裕仁親王誕生と伊藤博文の辞任の謎
1909年10月26日、伊藤博文はハルピンで朝鮮の抗日運動家、安重根に暗殺された。伊藤は内閣制度の創設、大日本帝国憲法、皇室典範の制定、天皇制確立のために努力した。伊藤が閣内不統一を理由に内閣総理大臣辞表を提出したのは1901年5月2日。4月29日に裕仁親王(昭和天皇)が誕生してから僅か3日目のことである。つまり慶事の最中の辞任ということになる。昭和天皇の誕生年はどの本を見ても1901年である。しかし裕仁誕生はこれより1年前、1900年4月29日に生まれたとする説がある。二荒芳徳(1886-1967)は、裕仁は「1900年4月29日の夜」に生れたと書いている(「聖徳を仰ぎて」)。つまり男子誕生を確認してから、嘉仁皇太子(大正天皇)と節子は正式に5月10日、結婚したというのである。いまでいう「おめでた婚」、真偽のほどは明らかではない話であるが。この巷説はデイヴィッド・バーガミニの著書「天皇の陰謀」(1971年)にも記されている。
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昭和天皇は大正天皇の出来ちゃった結婚の落としだねとは・・
ケベル先生、よくも調べましたね・・。( ̄ー ̄)ニヤリ
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年4月29日 (月) 00時52分