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2013年5月 9日 (木)

泡鳴忌

102636   岩野泡鳴(1873-1920)は他の自然主義の作家たち、たとえば「破戒」(1906)「家」(1910)の島崎藤村、「蒲団」(1907)の田山花袋、「あらくれ」(1915)の徳田秋声などと比較すると、今日その名は忘れさられようとしている気がする。だが彼の日記によれば、大正8年の小説だけの収入は4千5百円余とあり、当時の作家の最高位になるほどの人気であった。なせそれほど人気があったのか?今でこそ自由恋愛の時代だが、明治・大正時代は「自由」「恋愛」という概念すらなかった。結婚相手は親が決めるのが当然という時代に、個人の自由な恋愛をテーマとしたり、女性との肉体関係を赤裸々に告白することが、誠実な作家の態度であると信じていた。岩野泡鳴は決していいかげんな人物ではなく、なにごとにも真剣であり、真実をもとめたために、私生活は物議をかもすことが多かった。

    泡鳴は父直夫が経営していた下宿屋「日の出館」(芝区西久保八幡町)をそのまま妻の竹腰幸に任せて、小説を書いていた。最初の妻の幸は年上の小学校教師で周囲の反対をおして駆け落ちまでして一緒になった二人である。明治42年に「新小説」に「耽溺」を発表し、高い評価をえた。ところがこの頃、突然に樺太へ移住を計画し、事業をするが失敗する。このころのことは「泡鳴五部作」に書かれている。あらすじは、父の死後、下宿屋の当主になった田村義雄が紀州から上京した清水お鳥と知り合い妾に囲う経緯が「発展」「毒薬を飲む女」で、缶詰事業に失敗して北海道に放浪し、帰京するまでが「放浪」「断橋」「憑き物」に描かれている。私生活でも増田しも江(「毒薬を飲む女」のモデル)を芝切通広町に囲っていた。ところが明治42年には、妻と別居し、増田しも江とも別れ、12月には婦人運動家の遠藤清子と同棲する。大正4年には新潮社の筆記者、蒲原英枝と深い仲となり巣鴨町に同棲する。しかし、英枝には前夫がいて、世間から「姦夫姦婦」と非難され、訴訟にまで発展する。身辺に取材した描写は小説の本道と考えていた自然主義の作家ではあるが、岩野泡鳴はもっとも思い切った自己暴露を試みた作家であった。

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