日本の死刑制度
近世死刑史で史実に記されるのは、慶長5年(1600)8月の石川五右衛門の釜煎の刑であろう。同年10月には関ヶ原の合戦で敗れた石田三成、小西行長が斬首されている。江戸期、鈴が森の刑場が有名で丸橋忠弥(1651)らが処刑されているが、幕末になると処刑者は増える。頼三樹三郎(1859)、橋本左内(1859)、吉田松陰(1859)、平野国臣(1864)、武市瑞山(1865)ら憂国の志士がいる。小栗忠順は新政府軍によって斬首された(1868)。
近代になると、江藤新平は司法制度の整備に尽力したが、皮肉なことに自ら確立した司法制度の下、裁かれて死刑となった(1874)。大逆事件では検察側が「十一月謀議」をでっちあげ、幸徳秋水ら12人の無罪の人たちを処刑した(1911年)。戦前、弁護士の花井卓蔵(画像1868-1931)は死刑廃止のため論陣を張った。
敗戦後の1948年、東条英機らA級戦犯7人が絞首刑となっている。近代法治主義では、犯罪が行われてから法律をつくって裁くというのは、罪定法定主義と法律不遡及の原則に反するものであろう。2006年のサダム・フセインの場合も正義の裁判だったとは到底思えない。つまり戦勝国が演出した裁判ショーである。現在、オウム真理教の松本智津夫ら死刑囚121人が拘置されている。
だが民主党政権になってから死刑執行は1回(2人)だけである。鳩山邦夫は安倍・福田内閣の1年弱の法相在任中に13人の死刑執行を命じた。刑事訴訟法で、法相は死刑確定の判決から6ヵ月以内に執行を命令するように定められている。法相が死刑廃止論者だった。2007年には光市母子殺害事件でタレント弁護士がテレビ番組で弁護士会に対して懲戒請求をするように呼びかけた。これにより懲戒請求書が約7558通が殺到するという騒動が起きた。メディアによる凶悪事件が起きるたび死刑を煽る行為が繰り返されている。このため世界の7割の国が死刑制度の撤廃、あるいは事実上の廃止をしているが、日本においては死刑容認が85%という独特な思想風土が形成されている。いまこそ日本の死刑制度の是非が問われている。
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