戦争とパーマネント
パーマの歴史は古く、古代エジプトで髪に泥を塗り、棒に巻きつけ、太陽で乾かしていたのが始まり。あの美女クレオパトラ女王もパーマをしていたらしい。近代パーマ(電髪パーマ)は1905年、カール・ネスラー(1872-1951)というユダヤ系ドイツ人の調髪師が考案。1906年にロンドンのオックスフォード街に「ネスレ・パーマネント・ウェーブ」というサロンをオープンした。そこで初めて「パーマネント・ウェーブ」という言葉が使われた。
しかし、第一次世界大戦が始まると、敵国人であるネスラーはイギリスから追放される。1914年にアメリカに渡ったネスラーは、当時人気のあったダンサーであるアイリーン・キャッスル(1893-1969)に出会う。アイリーンは18歳とき、イギリスのオペラ役者のバーノン・キャッスルと結婚し、二人は社交ダンスで一世を風靡し、パリを始め欧州、アメリカ各地でダンスを広めた。のち映画「カッスル夫妻」(1939年)でフレッド・アステア、ジンジャー・ロジャースが演じているほどの有名人だった。そのころ、アイリーンは夫が英国飛行隊の大尉として出征し、墜落死する不幸があった。ネスラーはアイリーンにパーマを使った新しいヘア・スタイルをすすめ、「アイリーン・カッスル・ボブ」が誕生した。
日本でパーマが導入されたのは大正12年5月。神戸三宮で外国人相手に美容院を経営していた紺谷寿美子がアメリカから機械を輸入したのが始まり。実際に普及しだしたのは、昭和5、6年ごろからで、昭和10年代には大流行。しかし昭和14年6月16日、生活刷新法が制定された。この法律には、遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の贈答廃止、学生長髪禁止、パーマネントの廃止などが盛り込まれていた。「堅忍持久」「贅沢は敵だ」などのポスターには「パーマネントはやめましょう」と書かれていた。この法律施行より1年前の昭和13年2月から、宝塚少女歌劇団では、娘役、女生徒のパーマ禁止、男役のシングル・カットが禁止された。しかし娘役のスターである草笛美子、久美京子ら、男役のスターである小夜福子、葦原邦子、奈良美也子らは除外されていた。
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とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!
投稿: 株の初心者 | 2014年7月30日 (水) 15時46分