ボッティチェリとフィレンツェ
ボッティチェリの自画像「東方三博士の礼拝」(部分) 1475年 フィレンツェ ウフィツィ美術館蔵
1510年のこの日、ボッティチェリはフィレンツェで没した。本名アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ディ・ヴァンニ・フィリペーピ(1445-1510)はフィレンツェの皮なめし職人マリアーノ・フィリペーピの末子として生まれた。フィレンツェ人は驚くほど愛称を好み、アレッサンドロの長兄ジョヴァンニは「イル・ボッティチェロ」(小さな樽を意味する)と呼ばれた。おそらく彼が丸々と太っていたからだろう。アレッサンドロ(通称サンドロ)は1470年以前のいつのころからかこの愛称を肩代わりし、ついにはそれが一家の姓となった。
サンドロ・ボッティチェリの若いころについて確かなことはほとんど知られていないが、13歳で金細工師の徒弟になったという話は真実らしく思われる。しかし、まもなくして画家になろうと決心し、1461、2年ごろ、父親は彼をフィリッポ・リッピの工房に入れた。リッピはフィレンツェの名高い画家だった。その後、ボッティチェリは「プリマヴェラ(春)」と「ヴィーナスの誕生」によって、ルネサンスを代表する芸術家の一人になった。
彼は旅嫌いで、めったに故郷のフィレンツェを離れなかった。1473年、注文に応じるためにピサを旅したが、計画が頓挫すると、すぐに家に帰った。1481年、ローマのシスティナ礼拝堂を飾る芸術家の一人に選ばれたためフィレンツェを離れたが翌年にはフィレンツェに戻っている。
晩年、修道僧サヴォナローラが処刑されると、ボッティチェリも人気を失い、数世紀にわたってほとんど忘れられた存在となった。ボッティチェリがイタリア・ルネサンス最大の芸術家として認められたのは、ようやく19世紀の末に再評価されたからである。
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拝見いたしました。
ビーナス誕生とプリマヴェーラの描かれた背景に興味があります。
次のように書かれていましたが、現在評価が高い画家がそんな扱いだったとは、その理由は何でしょうか。
晩年、修道僧サヴォナローラが処刑されると、ボッティチェリも人気を失い、数世紀にわたってほとんど忘れられた存在となった。ボッティチェリがイタリア・ルネサンス最大の芸術家として認められたのは、ようやく19世紀の末に再評価されたからである。
また、ボッティチェリが聴いたと思われる音楽はどのようなものでしょうか、お分かりでしたらお教え願えれば幸いです。
投稿: 石山みずか | 2008年8月 5日 (火) 07時29分
なぜボッティチェリが「忘れられた画家」になったかという理由ですが、おそらくダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの盛期ルネサンスの画家が登場したため、ボッティチェリの芸術が「前近代的」なものと評価されたためでしょう。その頃のムジカ(音楽)とルネサンス芸術を知るには、むかしNHKで放送していた「ダ・ヴィンチ、ミステリアスな生涯」(1972年)フィリップ・ルロワ主演のドキュメンタリードラマが優れた作品で、リュートの楽器が雰囲気をだしていた。DVDもでているので、一見の価値があります。
投稿: ケペル | 2008年8月 5日 (火) 21時35分