明石順三と灯台社
明石順三(1889-1965)は、明治22年7月、滋賀県坂田郡息長村字岩脇の、代々彦根藩の藩医をつとめた外科医の家に生まれた。右の肖像写真は65歳ころ(昭和29年、鹿沼にて)。明治40年、上京して島貫兵太夫が主宰する力行会に入る。明治41年2月、18歳の明石は渡米、労働しながら苦学する。「羅府新聞」「日米新聞」などの記者となったが、キリスト教にひかれる。大正13年、ロスアンゼルスの新聞社を辞し、ワッチタワーの講演伝道師となり、アメリカ各地を旅行して在米邦人の間にその信仰を普及することにつとめた。大正14年10月、明石が日本語訳した「神の立琴」がワッチタワー総本部から出版された。
ワッチタワーの教義が目指したのは、聖書の真理に対する直接的な信仰であった。そして、きわめて忠実な聖書の読解にもとづいて、創造主エホバを唯一の神とみなし、その子であるキリストが来るべき最後の審判のときに再臨して、サタンの支配する悪の組織制度に属するこの世、圧制や戦争・貧困、疾病などに悩むこの世を滅ぼし、地上に「神の国」を建設するであろうことを説いたもので、再臨の思想を信仰の中心においていた。ワッチタワーでは牧師はつくらず、そこで洗礼を受けたものは聖書に示されたエホバの目的を証しする人間という意味で、エホバの証人と呼ばれる。こうしてエホバの証人の一人となった明石順三は、大正15年9月、ワッチタワー総本部の正式派遣として、日本に支部をつくるために単身帰国することになった。
須磨浦聖書講堂によった明石は、物見櫓の意味をもつワッチタワーという協会名を、この世において灯台のごとく光を放つ仕事をなすという見地から灯台社と名づけることにした。昭和8年、灯台社は弾圧を受け、全国一斉に伝道者が検挙されたが、明石は満州に伝道中で難をまぬがれた。その後、灯台社から村本一生、明石真人などの軍隊内兵役拒否者をだしたことで、戦時下抵抗として知られている。昭和14年の第二次検挙で一家をはじめ、本部員・伝道者が一斉検挙され、昭和18年明石は反戦・国体変革・不敬罪によって懲役10年の判決を受け、宮城刑務所で服役した。非転向を貫いた明石は、戦後昭和20年10月政治犯の一斉釈放とともに釈放されたが、国家権力に対しては妥協的になっていたワッチタワー総本部を文書で批判し、以後伝道の実践からはなれ、執筆生活を送った。(参考:稲垣真美「兵役を拒否した日本人」)
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