油断大敵
プロ野球ペナントレース。いまのところ巨人、西武が独走中。新人、菅野智之(巨人)、小川龍也(中日)、藤浪晋太郎(阪神)らも活躍。注目の新人、大谷翔平は右足首を捻挫して二軍で調整中。気になるのは巨人の最近の戦いぶりだ。明らかに気の緩みが敗因である。巨人の敵は外になく、内にある。
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プロ野球ペナントレース。いまのところ巨人、西武が独走中。新人、菅野智之(巨人)、小川龍也(中日)、藤浪晋太郎(阪神)らも活躍。注目の新人、大谷翔平は右足首を捻挫して二軍で調整中。気になるのは巨人の最近の戦いぶりだ。明らかに気の緩みが敗因である。巨人の敵は外になく、内にある。
Out of the mouth comes evil.
東京都の猪瀬直樹知事が、米紙ニューヨークタイムズのインタビューで「イスラム教国は互いにけんかをしている」などイスラム諸国を批判したとみられる問題発言について、本人は「イスラム国の方に誤解を招く表現でおわびします」と謝罪した。知事の発言はIOCの倫理規定の他都市を批判したり、比較したりしない、とする禁止項目にふれるものであるが、IOCでは猪瀬を処分しないことを明らかにした。またトルコは「日本とトルコの人々の間で何世紀も続いてきた友情とお互いを尊重しあう心を最大限に重視している」とコメントしている。トルコ側の大人の対応に感謝したい。しかし、この一件で日本はこれまで招致に75億円以上を使ってきたが九仞の功を一簀に虧くことになりかねず、リーダーの失言は東京招致に暗雲をもたらしたものとみられる。
また猪瀬発言のなかで、注目すべきことは、日本が長寿社会に対して、イスラムの平均寿命などを例にあげていた。だが21世紀になって、医療技術が向上し、中東やアフリカ諸国などイスラーム教が多数占める地域では高い人口増加率を維持している国も多く、20~30年後にはキリスト教の人口を抜いて世界最大の宗教になると予想されている。予断と偏見にもとづいた主張ではなく、日本人全体にイスラーム諸国の歴史と文化の正しい理解が求められている。トルコだけではなく、インドネシア、マレーシア、アラブ諸国とぃつたイスラム諸国に対しても猪瀬発言は遺憾なものであった。ところが猪瀬は懲りない性分で「今回の件で誰が味方か敵か、よくわかったのは収穫だった」とツィッターしているのは呆れる。
音楽シングル1位は福山雅治「誕生日には真っ白な百合を」。映画興業1位は邦画「ドラゴンボール2 神と神」、洋画はジャッキー・ロビンソンの伝記映画「42」。ベストセラー本は村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」。ドラマ視聴率1位「ガリレオ」「あまちゃん」。悲しい哉、現代人は流行を追う習性がある。近年、やたらと「空気を読む」という言葉を耳にする。KY(空気読めない)は2007年の流行語。小学生から大人まで学校や職場で場の空気を読むことを求められるのはいかがなものなのか。たしかに集団や社会の一員として、場の空気を読むことは必要な能力の1つかもしれない。しかし「空気を読む」だけではダメで、迎合した意見ばかりでは、経営や組織は誤った方向に突き進んでいく。ときには遠慮せずに自己の意見を堂々と言える人間になるように心がけることが大切である。本当に必要なのは「空気を読む」ことより「忌憚のない意見」を出し合うことである。ランキングや流行・トレンドに惑わされず、自分にあったものを見つける能力を高めることも大切である。
本日は荷風忌。永井荷風といえば美女たちに囲まれた写真が印象的だ。売春婦イデス、清純なロザリン、吉野こう、藤枝静枝、芸者八重次など女性関係は多彩である。だがそんな遊び人の荷風も女性に騙された経験がある。
荷風が関根歌に逢ったのは、昭和2年のこと。荷風48歳、歌21歳。歌は麹町の鈴竜と名乗り芸者をしていた。荷風は千円で彼女を身請けする。歌に店を持たせてから3年後に突然、歌が病気になった。中州病院に2ヶ月入院。医師の診断は「将来、発狂することになるだろう」と。回復する見込みなしと考えた荷風は歌と別れる。「お歌との関係今夕にてひとまず一段落を告ぐ、悲しいかな」と日記に書いている。しかし、荷風は歌にだまされていたようだ。歌は若い男と一緒に酒ををのんでいたことを隠すため、精神病のふりをして医師をだましたのである。
僕は若い時から一種の潔癖があって、人の前では酔払わないこと。処女を犯さないこと。素人の女に関係しないこと。此の三箇条を規則にしている。
騙されたとわかっても、さすがに荷風は通の遊び人である。荷風の放蕩人生から学ぶことは多い。
日本に大衆文化社会状況が成立したのは、大正の末期と言われる。最近は昭和レトロ・ブームといわれ。映画「テルマエ・ロマエ」の影響で、かつて銭湯でよく飲まれていたフルーツ牛乳の需要が伸びているという。フルーツ牛乳を飲んで昭和へ「タイム・ワープ」だぁ~。
先ずは花王石鹸の合成洗剤エキセリン(昭和14年)。花王のロゴもこの頃は下弦の月だった。その後、欠けていく下弦の月は縁起が悪いと上弦の月に代えられた。
戦後の高峰秀子のナショナルの広告。街角にデコちゃんの笑顔が溢れていた。このころフランク永井が「楽じゃないけど13800円。なんとかなるさ~」と歌っていた。テレビが月給の10倍以上の値段。
昭和の子どもにとって「めんこ」は単なる遊びではなく、真剣勝負そのものだった。負ければ取られて、勝てば増えていく。近所の子どもたちから沢山メンコをまきあげた。なかでも長嶋や月光仮面は貴重品だった。相撲メンコが王者として君臨していた時代だ。
戦後の個性的な俳優、三國連太郎が他界した。旋盤工、機帆船のボーイ、鉄工所の工員、映画館の看板描き、宮崎交通、サツマイモからグルコースを採取する仕事の指導員、税務署、肥料会社の技術指導員など苦労している。近藤正臣は京都の割烹旅館の板前。役所広司は東京都庁という恵まれた職をすてて俳優になっている。二谷英明、小泉博はアナウンサー。天津敏は小学校教師。安藤昇は正真正銘のヤクザ。新沼謙治は集団就職で左官業。島津悦子はバスガイド。江角マキ子は出雲大社の巫女。漫画家の天久聖一は拘置所の刑務官。八名信夫は東映フライヤーズの投手だった。花沢徳衛は斎藤与里に師事した本格的な洋画家だった。変わったところでは悪役の吉田義夫は戦前の8年間、法隆寺壁画模写技官として壁画の模写に従事していた。藤井フミヤは国鉄貨物係。
外国スターも前職は多彩である。ゲーリー・クーパーは美術学校を卒業して、新聞社でマンガを描いていた。バート・ランカスターやユル・ブリンナーはサーカス団で活躍していた。アラン・ドロンは17歳のとき外人部隊に入りインドシナにいた。ペ・ヨンジュンはチヂミの行商をしていた。ショーン・コネリーはトラック運転手、海軍、新聞社勤務など。リノ・ヴァンチュラはレスラー、バート・レーノルズはフットボール選手から俳優になっている。
本日はナイロンの発明者ウォーレス・ヒューム・カロザース(1896-1937)の忌日。1940年5月15日、デュポン社がナイロンストッキングを全米で発売した。「戦後、強くなったのは靴下と女性」という言葉が日本で流行したのは昭和29年のことである。靴下が丈夫になったのはナイロン製ストッキングが製造されたからだ。それ以前の絹のストッキングは、しなやかな肌ざわりと美しい光沢をもつ半面、繊維としては弱いものだった。1935年アメリカの科学者カロザースはナイロンの発明に成功した。1938年、デュポン社は「クモの糸よりも細く鋼鉄よりも強い繊維」というキャッチフレーズでナイロンを発売した。「ナイロン」(nylon)という名前は「伝線しない(No run)という言葉をもじって付けられたという説がある。発明者のカロザースは会社から「生涯、どこへ旅行しても、どんな高級レストランやバーで飲食しようが、費用は一切会社が支払う」という高待遇をうけた。にもかかわらずカロザースは41歳で青酸カリを飲んで自殺してしまった。人間とはわからないものである。
( keyword;Wallace Hume Carothers )
AV女優の苺みるくが昨年10月、自ら命を絶っていた。まだ31歳だった。世の中、人知れず世を去っていく人がいる。自殺という言葉は英語も仏語もsuicide。発音は英語スーサイド、仏語シュイシード。スペイン語suicidaはスイシーダ。近代以後の、自殺、自決、自害と思われる日本人一覧。
西郷隆盛(1877)、北村透谷(1894)、藤村操(1904)、川上眉山(1908)、乃木稀典(1912)、松井須磨子(1919)、有島武郎(1925)、芥川龍之介(1927)、金子みすず(1930)、生田春月(1930)、牧野信一(1936)、江口きち(1938)、近衛文麿(1945)、蓑田胸喜(1946)、原口統三(1946)、太宰治(1948)、田中英光(1949)、原民喜(1951)、久坂葉子(1952)、加藤道夫(1953)、竹脇昌作(1959)、火野葦平(1960)、岸上大作(1960)、清村耕次(1966)、丸井太郎(1967)、円谷幸吉(1968)、高野悦子(1969)、三島由紀夫(1970)、川端康成(1972)、大辻伺郎(1973)、村山知行(1976)、田宮二郎(1978)、大下弘(1979)、秋元近史(1982)、沖雅也(1983)、依田郁子(1983)、中川一郎(1983)、ちばあきお(1984)、若山セツ子(1985)、鴨居玲(1985)、大友柳太朗(1985)、岡田有希子(1986)、田宮虎彦(1988)、石沢英太郎(1988)、伏見扇太郎(1989)、山田花子(1992)、可愛かずみ(1997)、新居将敬(1998)、hide松本秀人(1998)、沖田浩之(1999)、桂枝雀(1999)、江藤淳(1999)、松宮一彦(1999)、井上大輔(2000)、加堂秀三(2001)、矢川澄子(2002)、戸川京子(2002)、古尾谷雅人(2003)、鷺沢萌(2004)、野沢尚(2004)、森村桂(2004)、ポール牧(2005)、甲斐智枝美(2006)、犬丸りん(2006)、草柳文恵(2008)、チェ・ジンシル(2008)、三浦和義(2009)、清水由貴子(2009)、加藤和彦(2009)、永田寿康(2009)、デビッド・キャラダイン(2009)、影山日出夫(2010)、牧野田彩(2010) 松本友里(2010)、今野雄二(2010)、パク・ヨンハ(2010)、伊良部秀輝(2011)、田中実(2011)、上原美優(2011)、苺みるく(2012)、松下忠洋(2012)、牧伸二(2013)。
謹んでご冥福をお祈りします。(suicide)
デトロイト近郊の小さな町。厳格な中流家庭に突然不幸が襲った。リズボン家は両親とテレーズ、メアリイ、ボニー、ラックス、セシリアという美しい五人の姉妹がいた。末娘セシリアが謎の自殺をとげたのは6月のことで、町を覆いつくすヘビトンボの季節だった。この事件によって一家の生活は一気に暗転する。セシリアの自殺から1年後、またしてもヘビトンボの季節に、残りの四姉妹が一緒に自殺を図った。1人は首をつり、1人は睡眠薬を多量に飲み、1人はオーブンに顔を突っ込み、1人は車の中で自分のベルトを巻きつけた。ただ1人救出された娘も、自宅に帰って数日後、睡眠薬を多量に飲んで姉妹たちのもとへと去った。全員年子の五人姉妹は、なぜ自殺しなければならなかったのか、動機は謎に包まれている。何かに取り憑かれたかのように、夏の終わりの季節に次々と若い命を散らしていった。原作はジェフリー・ユージェニデスの小説「ヴァージン・スーサイズ」。1999年にはソフィア・コッポラで映画化されている。邦題は「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」。(The Virgine Suicide,Jeffrey Eugenides)
日本人の名は古来より漢字2文字、3文字が通例である。鎌足、不比等、武智麿、道真、正盛、清盛、頼義など。小野篂、源融、源順など公家の風流を好む雅号もあるが、これらは実名ではあるまい。漢字2文字ないし3文字の組み合わせというのは意味がありすぎるので、1文字の洒脱さ、風雅が好まれたのであろう。日本でも中国の風習をならい実名を直称しないことが礼儀とされた。頼山陽の名は襄(のぼる)であるが、字は子成である。本人の名を諱(いみな)という。死後実名で呼ぶのがふつうであるが、必ずしも厳密ではなく、一般には頼襄で通用している。明治の啓蒙家・西周(にしあまね)も本名は「周助」である。明治になって漢字1文字の名が流行するが、親が命名した名である場合と本人が改名した場合とがある。とりあえず一字名の著名人をあげる。青木繁、浅井忠、井上馨、井上毅、犬養毅、上田敏、片山哲、片山潜、河上肇、菊池寛、木村栄、斎藤一、志賀潔、新島襄、寺尾寿、原敬、前島密。
米People誌の「世界で最も美しい女性2013年」にグィネス・パルトローが選ばれた。「恋におちたシェイクスピア」(1998)でアカデミー主演女優賞受賞。ほかにナタリー・ポートマン、アンバー・ハード、マルゴー・ロビー、エミリア・クラーク、ガル・ガドット。
現代女性の持つ美人観をさぐるため埼玉女子短期大学では、女子生徒に2006年にアンケート調査を実施した。「美しい」と「美人」とで印象も異なるし、内面の美しさと外見の美しさのどちらに重きをおくか、などいろいろ調査法にも問題はあるかもしれないが、とりあえず上位の結果を報告する。(山田雅子「女子短大生に見る現代女性の美人観」埼玉女子短期大学研究紀要18,2007年3月)
1黒木瞳 2松嶋菜々子 3蛯原友里 4矢田亜希子 5篠原涼子 6鈴木えみ 7倖田來未 7竹内結子 9柴咲コウ 10山田優 10中島美嘉 12伊東美咲 12仲間由紀恵 12浜崎あゆみ 12梨花 16長谷川京子 17押切もえ 18安室奈美恵 18佐田真由美 18杉本彩 21加藤あい 21香里奈 21深津絵里 21土屋アンナ 25YOU 25チャン・ツィイー 25松雪泰子
20歳前後の女性を対象とした調査なので、吉永小百合、山本富士子、原節子という女優の名前はあがってこなかった。女性誌やトレンディー・ドラマという感じである。遠き昭和の灯りが恋し。なお個人的な見解では、顔立ちと肢体を総合的に検討して、日活ロマンポルノの女王、田中真理ではないだろうか。
♪光と影の中で腕を組んでいる~一度破いてテープで張った蒼いフォトグラフ
「青が散る」(1983年)は大学を舞台にして青春ドラマ。二谷友里恵、石黒賢、佐藤浩市、利重剛など2世スターが輩出し、「青散る族」という言葉も生まれた。あれからもう30年。石黒、佐藤は渋い中堅俳優として活躍している。
親が有名人、いわゆる2世タレントが現れるのは波があるようである。第1期は1950年代。芥川龍之介の長男比呂志が「ハムレット」で新劇界に新風をもたらしたことが契機となった。有島武郎の長男・森雅之は戦前派であるが映画は「安城家の舞踏会」の没落貴族のニヒリストぶりで注目されるようになった。田村高広は同志社大学を卒業して東京八重洲の茂木商事に勤めていたが、父阪東妻三郎の急死により、松竹からデビューすることになった。長谷川一夫の長男・林成年も1954年に大映「真白き富士の嶺」でデビュー。
第2期は1960年代で上原謙の息子・加山雄三や、映画監督・伊丹万作の子・伊丹十三、川口松太郎・三益愛子の長男・川口浩がデビュー。すこし遅れて、佐野周二の子・関口宏、市川右太衛門の子・北大路欣也、近衛十四郎の子・松方弘樹などがデビューしている。岡田茉莉子、桑野みゆき、朝丘雪路、嵯峨三智子、水谷良重、岸田今日子、入江若葉なども親が著名人である。
第3期1970年代は宇野重吉の息子・寺尾聡が1966年グループ・サウンズ「ザ・サベージ」で活躍していたが、70年代から俳優へ転進し大成した。坂東妻三郎の三男、田村正和は女性ファンを魅了し1970年代テレビで活躍した。永井秀明の息子・永井秀和が1968年「恋人と呼んでみたい」がヒットし日本レコード大賞新人賞を受賞している。加賀邦男の三男志賀勝もヤクザ映画で活躍した。
第4期1980年代は、前述の二谷友里恵、石黒賢、佐藤浩市などがいるが、佐田啓二の遺児、中井貴一が「連合艦隊」(1981)でデビューしたのもこのころである。鶴田浩二の娘、鶴田さやか(旧芸名・里見奈保、小野さやか)なども東宝からデビューしている。
90年代以降は現在活躍中の2世スターたち。
綾乃美花(田原俊彦)
いしだ壱成(石田純一)
IMARU(明石家さんま)
井上和香(嵯峨京子)
宇多田ヒカル(藤圭子)
柄本佑、時生(柄本明)
緒方直人(緒方拳)
香川照之(市川猿之助)
蟹江一平(蟹江敬三)
神田沙也加(松田聖子)
工藤夕貴(井沢八郎)
小泉孝太郎(小泉純一郎)
小柳友(小柳トム)
坂口杏里(坂口良子)
柴本幸(柴俊夫、真野響子)
関口知宏(関口宏)
関根麻里(関根勤)
平岳大(平幹二朗、佐久間良子)
高島彩(竜崎勝)
高嶋政宏、政伸(高島忠夫)
高橋真麻(高橋英樹)
多岐川華子(多岐川裕美)
寺島しのぶ(尾上菊五郎)
中川翔子(中川勝彦)
長塚圭史(長塚京三)
仁科仁美(仁科亜希子)
吹石一恵(吹石徳一)
藤山直美(藤山寛美)
船越栄一郎(船越英二)
降矢建志(古谷一行)
辺見えみり(西郷輝彦)
松たか子(松本幸四郎)
松田龍平、翔太(松田優作)
三浦祐太朗、貴大(三浦友和、山口百恵)
三船美佳(三船敏郎)
森山直太郎(森山良子)
矢沢洋子(矢沢永吉)
山田純大(杉良太郎)
吉本多香美(黒部進)
1953年のこの日、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによるDNAの構造に関する論文が「Nature」で発表された。2人はモーリス・ウィルキンスとともに1962年ノーベル生理学・医学賞を受賞している。だがDNA発見はロザリンド・フランクリン(1920-1958)という若き女性科学者のX線回析写真の業績によるものが大きい。彼女は実験のため大量の放射線をあびて1958年に癌で亡くなった。
NHKのEテレ「ツタンカーメンDNA大解析」(2012年11月放送)。エジプト考古学者ザヒ・ハワスがミイラのDNA解析によって、第18王朝末期の王ツタンカーメンの父と母を明らかにする。2005年の調査により、ツタンカーメンはアクエンアテンとその姉妹の1人アンケセナーメンとの間に生まれたことが判明した。身長は165㎝くらいで、体格はかなり華奢である。番組はかなりキワモノでザヒ・ハワスはムバラク政権崩壊後、ペテン師と呼ばれ解雇されたり、米国との不正取引などが発覚し問題となっているらしい。「驚くほど一致していた」「奇跡的だ」と言っていたが、はたして解析データの信憑性はあるのだろうか。(Rosalind Frnklin,Tutankhamun,トゥトァンクアムン,アンケセンアムン)
「笑っていいとも」にレギュラー出演しているネガティブ・イケメン・モデル栗原類は淡路恵子のひ孫、という記事がネット上に流れている。本当なのだろうか。つまりビンボー・ダナオとの間にできた2人の子供のどちらかの子ということになる。ドラマの番宣だろうか。Wikiには一時記載されたが数日後削除されている。単なるジョークだったようだ。
芸能人にはやはり有名人の子が多い。遠野舞子がプロ野球選手・岩本義行の孫と知って驚いた。品川祐は美容家・山野愛子の孫。DAIGOは竹下登の孫。中川安奈は中川一政の孫。国木田亜子は国木田独歩の孫。安藤サクラは犬養毅の曾孫。NHKアナウンサー片山千恵子は福澤諭吉だの玄孫(やしゃご)だそうだ。
広島カープの丸が打撃好調である。ところで広島には丸・梵・倉・迎と漢字一文字の選手が多い。今年、西武に移籍したが嶋重宣も印象深い。育成選手に辻空。韓国から申がいる。スコアボードに漢字一文字がズラリと並ぶことがある。丸佳浩、梵英心、倉義和、迎祐一郎、辻空、申成鉉とインパクトがある。全国名字ランキングによると、漢字一文字は、林(18位)、森(23位)、原(62位)、東(117位)、関(126位)、辻(128位)、堀(160位)、南(172位)、岡(200位)、西(230位)、谷(270位)、星(293位)である。
会津には、藤原氏と称する名家星氏がある。幕末の書家星研堂(1793-1869)、星恂太郎(1840-1876)。星製薬の星一(1873-1951)も会津出身である。作家の星新一はその長男。
小泉純一郎首相は2001年、両国国技館での大相撲夏場所千秋楽の表彰式に出席、貴乃花に内閣総理大臣杯を直接授与した。首相は表彰状を読み上げた後、「感動した。おめでとう」と貴乃花を絶賛した。小泉が首相就任して僅か1ヶ月のことであるが印象的な出来事として記憶されている。内閣総理大臣杯はさまざまな競技の最優秀を取ったものに対して贈られるが、大相撲は1968年の初場所からである。重さが40.8㎏もあるので佐藤栄作には少し無理なので官房長官など代理のものが授与するケースが多かった。剣道で鍛錬したていた橋本龍太郎が首相として直接授与したのが最初で、近年は首相が授与することが珍しいことではなくなった。1990年、初の女性官房長官になった森山真弓が授与を自ら行いと表明したが相撲協会は女性が土俵に上がることを拒否しておおいに話題となった。佐藤栄作が首相となったのは1964年11月のことで、1972年に退陣するまで、大鵬の横綱在位とほぼ重なる。大鵬の横綱在位は1961年11月から1971年5月まで。内閣総理大臣佐藤栄作が国技館に姿を見せることは一度もなかった。
1326年のこの日、赤橋守時が鎌倉幕府の執権に就任した。金沢貞顕についで執権となったが、実権は得宗の北条高時の手にあった。1333年、新田義貞と戦うが、洲崎で防戦苦闘のすえ自害する。享年39歳。子の益時も父とともに戦死している。
1203年に北条時政が執権となって以降、代々北条氏が世襲し、時政、義時、泰時、経時、時頼、長時、政村、時宗、貞時、師時、宗宣、熙時、基時、高時、貞顕、守時と16代130年間執権政治が続いた。
かつて役所や銀行などで書類の記載例として、太郎という名前が使われることが多かった。英国人のジョン、ロシアのイワンなどに相当する、民族を代表する名前とされることもある。NHK朝ドラ「梅ちゃん先生」の赤ちゃんの名前が「太郎」、それはNHKの婉曲的なDQNネーム批判かもしれない。長男が太郎で次男は次郎、三男は三郎か。森林太郎、高村光太郎、司馬遼太郎、石原慎太郎、安倍晋太郎と「○太郎」は多いが、シンプルな「太郎」は今は意外と少ない。一番有名な太郎は「浦島太郎」だろうか。ものぐさ太郎とか金太郎とか桃太郎とか。ドカベンの山田太郎とか新聞少年の山田太郎(歌手)。政治家では桂太郎、麻生太郎、中山太郎。芸術家では岡本太郎、八島太郎。歌手では東海林太郎。俳優では志垣太郎、船場太郎、川野太郎、石田太郎、駿河太郎。キャバレー経営の福富太郎。バイオリンの葉加瀬太郎。医師会会長の武見太郎。朝潮太郎。シャーナリストの木村太郎、所太郎。参議院議員の山本太郎。吉永小百合の夫、岡田太郎は存在感がない。こうして太郎を並べみたが、麻生太郎がいちばんファッションで存在感を示している。
超党派議連 「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の169人の議員が23日午前、靖国神社を参拝した。「赤信号みんなで渡れば怖くない」という標語を連想する。昨年の衆議院選挙の大勝で保守勢力が元気になったということであろう。靖国本殿に祭られているのは、戊辰戦争以降の政府軍の戦没者たちである。怨親平等の思想はなく、朝敵や賊軍は祀られていない。ただし境内の隅に鎮霊社という小さくて粗末な祠がある。ここにはペリー来航以来の、本殿に祀られていない日本人戦没者、民間人や、戊辰戦争の旧幕府軍や西南戦争で死んだ西郷隆盛方の戦没者たちが祭られている。また世界中の戦没者が祀られている。つまり井伊直弼、長野主膳、小栗忠順、近藤勇、土方歳三なども祀られている。靖国神社に行くときは鎮霊社も忘れずに参拝したい。
麻生太郎副総理のギャングハットを目深にかぶったファッションが海外でも注目されている。イタリアの高級帽子ブランド「ボルサリーノ」。米紙ウォールストリート・ジャーナルは「マフィアのボス会議に行くの?」と見出しをつけて大きく扱っている。ファッション批評家は「祖父の影響でキチンとしたものを着たいというのは伝わりますが、時代に合っていない。相手は気負ってきたなと苦笑でしょう」と冷たい。しかし日本の政治家がファッションでこれほど大きく取り扱われたことはなく、時代遅れと笑うが、ギャングスタイルの流行は40年周期で起きている。
1920年にアメリカでは禁酒法が発令されたが、ギャング(無法者)たちはこれをやぶって密造酒を販売し、アル・カポネ(1899-1947)がシカゴで巨大な犯罪組織(シンジケート)を組織して、犯罪の近代化?を行った。映画も格好の素材となり、ワーナー・ブラザーズがギャグ映画を量産する。30年代から40年代、エドワード・G・ロビンソン、ジェームズ・ギャグニー、ジョージ・ラフト、ハンフリー・ボガードたちがスターとなった。しかし犯罪者をヒーローとして描くハリウッドのやり方に批判もあり、戦後は衰退した。40年後の1972年、マーロン・ブランドーの「ゴッドファーザー」が大ヒットし、PartⅠⅡⅢと続編がつくられ、アル・パチーノやロバート・デ・ニーロが現れた。近年、ショーン・ペンの「ギャングスター・スクワッド」、ジョニー・デップの「ブラック・マス」。そしてロバート・デ・ニーロとアル・パチーノ共演のギャング映画など第三次ギャング映画ブームだ。
この週は春ドラマがスタートした。4月15日から21日までのドラマ視聴率ランキングは次の通り。
1位 ガリレオ 22.6
2位 ダブルス 15.8
3位 遺留捜査 14.6
4位 ラストシンデレラ 14.4
5位 八重の桜 13.8
6位 空飛ぶ広報室 13.5
7位 35歳の高校生 12.9
8位 TAKE FIVE 12.3
9位 家族ゲーム 12.0
10位 確証~警視庁 10.9
携帯やスマホでもテレビ視聴が可能になり、外で働いている人は、ドラマ番組は録画して、時間ができたときにそれを再生して視るというスタイルが定着している。ところが現在の視聴率は自宅の据え置き型テレビで、番組を放送とリアルタイムで視聴した世帯の測定たげで、録画再生は視聴率に反映されない。つまり現在公表されている視聴率は正確な数値ではなく、実態とかけはなれたものとなっている、という指摘がでている。たしかに「八重の桜」などは夜8時の地上波に先行してBSで夜6時に放送されるし、土曜日に再放送される。いずれかを録画してじっくりと視る人もいるだろう。公表されている視聴率よりも実際はもっと高いものと観るべきだろう。朝ドラ「あまちゃん」の視聴率が右肩上がりで好調である。
1928年のこの日、大倉喜八郎の忌日。「政商」という言葉があるが、明治時代、金のあるところといえば政府であり、その政府は民業を発達させるために積極的な助成をおこなっていた。したがって旺盛な企業精神をもつ者が事業の発展をねらって政府に近づくのは当然ともいえた。大倉喜八郎(1837-1928)は政府の御用商人として一代で財閥を築き、渋沢栄一(1840-1931)と並ぶ明治・大正の実業家である。号は鶴彦。
越後(新潟県)新発田に生まれ、18歳で江戸に出た喜八郎は、鰹節店の商売見習から身をおこし、21歳で独立、乾物店、銃砲店、貿易店など開業。戊辰戦争、台湾征討、西南戦争、日清・日露戦争で軍需品の調達・輸送に当たり巨利を得た。また明治20年はじめころ、東京電燈会社設立、札幌麦酒醸造所の払い下げ、帝国ホテルの設立などを事業を拡大していった。明治35年、日本人として最初の対華借款を結び、これを契機に朝鮮・中国・満州に軍事力を背景とする貿易・現地事業を行なった。土木事業としては、鹿鳴館の建設をはじめ、日本土木会社、大倉土木などを経て、さらに大成建設(株)へと展開する。教育にも関心を示し、明治31年大倉商業学校(大正7年、大倉高商、現在の東京経済大学)を設立している。現在、神戸市中央区楠町にある大倉山と呼ばれる公園と文化施設(神戸中央図書館、文化ホール)のある一帯は、もともと大倉喜八郎の別荘跡地である。
芸人は、たとえ親の死に目に会えなくても舞台に穴を空けてはいけない、とはよく言われる慣用句。ところが21日、俳優の田島優成が新国立劇場での舞台に現れず、公演が中止となった。本人は夜公演と思い込み、自宅マンションで寝ていたという。むかし文学座の高橋幸治はNHK大河ドラマ「太閤記」の織田信長役で一躍人気者となったが、過労のため入院して、文学座に連絡することが遅れ、出演予定だった舞台公演に穴を空けてしまった。高橋は文学座を除籍された。
「おはこ(御箱)」とは江戸時代、高価な書画や茶器などを箱に入れて大切に保存し、真作であることを示す箱書きを添えた。ここから、本物の芸であると認定されたという意味で、おはこという。十八番と書いて「おはこ」と読ませた初出は、柳亭種彦の「正本製」(1815-1831)から。また1832年七代目市川団十郎(1791-1859)が得意にした荒事の演目18種を選んで歌舞伎十八番といったことから、得意とする芸という意味で広まった。
最初に口ずんさだ歌謡曲って覚えていますか?なんとなく耳に残る郷愁をさそう物悲しいメロディー。「チイタカタツタ、チイタカタッタ、笛の音が♪」という守屋浩の歌(1959)。先日、NHK歌謡コンサートで森山愛子が歌っていた。題名も知らなかった。「夜空の笛」という曲で、「僕は泣いちっち」のB面。「父親が死んで没落した良家の娘さんが、ダンスホールでダンサーとして働きに出て、小さな弟を養っている、というイメージ」で作ったと浜口庫之助は語る。歌詞から想像すると姉さんは死んで星になったらしい。とても悲しい曲だった。
ところで「チイタカタッタ」という変な笛の音は浜口庫之助の創作だろうか。おそらくこの曲より前からあったと思う。「ジンジン仁丹、チータカタッタター」という古いコマーシャルがある。「レナウン娘がわんさか わんさか」より前に「レナウン娘がチータカタッタ、チータカタッタ」というのがあった。阪田寛夫作詞「マーチング・マーチ」は「♪マーチったらチータカター行進だ。右足君、左足君、代わりばんこ、代わりばんこ、良い音鳴らしてチータカタッタッター」(1965)天地総子が歌って日本レコード大賞童謡賞を受賞している。
1959年のこの日、ハワイが合衆国に50番目の州として加盟した。ハワイ諸島は太平洋の真中にあって、海山・火山島が鎖状につながってカムチャツカの沖合・アリューシャン海溝まで続いている。ハワイ諸島には、ニイハウ島、カウアイ島、オアフ島、モロカイ島、ラナイ島、カホオラウエ島、マウイ島、そしてハワイ島がある。なかでもハワイ島は最大で、地質学的にもっとも新しく、若く活発な山、キラウエア火山がその島の南東部、海に近いところにある。1912年に地質学者トーマス・A・ジャガーによってキラウエア火山観測所が設立された。キラウエア山はハワイ諸島の最大の活火山で、傾斜が平均6~7度のゆるやかなアスピーテで、ハワイ国立公園になっている。1823年から1924年までは、ほぼ常時噴火を続けていたが、1967年から1968年にかけて溶岩流が生じる噴火があったが、以降は激烈な爆発はほとんど起こっていない。
ハワイにはカハ・ワリという酋長の物語が、すべての島々の過去、および現在の火山活動を説明している。カハ・ワリは、そり滑りの好きな酋長であった。ある容易には近づきがたいマウナロア山やマウナケア山以外に雪がなくなると、ハワイ人たちには、枯れ草でおおわれた急斜面でそり滑りを楽しむ。ある日、カハ・ワリがキラウエアの山で滑っていると、1人の醜い老婆が現われ、そりを貸してほしいと彼に頼んだ。愚かにもカハ・ワリはそれを断ってしまった。その老婆が何者かを知っていればよかったのだが、その老婆こそ火山の女神ペレだったのだ。ペレはしわくちゃ婆さんの姿でときどき人間界に現われ、助けを求めたり、ものを貸してくれと頼むのだ。また、ときどき若くて美しい女に化けて、男に床をともにするように求め、拒まれると怒りだすのである。カハ・ワリが要求をはねのけると、ペレの目は赤々と燃える石炭と化し、髪は炎と化した。ペレが土を踏みならすと、大地は割れ、溶岩が噴き出した。ハワイには火の女神ペレにまつわる多くの話が、記載文学や口承文学のなかにあり、興味ふかく語りつがれている。(Kilauea)
大川橋蔵の「赤い影法師」(1961)を観る。近衛十四郎、大友柳太朗、大川恵子はじめオールスター・キャストである。この頃の東映時代劇なら、どんな端役でも大概の名前がいえるが、歌舞伎役者だけはわからないことがある。この映画で徳川家光を演じた役者が見覚えあるが名前が出てこない。調べると沢村訥升(28歳)といい、九代目沢村宗十郎である。1960年に東映に入社、「新諸国物語 黄金孔雀城」(1961)で初主演するも「笛吹童子」や「紅孔雀」ほどヒットにはならなかった。3年ほどして歌舞伎界に復帰した。弟の沢村精四郎(二代目沢村藤十郎)はNETテレビ版の「紅孔雀」で主演し、ちびっ子たちにの間には人気が高かった。
中学校の副読本の美術史の薄い本をいまでも大切にもっている。原始美術から現代美術の流れをコンパクトに紹介した図録は何年経ても色あせない。だが最近の人気のフェルメールがない。あるクイズ番組で「ゆがんだ真珠という意味の16世紀のヨーロッパに広まった音楽や芸術の形式を何というか?」という問題。答えは「バロックBaroque」。バロックの特徴は、激しい動勢を好み、燃え立つ情念を表現し、躍動する生命力を生み出す、とある。たしかにルーベンスの絵には躍動感があふれているが、フェルメールには当てはまらない。バロックの画家ながら非バロックの部分が人気の秘密かもしれない。
美術館は最近はほとんど行かないし、絵葉書や図録を買うこともない。美術史研究には膨大な作品名や画家、事項などの知識がいる。このブログでも雑駁な知識を集積するが、意外とわからないことが多い。レオナルド・ダ・ヴィンチの実母の名前がカテリーナとあるが、これは名だけであり、フルネームがわからない。また若くして死んだ育ての母アルビエラ・アマドリアのこともほとんど知られていない。
現代美術の運動のひとつで、「ノイエ・ザッハリッヒカイト」というのもあまり耳慣れない用語であろう。1920年から1933年にかけてドイツで起こった。ゲオルゲ・グロス、オットー・ディクス、ルドルフ・シュリヒターらの画家たちがいる。新即物主義ともいう。
原始美術から大雑把に西洋美術の様式や形式や美術運動から分類する。エーゲ美術、ギリシア美術、エトルリア美術、ローマ美術、初期キリスト教美術、ビザンツ美術、ロマネスク美術、ゴシック美術、ルネサンス美術、マニエリスム、バロック、ロココ、古典主義、ロマン主義、自然主義、写実主義、ラファエル前派、印象主義、新印象主義、ポスト印象主義、象徴主義、フォーヴィスム、表現主義、キュビスム、未来派、バウハウス、構成主義、素朴派、ダダ、シュルレアリスム、メタフィジカル絵画、抽象絵画、抽象表現主義、コンクリート・アブストラクション、ネオ・ダダ、ポップ・アート、ヌーヴォー・レアリスム、ウィーン幻想派、具象絵画など。(Neue Sachlichkeit)
少子化のため経営に悩む大学にとって出身著名人はその顔でもある。大麻事件にゆれる林真理子は日本大学の広告塔であろう。女子やり投げで金メダルを獲得した北口榛花も日本大学。立教大学は長嶋茂雄、慶應大学は加山雄三、早稲田大学は村上春樹、海部俊樹。小説「青が散る」は草創期の追手門学院大学(1967年ころ)を舞台にしており、宮本輝はそこの卒業生。平野啓一郎は京都大学法学部在学中の1999年に芥川賞を受賞した。綿矢りさは早稲田大学在学中の2004年に芥川賞を受賞。安倍晋三は成蹊大学。高倉健、阿久悠は明治大学。秋元康は中央大学中退。阿部慎之助、澤村拓一も中央大学。川島なお美は青山学院大学。薬師丸ひろ子は玉川大学。小林綾子は立命館大学。辛島美登里は奈良女子大学。桜井よし子はハワイ大学。稲森いずみはテキサス大学。
1928年のこの日、世界最大の英語辞典「オックスフォード英語辞典(OED)」が完成した。最初は12巻だったが現在は20巻。OEDの編者ジェームズ・マレーは、1日33語を作業の目標としていた。英語の習得には弛まぬ努力がいる。ボストン爆弾テロは爆破物に何と圧力鍋を使用していた。ところで圧力鍋は英語でなんというのか。(James Marray)
プレッシャー・クッカーpressure ccoker。
false tooth 入れ歯
sea urchin うに
divorce 離婚
failure 失敗
authorization 認可
recognition 承認
be late 遅刻する
get up late 寝過ごす
suicide 自殺
robbery 強盗
orphan 孤児
do not mix まぜるな危険
exposure 露出
obscenity 猥褻
江西省盧山五老峰のふもとに建てられた書院。もと唐の詩人・李渤(773-831)の書斎であったが、940年に書院に改変。その後荒廃するに任されていたのを、この地に地方官として赴任して来た南宋の朱熹が1179年に再建し、海内書院第一とうたわれた。朱熹がこの書院のために定めた白鹿洞書院掲示は、朱子学の教育理念の精髄として、わが国にも大きな影響を与えた。本文はわずか175字で、これに260字の跋文が添えられたものである。
「父子に親(しん)あり。君臣に義あり。夫婦に別あり。長幼に序あり。朋友に信あり」ここから親・義・別・序・信を5教の徳目という。これを学ぶには、5つの序がある。学び、問い、思い、弁じ、行う。5つの序を踏むことによって、5教の徳を修養することができる。
参考文献:柴田篤「白鹿洞書院掲示と李退渓」九州大学 哲学年報61 2002年
紙の図書が電子化されるなか、県立クラスの保存センターの役割がある大図書館でも膨大な量の蔵書の廃棄が行われている。図書館の蔵書廃棄に関しては、意図的に特定の図書を廃棄した場合に問題視される意外、日常的なことなのでほとんど市民の関心をよばない。しかし実際はかなり貴重な文化的資料がデジタル化もされずに拙速な廃棄で消えつつある。図書館内部のダークな部分なのでその実態は把握しにくい。岡山県立図書館のある協議会委員の質問をみてみよう。
質問 中期サービス目標に、館内図書の永年保存ということであるが、このまま新刊図書の70%を買い続けた場合、いつまで保存できるのか。収集保存の方針と基準を突き合わせてみて、常に見定めていく必要がある。では新刊図書は5~6年で利用は激減するものが多い。業務システムを利用し、ある年数経過したもので、まったく利用のないものは廃棄することも検討してみてはどうか。そうしないと、すぐに容量をオーバーすると思う。
事務局 資料保存センターとしての役割は、県立図書館1館のことではなく、市町村立図書館の保存センターでもある。そのため、市町村立図書館で利用頻度が低くなって除籍する図書も、保存する必要がある図書は、県立で引き受けて保存していく必要がある。永年保存するものは、本館利用の図書のみで、支援用図書は7年で除籍をしている。書庫は、開館後20年分の本を収蔵できる容量があり、更にもう20年分収蔵するための拡張ができるように設計されている。選定基準は、他県のものを参考にしつつ、今後も見直しを進めたい。(平成20年2月8日、岡山県立図書館協議会議事録より抜粋)
このケースは図書館協議会委員より、図書の適正な保存のあり方を質問されたが、県立は本館のみではなく、県下の市町村立図書館からの保存必要性のある資料の移管して保存している役割も述べている。書庫のキャパシティーに関しては委員はかなり早い段階で心配されているようにみえるが、集密書庫などを拡張し計画的に保存すれば当面は過剰な廃棄は避けられるように思う。
ある市立図書館では蔵書計画の甘さから開館後10年もしないうちに書庫が過密化し、創設開館時のコアと言うべき蔵書、昭和初期の国文学関係の図書をすべて廃棄している。県下のどこの図書館にも所蔵されていない学術的に高いものであったので惜しまれる。
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まゆはきを俤にして紅粉の花
芭蕉は、旅の楽しみを笈の小文において、「山野海浜の美景に造花の功を見、あるいは無依の道者の跡をしたひ、風情の人の実をうかがふ。(中略)時々気を転じ、日々に情をあたらむ。もしわづかに風雅ある人に出合たる、悦かぎりなし」と述べている。つまり、①神の造り出した美しい景色を見ること、②一切の執着を捨てた仏道修行者の旧跡を尋ねること、③歌人の感動を追体験すること、④片田舎で俳諧に志ある人に出会うこと。の4つの楽しみである。
たとえば芭蕉の代表的紀行文「おくのほそ道」の尾花沢で紅花大尽、鈴木八右衛門(1651-1721)のことが記されている。八右衛門は、清風として俳諧を親しんだ。芭蕉と曽良は旅の途中、尾花沢の清風のもとに10日間も滞在し、句会を開いたり、山寺に遊んだりしている。元禄2年(1689年)旧暦5月27日(現在の7月13日)のことである。
句の大意。尾花沢の名産である紅の花を見ていると、女性が化粧につかう眉掃きを想像させるあでやかさを感じる。
八右衛門には次のような逸話がある。あるとき江戸の商人たちが不買同盟をし、紅花の荷が宙に浮いてしまった。そのとき彼は、それではと品川の浜でその荷を焼いてしまった。(実は紅殻を古綿荷だった)それが知れ渡るとたちまち紅花の値はハネあがり、それをまって本物の紅花を売って大金を手に入れた彼は、かの吉原の大門を閉めきって豪遊した噂は江戸の巷に流れ、みんな紅花商人の気風のよさに舌をまいた。
1943年のこの日、連合艦隊司令長官・山本五十六はブーゲンビルのブイン基地への視察中、アメリカ機によりソロモン諸島上空で撃墜死する。59歳。公式では即死とされるが、山本は当初生存していた可能性が高く、死亡日時は翌日19日午前6時とする説もある。
連続クイズ・ホールドオン。「モネはある教会を題材におよそ30点もの絵を描きましたが、フランス西部にあるゴシック様式のその教会とは?」モネが1892年から94年にかけて、光の移り変わる様を実験的に描いた教会。回答者は「ノートルダム大聖堂」と答える。「ルーアン大聖堂ではないのか」と一瞬思ったが正解だった。正式にはCathedrale Notre Dame de Rouensといい、「ルーアンのノートルダム大聖堂」のこと。つまり「私達の貴婦人」(ノートルダム)を冠した教会堂は、パリをはじめ、シャルトル、アミアン、ランス、ストラスブール、そしてルーアンと各地にある。ルーアンはパリから北西へ約100キロほど離れた位置にあり、教会は11世紀から16世紀にかけて建造された。
日本書記によると676年のこの日、稚半年間、稚魚の保護と五畜(ウシ、ウマ、イヌ、ニホンザル、ニワトリ)の肉食が禁じられた。仏教の影響もあり、だいたい明治時代まで続いた。
大乗仏教の「大般涅槃経」では「一切衆生悉有仏性」とあり、全ての生きとし生けるものは仏になる素質を持っている。したがって、仏教の影響により、肉食禁止の方向に発展する。ただし、かなり緩やかなもので鳥獣の殺生すべでダメというわけではなく、鯨は魚の一種とみられていたし、豚や猪は食用とされていた。
先日、原節子の「女医の診察室」(1950)を観ていると、看護婦役で石井ふく子が出演している。「ありがとう」「渡る世間は鬼ばかり」のプロデューサー石井ふく子は1947年新東宝の女優として入社している。出演作は少なく端役ばかりで、身体をこわして辞め、1957年TBSに入社し、「日曜劇場」のプロデュサーとして成功の道を歩む。義父・伊志井寛(1901-1972)の後ろ盾もあったであろう。伊志井は新派の花形役者として知られたが、やはり若い頃は松竹蒲田、帝国キネマ、東邦映画と映画界に籍を置いていたことがある。
1397年のこの日、足利義満の北山別荘の上棟式が行われた。通称は金閣寺と呼ばれるが、正式名称は鹿苑寺。芥川賞作家の綿矢りさは数年前から京都に住んでいる。お奨めスポットはどこか、と訊かれたら「金閣寺です」という答えだった。「愛読書は?」と訊くと、「風と共に去りぬと太宰治です」と。あくまで自然流の女性である。(4月16日)
アウンサン・スーチーが来日している。いたるところで大歓迎を受けるものの、スーチーは神格化された民主化運動家から大統領候補への道を歩んでいる。国際人権団体は、最近の彼女を評して「少数民族の人権保護について消極的である」と報告している。軍が北部カチン族を弾圧し、スーチーも軍事政権と協調している。また軍事政権の政商であるNLDから資金を受けていることも明るみに出て、現実的な政治家として変貌しつつある。ミャンマーといっても日本人には中々ピンとこない。やはり「ビルマ」だ。三國連太郎が亡くなられたが、「ビルマの竪琴」(1956)で井上隊長で出演していた。(Myanmar,Burma,Kachin,Aung San SuuKyi)
ヒント①19世紀、英語で書いた最大の女流詩人」(エイキン)と評価される。②南北戦争を舞台に、若い兵士フレミングが、戦友の死を契機として、次第に現実を直視する勇気をもつようになる③夢と現実の狭間で苦しむアメリカ青年の悲劇を描く④第二次世界大戦中の反米活動のかどで長く精神病院に軟禁されていたが、詩人たちの運動で釈放されてからはイタリアに住んだ⑤「サンクチュアリ」は現代の悪の根源をえぐり、人間の偽善性と正義の無力さを描く⑥アメリカ黒人の生んだブルースを芸術にまで高めた詩人⑦「欲望という名の電車」のブランチは、少女時代に恋愛結婚に破れてからは、現実逃避の夢の中に生きる孤独な女である。粗野な義弟スタンレーにより真実をあばかれ、ついに発狂して精神病院に送り込まれる。⑧アメリカ黒人作家として初のノーベル文学賞を受賞「青い眼が欲しい」「ソロモンの歌」「ビラヴド」答え①エミリ・ディキンスン②スティーヴン・クレイン③セオドア・ドライサー④エズラ・パウンド⑤ウィリアム・フォークナー⑥ラングストン・ヒューズ⑦テネシー・ウィリアムズ⑧トニー・モリスン
トルコの国民の99%はイスラム教徒である。19世紀、オスマン帝国は陸軍の制帽として赤い円筒状の帽子、フェスと呼ばれるトルコ帽をターバンに代わる近代的なスタイルとして採用した。さらに政府の役人にも着用が命じられて一般化した。しかし今ではフェスをかぶる男性をほとんど見ることはない。1925年、ケマル・パシャによって禁止された。現在でも公務員がフェスをかぶることは法律で禁じられている。画像は若い頃のケマル・パシャ。25歳くらい(1906年ころ)。20世紀初め中東はオスマン帝国が支配していたが、第一次世界大戦後、サイクス・ピコ協定によってパレスティナはイギリス・フランスに分割され委任統治領となった。(Kemal Ataturk,Fez,Fes)
探求書のためなら手段を選ばず手に入れようとする人間の話は最近よく映画やドラマに登場する。「ビブリア古書堂の事件手帖」もマニアには面白かったが、愛書家というのが文庫本や戦前の本の類で、近世の話はなかった。たとえば芭蕉の「奥の細道」などの発見レベルであればもっと興味がわくだろうに。そんなときロマン・ポランスキー監督の「ナインスゲート」(1999)を観た。禿鷹と呼ばれるコルソ(ジョニー・ブップ)が中世の悪魔書の調査の旅にパリからスペイン、ポルトガルへ出かける。スペインでは双子の古書店から挿絵の名がLCFだと指摘される。悪魔王ルシファーLucifer。外国映画の古書にまつわる話は推理を超えてキリスト教やオカルトへと展開する。日本人には少し分かりづらいストーリーだが、古書の奥深さには感心させられる。この差はどうして生まれたのか。江戸時代も識字率の高さでは日本は世界一であり、書物保有率も高かった。残念なことに、図書館設置と製本技術の遅れがヨーロッパとの大きな違いであろう。西欧では王侯貴族たちは競って古書を集め、堅牢な製本に務めた。19世紀のオランダの画家ゴッホは放浪の貧乏画家のように思うかもしれないが、その家系を調べるとライデン大学の卒業者や聖職者、王室御用達の図書製本師(ハーグのカルベンツス家)など文化的に従事していた人が数多くいる。フランス、スペイン、ポルトガル、オランダ、ドイツなどにはいまも16世紀以降の古書が各地に数多く眠っている。そういうことを思うと電子化される現在、紙の本がどんどん廃棄されていくことに怒りを覚えずにいられない。
1849年のこの日、コシュート・ラヨシュ(1802-1894)を主席とする臨時革命政府がオーストリアからハンガリーの独立を宣言するも、1867年オーストリア・ハンガリー二重帝国が成立。第一次世界大戦で敗れ二重帝国が崩壊、1918年王制を廃止、独立した。1920年、名目上の王制が復活。第二次世界大戦では枢軸国側につき、対ソ連戦に参加した。1944年12月ドイツ軍の撤退後、ソ連軍が占領、1946年2月「共和国」を宣言した。古くはフランツ・リストがそうだが、ハンガリー人は海外で活躍する傾向がある。バルトークやゴダーイら音楽家、ルカーチやマンハイムらの思想家。ジャーナリストのピューリッツァーもハンガリー人。御堅い人ばかりじゃない。池田満寿夫監督の「エーゲ海に捧ぐ」で日本でもお馴染みのチョチョリーナ。彼女は結婚でイタリア国籍を取得したが、実は本名シュターッレル・イロナというハンガリー・ブタペスト生まれ。ハンガリーではヨーロッパの国ではめずらしく姓が先で、名を後に呼ぶ。(Kossuth Lajos 4月14日)
一見するとへたそうだが、個性や味のある作品のこと。1980年代から生まれた言葉で、湯村輝彦はイラストを分類して、1位ヘタウマ、2位ヘタヘタ、3位ウマヘタ、4位ウマヘタとし、この順で優れているとした。選考委員をしていた漫画家・東海林さだおがある雑談の席で、「みんな、絵が上手くなっているね。それにつれてつまらなくなっているように思う。僕の好みで言うと、マンガマンガしている絵っていうのかせ好きなんだ。そういのがだんだん減ってきたね」という。代表的な作家としては、さくらももこ、西原理恵子、けらえいこ、しりあがり寿、いしいひさいち、蛭子能収など。商業的な成功をおさめないが、「猟奇王」シリーズの川崎ゆきお等、ヘタウマを個性とする作家は多い。
石川啄木ほど万人に愛された国民詩人は他にいない。「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる」「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」「かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山おもひでの川」「ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」
石川啄木、1912年の忌日。いまや啄木の名はドナルド・キーンによって海外でも知られるようになった。啄木には2人の遺児がいた。長女京子と二女房江は母堀合節子の祖父堀合忠操に引き取られ函館で成長した。京子は大正15年、須見正雄と結婚し、長女晴子と長男玲児をもうけたが、24歳で病死している。房江も同年19歳で病死している。
1598年のこの日、フランス国王アンリ4世がナントの勅令を発布した。この頃の日本は、豊臣秀吉の全盛期であるが、8月に秀吉が死去し、やがて天下は徳川家康のものとなる。世界をみわたすと統一君主が出現する時代趨勢である。中国に太祖ヌルハチ、インドにムガール帝国第3代アクバル大帝(画像)、イギリスにエリザベス女王。なかでもアクバルは1582年にイスラーム教にキリスト教・ゾロアスター教などを取り入れた新宗教ディーネ・イラーヒー(神聖宗教)を創始した。王は文盲であったが、文化に深い理解をもち帝国に繁栄をもたらした。ちなみに日本で刊行されたアクバルに関する図書は石田保昭「ムガル帝国とアクバル大帝」と植村清二「アジアの帝王」の2冊だけである。(Akubar)
村上春樹の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」発売にファン殺到。文芸書が1日で何十万部も売れるというのは驚異である。村上ファンが多いのと不況にあえぐ出版界がブームを待望しているのであろう。趣味と流行は表裏一体である。「趣味」という言葉がいつからよく使われるようになったのは明らかではない。主に3つの意味がある。①感興をさそう状態②好み③hobby。言海(1881-1891)には「趣味」という語が収録されていない。夏目漱石などの本にはさかんに「趣味」という言葉が現れるので1905年以降には一般的な言葉であったと思われる。hobbyという意味でも使われるが、「好み」で使われることが多い。「ハイカラ趣味」という言葉が生まれたのも1900年以降であろう。「ハイカラ」high collarとは高襟(たけの高い襟)のことで、毎日新聞の記者・石山半山が洋行帰りを皮肉って呼んだ言葉で流行語となった。同時に洒落た洋風生活も流行しだした。つまり「趣味」という言葉が普及したのは消費生活の中に取り込まれて広まったといえる。漱石の「虞美人草浴衣」などが三越呉服店で発売されたのも1907年ころである。明治末期において「趣味」という言葉は近代的で文化的な香がしたのであろう。易風社から「趣味」という文芸雑誌が刊行されたのも明治39年のことである。
近頃、女子柔道などでの体罰の是非が問題となっているが、スポーツにおける体罰だけでなく、むかしは授業において教師が威嚇的な態度をとって、ときには暴力をふるい、生徒にヤル気を起こさせるということが日常的に行われていた。わたしの高校時代の英語教師は軍隊経験者と称して、ビンタは毎日、リーダーの予習をしてこなかったり、緊張のあまり上手く読めなかったりすると、男女かまわず殴るという行為が当然のように行われていた。おかげで恐怖心から私の英語の学力は中学程度で止まってしまった。最近になって心理学の本で「ヤーキズ・ドッドソンの法則」というのがあることを知った。学習に及ぼす罰の効果は、学習場面の難易に応じた最適の罰の強度があり、これを超えた強さの罰は、かえって統合的な行動を乱す結果となる、という。つまり、学習は困難なほど罰の軽いほうが効果的であり、暴力的な行為は脳への刺激が強すぎて知的な発達の阻害要因となるのである。(Yeakes,R.M.and Dodson,J.D. 1908年)
「古池や蛙飛び込む水の音」芭蕉が蕉風俳諧を確立した句とされており、初出は1686年、貞享3年のことである。貞享という元号は5年まであり、2年後の1688年に元禄に変わる。有名な赤穂藩主浅野長矩が吉良義央に殿中で刃傷事件が起きたのは元禄14年のことであり、忠臣蔵に登場する人物は松尾芭蕉と同時代人である。だが芭蕉本人は元禄7年にあの世へ旅立つているので赤穂事件のことは何も知らない。大高源吾が俳諧の嗜みが深かったことが知られており、芭蕉の古池やの句はもちろん知っていたであろう。1686年に生きていた歴史上の主な人物は以下の通り。
松尾芭蕉 1644-1694
吉良義央 1641-1702
大石良雄 1654-1703
徳川綱吉 1646-1709
徳川光圀 1628-1722
井原西鶴 1642-1693
近松門左衛門 1653-1724
菱川師宣 1618-1694
河村瑞賢 1617-1699
康熙帝 1654-1722
ルイ14世 1638-17715
ジェームズ2世 1633-1701
ピョートル1世 1672-1725
ニュートン 1643-1727
ロバート・フック 1635-1703
バニヤン 1628-1688
17世紀のオランダの画家フェルメール(1632-1675)も芭蕉とほぼ同時代人であるが43歳で早世し、貞享3年にはこの世の人ではない。ニュートンが万有引力の法則を発表したのが「プリンキピア」(1687年刊行)なので、「古池や」の句の翌年にあたるのも面白い。
空港、トイレ、銀行ATMの窓口など複数ある所に並ぶ際、列を1つにし、あいた所に先頭の者が入る方式。1列になっていたものがフォークのように分岐していくことからの呼称で、順番待ち時間を公平にする目的で導入された。広辞苑にも収録されている言葉だが、英語で特別な表現はなく、waiting on the lineという。1970年代の英米が発祥で、日本には1980年代後半に導入された。
1842年のこの日、江川太郎左衛門が長崎オランダ屋敷の料理方だった人をよんで軍用携帯食糧として乾パンを作ったのがパンの始まり。これを記念して本日は「パンの記念日」。英語でパンのことはブレッドという。breadはパンの総称であるが、特に食パンを指して用いる。rollは小型の丸いパンを、bunは菓子パンあるいは味付けをしていないハンバーガー用のパンを指す。う~ん!ではパンは和製英語なのか。パンはフランス語painパンに近い。ところがオランダ語ではブロートbroodといい、英語ブレッドbreadの系統。ラテン語系はポルトガル語pao、スペイン語パンpan、イタリア語パーネpane。江戸時代から麺包という字があてられた。パンの語源はポルトガル語ではないかといわれている。
ポルトガル伝来の日本語
カステラ castella
カッパ capa
カルタ carta
カルメラ caramelo
コンペート confeito
サラサ saraca
ジュバン gibao 襦袢
シャボン sabao 石鹸
ジョウロ jairo
セセル xexeru つつく ほじる
タバコ tabaco
チャラメラ charamela 唐人笛
チョッキ jaque
天ぷら temporas
バッテラ bateira 発動機舟 舟形押し鮨
ビードロ vidro 硝子
ブランコ balanco 鞦韆
ボウブラ abobora ウリ科 ボウブラ
ボーロ bolo マルボーロ
ホガス hogaso 穿つ
ボタン botao 釦
ミーラ mirra ミイラ
メダイ mdal メダル
ラシャ raxa 厚地の毛織物
エドゥアール・マネは自分を革命的な画家とは考えず、過去の巨匠たちの足跡を踏襲しているだけだと思っていた。スキャンダラスとなった「草上の昼食」も古典的主題を現代化して表わそうとしただけである。絵は1863年のサロンに落選し、マネはショックを受け傷ついた。サロンは応募された5000点の半分以上が落選したので、落選した画家たちが騒ぎ立て特選者の特別展が開かれることになった。審査員が正しいのか、それとも画家たちの不平が正当なのか世間が判断する機会が与えられた。マネの絵もセザンヌやホイッスラーといった画家の作品と並んで掛けられた。落選者展はひじょうに多くの観衆を集めた。人々はもっぱら嘲笑するためにやってきたのだが、マネの作品はそれ以上に怒りを買ってしまった。現代風のスーツを着た男と裸の女性というシチュエーションが、当時のフランスでは不道徳な絵と見なされる。それまで裸体の女性を描く場合は、神話的世界の女神に限るとされていた。公的な評価を得たいというマネの気持ちに反して、心ならずも彼は、まもなく反逆的な芸術家の一派のリーダーと見なされるようになった。マネは美術史のうえで印象派の中心的存在とされるが、実際は印象派と一定の距離を置き、サロンでの評価に拘り続けていた。
香水のはじまりは古代エジプトで、シナモンのような芳香性樹脂などで軟膏状の化粧剤として皮膚に塗っていた。高価なもので、王や王妃、または高官が薬用や儀式として使用していた。
現在のような液状の香水は、1370年ころ、ハンガリー王カーロイ1世の王妃エルジェーベト(1305-1380)の命により作られたハンガリアン・ウォーターが最初とされる。ローズマリーとライムをアルコールに漬けて抽出していたが、後にラベンダー、ミント、セージ、マジョラム、モッコウ、レモンなども加えられるようになった。
その後、ローマの貴族フランキパニが香粉をつくり、その末孫が香粉のかおりをアルコールに移すことに成功した。すなわちフランキパニ香水がそれである。こうして香水はイギリスのエリザベス女王時代には広く男女に愛用されるようになった。(perfume,Hungary Water,Erzebet)
明石順三(1889-1965)は、明治22年7月、滋賀県坂田郡息長村字岩脇の、代々彦根藩の藩医をつとめた外科医の家に生まれた。右の肖像写真は65歳ころ(昭和29年、鹿沼にて)。明治40年、上京して島貫兵太夫が主宰する力行会に入る。明治41年2月、18歳の明石は渡米、労働しながら苦学する。「羅府新聞」「日米新聞」などの記者となったが、キリスト教にひかれる。大正13年、ロスアンゼルスの新聞社を辞し、ワッチタワーの講演伝道師となり、アメリカ各地を旅行して在米邦人の間にその信仰を普及することにつとめた。大正14年10月、明石が日本語訳した「神の立琴」がワッチタワー総本部から出版された。
ワッチタワーの教義が目指したのは、聖書の真理に対する直接的な信仰であった。そして、きわめて忠実な聖書の読解にもとづいて、創造主エホバを唯一の神とみなし、その子であるキリストが来るべき最後の審判のときに再臨して、サタンの支配する悪の組織制度に属するこの世、圧制や戦争・貧困、疾病などに悩むこの世を滅ぼし、地上に「神の国」を建設するであろうことを説いたもので、再臨の思想を信仰の中心においていた。ワッチタワーでは牧師はつくらず、そこで洗礼を受けたものは聖書に示されたエホバの目的を証しする人間という意味で、エホバの証人と呼ばれる。こうしてエホバの証人の一人となった明石順三は、大正15年9月、ワッチタワー総本部の正式派遣として、日本に支部をつくるために単身帰国することになった。
須磨浦聖書講堂によった明石は、物見櫓の意味をもつワッチタワーという協会名を、この世において灯台のごとく光を放つ仕事をなすという見地から灯台社と名づけることにした。昭和8年、灯台社は弾圧を受け、全国一斉に伝道者が検挙されたが、明石は満州に伝道中で難をまぬがれた。その後、灯台社から村本一生、明石真人などの軍隊内兵役拒否者をだしたことで、戦時下抵抗として知られている。昭和14年の第二次検挙で一家をはじめ、本部員・伝道者が一斉検挙され、昭和18年明石は反戦・国体変革・不敬罪によって懲役10年の判決を受け、宮城刑務所で服役した。非転向を貫いた明石は、戦後昭和20年10月政治犯の一斉釈放とともに釈放されたが、国家権力に対しては妥協的になっていたワッチタワー総本部を文書で批判し、以後伝道の実践からはなれ、執筆生活を送った。(参考:稲垣真美「兵役を拒否した日本人」)
シカゴの原名はネイティブアメリカン語「チェカゴ(chigagou)」で「玉葱のある所」という地名であった。ここが草地であった頃、野生の玉葱やニンニクが多く繁茂していたため生じた地名である。このチェカゴはやがてシカゴウとなり、白人によってそこを流れる川の名に転用された。19世紀になって、農産物の集散地として発展した。
ウラジオストク 東方を征服せよ
カイロ 勝利の都
カサブランカ 白い家
イスラエル 神と戦う者
ミルウォーキー 美しい土地
カリフォルニア 美女と黄金の島
2011年4月27日、巨大竜巻に襲われたアラバマ州の町タスカルーサは「黒い戦士」の意味である。
ニューヨークはアメリカの商業・金融・文化の中心であるばかりでなく、世界最大の国際貿易都市。そんなニューヨークのハドソン河口にある細長い島がマンハッタン。もとは樹木に覆われ、ネイティブ・アメリカンのアルゴンキン族の居住地だった。ところが、そんなマンハッタン島に大変化がうまれた。
1626年、オランダの植民地指揮官であったピーター・ミニュイット(1589-1638)は不動産投資を目的としてネイティブ・アメリカンよりマンハッタン島とステタン島を買い取った。ガラスのビーズと島とを交換したが、現在の値段にすると、なんと24ドル相当という。のちにこの取り引きは「史上最大のバーゲン」と呼ばれるようになった。(Peter Minuit,New York,Manhattan)
白虎隊の墓所がある会津若松の飯盛山の中腹にある栄螺堂(さざえどう)は、正式には円通三匝堂と呼ばれ、二重螺旋構造の参拝路を持つ仏堂として知られている。つまり参拝者は、一度も同じところを通らずに元の入口に出ることができる。これは仏教の礼拝では右繞三匝(うぎょうさんぞう)、右周りに3回めぐることで仏陀への礼拝が成立するという考えに基づいている。ヒトのDNAの二重螺旋構造を発見する2000年以上も前から古代インドの仏教徒は生命の根源を知っていたのである。
ところで「匝(そう)」という字はふだん見慣れない漢字だ。「匝線」(渦巻き状の曲線)、「匝旬」(10日間)という熟語くらいか。千葉県に匝瑳市(そうさし)があるが難読地名として知られている。
先日、江利チエミの「猛獣使いの少女」(1952)を観ていたら、岡譲二(1902-1970)がチエミの父親役で出演していた。日本人離れした風貌で、サイレント時代、江川宇礼雄、竹内良一、岡田時彦らと並ぶ二枚目。岡だけは色白の二枚目ではなく、精悍で男性的なキャラクターでギャングから時代劇まで何でも似合った。3度も軍隊へ応召し、「猛獣使いの少女」のころは往年の美貌はなく、太った体で中風で指が使えないバイオリン弾きを演じている。戦前の代表作をあげる。「また逢ふ日まで」「歓喜の一夜」「上陸第一歩」「非常線の女」「多情仏心」「婦系図」「日像月像」「緑の地平線」など。戦後は大映、新東宝、東映と脇役で渡り歩き、「五泊六日」(1966)を最後に引退している。引退後は画廊の支配人をつとめていたが、1970年12月17日、東京の病院で心臓病で死去。ひっそりと亡くなったため死亡記事もなかった。
夏目漱石はロンドン留学中にケニントン劇場で1901年2月26日芝居を見ている。ウィルソン・バレット(1846-1904)作「十字架の徴」である。1895年に初演され好評だったらしい。内容はローマ帝国におけるキリスト教迫害を背景に、ローマの貴族とキリスト教徒の女性との恋愛メロドラマである。このような芝居は一般にトーガ劇(toga play)と呼ばれている。トーガとは、ローマ帝国で市民が用いた外衣で、14歳以上の男性は長円形の布を体に巻きつけ、余りは左肩から背中にたらした、この装束にちなむ呼称である。漱石はメロドラマに感動したらしく、のちにシェンキェーヴィッチの「クォ・ヴァディス」(1896)も英訳本で読んでいる。ヴィクトリア朝時代のイギリスではトーガ劇は善玉と悪玉が出て、スペクタクルや暴力で観客を惹きつけたようでメロドラマとスペクタクルの要素があった。シェンキェーヴィッチの作品がでたときも、有名無名をふくめ100点以上もの類似本があり、剽窃問題で騒がしい論戦が巻き起こったという。漱石が見た「十字架の徴」は今日うかがい知ることは困難であるが、活動写真の時代になって「ベン・ハー」「聖衣」などのスペクタクル史劇にそのトーガ劇の伝統をうかがうことができる。(Wilson Barrct,Kennington Thcatre,The Sign of the Cross)参考:久泉伸世「漱石が見たトーガ劇」専修大学北海道短期大学紀要・人文社会科学編37,2004・12
聖苦(せいく)という言葉は国語辞典には所載されないが、通常は「聖人の苦労」という意味で使用される。また造語、流行語としては、「分娩時に定期的に反復する子宮の収縮をいう。陣痛。いきみ。昭和初期、女流作家によって使われたが、いまでは死語になっている」
日本企業が海外に進出しようとした10年ほど前から、隠語として「マルドメ」が流行した。「まるでドメスティック」つまり純国内派の人のことを指し、国内企業しか働けない、という意味。英語が弱いてコミュケーションがとれない、というこんな笑い話も伝わる。
How often do you have election?(日本で選挙はどのくらい頻繁にあるの?)
と聞かれたところ、大蔵省のマルドメ局長は「毎朝です」と答えたという。electionを「選挙」ではなく、「勃起」と解したのだろう。「勃起」のスペルは「erection」だが発音の違いを聞き分けるのは英語初心者には難しいかも。
いまでは死語になりつつある「マルドメ」だが、日本でしか働けない、というネガティブなニュアンスを含み、ライバルを嘲笑し、揶揄するときに使われる言葉で、企業内人事の陰湿さを物語る。
1983年4月10日、巨人・大洋戦が後楽園で行われた。初回一死満塁でプロ初打席を迎えた駒田徳広が、4球目のカーブを右翼席に運んだ。のちに「満塁男」と呼ばれた駒田の鮮烈なデビューだった。2000年に引退するまで、通算195本塁打を放つが、満塁本塁打数は王貞治の15本、藤井康雄と中村紀洋の14本に次ぐ歴代4位タイの13本を記録している。これは実に本塁打15本に対して満塁本塁打1本という高い確率である。また、1994年から1999年まで6年連続で満塁本塁打を放っており、イチローと並び日本記録である。本塁打のイメージの強い駒田だが、横浜移籍後は中距離打者として活躍し、単打が多くなり、通算2006安打を達成し名球界入りしている。
「クレジットカードのゴールドカードを持つ富裕層」のことではない。昭和戦前期は「救済を必要とする貧困階層」のこと。社会政策学上からは被救恤的窮民層のことである。資本制社会の成立は、貧困者を大量につくりだしてくる。イギリスなどでは、救貧法および私的社会事業によってこれら貧困者に対して対策を行うのであるが、ドイツや日本などの資本主義の後進国においては、それらによっては増大する貧困者に対して対応することができず、地方自治体による救貧法を補充する施策を必要とし、ドイツではエルバーフェルト制度(1852年)などがつくられた。日本では米騒動以降、各府県ごとに方面委員制度がつくられるようになった。この方面委員の調査カードに貧困者を登録して救貧対策を行ったところから、救済を必要とするような貧困者を「カード階級」と呼ぶようになった。戦後は生活保護法によって被保護世帯と称している。(the Elberfeld Poor Law System)
鶴彬(つるあきら)の反戦川柳。
失業の眼にスカップの募集札
スカップが増えた工場のすすけむり
スカップとは英語Scap であるが、これはストライキのときに統一戦線の足並みをみだして出勤して仕事をやるもののことである。昭和戦前期に流行したが、戦後はほとんど使われなくなり消えてしまった。
孔子は西洋で「コンフシウス」(英語でコンフィーシャス)と呼ばれている。これは「孔夫子」の音訳、夫子は先生への尊称から、ラテン語でConfuciusとされたのである。イタリアの宣教師マテオ・リッチ(1552-1610)は中国の文化をラテン語に翻訳して、西洋に伝えた。イタリア語での東洋人名を表記した場合を紹介する。
孔子 Confucio,Kongzi
老子 Lao Tze,Laozi
孟子 Mencio,Mengzi
釈迦 Budda
司馬遷 Ssu-ma Ch'ien,Si Maqian
杜甫 Tu Fu,Du Fu
李白 Li Po,Li Bai
孫逸仙 Sun Yat-sen,Sun Yixian
魯迅 Lu Hsun,Lu Xun
毛沢東 Mao Tse-tung,Mao Zedong
マホメット Maometto
ジンギスカン Gengis Khan
クビライ Cubilai,Kublai
ガンジー Gandhi
青い鳥を探す童話劇、メーテルリンクの「青い鳥」(1908)はタイトル作法にも影響を与えたと思える。ジッドの「狭き門」(1909)、マンの「魔の山」(1924)、モームの「月と六ペンス」(1919)「剃刀の刃」(1944)、ヘミングウェイ、スタインベックなどの小説も判じ物めいた象徴的なタイトルが多い。映画、演劇などにも意味不明のタイトルが多い。「ガラスの動物園」「欲望という名の電車」「熱いトタン屋根の猫」「ティファニーで朝食を」「お茶と同情」「イヴの総て」。日本の近代文学では「破戒」「蒲団」「暗夜行路」「カインの末裔」などのタイトルは象徴的作法といえる。たとえば有島の「カインの末裔」(1917)は北海道で働く小作人の話であるが原罪というテーマ小説であるためこのようなタイトルを採っている。西洋風であるといえる。司馬遼太郎の「坂の上の雲」は日本海海戦を大勝利にみちびいた知将秋山真之の物語だが、やはりタイトルから内容を正しく想像することはできない。タイトルの話では、フランソワーズ・サガンの「ブラームスはお好き」がとくに話題になる。「ちょっとお茶でもいかがですか」という感じのシャレた女性への誘いの言葉なのだが、フランス人にはブラームスやワーグナーはあまり好きでない女性が多いと聞く。
西宮市には「アンネのバラの教会」がある。アンネ・フランクを偲んでベルギーの園芸家によって作られたバラは「アンネ・フランクの形見」と名づけられ、1972年、オットー・フランクから、その苗木10本が日本に送られた。バラに託された平和への願いを忘れない。
アンネ・フランク(1927-1945)は1942年6月から約2年間、アムステルダムの隠れ家で生活した。アンネは1945年3月12日、ベルゲン・ベルゼン収容所で病死(チフス)したが、1947年「アンネの日記」が刊行され世界中で読まれるようになった。ただし、もとの日記にはアンネはセックスについて率直に書いてあるし、母親に辛辣な批判を加えてもいるが、こうした箇所はオットーによって削除された。現在では一切の加筆・変更を加えない「アンネ・フランクの日記」も公刊されている。
ところで日本でアンネの知名度を高めたものの一つにアンネ・タンポンがある。これはわが国で最初に使い捨てナプキンを普及させたアンネ社(坂井泰子社長)が開発した生理用品の名である。『アンネ課長』(渡紀彦著 1963)によれば、「少女アンネのイメージは清純であり、苦痛ではなく喜びであり、陰鬱ではなく明朗であり、美しいものでなければならない。生理用品メーカーとしてアンネなる名称は格好のネーミングである」と書いている。アンネ社は経営不振により1993年ライオンに吸収合併された。1970年代には「アンネの日」とか「アンネが来ない」などの隠語が使われた。(Anne Frank)
川端康成「伊豆の踊子」の最後の一節。
ずっと遠ざかってから踊子が白いものを振り始めた。汽船が下田の海を出て伊豆半島の南端がうしろに消えて行くまで、私は欄干にもたれて沖の大島を一心に眺めてゐた。踊子に別れたのは遠い昔であるような気持ちだった。
映画では薫が桟橋を走り、「さよなら」と別れを告げる感動の場面である。ところが、内藤洋子版(1967年作品)では、有名な別れの桟橋シーンがない。書生は宿でさよならと言い残して立ち去る。薫は、後ろを向いたまま「さよなら」と口にする。船は出航し、甲板に佇んで学生は涙を流す。薫は、いつものように、お座敷で太鼓を叩いている。その表情は固く、真剣に芸道に打ち込む薫のラストカットで映画は終わる。田中絹代から山口百恵まで6度の映画作品で薫と学生が別れの桟橋シーンがないのは内藤洋子版だけであるが、恩地日出夫監督の演出がよいという人もいる。
綿矢りさの新刊「ひらいて」の刊行記念サイン会が東京紀伊国屋書店新宿本店で行われて長蛇の列だった。綿矢は昨年「かわいそうだね?」で大江健三郎賞を最年少で受賞している。本が売れないというが一部の有名作家はよく売れる。ノーベル賞が噂される村上春樹「1Q84」が3巻あわせて400万部以上売れている。だが「街と、その不確かな壁」は失敗作らしく、単行本も文庫本も再刊されない。村上春樹に限らず、すべての作家に失敗作がある。夏目漱石の「坑夫」、高浜虚子「俳諧師」、坂口安吾「吹雪物語」、横光利一「旅愁」、司馬遼太郎「妖怪」、家永三郎「真城子」、辻仁成「ニュートンの林檎」、綿矢りさ「夢を与える」。米国作家メルヴィルは「ピエール」の失敗でほとんど本が売れなくなった。スタインベックの「爛々と燃ゆる」は不評だった。アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)は「椿姫」1作が有名であるが、40年間にわたり執筆した作品はすべて失敗作といわれ、いまや顧みられることはない。デュマ・フェスの著作群を並べると、「淪落の女の群」「金銭問題」「私生児」「道楽親父」「女性の友」「オーブレイ夫人の思想」「クロードの妻」「バグダッドの王妃」「ドニーズ」「フランション」である。
かつて北アメリカの草原地帯には控えめに見積もっても6000万頭くらいのバイソンがいた。初期はネイティブ・アメリカンが、食用や毛皮用に、石や長槍や弓などの原始的な武器だけでバイソン狩りをしていた。17世紀の終わりごろ、彼らは馬を慣らして、バイソンを追いまわすようになると、彼らが殺すバイソンの数も増えてきた。さらに西部開拓時代になると白人による猟銃を使った狩猟がさかんに行われるようになると、数千万頭の生息数は激減した。政府はネイティブアメリカン問題解決の方策はバイソンを殺して彼らの糧道を絶つことが最良と考えた。レジャーのためバイソン狩りの特別列車が仕立てられることもあった。鉄道の多くはバイソンの住む地方を走っていたので、旅客は車窓からバイソンを撃つという手軽なスポーツを楽しんだ。画像はカンサス・パシフィック鉄道の狩猟特別列車。この結果、バイソンは19世紀末には1000頭未満にまで減少した。1921年にはついに野生のバイソンは絶滅し、動物園で飼育されているのを残すのみとなった。しかし国際的な保護活動の結果、増殖に成功し、現在では野生復帰の試みもなされている。(Bison,Kansas Pacific Railway)
クリント・イーストウッドの新作「人生の特等席」。原題は「Trouble with the Curve」イーストウッドが演じるのはプロ野球の老スカウトなので、変化球のカーブと「思いがけない展開」の2つをかけている。意訳すると「変化球に対応できなくて」か。
オックスフォード英語辞典の編者ジェームズ・マレー(1837-1915)は、1日33語を作業の目標とした。英単語の習得には弛まぬ不断の努力がいる。
abdominal muscles 腹筋
obstacle 障害
blunt ぶっきらぼうな
a accident in the mountain 山岳遭難
victim 犠牲者、遭難者
bungy Jump バンジー・ジャンプ
artificial legs 義足
hearse 霊柩車
brick レンガ
scurb つまらない人
disappear 見えなくなる
defecate 排便する
nutrition 栄養
heredity 遺伝
cell 細胞
troops 蟻の群れ
ultraviolet rays 紫外線
brain 脳
maze 迷路
color blindness 色盲
nearsightedness 近視
farsightedness 遠視
presbyopia 老眼
beach 海水浴場
rogue state ならず者国家
pray silently 黙祷する
empty もぬけの殻
a cutting board まな板
starve 飢える
the pit of the stomach みぞおち
tap 蛇口
syphilis 梅毒
wax 月が満ちる
wane 月が欠ける
indirectly それとなく
charwoman 掃除婦
detox 解毒
serious illness 重病
euthanasia 安楽死
hot springs 温泉
hay fever 花粉症
carp streamers こいのぼり
cherry blossom viewing 花見
yawn あくび
jigsaw 糸鋸
withdraw display 展示を引っ込める
ovation 大喝采
drum ドラム缶
doggie bag ドギーバッグ(食べ物持ち帰り専用バッグ)
gimmick ギミック(仕掛け、小細工)
spong cake カステラ
excuse 言い訳
no particular order 順不同
curve 曲線
parabola 放物線
conspiratior 共謀者
ベテラン脇谷亮太が元気だ。2011年に怪我をし、育成選手になった。昨年11月に支配下選手に復帰し、見事開幕スタメンを勝ち取り、溌剌としたプレーをしている。藤村に奪われた正二塁手を奪い返した。
新外国人、ホセ・ロペスも期待以上の活躍ぶりだ。2010年にマリナーズを解雇され、2年間は低迷していた。昨年、2割以下の低打率だったジョン・ボウカーも昨年とは別人ように打ち続けている。3号でただ今ホームラン王。「ファンを裏切ったままでは帰れない」はもう巨人ファンを泣かせる名文句になっている。巨人開幕6連勝の快進撃はこれら苦渋をなめたリベンジ組の活躍に支えられている。ボウカーが気になるのは大好き女優さんジュディ・バウカーと姓が同じという理由。ボウカーとバウカーは同じBowkerなのだ。
ローマ人の造形的才能は建築、土木において最もよく発揮された。巨大な宮殿や公共施設、競技場はよく知られているが、個人住宅も発達した。ヴィラ(villa)は現在でも使用される言葉だが、もともとはローマの貴族たちの別荘の意味である。上流階級および中流階級の自由民が住んだ住宅をドムス(domus)といった。だがローマは都市化により、土地が高騰し、一戸建ての住宅は上流階級しか住めなくなった。そのため市内に住む中・下流階級たちはインスラ(insila)という多層型共同住宅、いわば今日のアパートような集合住宅に住んでいた。インスラは6階から7階建てがふつうで、40人以上が住んでおり、1階を店舗にして、中2階を設け、その上にアパートを載せていた。初期には木造であったが、前1世紀から、安全性と防災上の理由から法令によって制限され、皇帝アウグストゥスは倒壊の危険性があるとして、高さを20.7m(最終的には18m)以下と制限された。紀元200年代後半には5万棟のインスラがあったという。
フジテレビ系時代劇「女信長」佐藤賢一の小説をドラマ化。ファンタジーとみれば面白い。天海祐希は適役。ほか共演陣も豪華。玉山鉄二の浅井長政と信長のラブシーンあり。それをお市、長澤まさみが嫉妬。熱愛の噂がある伊勢谷友介も秀吉で出演しているし、話題が豊富。鈴木福くんの家康はご愛嬌だが、信長の幼少期を演じた荒川ちかはとても魅力的だった。
大河ドラマ「八重の桜」を見ていると、京都守護職を拝命した会津藩の旗印がしばしば登場する。1643年、保科正之が会津初代藩主となり、家紋は会津葵、旗印は「会」の旧字体「會」の漢字一字とした。ところでこの「會」の漢字をよくみると、「日」の上の部分が真ん中の縦棒が突き出た「由」の字に横棒「一」がついたようになっている。現代のわれわれからみると、漢字をデザイン処理したロゴと思われるであろうが、本当は漢字そのまんまなのである。つまり次のような漢字が本来の字形。
江戸時代の人は「會」の字はほとんどこのように書いていたとおもわれる。つまり毛筆による筆記体と活字「會」の違いであろう。いまでもこの字を会社の看板でみたり、書道展などでみかけたりする。最近は旗印が1000円程度で販売され、よく売れているという。
本日は「北極の日」。女優タラジ・P・ハンソンは1909年4月6日、ロバート・ピアリーと共に初めて北極点に到達した探検家マシュー・ハンソン(1866-1955)の孫である。タラジはブラッド・ピッド主演の映画「ベンジャミン・バトン数奇な人生」(2008)でアカデミー助演女優賞をノミネートされた。赤ん坊のベンジャミンを育てる母親タイニー役で知られる。マシュー・ヘンソンは黒人であることを理由に北極点到達の栄誉が承認されなかったが、2000年になって、ナショナルジォグラフィック協会が探検の成功を称えハバード賞を与えた。近年、マシュ・ヘンソンの絵本も出版されている。
( keyword;Matthew Henson,Taraji P. Henson )
挨拶と書いて「あいさつ」と読める人は多いが、なぜこのような漢字が用いられるようになったのか知る人は少ない。「挨」とは「打つ」とか「押す」の意味、「拶」は「近づく」「進む」という意味で、「挨拶」とは「押し進む」という意味になる。禅宗の僧が、お互いの間で問答を繰り返す熟語として用いていたが、そこから転じて、人が出会ったとき交わす受け答えという意味で「挨拶」が使われるようになった。日置昌一「ことば事典」には次のような説明がある。
葛長庚(宋の書画家)のなかに「むかし天子は登りて泰山に封ぜられる。そのとき士庶挨拶す。ひとり一県尉を召し、轎(やまかご)にて行かしめ、前に呼んでいはく、官人来ると、衆みな靡然となる」(鶴林問道篇)の一文を引用している。
日置昌一(1904-1960)は昭和の「ものしり博士」で小学校卒業後、上野の図書館に通いながら、独学で在野の学者となった人である。
ドイツを代表する映像作家ヴィム・ヴェンダースの「パリ、テキサス」(84)を観る。こんなに感動したのは久しぶりである。少し前に「まわり道」(75)をみたので、ヴェンダースのロードムービーはあらかじめわかっていた。もちろん「まわり道」にも出演していたナスターシャ・キンスキーがお目当てだった。登場が後半からなので待ち遠しかった。ヒューストンの風俗店。大きく背中がわれた赤いドレス。トラヴィスとの「のぞき部屋」での対面。ヌードシーンなど1つもなかったが、主人公の気持ちに自然と感情移入できた。それに母ジェーンを探す旅で息子ハンターと少しづつ心が打ち解け合うのもよかった。ロードムビーの最高傑作だろう。
もう30年前の作品。ハンター少年はどうしているのだろう。女優カレン・ブラックの実子で、本名もハンター・カーソンという。現在38歳で映画関係の仕事をしているらしい。「パリ、テキサス」から2年後の「スペース・インベーダー」では母カレン・ブラックと共演している。
近年はあまり見かけることは少なくなったが、人目につきやすい格好をして、太鼓・三味線・ラッパなどを鳴らしてながら、大道で広告・宣伝をする人を「チンドン屋」という。言葉は明治初期からあるらしく、「チンドン屋よろしく大道飴売」と新聞の見出し(郵便報知新聞1878.12.11)に見える。だがこれは自前の飴を売り歩くためのものであり、広告請負業の現在のチンドン屋のルーツとは言えない。明治20年に大阪で芝居の口上である「東西、東西」を用いて丹波屋久里丸が豆や栗の宣伝を行った東西屋がチンドン屋の始まりかもしれない。また明治18年に高坂金兵衛が「ひろめやという商売をはじめ一日に百人くらいのルンペンを集めて行列をつくり、先頭と後部に旗を立て、囃子をなかに入れ、ドンチャンドンチャンと、主として化粧品などの宣伝をしたのがはじまりである」とある。(日置昌一「ものしり事典」)全国各地にチンドン屋が出現するのは大正末期ごろ。戦後のサンドイッチマンはチンドン屋の分化である。
Susan seldom wears accessories.
スーザンはめったにアクセサリーをつけない。
日本語の「アクセサリー」は、指輪・ネックレス・ブローチ・ブレスレットなどの装身具をさすが、英語ではこれらはふつうaccessoryではなく、jewelyにふくまれる。英語のaccessoryは、身に着けるものでは、靴・帽子・ハンドバッグなどをさす。
Tom studied from morning till night.
トムは朝から晩まで勉強した
Tom studies hard as usual.
トムは相変わらず勉強家だ
I get up at six in the morning.
私は朝6時に起きる
The doll has blue eyes.
その人形は青い目をしている
Leaves turn red in fall.
秋には木の葉が赤くなる
It has stopped raining.
雨が上がった
May Ⅰ have a cup of hot coffee?
熱いコーヒーを1杯いただけますか
人間にはそれぞれ面白い癖、悪い癖、などさまざまな癖がある。その有名なものをあげてみると、まずイギリスの詩人バイロン。彼は美男子だったが派手好きで浪費家。賭博と女性問題でイタリアへ移住した。ベートーベンは癖の多い偉人だった。短気で孤独で社交嫌い。引越しが癖だったらしく70回以上している。哲学者ニーチェは礼儀正しく、気品があったが、人と親しくなりたいあまりにすぐにお金を貸したがるというのが癖だった。50フラン借りたいという友人には「100フランのほうがよくないか?」と持ちかけた。彫刻家ロダンは収集癖。書物のみならず、古美術など6万点以上ある。死後、所蔵品で個人美術館ができた。
阿部豊監督、源氏鶏太原作の「大出世物語」(1961)。廃品回収業者のおやじが、ひょんなことから会社の社長におさまるという現代版「わらしべ長者」。当時、小沢昭一、渡辺美佐子、吉永小百合も一般的に知られた俳優ではなかった。むしろ脇役の高原駿雄のほうがTV日真名氏のカメラマン助手として顔が売れていた。だが2本立て公開時、そえもの作品ながら今となっては見所が多い。吉永・浜田のコンビもういういしく、吉永10本目になる。「ガラスの中の少女」より、高子の役は貧しくとも明るく生きるという小百合のキャラクターを確立した記念的作品といえる。
ポーランド生まれの作曲家ショパンは39歳のとき肺結核でパリで亡くなった。遺体はパリで埋葬されたが、彼の意向により、心臓は姉ルドヴィカによってポーランドに持ち帰られた、ワルシャワの聖十字架教会に安置され教会の柱に埋め込まれた。石柱には「あなたの宝の場所にあなたの心がある」(マタイ伝)とある。第二次世界大戦のとき、ワルシャワは壊滅状態となったが、奇跡的にショパンの心臓は無事だった。ワルシャワを破壊したドイツ軍はショパンの心臓の入った壷を廃墟の中から探り出し、別の安全な場所へ一時保管していた。こうしてショパンの心臓は戦火をくぐり抜けて再建された聖十字架教会に安置されている。(Frederic Chopin,Holy Cross Church)
14世紀マルコ・ポーロが「東方見聞録」で伝えた黄金に富むジパング(日本)は魅力的だったようで、その場所が確認されない段階で地図上に現れる。1492年のマルチン・ベハイムの地球儀でも、その位置と姿が明確に与えられている。この1492年はまだコロンブスの情報は反映されておらず、そのかわりに巨大な島ジパングが存在する。1546年のセバスチャン・ミュンスターの「新大陸図」(上の画像)では北太平洋に浮かぶ大きな島ジパングリzipangriとして描かれている。16世紀末のオルテリウスの地図帳中のテイセラ日本図(1595年)では日欧の交流が活発になったので、蝦夷は未記入だが明らかに日本とわかる姿にまで進歩している。西洋人が日本図の正しい姿を知るのは、伊能忠敬の実測日本図をシーボルトが持ち帰る、19世紀前半を待たねばならない。(参考:織田武雄「古地図の世界」 1981年) Sebastian Munster,Ortelius,Teixeira
川端康成の掌小説を清水宏監督が映画化。伊豆の下田港から修善寺までを走る乗合いバスの若い運転手、彼は追い抜いてゆくだれにでも「ありがとう」とひとこと声をかけていく。のたりのたりと道をふさぐ牛車の爺さんにも、小学校に通う子どもたちにも、朝鮮人の女性労働者の一団にも、彼はつねに明るく声をかけて通り過ぎていく。「ありがとう」「ありがとう」運転手は村の娘たちのアイドルであり、人は彼のことを「ありがとうさん」と呼んで親しんでいる。ただそれだけの話である。しかし清水は当時の不況で身を売られる女性、金で財産を失くした男、旅芸人の一行、など昭和初期の風俗を流れるような映像で示している。ロードムービーの元祖ともいえる。昭和6年にトーキーは始まったが、この映画ができた昭和11年頃でも田舎ではトーキーは珍しかったらしい。明るいジャズの音楽も心地よい。悲しい話ばかりだが、最後はハッピーエンドというのも粋な終わり方だ。出演者は上原謙、桑野通子、築地まゆみ、二葉かほる、石山隆嗣、如月輝夫、水戸光子など。築地まゆみ(1920-1937)は昭和7年松竹楽劇部に入り、10年松竹蒲田へ移籍、この作品の翌年12月28日にわずか17歳で他界している。
築地(右)
NHK大河ドラマ「八重の桜」ドラマは八重が兄の勧めで川崎尚之助と結婚する。これまで洋学者・川崎尚之助(1836-1875)のことはほとんど知られてなかった。新島八重の最初の夫であり、会津の籠城戦のさなかに逃亡した、という不名誉な評価があった。しかし近年の調査によると、敗れた会津藩が移った斗南藩(現在の青森県)に関する公文書のなかに、尚之助が会津藩士と共に仲間と行動していたこと、食糧難に窮する藩のため奔走していたことが明らかになった。そして外国米を調達するために、トラブルにまきこまれ、東京での裁判中に肺炎にかかり、明治8年に40歳の若さで死去している。郷里の出石では尚之助を偲んで数年後に墓碑が立てられていた。現在はなくなったが、昭和40年代までは存在していたことが確認された。
願成寺(出石町東條)にある「墓籍明細簿」には明治8年3月20日の川崎尚之助の忌日が記されている。
英雄ナポレオンに関するエピソードは多い。まず彼は非常に強健な身体をもっていたらしい。ちょっと眠っては、とび起きて仕事をし、また眠り、24時間のうち、きれぎれに何時間か眠れば十分という特異な能力をもっていた。だが身長は低く、155cm足らずだったという。三角帽と軍服とマントという特徴ある服装も、この小がらな姿をひきたたせたものであったのであろう。ナポレオンは、人間的魅力に富んでおり、兵士たちの間では非常に人気があった。
1810年のこの日、ナポレオンはマリー・ルイーズと再婚した。1815年、ワーテルローで敗れたのち、セントへレナへ流されたが、イギリスのある将軍が、ナポレオンがイギリス国王に会ったら、30分ばかりで仲良くなってしまうのではないか、といった。ところが彼は、セントへレナのイギリス総督とはまったく性格があわず、これに虐待されたことは皮肉であった。1821年、ナポレオンはわずかの人に見守られながら、51歳の若さで亡くなった。マリー・ルイーズとの間に生れたナポレオン2世(フランソワ、1811-1832)は幼い時、父と別れたまま1度も会うことはなかったが、父の死を知ったときは椅子に身を投げ出して泣いたという。
さきごろ、ニュージーランドのオークションで死亡直後のナポレオンの遺髪が116万円で落札されたという。これまでもナポレオンの遺髪というものは知られていたが、この遺髪は同島に赴任していたイギリス将校が所持していたもので、その子が1864年にニュージーランドに移り住み、数世代にわたって保管していたという。これまで頑強なナポレオンが死んだのは毒殺されたからだという説があって(通説は胃がん)、遺髪から砒素も発見されたという。今回の遺髪の化学検査をすればそれが明らかになるとおもうのだが。また遺髪も白髪なのか、黒髪なのか、その状態が知りたい。公開された写真によると金髪であったというが。ナポレオンの時代はまだ写真がなく、肖像画でしかわからない英雄ナポレオンの真実を知る手がかりになる貴重な遺品である。
こちらのサイトを参考にしました。
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