年胃をわずらった時に医者から煙草をやめてほうがいいと言われた。「煙草も吸わないで生きていたってつまらないからよさない」と言ったら、「乱暴なことを言う男だ」と言って笑われた。もしあの時に煙草をやめていたら胃のほうはたしかによくなったかもしれないが、そのかわりにとうに死んでしまったかもしれないという気がする。なぜだか理由はわからないがただそんな気がするのである。
なかなかお医者さんの言うことを聞かない困った寺田先生である。そこで日本一の名医といわれる日野原重明先生にご登場いただこう。
私は「生涯を通じて健康に」と強調しておりますが、人生の幸福は「健やかさ」をおいてほかに何もないと思うのです。心と体の健康ですね。両者は非常に関係が深いのです。体が病めば心が縮むというわけです。ですから、生涯を通して私たちが健やかさを保つにはいつもよい環境や条件を自分で考え、つくろうというわけです。健やかな心や体の目標は、私たちが社会や人のために何ができるか、ということを考えてまで生きるということです。その場合私たちは、やはり生きる価値観を考える。そしてまた、意義深く生きるためにはどうしても健康が必要ですね。ところがたばこというのは、自分の健康と周囲の人の健康を破壊してしまうのですから大きな問題なのです。(「生涯を通じて健康に」タバコは吸わない、頑固に禁煙)
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