金のバット
午後から長嶋茂雄、松井秀喜の国民栄誉賞授賞式をテレビで見る。盛大で感動的な演出だったが、安倍晋三の背番号96が気になる。歴代96代首相だからというが、実は96条改憲のパフォーマンスではないか。
「足の速い者が競争に、強い者が戦いに必ずしも勝つとは言えない。知恵があるといってパンにありつくのでも聡明だからといって富を得るのでも知識があるといって好意をもたれるのでもない。時と機会はだれにも臨むが人間がその時を知らないだけだ。魚が運悪く網にかかったり鳥が罠にかかったりするように人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる」(コヘレトの言葉)
聖書の第21番目の書「コヘレトの言葉」には人生のむなしさや死がいくども綴られており、夢も希望も与えられない。1世紀にヤムニア(ヤブネ)でユダヤ教の正典(カノン)が制定されたとき、旧約聖書から削除すべきか否か問題になった。しかし死という誰もが避けられない問題にとりくむことは有益で、この書が決して厭世主義や悲観主義ではないという結論にいたった。現代の高等批評の聖書研究家は、「コヘレトの言葉」が聖書の他の書からの直接の引用がないことや、聖書全体と調和していないことなどから、はるか後世の筆者が書いたものと考えている。
「コヘレト」とは固有名詞なのか普通名詞なのかも明らかではない。書には「ダビデの子」であり、「エルサレムでイスラエルを治める王であった」とあることからソロモンのことであることは明らかである。なぜソロモンと明記しなかったのかという理由もわからない。おそらく後世の聖書筆者がソロモンに擬して文学的虚構を成したものであろう。
他説では、「コヘレト」はヘブライ語「コーヘレス」という語をセプトゥアギンタ訳で「エックレーシアステース」と訳して以来、エクシア、すなわち集会で語る者という意味に解され、ルター以来Prediger(説教者)と訳されてきた。英語で「エクリシアステーズ」Ecclesiastesと訳される。欧米ではコヘルトをヘブライ語のカーハール(集会)と普通名詞と見る解釈が伝統的であった。しかし近年は「コヘルト」をほとんどの学者が固有名詞あるいはペンネームと見て、原語のまま「コーヘレス」と呼んでいる。日本語訳の聖書も明治以来「伝道の書」と訳されていたが、新共同訳(1987年刊行)から「コヘレトの言葉」に書名変更された。聖書の書名が変更されたのは「コヘレトの言葉」だけである。
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