ああ予科練
予科練。正式の呼び名は海軍飛行予科練習生である。14、15歳から17、18歳までの少年を志願制で入隊させて飛行兵として訓練し、17、18歳で一人前の戦闘要員として戦場で戦えるようにした制度だった。
これら志願した少年兵とは対照的に、学徒動員で入隊させられた大学卒がいる。敗戦後、戦没学生の手記である「わだつみの声」がベストセラーになり、大学から軍隊に行って戦死した青年たちの悲劇的な心境は多くの人に知られるようになった。彼らはいまの大学生とは比べものにならない少数のインテリだったから文章もうまかった。それが敗戦後に、あの軍国色一色に見えた時代に、戦争に疑問を持ちながら死んでいった若者もいたのかという感動を呼び、「わだつみの声」はいまも読者の心をうつ。ところが少年兵たちのほうは、まだあまり判断力もない幼い頭で軍隊に憧れて志願したのである。14、15歳から軍隊教育を受けていたから日記や手紙も紋切り型の勇ましいものしか書けなくなってしまう。そんな文章に他人は誰も興味を持たない。そんなわけで、もっともよく戦った少年兵のことは記録に残らないし、ろくに追悼もされない。ここに「舞鶴海兵団第一練習兵修業記念歌集・若桜」より歌をあげてみる。歌はよく言えば純粋、悪く言えば単純なものが多い。
先輩の後を追ふてわれゆかん 君の御楯と国の護りへ(小室秀夫・戦死)
身はたとへ太平洋のもくづと消えぬとも 永久に守らん皇国を(大井昭作・戦死)
かけ足はいつも負けたる我なれど 九段の坂は一番乗りせん(中山政夫・戦死)
桜花ぱっと咲き散るあのように 十七歳の大和魂(多田善次・戦死)
あめりかよ今に見てをれ地図までも 紅く染めるぞわが血潮もて(鍋島契・戦死)
少年兵には、ベテラン兵のように上手く戦えば無駄死にしないですむ、という考えはなかった。予科錬は逃げなかった。予科練は戦って死んだ。あれだけ多くの犠牲を出したにもかかわらず、彼らの死が忘れ去られようとするのが悲しい。
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