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キリストは、13日の金曜日に、磔の刑に処せられたが、その後、日曜日に生き返ったとされる。その「キリストの復活」を祝う祭りがイースターである。イースターはクリスマスのように日取りが一定していない。つまり3月21日以後の第1の満月の次の日曜日とされる。今年のイースターは3月31日である。イースターEasterという語は、Eostreと呼ばれるチュートン民族の暁の女神(ローマ神話のアウロラ)のために春分の日に行なわれた祭eastreからきている。キリスト教がゲルマン民族に伝わると、布教の便宜上、異教の春分の祭と融合して現在の復活祭が成立した。春のお祭りの豊穣のシンボルである鶏卵を、多産のシンボルであったウサギが隠すという伝承(イースター・エッグ)から、ゆで卵を庭や室内のあちこちに隠して子供たちに探させる遊びなどさまざまな習俗が各地で見られる。( Keyword;crucifixion,resurrection,movable feast,Aurora, Easter egg )
1853年のこの日、フィンセント・ファン・ゴッホはオランダで生まれた。わが国においては1911年に雑誌「白樺」がゴッホを紹介して以来およそ100年が経つ。戦前はほとんど作品を実見することはできなかったが、戦後になると展覧会をとおして実見できるようになった。1958年「ヴァン・ゴッホ展」で空前の50万人を動員したのを始まりに、1976年「ヴァン・ゴッホ展」(国立西洋美術館)、1986年「オランダコレクションによるヴァン・ゴッホ展」(国立国際美術館)などが開催された。その後も1992年「ゴッホと日本」(京都国立近代美術館)、1995年「クレラー・ミュラー美術館所蔵ゴッホ展」(横浜美術館)、1999年「クレラー・ミュラー美術館所蔵ゴッホ展」(Bunkamuraザ・ミュージアム)、2005年「ゴッホ展」、2010年「没後120年ゴッホ展」(国立近代美術館)、2012年「幻のゴッホ展」(長崎ハウステンボス)が開かれている。とくに2005年はのべ120万人を突破する動員数を記録した。これほどまでに日本人をひきつけてやまないゴッホの魅力は何か。NHKBS「追跡者ザ・プロファイラー」の「ゴッホ 情熱と冷静のはざまで」では情熱だけでなく、冷静で知的な一面も紹介している。ゴッホの「永遠の黄色クローム・イエロー」鉛が含まれていてそのまま使うと変色する。ゴッホは油や樹脂を混ぜたか、ジンクホワイトを混ぜ合わせて変色しないように工夫していたという。技術的な問題よりも2000点にのぼる作品、902通の書簡、その狂気ともおもえる勤勉さの源は何か。牧師の子に生まれ、ゴッホ自身もキリスト教伝道などをした。番組で信仰への解明をしないのは不思議だ。(Vincent van Gogh)
売れない画家ほど自画像をたくさん描いている。その代表がゴッホ(1853-1890)。彼は37歳で自殺するまで40枚以上の自画像を残している。だが最近、アムステルダムのヴァン・ゴッホ美術館所蔵のゴッホの自画像とされていた肖像画の1つが、実は弟のテオであると同館の学芸員の調査でわかった。1887年、ゴッホ兄弟がパリで一緒に暮していた時に描かれたと考えられている。
ところでゴッホ本人の顔は沢山の自画像があるので、なんとなくイメージがつかめるのだが、実際の顔はどんなだったのか?現存する2枚の写真は少年時代のものと17歳の頃のもので、自画像のゴッホの面影はない。貧乏と漂浪生活のゴッホには写真など残しておく余裕などなかったのだろう。
画家が静物画の対象として花や果物を描くことはよくあるが、本そのものを描くことはあまりない。ただ一人ゴッホだけは画面の中に本を描き出した作品をかなり残している画家である。そして、その中には、標題その他の文字が読めるように描いてあるものも少なくない。ゴッホはどのようなメッセージを残したかったのだろうか。「黄色い本」と題する作品は、文字としては読めないが、標題があるといことはわかるように描かれている。この作品は、パリに来てから学んだ新印象派のいわゆる点描画法に近い様式で描かれている。1888年3月、この作品を預かっていたテオがアンデパンダン展に出品しようとした時、ゴッホはわざわざアルルからテオに「もし出品するなら、パリの小説本、という題名にしてほしい」と、注文をつけている。ゴッホはかなりな読書家で、バルザック、ゾラ、モーパッサン、フローベル、ゴンクール兄弟などを愛読していた。当時の社会において、これらの「黄表紙本が堕落したものとして、いささか疑わしい眼で見られていたことを考えると、ゴッホはあえて敬愛する作家たちの作品を、少しも隠そうとはせず、「レモン・イェロー」を使った色彩の象徴主義の萌芽を見ることができる。黄色に「生命の燃焼」と「生きる喜び」を求めようとするゴッホの決意を読み取ることができるであろう。
ゴッホといえば「ひまわり」が有名だが、戦前にもゴッホの向日葵の絵が日本にあった。大正9年に芦屋の実業家・山本顧弥太が金2万円で購入した。だがこの絵は第二次世界大戦の空襲で焼失し現在はない。山本が購入したころ欧米ではゴッホブームが起こり、贋作が多く出回っていた。芦屋の向日葵は本物なのか、贋物なのか、いまも真贋論争が続いている。
ゴッホはゴーギャンとアルルで共同生活をおくったことがある。個性の強い2人は喧嘩がたえなかった。ゴッホは自らの耳を切り、娼婦に耳を贈り物として届けたといわれる。実際には、切ったのは耳ではなく耳たぶの一部だった。最近ではゴッホが自ら耳を切ったのではなく、ゴーギャンがフェンシングの剣でゴッホの耳たぶを切り落としたという説がある。
1890年7月27日、ゴッホはピストルで自殺したといわれる。だが経済的に苦しかったゴッホがどのようなルートでピストルを入手したのか明らかではないし、肝心のピストルが発見されていない。最近は自殺ではなく、事故死だったという説がある。ゴッホは10代の少年とカウボーイごっこをしていて、その際、少年の1人が持っていた整備不良の銃が暴発して、ゴッホの腹部にあたって重傷を負った。ゴッホは若い2人をかばうため自殺説をあえて否定せず、2日後にそのまま命を落としたというのである。自殺説でなく、他殺説、あるいは事故死だと「炎の画家」のドラマチックな人生の幕切れがインパクトが弱まるので、関係者は否定している。生前に注目されなかった人物が死後有名になると、すべて人生をドラマチックに飾りたくなるものらしい。ゴッホの人生もかなり粉飾されている。(Gogh)
農民の子ミレーにとって種まきや土掘りなどの労働は幼時から親しいもので、ミレー以前にも、こうした農民生活をとりあげることはあったが、農民たちが休息しているのがほとんどで、労働を画題とすることはめずらしかった。ゴッホは、フランスの画家ミレーの作品を多数模写している。とくに「種まく人」を画題としてデッサン・油彩を数点残している。日本人もミレーの「種まく人」に感銘をうけた人は多い。大正10年に「種蒔く人」という文芸雑誌が小牧近江、今野賢三、金子洋文の3人で刊行された。また岩波書店は昭和8年に会社のシンボルマークにしている。
ミレー「種まく人」1850年 ゴッホ「種まく人」1881年 ゴッホ「籠を持つ種まく人」1881年「種蒔く人」表紙 1921年
ゴッホは風景画、人物画、花などの静物画など万物を対象として描く。室内の椅子、机にある聖書、果物、魚、靴、老人、女、子供、働く人。しかし身近なものでも描かないものもある。昆虫や犬、猫、ニワトリ、鳥、牛、馬などのペット、家畜を描いていない。おそらく静止してくれないのでモデルとして不向きと考えたのであろう。そのなかで例外は蝉のデッサンが残されている。この素描は病気療養のため南フランスに居たときに描かれたものである。1889年にテオに宛てられた手紙に「ぼくはこの土地の蝉のスケッチを同封した。炎暑のさなかに聞く蝉の歌は、故郷の百姓家炉辺のコオロギと同じように、ぼくの心を惹きつける。弟よ、ささやかな感動がぼくらの人生の指揮になり、知らず知らずぼくらがそれに従っていることを忘れずにおこう」(宇佐美英治訳)
ゴッホが生前に売れた絵はたった一枚といわれる。それはゴッホとテオの手紙に書かれているからだ。1889年の終わり頃、ブリュッセルで開催された「二十人会」の展覧会に出品した「赤い葡萄畑」。400フランで購入したのはアンナ・ボックという30代後半のベルギーの女流画家。詩人で画家の弟のウジューヌ・ボック(1855-1941)がゴッホのモデルをして、弟からすごい画家がいることを聞かされた姉も、実際に絵を見て衝撃をうけたのだろう。いわばアンナは初めてのゴッホ芸術の理解者といえる。姉と弟との間にごく私的な最初のゴッホ・ブームが起こったのだろう。絵画を投機目当てに収集するのではなく芸術を愛したからなのだろう。いまゴッホの絵は想像を絶するような高値がついているが、人が評価された美術館に収まった絵を愛するたけでなく、虚心になって美をみつめる心をもつようにならないだろうか。アンナという女性はそんなことを教えてくれる話である。
読める文字の書き込まれた本が画面に登場してくるゴッホの最初の作品は、アムステルダムのゴッホ美術館に所蔵されている「開かれた聖書のある静物」である。この聖書はゴッホの父が所有していたもので、使い古されている。その年、父は死んだ。火の消えたろうそくは父の死を象徴している。父の死の床に、うなだれたゴッホは、ぽっつりと一言いった。「死ぬのはつらい。しかし、生きることは、もっとつらい」と。手前の小さな本は、ゴッホの愛読書、ゾラの「生きる喜び」である。開かれた聖書は、文字からイザヤ書53章であることがわかる。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちに彼を軽蔑し、無視していた
彼が担ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
(「イザヤ書」第53章3節、4節)
ゴッホは聖書の「イザヤ書」を開いて何がいいたかったのであろうか。「イザヤ書」第53章全体は、われらすべての「悲しみとなやみ」を担い給う人の子についての預言である。それは当然、救主としてのキリストのイメージにつながると同時に、人々から「侮られ、すてられ」ていたと感じていたゴッホ自身の姿でもある。ハーグで同棲していた娼婦シーンとの結婚問題で、ゴッホは家族から反対され、「軽蔑され、人々から見捨てられ」たと感じたに相違ない。ゴッホがシーンを描いた石版画「悲しみ」には、英語ではっきりと「Sorrow」の文字が書き込まれている。
ヴィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、サン・レミの精神病院で約1年間の入院生活の後、退院し、パリにいる弟テオドルス・ファン・ゴッホ(1857-1891)のもとに帰った。1890年5月20日、ゴッホは精神科医ポール・フェルディナン・ガシェ(1828-1909)のいるオーヴェル・シュル・オワーズへ列車で向かった。オーヴェルの豊かな自然と美しい風景はゴッホを慰めた。しかし、このときすでに悲劇の影は差し始めていた。
1890年7月、ゴッホは久しぶりに弟テオとその妻ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(ボンガー、1862-1925)のいるパリに戻った。パリ滞在中は、ロートレックやアルベール・オリエに再会した。しかしある日、ゴッホとテオとの間で些細ないさかいが起こった。ゴッホが作品の保管の仕方を非難したのに対して、テオはいまの経済状態の苦しいことをこぼしたのだ。それは、テオにとっては口が滑ったくらいの小さな愚痴だったが、ゴッホの張りつめた糸を切ってしまうには十分すぎる言葉だった。
1890年7月27日、ゴッホは拳銃で自殺を図った。2日後の29日、テオに見守れながら息をひきとる。「人間の苦しみは生きるているものだ」という言葉を残して。兄を尊敬しつづけ、理解者であろうと努めたテオもまた、兄の死からわずか半年で亡くなった。
ゴッホは、わずか37年という短い生涯で、二種類の巨大な作品を生み出した。一つはデッサンと油絵からなる造形的な作品、もう一つは文学作品とよぶにふさわしい膨大に量の書簡である。テオの死後、652通にものぼった手紙の束を3巻の書簡集にまとめたのは、テオの妻ヨハンナだった。24年の歳月をかけてこの書簡集を刊行するまでの間、ヨハンナはテオの所蔵したゴッホの作品を世間に認めさせる活動に献身。その尽力は並大抵のものではなかった。手紙の整理は困難が多い仕事だ。しかし何よりも彼女は出版のタイミングを辛抱強く待った。愛情と知性をもった彼女の仕事は、息子フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(V.W.ファン・ゴッホ、1890-1978、技師)に引き継がれ、1931年からアムステルダム市立美術館で常設展示されることとなった。こうしてゴッホの評価は高まり、1960年にはゴッホ財団設立。1973年、国立ゴッホ美術館が開館され、作品はここに集められた。
ゴッホの椅子 1888年12月~1889年1月 ロンドン テート・ギャラリー蔵
ゴーギャンとの共同生活が始まって間もなく、ゴッホは二つの椅子を描いた。一方はゴッホ自身の、他方はゴーギャンの椅子である。前者がこの作品で、日光のもとで描かれ、ゴーギャンのそれは、ランプの光で描かれる。ゴッホのは頑丈で素朴だし、ゴーギャンのそれは、しなやかな曲線で描かれている。意図的ではなかったかもしれないが、二つの椅子は、まったく対照的な二人の性格を暗示し、やがて悲劇に終わべき共同生活の運命を象徴しているかのようである。なにげない椅子を一つ描くことによって、それを用いる人間の生活そのものを、性格までをも描写するゴッホの感受性の鋭さ、存在についての意識を表現するゴッホ芸術の典型ともいうべき作品だろう。
モネやルノワール、バジール、シスレーといった初期の印象派は、きらめく光を、揺れた空気を色に変えて表現しようとした。これに対してポスト印象派といわれるゴッホやゴーギャンは、赤が情熱、黒が神秘、青が不安や孤独、というように色彩を何かの象徴として用いた。とくにゴッホは「ひまわり」「麦畑」「黄色い家」など代表作に黄色をモチーフにした作品が多い。ゴッホは黄色で何を表現したかったのだろうか。
色彩心理では黄色はコミュニケーションの色といわれる。甘えたいとき、元気を出したいときなど、黄色で癒される効果がある。しかし精神異常のある画家はなぜか黄色の絵を描くといわれる。黄色は神経を刺激するので神経過敏なゴッホにとっては興奮をひき興させるため精神の安定にとって有害であった。だがオランダ時代のゴッホは暗い絵が多かったが、アルル時代に明るい太陽に魅せられて、太陽のように明るいひまわりがゴッホにとってもっとも幸福を感じる色だったのであろう。
1881年12月。28歳のゴッホはハーグにいる従兄の画家アントン・モーヴ(1838-1888)から絵を習っていた。ゴッホの全作品を整理したド・ラ・ファイユの目録番号でF1、つまり最初の作品は2点ある。1点目はオランダのゴッホ美術館にある「キャベツと木靴」。板下地に紙。もう一つはビールジョッキと果物が5個ある静物画。ドイツのフォン・テア・ハイト美術館が所蔵している。
このころアントン・モーヴの他にもゴッホの周りには若い画家仲間がいた。テオフィール・デ・ボック(1851年生)、ヴァン・デル・ウェーレ(1852年生)、ジョルジェ・ヘンドリック・ブライトネル(1857年生)。テオドール・デ・ボックの「河の景観」(1900)は数年前、日本でも展観されている。
「エマニュエル夫人」で有名な女優シルビア・クリステルがアムステルダムの病院で死去した。彼女はユトレヒト生れのオランダ人だった。ゴッホが生れたズンデルトとは50㎞は離れているが、弟テオはユトレヒトの病院で亡くなっている。シルビアはゴッホよりほぼ100年後に生れたが、日本人がよく知るオランダ人のひとりだった。
さてゴッホは1911年に武者小路実篤が雑誌「白樺」で紹介したとあるが、厳密には斎藤与里が1910年10月号で「バン・ゴッホと云ふ画家がミレエの絵を模写したのを見た」と書いたのが、日本におけるゴッホ紹介の最初とされる。その後、児島喜久男、武者小路実篤、柳宗悦が「白樺」に次々と論稿を寄せた。以来、ゴッホを愛する著名人は多い。タイプでみると文芸家、芸術家、研究者、最近は文化タレントもいる。文芸家としては武者小路実篤、高村光太郎、中原中也、宮沢賢治、小林秀雄、宇野浩二、江藤淳、大岡信、森有正、井上靖、小川国夫、丸谷才一、沢地久枝、太田治子など。芸術家としては中川一政、山下清、林武、長谷川三郎、東郷青児、棟方志功、池田満寿夫、おおば比呂司、赤瀬川原平、森村泰昌、吉屋敬など。
研究者・評論家は多数いる。木村荘八、安原喜弘、式場隆三郎、小山敬三、硲伊之助、足立源一郎、成田重郎、近藤考太郎、土井義信、郡山千冬、村上仁、大森啓助、林文雄、児島喜久雄、植田寿蔵、高山底、土方定一、今泉篤男、三好十郎、麻生三郎、里見勝蔵、富永次郎、大久保泰、能村登四郎、三雲祥之助、石原文雄、萩太郎、岡本謙次郎、小泉清、佐藤毅夫、矢代幸雄、中村精、品川力、本間甚太郎、渡辺勉、徳大寺公英、山田智三郎、瀬木慎一、今泉篤男、今野一雄、相浦富美恵、福本和夫、江川和彦、岡見富彦、嘉門安雄、針生一郎、長谷喜久一、矢内原伊作、富永惣一、十河厳、坂崎乙郎、高階秀爾、中山公男、小城正雄、二見史郎、久米あつみ、粟津則雄、那須辰造、山口桂三郎、原俊夫、永田一脩、武田正純、菅原猛、三浦秀春、新庄哲夫、武田友寿、末永照和、李禹煥、浅野徹、矢口国夫、竹山博彦、千足伸行、徳田良仁、川又一英、星野周一郎、高儀進、越野格、阿部良雄、田辺徹、磯田光一、木村尚三郎、山崎正和、浅野春男、種村季弘、饗庭孝男、本江邦夫、片野達郎、夏目十郎、朝吹由紀子、藤枝晃雄、細谷博、木本長宏、武居忠直、藤村信、島田紀夫、渡辺葉子、斎藤智子、田中梓、野中邦、高橋啓、向田直幹、匠秀夫、吉田秀和、柏原えつとむ、丹尾安典、稲賀繁美、坂上桂子、有川治男、岡谷公三、小林康夫、圀府寺司、六人部昭典、宮崎克己、三浦篤、丹治恒次郎、中村みどり、山田俊幸、黒田邦雄、森武夫、黒江光彦、松久勝利、中島国彦、高橋達史、水沢勉、池上忠治、清水正和、関口ふさえ、久保文、長島良三、岡部昌幸、並河汎、隠岐由紀子、宮下録造、天野知香、中谷伸生、原田平作、岡田好恵、中西博之、田代裕、小林利裕、西槙偉、野村篤、吉屋敬、志村純、関口順子、島田三蔵、小林英樹、宮下実、古谷可由、篠原弘、九里洋二、田中一郎、松本信洋、芳賀秀幸、三浦俊彦、辻合秀一、永野公一、徐京植、矢野静明、宗像衣子、海老沢功、酒井健、西原克政、池上ちかこ、福光恵、柴田まどか、櫟木幹三、深谷克典、安井裕雄、鳥渕明子、白洲信哉、堀幸夫、山根知子、堀内美里、鼓みどり、吉屋敬、保坂健二郎、伊勢英子、酒井哲朗、丹生谷貴志、石井芳征、大嶋浩、小林光夫、小山田義文、中西繁、鶴島久男、佐道直身、田村桂子、稲沢潤子、利倉隆、菅野孝彦、小林利延、結城昌子、神野妙子、廣田正敏、佐藤公一、下山進、古賀元子、渋谷展子、三浦篤、前橋重二、松浦雅人、平井章一、渡辺葉子、清水義和、細川清、品田悦一、小嶋洋介、山田磯夫、尾本圭子、田中淳など。
最近は教養番組などでゴッホを特集することが多いのでタレントもいる。中尾彬、松本人志、山口智子、ジミー大西など。俳優では滝沢修、仲代達矢など。収集家として山本顧弥太。斎藤茂吉の歌「かぜむかふ欅大樹の日てり 葉の青きうづだちしまし見て居し」はゴッホの糸杉を見て作ったという。
ゴッホ関係文献目録
ヴァン・ゴッホの手紙 木村荘八訳 洛陽堂 1915
白樺の森 白樺同人編 新潮社 1918
回想のゴッホ エリザベット・デュ・ケスヌ・ファン・ゴッホ著 高村光太郎訳 叢文閣 1921
セザンヌゴッホ画集 白樺社 1921
ゴオホ アルス美術叢書 中川一政 アルス 1925
ゴオホ画集 アトリエ社 1925
ゴッホの膨大な作品の整理には、オランダの作家で批評家のジャコブ・バート・ド・ラ・ファイユ(1886-1959)の仕事が際立った貢献を果たしている。彼は1928年に「ゴッホカタログ・レゾネ」(類型別全作品目録)を出版したとき、すでに真贋の怪しい絵が含まれていたことを認めている。真筆とみない作品が1930年の版では、33点であったものが、のち47点にまで増えている。
芦屋の綿商の山本顧弥太がスイスから購入した暗い背景のヒマワリ(F459)も真贋のはっきりしない作品の一つであった。京橋の星製薬階上の展覧会へ行った岸田劉生は複製画を見て感動したゴッホを実物を見たら何の感動も起こらなかったという印象が不思議である。オスロ国立美術館のゴッホ自画像(F528)も研究者の多くは贋作であると考えている。1920年代にはゴッホの生涯が知れ渡り、作品そのものがブランド化してしまったのである。
水戸黄門と並んで時代劇のヒーロー大岡越前がNHKBSプレミアムで帰って来る。加藤剛から東山紀之へ。山下毅雄のテーマ曲がそのまま使われるらしい。日本女性の理想といわれた妻・雪絵。今回は国仲涼子。酒井和歌子や平淑恵が演じたが、やっぱり宇津宮雅代がいちばん。ところで実在の大岡忠相はほんとうに名奉行だったのか。いまの都知事と警視総監、さらに裁判長を兼ねたような役職で、そんなに裁判の現場にいたわけではない。実際の事務は、奉行所の与力が行っていた。しかしまったく裁判に関わらなかったということはなく、ある記録によると、お白州での忠相は、誤審をおかさぬように、愛用の毛抜きでヒゲをチクチク抜きながら考え込むのが常だった。名奉行ぶりを示す「大岡政談」は、やはりフィクションである。
いまや世界一の長寿大国となった日本。厚生労働省が発表した平均寿命は男79.59歳、女86.35歳。1947年頃はせいぜい50歳くらいだった。明治・大正は40歳台。さらにずっと昔、平安時代の貴族はというと、男が35歳、女が27歳という調査研究がある。食事内容が貧しく、栄養失調で不衛生、疫病が日常的だった。死因は肺結核が54%、脚気が20%、皮膚病が10%だった。そのうえ気候が超寒冷期だったという。
1939年のこの日、詩人立原道造の忌日。立原は白樺と落葉松林に囲まれた亜高山植物の咲く信州浅間の高原で詩的夢想と少女への愛を育んだ。村の旧家の少女関鮎子、大学の友人柴岡亥佐雄の遠縁の美しい姉妹の妹横田ケイ子、松竹歌劇団のプリマ北麗子(今井春枝)。 これら三人の少女との夢想の愛が終わったとき、立原の前に現れた新しい少女が水戸部アサイだった。
昭和13年の春、立原道造は建築事務所に働く19歳の水戸部アサイと出会った。明るくて健やかで、詩人が「薔薇色の少女」と呼んだ彼女は、栃木県藤岡町赤麻の旧家の娘だった。初夏、二人は軽井沢に遊ぶ。しかしこの頃道造はすでに肋膜をおかされて、7月、ついに休職。信濃追分で静養のひと夏を送る。
昭和13年の初秋から冬へ、立原はその文学と人生を賭けて東北から九州への長い日本列島縦断紀行に旅立つ。しかし、年の暮れ、長崎で倒れ、アサイの献身的な看護にもかかわらず、翌昭和14年、24歳の生涯を閉じた。
水戸部アサイ 1919-1995
核兵器を持たず、作らず、持ち込まず。非核3原則は国是であった。核搭載した米艦船が横須賀や佐世保に寄港しても真実を究明することができなかった。国民は騙され続けた。1969年に佐藤栄作とニクソン大統領との間に米軍の核持込を容認する密約が交わされていた。合意文書は佐藤家で保管されているらしい。沖縄返還の功績によって1974年、佐藤栄作はノーベル平和賞を授与されている。佐藤栄作は真実を語ることなく国民を騙し続けて1975年に没した。1995年、モルジブが歴代のノーベル賞受賞者の切手を発行した。その1枚の佐藤栄作の人名表記は「Bisaku」となっている。佐藤にちなんで芸名をつけた俳優「佐藤B作」の名が切手に登場したのである。ご本家佐藤B作はいまNHK大河ドラマ「八重の桜」で会津藩家老田中土佐を熱演している。
明治・大正期のキリスト教の代表的指導者・内村鑑三(1861-1930)の忌日。内村はどの教会にも入らず、聖書の教えに忠実に行動した。
正宗白鳥は「何処へ」(1908)などで自然主義作家として認められたが、昭和期になると評論が活動の中心となる。人生に対しても文学に対しても批判的、懐疑的な傾向が強く、「永遠の懐疑者・傍観者」といわれる。戦後にも小説や回想的評論が多く、生命の長い文学者である。
正宗白鳥、本名は正宗忠夫は、明治12年、岡山県和気郡穂浪で生まれた。13歳のとき、民友社の「国民の友」を愛読し、はじめてキリスト教の存在を知る。15歳のとき、香登村のキリスト教講習所に通う。ついで岡山市に寄宿、病院に通うかたわらに、米人宣教師の経営する薇陽学院(米国より帰国した安部磯雄が主座教論)で英語を学ぶ。同時に、孤児院の院長の石井十次より聖書の講義を聞いた。明治29年、17歳のとき、東京専門学校英語専修科に入学。毎日曜、市ヶ谷のキリスト教講習所で植村正久の説教を聞く。夏、帰省の途中、興津で開かれたキリスト教夏期学校に出席、内村鑑三の風貌にはじめて接し、その連続講演「カーライル」を聞く。明治30年、受洗。明治31年、神田の基督教青年会館で、鑑三のカーライル、ダンテ、ゲーテ、ホイットマンなどに関する文学講和を聞き、深い感銘を受ける。7月には東京専門学校英語科卒業。ついで新設の史学部に入学。主任は熊本バンドの浮田和民である。明治34年、24歳、このころから次第にキリスト教から離れた。
正宗青年が見た内村鑑三の印象を拾い出す。「当年の内村は、文章よりも演説に於て、一層よく自己を発揮していた。聴者を感動させる力を持っていた。それで、青年会館に於ける若き内村の文学講演は、歌舞伎座に於ける老いたる団菊の所作以上に私を陶酔させたのであった」「内村の風貌は凡ではなかった。奇異な感じが与へられた。演説する時には聴者を圧迫するやうな威力を放っていた。若し俳優であったなら、仁木弾正に扮して得られさうであった。」「内村は鼻が高く、眼底に威力の潜んでいるらしい所幸四郎と一味相通ずるところがあったと、私は空想している」「私が講壇に於て、著作に於て彼に接し、彼に親しみ、彼の感化を受けたのは、彼の前半生のうちの数年間だけで、後半生の「聖書の研究」時代の彼については全然縁がなくって、今度全集を読んで、はじめてその一端を伺っただけである。そして、彼独自の新旧約聖書の研究が、彼の一生の本当の事業であり、他は詮じつめると、余技であり余興であったのではないかと、私には思はれ出した」「内村は聖書をThe bookであると云った。書中の書である。唯一の書であると云うのだ。西洋文学から聖書を取除くのはあたかも人間の身体より神経も若しくは血管を取除けるのと同じだと云った」「内村は、天性人と調和し難い素質を有し、熱心な基督信徒でありながら、どの基督教会にも属せず、終始無教会主義を主唱していたほどの反抗児であったが、基督教そのもの、聖書そのものには絶対従順に服従して、長い生涯の間懐疑の念に襲われたことはないやうであった。戦争に反対はしたが、教育勅語に説かれているような東洋道徳日本思想に反抗していたのではなかった。彼は教育勅語に形式的に礼拝していなかったにしろ、その勅語の精神はこれを服膺することを公言し、世の教師学生などが御真影や勅語の文字には礼拝しながら、日常、勅語の精神に違反していることを憤っている。教育勅語の説く所の道徳訓については、彼は何等懐疑の念を持っていなかったやうである。勅語の所説は、人間の奉ずるべき道として是なりと信じていたことは、時々現された彼の感想に依って察せられるのである。彼は福沢ほども、時代に対する精神的反逆者ではなかった。彼には、俗人福沢ほども思想の新しさはなかった。彼は政治家や宗教家や一般日本人の腐敗堕落は一生を通じて憤慨していたが、武士道や東洋道徳にまだ未練を残して、時時は旧い型の道徳を推讃していた。東洋豪傑の西郷隆盛を讃美したり、ファッショの日蓮上人を推讃したり、貧乏性の上杉鷹山を祭り上げたり、私はそこに内村の人生鑑賞の古さを見る。カーライルによって歴史修行をした彼には似合わないことである。内村だけではない。あの頃の日本人の秀才には、その頭脳の半面に甚だしい古さが潜んでいる。鴎外然り、漱石然り、本当の頭の新らしかった人と云うと、それより一時代前の福沢諭吉たった一人であったようだ」(参考:正宗白鳥「内村鑑三」細川書房 昭和24年)
1979年のこの日、アメリカ・ペンシルベニア州のスリーマイル島原発で炉心溶融事故が発生した。1986年4月チェルノブイリ事故が発生、3年後、日本ではドキュメンタリー映画「脱原発元年」(小池征人監督)がすでに作られている。2011年3月、福島原発事故(レベル7)。
原子力発電を推進する有力な根拠の1つは、原発の発電コストが安いことがいわれてきた。1kWhあたりの発電コストは、原子力5.4円、石炭火力10.4円、水力8.2円。しかしこれには原発の研究開発のために支出してきた膨大な費用は、まったく入っていない。将来おこると予想されている巨大地震が浜岡原発などをおそった場合、想像を絶する被害になる可能性がある。こうした費用も発電コストに含まれていない。発電コストの試算は原子力推進のための道具立てにすぎない。ところでデコミッショニングの意味は?寿命に達した原子炉、あるいは事故などにより使用不能になった原子炉の機能を停止させ、廃炉措置を講ずること。シビアアクシデントとは?あらかじめ想定された、いわゆる設計基準ベースを超えるような事象であって、しかも安全装置によって炉心冷却や核反応の制御ができず、その結果、重大な炉心の損傷にいたるような深刻な事故をいう。
decommissioning 原子炉の廃炉措置
nuclear fuel 核燃料
meltdown 炉心溶融
radioactive contamination 放射能汚染
reprocessing 再処理
severe accident シビアアクシデント
internal exposure 体内被曝
plutonium utilization in thermal reactor プルサーマル
decontamination 除染
ハインリッヒ・マン(1871-1950)といえばトーマス・マンの兄、そして映画「嘆きの天使」(1930)の原作者くらいしか思い浮かばないであろう。しかし近年、「嘆きの天使」の原作小説「ウンラート教授 あるいは、一暴君の末路」(2007)が今井敦によって70年ぶりに新訳され、山口裕の「ハインリッヒ・マンの文学」というわが国で初めての研究書も刊行されている。長大で難解な作品であるが、近年、再評価が高まりつつある。(Heinrich Mann,「臣下」Der Untertan)
ハインリッヒ・マン著作目録
長編「ある家庭のなか」(1884)
短編「驚異」(1886)
長編「無何有郷(むかうのさと)」(1900)
長編「女神たち」(1903)
長編「愛の狩猟」(1903)
評論「ギュスタヴ・フローベルとジョルジュ・サンド」(1904)
長編「ウンラート教授」(1905)
短編「ピッポ・スパーノ」(1905)
長編「二つの種族の間」(1907)
短編「グレートヘン」(1908)
短編「ブランツィラ」(1908)
長編「小さな町」(1909)
評論「ヴォルテール ゲーテ」(1910)
短編「地上の国からの帰還」(1910)
戯曲「偉大なる愛」(1912)
評論「ゾラ論」(1915)
評論「ヴェーデキントに捧ぐ」(1915)
評論「フローベルと批評」(1916)
評論「ヨーロッパ人」(1916)
長編「貧しき人々」(1917)
評論集「権力と人間」(1918)
長編「臣下」(1919)
評論「フローベル」(1921)
評論「アルトゥール・ショニッツラー」(1922)
短編「コーベス」(1923)
評論「フランク・ヴェーデキントの思い出」(1923)
評論「フランス文学の影響」(1924)
長編「頭領」(1925)
長編「母親マリー」(1927)
長編「オイゲーニエ」(1928)
短編「少年」(1929)
長編「大事件」(1930)
長編「まじめな生活」(1932)
評論集「憎悪」(1933)
長編「アンリ4世の青春」(1935)
評論「ドイツ人諸君、ヒトラーは君たちを売る」(1936)
長編「アンリ4世の完成」(1938)
評論集「勇気」(1940)
長編「リディツェ」(1943)
短編「ある愛の物語」(1945)
長編「息吹き」(1949)
評論「ゲーテの偉大さ」(1949)
評論「文学と革命」(1950)
米国などが北朝鮮の外国貿易銀行への制裁措置を強化するなか、金正恩第1書記は米軍基地を標的にした戦闘態勢に入ると警告した。このような挑発行為を「大げさなレトリック」ととるか、「核兵器の先制攻撃」とみるのか、意見が割れるところだ。北朝鮮のテレビなどでは3日間でソウルを攻略すると豪語している。金正恩は若いだけに実行する危険性はあるとみている。それにしても日本はあまりに暢気。W杯だ、センバツだ、お花見だ、アベノミックスだ、とちょっと浮かれ過ぎ。日本の防備はあまりにも不十分だ。えてしてこのような状況下で世界は大きく動くものだ。ついに26日、北朝鮮は「1号戦闘態勢に突入する」という声明を発表した。内容はアメリカ本土へのミサイル攻撃を意味するらしい。
オーストラリア最古で最大の都市シドニーは、世界でも屈指の美港をもつ。シドニーを出発点としてオーストラリア大陸をぐるっと一周。アルベリー、メルボルン、アデレード、ポート・オーガスタ、カルグーリー、バース、ジェラルトン、カーナーヴォーン、オンズロー、ポート・ヘッドランド、ブルーム、カザリン、テナント・クリーク、マウント・アイザー、ダウンズヴィル、マッカイ、ロックハンプトン、プリスベン、ポート・マックォリー、ニューカッスル、シドニー着。20の都市で、ちょうどシドニーと正反対の位置、つまり西オーストラリア州キンバリーにある小さな町ブルーム。ここは戦前、小船に乗って真珠採集する日本人が暮らしていた町である。和歌山県太地町出身の移民が多く、いまでは姉妹都市を提携している。同じ英語圏であっても、イギリス人の英語とアメリカ人の英語が違うように、オーストラリア人の英語は、また、そのいずれとも異なっている。発音の違いがあって、英米が「エイ」(ei)と発音するところを、オーストラリア人は「アイ」(ai)と発音する。オーストラリア旅行したアメリカ女性が現地で入院し、看護婦からyou're going home today.と言われたのを、you're going home to die.(おうちで死ぬように退院させてあげます)と聞き取り、ショックを受けて泣きくずれた、という話がある。
単語の中でもkangaroo(カンガルー)、koala(コアラ)、budgerigar(バジリカ、せきせいいんこ)などの名称は一般的になっている。こうしたオーストラリア産の単語は、chyack(チャイアク=からかう)、yakker(ヤッカー=骨の折れる仕事)、bodgie(ボジ=よた者)、widgie(ウィジ=女のよた者)、sheila(シーラ=少女)など、いろいろある。近年、オーストラリア出身の俳優がハリウッドで活躍するようになった。メル・ギブソン、ニコール・キッドマン、アビー・コーニッシュ(画像)。(Australia,Sdney,Bloom,Abbie Cornish)
1827年3月23日、ベートーヴェンは激しい雷鳴がとどろく嵐の中、ジョヴァンニ・マルファッティ医師の見守るなか病床で最後の聖餐を受けた。その後で、友人に「ブラウディテ・アミーチ・コメディア・フィニータ・エスト(喝采せよ、諸君、喜劇は終わった)」というラテン語でいった。これは古典ローマ喜劇の終幕の常套句であるが、聖餐を皮肉ったようでもあり、自分の生涯の終わりを告げようとしたものでもある。3日後の26日、ウィーンの自宅で永眠した。享年56歳。
29日の葬儀には、2万人の市民が参列し、宮廷歌手が棺を担いでフンメルら弟子たちがそれに続いた。ジョセフ・テルシャー(1801-1837)が描くベートーヴェンの臨終のスケッチがある。
ベートーヴェンの墓はウィーン中央墓地にある。ここにはモーツァルト(記念碑)やシューベルトなど音楽家の墓もある。生まれ故郷のドイツ・ボンの市庁舎前にはベートーヴェンの銅像が立つ。
(keyword;Ludwing von Beethoven,Plaudie amici comoedia finita est,Josef Eduard Teltscher)
ドラマ「神様のボート」よかった。究極のラブ・ストーリーですね。「信じて欲しい、一瞬も疑わないで」藤木直人だからキマル台詞だろう。原作には、「あのひと」と書かれていて、沢木哲哉の名前はなく、葉子のイメージの世界の男性である。演出の源孝志が冴えて、宮沢りえと藤木直人の魅力を十分に引き出した。「神が合わせたものを人が離してはならない」という言葉もきいている。恋人を信じて、旅がらすのような生活をするというのは現実的ではないけれど、このような切ない感じに浸りたい女性は多いだろう。
スペイン語のアルファベットは全部で30語ある。A(ア) B(べ) C(セ) CH(チェ) D(デ) E(エ) F(エフ) G(へ) H(アチェ) I(イ) J(ホタ) K(カ) L(エレ) LL(エジェ) M(エメ) N(エネ) N(上に~がつく、エニュ) O(オ) P(ペ) Q(ク) R(エレ) rr(エレル) S(エセ) T(テ) U(ウ) V(ウベ) W(ウベドブレ) X(エキス) Y(イグリェガ) Z(セタ)
abeto(アベト) モミ
bota(ボタ) 長靴
conejo(ゴネホ) ウサギ
dedo(デド) 指
elefante(エレファンテ) 象
flor(フロル) 花
gato(ガト) ネコ
helado(エラド) アイスクリーム
isla(イスラ) 島
jirafa(ヒラファ) キリン
kiro(キロ) キログラム
luna(ルナ) 月
mano(マノ) 手
nube(ヌベ) 雲
nando(ニャンドゥ) ダチョウ 「n」の上に「~」がつく
osito(オシトッ) ぬいぐるみの熊
pato(パト) アヒル
queso(ケソ) チーズ
raton(ラトン) ネズミ
sapo(サポ) ヒキガエル
taza(タサ) カップ
uva(ウバ) ブドウの実
vaca(バカ) 雌牛
windsurf ウィンドサーフィン
xilofono(シロフォン) 木琴
yoyo ヨーヨー
zapato(サパト) 靴
中国には孔子、老子の時代より以前から現在に至るまで、およそ4千年の歴史を脈々として伝えてきた文化と思想がある。その儒教文化を中心とした中国の伝統的学問は、中国はもとより、朝鮮、日本にも古典として深く根づいている。だが中国の近代化への動きが始まる時、呉虞や陳独秀ら知識人は儒教を攻撃した。魯迅の文学作品にも孔子や儒教への批判が多く見られる。さらに記憶の新しいところでは、1964年から10年間におよぶ中国文化大革命のなかで、批林批孔運動が起こった。しかし、それは長い歴史からみれば、一時期の現象であった。近年、中国では論語ブームだという。テレビ番組でも「論語」「孟子」などの古典の講座の視聴率が高い。2006年のTV番組「百家講座」で北京師範大学の于丹(うたん、画像)の論語についての講座がブームに火をつけたといわれる。彼女の著書「論語心得」(中華書局)はベストセラーとなった。このブームの背景には、大国化した中国人が自国の伝統文化に自信を持ち始めたことの現れであるとみられる。習近平とプーチンが連携し、中国船の接続水域航行を常態化するのは、領海侵略への布石とみるのは明らかであろう。孔子の説く仁や義の教えとどのように関連するのか。たとえば「子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也」(先生が言った。夷狄で君主のあるのは、中国で君主のないのにも及ばない」つまり夏(か)、中国は世界の中心であり、そのほかの国は野蛮であり、その野蛮を征服し中華化するのは、中国の使命とする中華思想にほかならない。
野村佑香が船を乗り継ぎマレー半島を一周「ぐるっとマレー半島5200キロ」後編。「東洋の真珠」ペナン島に到着。かつてイギリスの植民地の拠点だった。市街地ジョージタウンにあるプラナカンと呼ばれる中国系の末裔の家に訪問する佑香ちゃん。プラナカンPeranakanとは17世紀から中国から移住して、マレー半島に根づいた中華系移民の末裔のことをいう。貿易商人が多く、豪華に邸宅に住み、独自の文化を守ってきた。女性をニョニャ、男性をババという。小さい頃から花嫁修業をして、ビーズ刺繍や料理を厳しくしつけられた。なかでもカラフルなお菓子を「ニョニャ・クエ」といい、いまではマレーシアやシンガポールでも販売されて人気スイーツになっている。
マレー半島ではいろいろな民族や文化がミックスされているので、プラナカンも中華系だけを指すのではない。それ以外にも、インド系プラナカンの「チッティー」、イスラム化したインド系プラナカン「ジャウィ・プカン」など多種多様である。(Nonya-Kueh)
マスメディアの自殺報道に影響されて自殺者の増えることを「ウェルテル効果」という。この現象を実証した社会学者デーヴィッド・フィリップスにより命名された。模倣自殺。とくに若年層が自殺報道の影響を受けやすい。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」に由来する。最近の例としては、2011年5月に自殺者が急増した。それまで自殺者が1日平均82人だったのが、タレント上原美優の自殺のあと、1週間は平均124人となった。若い女性の自殺が急増し、NPO自殺対策センターはウェルテル効果の発生を指摘した。(Werther effect,David Phillips)
ドラマ「最高の離婚」は面白かった。濱崎光生と結夏は東日本大震災発生時の帰宅困難な状況下で親密になった。だが几帳面な夫と大雑把な性格の妻の生活習慣は大きくちがう。光生は潔癖症で、名前を「はまざき」と読み間違えられると、「はまさき」と訂正している。人と関わるのが苦手で動物と接するのが好き。盆栽が好き。このような潔癖症の男性は多くなったようである。
例えば、「電車の吊革は菌が見えるから持てない」「トイレを1時間かけて毎日掃除する」「顔を拭くフェイスタオルと体を拭くタオルをきちんと分けておく」「汗をかくとすぐにシャワーを浴びる」「外出するときはマスクをする」など。ここらあたりは、全部あたりまえですかね。でも、さらにエスカレートすると、「エレベータのボタンが押せない」「公衆トイレの便座に座れない」「なんども手を洗う」「外出から帰ったら服を着替えないと不快な感じになる」「他人の口臭が気になる」になると、不潔恐怖症、洗浄強迫神経症にもなっていき、仕事などにも影響しかねない。
NHK朝ドラ「純と愛」144話。手術前日。神が与えたあまりの仕打ちに悲嘆にくれる2人。愛「どんな仲睦まじい男女もいつか別れがくる」、純「愛くんみたいな人をこんな酷い目にあわせるなんて、神様はいるの」、愛「この世に神様はいる。でも神様は大したことはできないんじゃないかな。神様ができるのは、偶然という名の元に「と」のつく人を引き合わせるだけのこと。神様のアシストに気付くことができるか、一緒にどんな人生を紡いでいくかは、自分次第なんじゃないかな」
もちろんここでいう神様は西欧のキリスト教神学のいう神ではなく、汎神論的な意味であろう。完全者の神とか、奇蹟を信ずる、とかは宗教の領域である。「神様のアシスト」っていう考え方は自然に納得できるかもしれない。
ロンドンのピカデリー・サーカスは観光客が必ず立ち寄る場所。広場中央の噴水の上には有名な「エロスの像」がある。1893年アルフレッド・ギルバートが設計したもので、博愛や慈愛を表しており、第7代シャフッベリー侯爵アントニー・アシュリー・クーパー(1801-1885)を記念している。この像はギリシャ神話の愛の神であるエロスと呼ばれることが多いが、ギルバート自身はエロスの双子の弟であるアンテロスを意識してこの像ほ設けている。デザインが裸であるため、建造時には公共空間には相応しくないという非難の声があり、「キリスト教的慈愛を表す天使」と名称を改めることで落着したが、官能的な愛を示す「エロス」の名前のほうが一般に広まっている。(Piccadilly Circus,Eros,Anteros)
野村佑香がマレー半島を一周する旅番組。タイからマレーシアへやって来た。ここは15世紀から海のシルクロードの中継地として栄え、マラッカ王国が支配するようになり、イスラム化する。やがて貿易拠点はマラッカに移る。クアラトレンガヌではとくに造船技術に優れ、船造りの名人が多い。マレーの伝統的な船は、舳先がはね上がっていて両側に彫刻がほどこされている。このエレガントな曲線をプラウ(Perahu)と呼ぶ。また、船体は鉄くぎをいっさい使わず、チェンガイという堅木を使う。クアラトレンガヌの船大工はヨーロッパの船を修理することで、西洋の優れたところとジャンク船などの東洋の技術を融合してプラウ・べサルという帆船を作り出した。(Kuala Terengganu)
参考文献:「東南アジア史のなかのマラッカ海峡」東南アジア史学会会報53号 1990年11月「マレー世界におけるマラッカ王国の意味」(加藤剛)、「港市としてのマラッカ」(石井米雄)
15世紀ヨーロッパで需要が多かった商品は香辛料である。スパイスは長い冬の間の単調な食事に風味を添えるうえ当時の肉の保存法が限られていたこの時代では格好の肉の防腐剤として大切なものであった。また香料は健胃薬や種々の感染症の特効薬として貴重な医薬品でもあった。胡椒(ペッパー)、丁子(クローブ)、肉桂(シナモン)、肉豆蔲(ナツメグ)、生姜(ジンジャー)、カモミールなど。なかでも丁子が最も高価で販売された。インドネシアのモルッカ諸島が丁子の産地であった。1602年オランダは東インド会社を設立し、丁子の専売制をしき、その栽培をアンボイナ島のみに制限し、他島の生産を厳禁して価格の維持を図り、香料貿易で高利を得ていた。これに対してフランスは丁子の生木を持ち出し、モーリシャスを経て、ケニア・西インド諸島で栽培した。イギリスは1786年マレー半島のペナン島に丁子を栽培することに成功した。これによってオランダの独占はなくなり、価格は下落した。
エドゥアール・マネ(1832-1883)は19世紀における最も独創的で、影響力をもった画家の1人であった。1863年の「草上の昼食」「オランピア」が例のないほど悪評にさらされ、彼の絵はできそこないで、現代風の裸婦は猥褻だときめつけられた。落胆したマネは1865年、逃れるようにスペインへ行き、17世紀の画家ベラスケスの作品に勇気づけられパリに戻り、画いたのがこの「笛を吹く少年」(1866年2月)である。モデルの近衛軍鼓笛隊の少年兵は、ボードレールとマネの共通の友人だったルジョワーヌ少佐がアトリエへ連れてきたといわれている。だが、少年の顔はおそらく息子のレオン・コエラ=レーンホフ(1852年生まれ)をもとにしている。
人体は極端に平面的だが、構図は自然かつ鮮明にまとめられ、非物質的な純粋色の響きが新鮮な感情をともなっている。人物をこのように「空気で包む」やり方をベラスケスから学んだ。そして浮世絵版画の影響も否定しえないだろう。
マネが後年には著名な小説家となるエミール・ゾラ(1840-1902)と初めて出会ったのは、毎週木曜日に開かれているカフェ・ゲルボワで、この「笛を吹く少年」が「背景が消えている」と批判された頃(1866年2月~5月)であろう。マネ34歳、ゾラ26歳。
同年のサロンに「笛を吹く少年」と「悲劇役者」を出品するが落選。マネは自分のアトリエで展覧会を開く。そこへゾラが訪れ、深く感動し、「エヴェヌマン」誌に「これほど単純な手段を用いてこれ以上強力な効果を生み出すことができるとは思わない」と、マネを擁護し賞賛した。この論評によって、ゾラは読者の反感をかい、同誌のサロン評連載を中断することとなる。ゾラはマネを「この上なく上品」で「とてつもなく人なつっこい」と感じ、2人は生涯変わらぬ固い友情で結ばれた。
女優の野村佑香が船を乗り継いでマレー半島を37日間で一周する旅番組。映画「エマニュエル夫人」(原作エマニュエル・アルサン)は外交官夫人エマニュエルが異国でさまざまな性体験をする話だが、バンコク、香港、バリ島、セェイシェルなど東南アジアや南アジアが舞台だった。海のシルクロードの港町には西洋人と東洋人が交流する歴史と文化に彩られている。シャム王国3代の王ラーマ3世(在位1824-1851)はチャオプラヤ川を次々に遡ってくるヨーロッパの船をみて、シャムの将来を思い、ジャンク船への墓碑として船の形をした寺院を建立した。
野村はタイ南部ナコーンシータンマラートで影絵芝居を見せてもらう。お話は山田長政(1590-1630)の物語だ。長政は17世紀初頭、朱印船にのってシャムに渡り、アユタヤでは最高位まで昇進するが、左遷され、ナコーンシータンマラート(六昆)で没する。ワヤン・クリWayang Kulitという影絵芝居は、タイからマレーシア、インドネシア等の東南アジア諸国において広く行われていた。(Nakhon Si Thammarat)
先ごろ、スイスのモナリザ財団が所有する「若きモナリザ」(アイルワースのモナリザ)に関して「ダビンチ本人が、モナリザの完成より前に描いた」と発表した。ダビンチが2枚のモナリザを描いたという話は古くからあった。1913年に絵画収集家ヒュー・ブレイカーが発見し、ロンドンのアイルワースで保管され、一般公開はほとんどされなかった。やがてアメリカ人の手から、2008年にスイスのモナリザ財団が購入した。ルーブルの「モナリザ」(1516)と構図はほとんど同じだが、10歳ほど若く見える。美術史家ジョルジョ・ヴァザーリがモナリザのモデルをフィレンツェの豪商の妻エリザべッタ・デル・ジョコンドであるとする説が有力であるが、「若きモナリザ」のモデルが同一人物であるのか。エリザべッタは当時24歳で実年齢は「アイルワースのモナリザ」に近い。ルーブル美術館のモナリザはもっと年齢が高くみえる。ダビンチは最初にモデルそのままに描き、それからインスピレーションで「モナリザ」を制作した可能性が考えられる。これに対して、ダビンチがほとんど使わないキャンバスに描かれていることなどから、「アイルワースのモナリザ」を別人の模写作品とみる研究者も多い。モナリザ真贋論争はさらに過熱しそうである。(Isleworth Mona Lisa,Leonnardo da Vinci)
1990年のこの日、南アフリカの不法統治を経て、ナミビア共和国が独立した。
面積 82.4万平方キロメートル
人口 228万人
首都ウィントフック
民族 オバンボ族、カバンゴ族、ダマラ族、ヘレロ族、白人他
元首 ヒフィケプニェ・ポハンバ大統領
ウランなど鉱業が国内総生産の3分の1。(Namibia)
おすすめのサイトは http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/namibia/index.htmlコチラ です。
バッハには最初の妻との間に7人、2番目の妻との間に13人の子どもがいた
ヨハン・セバスティアン・バッハは、1685年のこの日、町楽師ヨハン・アンブロシウス・バッハの8番目の子(末っ子6男)としてチューリンゲンのアイゼナッハで生れた。父からバイオリンの手ほどきを受け、聖ゲオルク教会で伯父ヨハン・クリストフ・バッハの弾くオルガンに耳を傾けつつ成長する。9歳のとき母エリーザベトが死に、翌年父も後を追った。両親を失ったバッハはオールドルフの町で教会オルガニストをつとめていた長兄のヨハン・クリストフに引き取られ、この兄からクラビーアの演奏を教えられた。このようなエピソードがある。兄のところには当時の新しい楽譜がたくさんあった。しかし兄はどういうわけか楽譜を弟に見せてくれなかった。そこでバッハは、こっそりと書斎から楽譜を盗み出し、そして一同寝静まった後で、月の光をたよりに写し取った。このことが見つかって兄から散々に叱られたが、そのときにはその楽譜をすっかり暗記していた。バッハは作曲家としての基礎を学んだ。(Johann Sebastian Bach)
大女優・田中絹代は1977年のこの日、67歳でこの世を去った。
2010年に山口県下関市に田中絹代ぶんか館が開館した。建物は旧逓信省の庁舎をリニューアルしたものでレトロ感がただよう。田中絹代は明治42年12月29日下関市関後地村1956番地(下関市丸山町)に生れた。父は粂吉、母はヤス、4男4女の末っ子であった。家業は、呉服商。倒産し、7歳のとき大阪へ行く。絹代は「私の半世紀」で「私のこの世の最初の記憶は、下関から大阪へうつり住む時の汽車の窓から見た後へ後へと退いて行く景色へのおぼろげな感覚なのです」と書いている。
下関出身の有名人は多い。藤原義江、二村定一、林伊佐緒、木暮実千代、松田優作、山本譲二。文学では林芙美子、金子みすず。
人間は動物の中で最も雑食性に富む種類であり、その気になれば身近にいる生き物のほとんどは食べることが可能である。篠永哲、林晃史の2人の昆虫学者がいろいな虫を食べて、食べる時の注意、調理法、味などを紹介した「虫の味」(1996年)という本を著している。ハチの子や芋虫などさまざまなメニューが挙がっているが、やはり白眉はゴキブリだろう。「塩焼き 生きたワモンゴキブリを手でつまみ、頭を引っ張ると消化器などがきれいに抜き取れる(中略)美味というほどではないが、悪い味ではない」とある。昨年10月、米フロリダ州でゴキブリ大食い大会が開かれた。参加者30人が店側の用意したゴキブリやミミズを食べた。エドワード・アーチボルド(32歳)はゴキブリ、ミミズ、ヤスデなど数十匹を食べて優勝した。だがその場で気分が悪くなって、病院へ運ばれたが間もなく死亡した。細菌感染が原因であれば発症にもっと時間がかかることから、アレルギーが死亡の原因かもしれないが、詳しいことは不明である。下手物喰いは御用心。
脚本家の北川悦吏子が監督として2作目となる「新しい靴を買わなくちゃ」(2012)が公開された。全編パリロケながら作品としては不評である。北川は「ロングバケーション」(1996)で大ブームをおこし「恋愛の神様」といわれた。マラソンの高橋尚子と2つの共通点がある。ひとつ目は同じ岐阜県出身。2つ目は2000年がピークだったことである。北川は代表作「ビューティフル・ライフ」(2000年)をのこし、高橋はシドニー・オリンピックで日本人女子として陸上初の金メダルを獲得した。
言葉は絶えず変化し、揺れている。約24万項目収載する広辞苑にもない言葉がある。「成田離婚」とは「結婚したての男女が新婚旅行を機に離婚してしまうこと」を意味し、1990年から流行した言葉である。広辞苑には「成田国際空港」「成田不動」「成田屋」の3項目が収載され、「成田離婚」はない。一過性の流行語は載せないという方針からであろう。だが「成田離婚」は死語なのか、現在も使われ、意味が社会的に通用しているのかは検証作業が必要である。2012年の衆議院総選挙で日本未来の党が結成された。「鉛筆もったら未来の党」というキャッチフレーズで有権者に呼びかけたが、選挙は惨敗。結局、わずか1ヵ月で「国民の生活」と「日本未来の党」に分党する。阿部知子が朝日新聞のインタビューで「未来の党分裂は成田離婚」と答えている。投票した有権者はこれを読んで呆れるばかりだが、「成田離婚」という言葉は、このような場合に比喩的にも使える便利な言葉であった。「成田離婚」というやや流行遅れの言葉が再び紙面に堂々と登場した。やはり言葉の生死はわからないものである。
連続クイズホールド・オン(169)本日のテーマは「オランダ」オランダの水平三色旗は世界最初のトリコロールといわれ、世界多くの国旗に影響を与えた。問題「その3色を上から順番に言うとどのような配列になるでしょうか?」解答者ストレートで「オレンジ・白・青」と答える。
ヒジョーに、惜しい~!!
正解は赤・白・青。
かつてオレンジ公ウィリアム(1533-1584)の時代、オレンジ・白・青で「プリンスの旗」と呼ばれていた。オレンジは海上で色あせやすいため、1630年以降は赤に置き換えられた。
ところでオランダの国旗を逆さまにするとユーゴスラビアになる、というのは間違い。国旗の縦横の比率はオランダは2:3、ユーゴスラビアは1:2である。
京都市ではこれまで親から仕送りを受けて暮らしている学生の障害者手帳の申請を窓口で受け付けないで、学生から申請があっても、親元の自治体から手帳を交付してもらうようにという対応をしてきている。ところが2008年に仕送りを受ける学生を独立した世帯とみなすとの政令が出ており、これに伴ない学生の住む自治体が手帳を交付する仕組みに変わっていた。京都市では5年間も知らないで、学生障害者手帳の交付を拒み続けてきたことになる。なぜ当該事例が生じたときに県や厚生労働省などの所轄の専門に確認しなかったのであろうか。呆れた話である。制度の改正がめまぐるいし時代であるが、公務員はつねに勉強会などに参加し、改正への注意を怠ることなきように努めるべきである。
WBC準決勝、日本はプエルトリコに1対3で敗れた。サンフランシスコのAT&Tパークはイチローがランニングホームランを記録した球場でも知られる。baseball stadiumではなく、park。野球のほかアメリカンフットボールやサッカーなどの競技の会場として使用されるからだろう。parkには「公園」「広場」のほか「競技場」の意味がある。
野茂英雄のニックネームは「ドクターK」。日本でドクターといえば医師を思い浮かべるが、「ある分野において、知識や技術が抜きん出ている人むという意味がある。「三振博士」という意味でつけられた。
同じ綴りなのに、まるっきり違う意味をなす英単語あつめる。
age 年齢 時代
bank 銀行 堤
bark 吠える 木の皮
blue 青い 憂鬱
case 箱 場合
circle 円 仲間
circus サーカス 円形広場
die 死ぬ サイコロ
field 野原 分野
fly 飛ぶ ハエ ズボンのファスナー
kind 優しい 種類
light 光 視野
mable おはじき 大理石
mean 意味する 卑劣な
mine 私のもの 鉱山 地雷
mummy 母 ミイラ
rape 強姦 菜の花
right 右 人権
saw のこぎり ことわざ
school 学校 魚などの群れ
slug なめくじ 強打する
star 星 人気者
strip 薄い金属板 服を脱ぐ
tire タイヤ 疲れさせる
toast トースト 乾杯
well 上手に 井戸
大映映画「鬼の棲む館」(1969)を観る。谷崎潤一郎の「無明と愛染」を新藤兼人が脚本、三隅研二が監督している。勝新太郎、高峰秀子、新珠三千代、佐藤慶の4人の男女の愛欲模様が描かれる。大映倒産の2年前の作品であるが、良い出来栄えである。高峰45歳。86歳で2010年12月に他界したが、高峰は生涯309作品に出演したといわれる。確認できるのは約200本くらいであるのは、子役の頃はクレジットに書かれていないためであろうか。ともかく昭和40年以降の出演は僅かに次の7本。「ひき逃げ」「華岡青洲の妻」「鬼の棲む館」「恍惚の人」「スリランカの愛と別れ」「ふたりのイーダ」「衝動殺人息子よ」。「鬼の棲む館」は公開時の評判は低かったが、今見るとテーマがしっかりしており、俳優の演技も堂々としたもので優れた文芸映画である。
日本男性の理想的な女性像は、ひと昔なら「癒し系」とか「なごみ系」であったが、最近はグラドルもブームを過ぎた感じがする。1998年ごろデザイン化されたテライユキという架空の女性が話題になった。モーニング娘やAKBなどが登場する以前で、カワイイではなく、スポーティな感じであった。後発の初音ミクは長い髪であるが、スタイルはよい。日本人男性の好みは活動的なスポーツマンタイプの女性とみえる。
一方韓国では男性は「イェップタ(美しい)」が重要な要素をしめている。体型とか全体的な容姿ではなく、あくまで顔の造作が最重要なのである。そういったなか、「普遍的理想形」という題名で、ネット上に謎の美女が出回り話題なっている。確かにちょっと「おっ!!」と思わせる美人ではある。リアルに描かれてキム・テヒやイ・ヨンエにも似ている。だが、どちらかというと韓国人顔というよりは日本人に近い感じがする。やっぱり、韓国人男性は日本の女性が好きなのではないか?と感じる。
世界のフィルム・スター、エマ・ワトソンは語った。「知らない男が自分の家の周りをうろついていることに気づいていましたが、森の茂の中でその男と遭遇した時には驚きと恐怖のあまり、大きな叫び声をあげました」 男は逃げようとしたが、ガードマンに取り押さえられた。エマは精神的にかなり疲れているという。映画のハーマイオニーのように魔法を使って危険を避けることは、現実生活においてはできないようである。半世紀前まではヒッチコックのサスペンス映画の中だけであったが、我が国でも1990年代からストーカーが急増し、2000年にはストーカー規制法が制定された。昨年の警察へのストーカー被害の相談・届出が1万9920件と過去最多となり、検挙件数も1800件あまりと過去最多となった。「ストーカー」という言葉は映画「喜劇・とんかつ一代」(1963)に登場している。「金魚のフン」と同じような意味で用いられていた。
下関市に「木暮実千代の会」が発足した。田中絹代と並ぶ下関が生んだ大女優の足跡に光を当てたいと顕彰碑の建設を計画している。CSで放送された「大坂城の女」全39話を見た。淀君を演ずる木暮が千姫(宇津宮雅代)へのイビリが強烈だった。淀君は大河ドラマで15人(最近では瀬戸朝香、若尾文子、永作博美、深田恭子、宮沢りえ)の女優が演じているが、金髪と二重眉で色好みの木暮・淀君は嵌まり役であった。こうしてみると時代劇で大女優が演ずる役というのだいたい相場が決まっている。忠臣蔵であれば瑤泉院か大石りく、静御前、細川ガラシャ、千姫、お通(武蔵)、皇女和宮など。ところが吉永小百合は映画116本、ドラマ出演も多数あるがこのような歴史上の人物を(架空も含めて)ほとんど演じていない。「幕末」龍馬の妻、「映画女優」田中絹代、「華の乱」与謝野晶子、「まぼろしの邪馬台国」宮崎和子・卑弥呼などが例外的な作品である。ドラマでも「女人平家」で平清盛の娘盛子を演じたくらいである。吉永小百合の楊貴妃を見たかったと思うのは私だけだろうか。
しばしばネット上で故意にウソの記述をする人がいるようである。このような例がある。「モンロー効果」の解説で「高層ビル街の路上で、スカートがまくれ上がるように風が吹き上がる現象。マリリン・モンローの映画「七年目の浮気」の中で見せた、地下鉄の換気口でスカートを押さえる場面から」とか、「女性の腰のくびれからヒップラインが優れていると男性の目を引きやすい効果のこと」など。正しくは、「1888年、アメリカの科学者チャールズ・モンロー(1849-1938)が円錐形の凹状の爆薬を後方から起爆すると、反対側の前方に強い窄孔力が生じる現象。成形炸薬効果ともいう」。(Monroe effect ,Charles Edward Munroe)
ある旅の僧が墓地を通りかかると、やせ衰えた法師が琵琶を一心不乱に弾くいている。盲目の法師の名は団一といい、ある高貴の女に御殿に連れて行かれて琵琶を弾くように命じられたという。それから毎晩琵琶を弾かねばならなくなった。その旅の僧は、話を聞いて、これは亡霊のしわざにちがいないと思い、団一の全身に経文を書きこんだ。そして「絶対に口をきいてはいけない」といいつけた。その夜、迎えにきた亡霊の目には、団一の耳だけがうつった。耳には経文が書いてなかったからだ。亡霊は耳だけを切り取ってかえったが、団一の命だけは助かった。人々は団一のことを「耳切り団一」と呼ぶようになった。
この話は徳島県鳴門に伝わる伝説であるが、ほかにも四国には「耳切坊主」の話が伝わるし、沖縄にも同様の話が伝えられる。南方系説話とみることができる。「耳切り団一」の話に平家の亡霊のしわざであるという付加的な要素が加えられたのが小泉八雲の「耳なし芳一」である。8歳で二位の尼に抱かれて壇ノ浦の海に沈んだ安徳天皇の墓前であり、平家琵琶の「壇ノ浦の合戦」のもの悲しい調べとともに、聞くものの涙をさそうようになった物語は文学的に高められている。
女性雑誌などで「目力メイク」などという言葉をよく見かける。モテ顔のトレンドとしてデカ目メイク、猫目メイクが若い女性の間で人気だ。「目力(めぢから)」という表現は比較的新しい言葉で、むかしは眼力(がんりき)といった。アイメイクがほどこされた瞳の魅力的なシンガー、浜崎あゆみが登場した2000年以降、個性的な女性を感じされるメイクとして注目されだした。目力の強い女優としては、柴咲コウ、黒木メイサ、真木よう子などが登場した。だがむかしから瞳の大きな女優は人気があった。かつて映画は男性が主役と決まっていたが、ヒロインが主役となる女性映画がつくられるようになって、内面の強さが感じられる目の演技ができる女優が求められるようになってきた。元祖「目力女優」は日本では及川道子(1911-1938)、ハリウッドではベティ・デイビスである。
相手打者がアウトになったとき守備側の応援団がラッパで「タンタカタン・タンタン」と吹くメロディーをアウトコール(outcault)という。昭和40年代から野球で聞かれたが、相手をバカにした行為であり、スポーツマンとしてふさわしくないという理由から近年は自粛しつつある。福岡ソフトバンクのアウトコールは今でもやっている。ピアノ曲「ねこ踏んじゃった」やフォークダンス「オクラホマ・ミキサー」のエンディングでも使われるが、原曲は100年以上もむかしの曲である。1899年、チャールズ・ヘイルが作曲した「黒人街のケーク・ウォーク」というダンス音楽に同じメロディーがある。ケーク・ウォークとは、黒人の間で発祥したダンスの一種で19世紀末に南米で起こり、20世紀にアメリカ南部に伝播してジャズの起源の一つとなった。古くから知られたメロディーだがアニメ映画「蒸気船ウィリー」(1928)でミッキー・マウスが「藁の中の七面鳥」を演奏するシーンでアドリブでオチとしてつけた。これから物事の終わりを示すリズムとして意識されるようになった。野球でも「はい、終わりです」という意味が込められているのである。(A Darktown Cakewalk,Charles Hale)
本日は「漫画週刊誌の日」1959年のこの日、「少年マガジン」「少年サンデー」が発汗された。昭和30年代は「少年サンデー」のほうが人気があった。なぜなら少年サンデーに連載していた赤塚不二夫のギャグ漫画「おそ松くん」があるからなのだ。小学5年生の6つ子で容姿・服装とも全く同じで弁別がつかない。25年後の「おそ松くん」があるそうで、その話では6人がそれぞれ別々の道を歩んでいる。おそ松は普通のサラリーマン。カラ松は八百屋へ婿養子。チョロ松は警察官。一松は逆タマ結婚で社長。十四松は医者。トド松は魚屋。トト子は6人と交際したが、結局は他の男性と結婚、一児をもうける。もうすぐ2人目を出産予定という。これも昔の話なので、いまではリストラにあったり、離婚していたり、あるいは亡くなっているかもしれない。
兵士が自分の働きを示すために敵の首級をあげるということは、戦国武将などにみられるが、世界的にも古くから行われたことである。古代エジプトでもナルメルの化粧板に敵の首を斬って杭にさらしている図がみられる。しかしその後、首では嵩張るので敵兵の手を斬って、相手方の損害を数えたり論功行賞の証拠資料にするようになった。ある兵士の手記にはこうある。「運河の流れで戦った。私は手と手で戦い(白兵戦)、敵の手を持ち帰った。そして王から恩賞をいただいた」兵士たちは戦利品の手を少しでも多くするため、女性や子供の手まで切り落とすものがでてきた。そこで今度は男性の一物まで切り落としたそうである。
渡辺筆子(1861-1944)は肥前国大村玖島、大村藩士の渡辺清、ゲンの長女として生れる。東京女学校を卒業後、ヨーロッパに留学。1879年、世界一周の旅行中のグラント大統領と面会する。以後、外国人教師や宣教師との交流により女子教育の振興に目覚める。同郷の小鹿島果と結婚。3人の娘のうち2人は知的障害があり、あとの1人は死亡する。1892年、夫が35歳の若さで死亡。1898年、雑誌「大日本婦人教育会」に男女平等論を唱える。同年、津田梅子と共に米国バンクーバーでのバンコク婦人倶楽部会議に出席。米国の女子教育と福祉の状況を視察。知的障害児の養護施設・滝乃川学園の創設者、石井亮一と再婚。1937年、石井が亡くなり、第2代園長となる。滝乃川学園の運営と保母の育成にあたる。近年、常盤貴子により映画「天使のピアノ」が上映されている。
有島武郎の小説「或る女」の女主人公・早月葉子のモデルといわれる佐々城信子(1878-1949)は、昭和8年、55歳のときに、栃木県真岡にやって来た。信子の妹よしゑが、真岡で木綿問屋を営んでいた岡部完介に嫁いできたのが縁らしい。信子は武井勘三郎との間の子である瑠璃子を連れて2人で生活していた。現在、岡部記念館金鈴荘(栃木県真岡市荒町2162)の1階奥に住まいしていた。岡部農場で苺作りをしていたという。戦後、岡部家が没落すると、2人は金鈴荘を追い出された。夫の武井勘三郎はすでにこの世の人ではなかった。信子はクリスチャンとして聖書を手から離さず、清く簡素な生活を送っていた。町役場の厚い帳簿には、死体埋火葬許可証の写しが綴じられていた。
本籍 東京都中央区室町1丁目5-6
住所 栃木県芳賀郡真岡町大字荒町2162番地
生年月日 明治11年7月30日
死因 老衰症53日、肝臓炎15日
死亡場所 前記住所に同じ
埋火葬場所 町立火葬場
信子の子である瑠璃子はその後どうなったのか知らない。一説によれば、女優の星由里子と瑠璃子とは従姉妹であるともいわれるが、真偽はわからない。
厚生労働省が年金の支給開始年齢を現行の65歳から68~70歳への引き上げを検討しているという。総務省の調査によると、現在65歳以上の高齢者世帯の6割は年金収入だけに頼って生活している。国民年金は満額支給されても1人6万5000円。そこから介護保険料や健康保険料が天引きされ、そのうえ高齢になると医療費の支出が増える。今春の新入社員が40年間年金保険料を負担したとして、70歳を受給開始となれば元を取るのは90歳以上生きなければならないという試算がある。もう年金の元を取るという考え方は捨てるべきなのかもしれない。これが年金受給の実態なのである。
新ローマ法王にアルゼンチンのホルへ・ベルゴリオ枢機卿が選出され、フランシスコ1世と名乗り、全世界12億人のカトリック信者のトップに就く。正確にはフランシスコ2世が登場するまでは、1世という序数をつけずに「ローマ法王フランシスコ」と呼ばれる。ペテロから数えて266代である。ところで新聞報道では「法王」という用語が使用されるが、高校世界史では「教皇」が一般的である。日本政府では外交で「ローマ法王庁」と登録してあるため「法王」としているが、日本のカトリック教会では「法王」ではなく「教皇」への記載をすすめているとのことである。パパ(papa)という原語(英語ではポープpope)は、子どもが父親を呼ぶときの言葉で、もとは聖職者一般に対する敬称であったが、しだいにローマ司教にかぎりこの敬称が用いられるようになり、グレゴリウス7世は1073年の教会会議で、他の司教がこの敬称を用いることを禁じた。教皇は現在では世界のカトリック教会の頂点に立ち、ペテロの後継者として尊敬を集めている。高校世界史で知られるローマ教皇は、異教徒の侵攻を阻止したレオ1世、ゲルマン人への布教をしたグレゴリウス1世、聖像禁止令のレオ3世、オットー1世に加冠したヨハネス12世、カノッサの屈辱のグレゴリウス7世、十字軍を提唱したウルバヌス2世、教皇権の絶頂期インノケンティウス3世、アナー二事件のボニファチウス8世、教皇境界線を設定したアレクサンデル6世、聖ピエトロ寺院の再建を始めたユリウス2世、ルターの宗教改革のレオ10世などである。そして第二次世界大戦期の教皇としてラテラノ条約を締結し、ムッソリーニ政権を承認したピウス11世、ナチス政権下のドイツのユダヤ人迫害を容認したピウス12世などがいる。
1961年のこの日、「宴のあと」でプライバシーを侵害されたとして元外交官・有田八郎(1884-1965)が三島由紀夫と新潮社を告訴した。日本初のプライバシー侵害訴訟であり、プライバシーという言葉が流行した。東宝SF特撮映画に「ガス人間第一号」というのがある。平凡な男(土屋嘉男)がパイロットになる夢をあきらめて図書館につとめている。ある日、奇妙な科学者に誘われてガス人間の実験台となった。そして図書館を利用している美しい日本舞踊の藤千代(八千草薫)に恋をする。ガス人間は銀行強盗で金を盗んで、家元復興の資金にする。このような突飛なストーリーだが、作品は悲しくも美しい。
土屋嘉男は海外に行ったときタクシーの運転手に「あなたの映画をみた」といわれた。土屋は黒澤監督の作品だろうと思ったら、なんと「ガス人間第一号」だった。この映画は海外で大ヒットしたらしい。八千草薫の「情鬼」という踊りがよかったのか、鉄格子をガス化して通り抜けるシーンがいいのか、ともかくクライマックスで劇場が紅蓮の炎になるシーンが日本美が生かされているのだろう。
ところで1960年といえば、ようやく図書館も個人貸出をするようになったころで、藤千代も大型の浮世絵など美術書を借りていた。三橋達也が館員の土屋嘉男に「先ほどの女性はどんな本をかりていたか」「先ほどの女性は誰か」と尋ねていた。館員の土屋はスラスラと答えていたが、まだ利用者のプライバシー保護はなかったのだろう。練馬区の図書館でテレビ番組「特別機動捜査隊」(波島進主演)でも同じようなシーンがあり、日本図書館協会ではテレビ局にシナリオを書き直すという「練馬テレビ事件」(昭和42年)があった。映画「ガス人間第一号」は海外でも大ヒットした作品で今でもDVDではカルト的人気の作品であるが、「図書館の自由」に関する問題を含む先駆的事例であった。作品では東京の図書館の館内が美しく撮れているし、「さよならコロンバス」的な図書館員の悲哀が土屋嘉男の雰囲気に出ていた。
本日のNHK連続クイズ「ホールド・オン167」で「笑いは緊張の緩和から来る、という言葉を残した18世紀ドイツの哲学者は?」という問題があった。答えはカントらしい。有名な言葉だそうだが、実際にカント全集で確認していない。カントは生涯のほとんど故郷ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)という小さな町で暮らしていた。そして毎日の午後同じ時刻に散歩をする習慣があったが、その時刻は1分と違わなかった。それで街の人々は、彼の通る姿を見て、めいめいの時計を合わせるのが日課であった。ただ一度だけ、こんなことがあった。カントがルソーの「エミール」を読んでいて時間を忘れたために、何人ものケーニヒスベルクの住人が約束の時間に遅れた、というもっともらしい逸話がある。カントが旅行を嫌ったのは、生まれつき病弱だったせいだろう。身長152cmと小柄で、しかも猫背ぎみだった。それで79歳まで生きたのは規則正しい生活のおかげもあったろう。
デカルト「我思う、ゆえに我あり」、パスカル「人間は考える葦である」、ルソー「人間は二度生れる」、17・18世紀の思想家にはそれぞれ名言がある。そこでカントの名言を紹介する。
「啓蒙とは、人間がみずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の助けを借りなければ自分の理性を使えない状態をいう」
この一文は1784年の「ベルリン月報」に掲載された「啓蒙とは何か」にある。(参考;ヘルゲ・ヘッセ「その一言が歴史を変えた」) Immanuel Kant
日本と米欧が共同開発し、南米チリのアタカマ砂漠に世界最大の電波望遠鏡が建設中である。66基のうち59基が稼動を始めた。Atacama Large Millimeter-submillimeter Arrayの頭文字ALMA(アルマ)はスペイン語で「魂」を意味する。完成は10月の予定。
ギニョールguignolとは、フランスの人形芝居のこと。人形の胴体に手袋のように手を入れる片手遣いの操り人形や指1本1本の人形をさすことがある。
綾取りは英語でstring fingers(糸の形、模様)、もしくはcat's cradle(猫のゆりかご)とも言う。cat's cradleという表現は17世紀頃のティークリッパーの船乗りが中国から「ふたりあやとり」を伝えたことが由来とか。「聊斎志異」には「ふたりあやとり」の記述がみられる。
手の指、足の指、全部英語で言えますか?手の親指はthumb、人さし指はindex finger(forefinger)、中指はmiddle finger、薬指はring finger、小指はpinky finger(little finger)。足の親指はbig toe、足の人さし指はsecond toe、足の中指third toe、足の薬指fourth toe、足の小指はlittle toe。
poke つつく
pinch (頬を)つねる
clap 拍手する
finger-snap 指パッチン
popping bubble wrap プチプチつぶし
長らく浅野内匠頭長矩は「忠臣蔵」など芝居のイメージで領民に慕われた名君と思われていた。しかし近年の研究によれば、領民たちは重税をかけられ、年貢も厳しく取り立てられたため、長矩の切腹を聞いた領民は赤飯を炊いて喜んだという。儒学者の室鳩巣は「長矩は人と為り強硬(武骨者の注あり)屈下せず」と頭を下げることを好まない性格であったとしている。「諌懲後正」(1701年頃)によると「長矩は文道を好まず、武道を好む。生まれつき気が小さく、律儀である。しかも淳直な性格で非義はしない。ただ、家士や民間を憐れむというわけではない。国家の政道は厳しいだけで、仁愛の気味がない。贅沢はしないが、民からむさぼっている」とある。元禄の紳士録ともいえる「土芥寇讎記」(1690頃)によると「長矩は智があって利発である。しかし、女色を好むため、いい女を献上する家臣だけが出世する。長矩は、昼夜、閨房にあって女と戯れ、政治のほうは家老に任せている」とある。
青森県鯵ヶ沢のイカ焼き屋で飼われている秋田犬で、毛がわさわさしていて写真集まで出版された。2011年には薬師丸ひろ子主演で映画化。わさおが飼い主アキラ少年と再会するまでのハートフルドラマ。ストーリーは平凡であるが、動物好きでとにかく癒されたい人にはお奨めの映画である。薬師丸ひろ子なのでなんとか最後まで観た。尾美としのりも出演しているが薬師丸との絡む場面がなかった。
デューク・エイセス「ララミー牧場」、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ「ローハイド」などテレビ主題歌をカヴァーしている。あの頃は人気歌手が日本語で歌うというサービスがあった。田辺靖雄の「名犬ロンドンの歌」(名犬ロンドン物語の主題歌)は「見知らぬこの町さまよい来れば はるかな思い出胸によみがえる♪」という歌。よい子のドラマにもかならず主題歌がある。三橋美智也の「怪傑ハリマオ」は最も有名。「若いお巡りさん」で知られる曽根史朗にも「赤銅鈴之助の歌」「鉄腕アトムの歌(実写版)」をカヴァーしている。水原弘の「しのびのテーマ」(「カムイ外伝」主題歌)も良い。NHKで放送された人形劇「ひょっこりひょうたん島」の主題歌は中山千夏ではなく、前川陽子だった。
「泣いちゃいけない涙をおふき 泣けば見えない俺の目が 花も嵐もふたりの旅路♪」そこまで歌ったところで、山本譲二は頭の中がなぜか真っ白になった。「過去をわすれて出直そう」という歌詞だったが、「過去」が出てこず、「ムームームー」とハミングで誤魔化した。その後、なんとか歌いきったが、申し訳ないような、テレたような笑顔で礼をしていた。なぜベテランの譲二が歌詞を忘れたのか。今日、放送されたNHK歌謡コンサートの出来事だった。おそらく出番前のトークタイムに原因がある。ゲストがピーター(池畑真之介)だった。山本が歌手をめざして上京したが、まだデビューできず、スナックでアルバイトをしていた。たまたまピーターを店内でみかけた。山本はそのときのスターのオーラを鮮明に覚えていた。もちろんピーターは譲二のことは全然覚えていない。たぶんその興奮で歌詞を度忘れしたのだろう。生放送の歌番組。どんなベテラン歌手でも相当な緊張がある。番組の趣向として歌手たちのプライベート・トークが増えているが、歌う前の饒舌は歌手に相当な負担である。歌手がリラックスして歌えるには司会者の仕切り上手がポイントである。
ハリウッドから生まれた男女の小さな恋の話は、ほとんどがハッピーエンドで終わる。だが中には悲恋もある。「哀愁」(1940)の原題はウォータールー・ブリッジ Waterloo Bridge といい、日本でいえば数寄屋橋のようなもので、そっけないタイトルである。しかし霧のロンドンの儚くも悲しい恋に酔わされ、観衆にはある種の幸福感がもたらされる。「Random Harvest」直訳すれば「無作為な収穫期」だが、なんとこれが記憶喪失のメロドラマ「心の旅路」(1942)である。こちらはハッピーエンドである。ベストカップルはマーナ・ロイとウィリアム・パウエル。
1918 散り行く花
1927 肉体と悪魔
1934 或る夜の出来事
1953 ローマの休日
1955 慕情
1957 めぐり逢い
1961 ティファニーで朝食を
1962 恋愛専科
1970 ある愛の詩
1981 エンドレス・ラブ
1990 プリティ・ウーマン
「山のあなたの空遠く」という一編の詩で知られる詩人カール・ブッセの名前は日本ほどにドイツでは有名ではない。アダモの「雪が降る」はシャンソンの名曲だが、フランスでは誰も知らない。「仰げば尊し」は日本では知らぬ人はない卒業ソングだが、原曲の本国であるアメリカでは誰も知らない。ウィーダの「フランダースの犬」は日本ではよく知られている物語だが、舞台となったフランダース(ベルギー)ではほとんど知られていない。どうして「フランダースの犬」が本国で読まれなかったのか。アニメ版ではネロは10歳の少年だが、原作では15歳である。当時のヨーロッパでは十分に働ける年齢とみなされ、もっと生きるための努力をするべきだという指摘がある。つまり19世紀末のヨーロッパ近代の倫理に「フランダースの犬」は適わなかったのである。
ふんどしの色といえば、白色をイメージするだろう。倹約家の徳川家康は「ふんどしは薄黄色が一番!」といっていた。つまり汚れが目立たず、洗濯の回数が減って、生地が長持ちして、節約になるというのである。家康の使用済みの黄ばんだ褌が徳川美術館に所蔵されている。幅30cm、長さ8.6mで、ところどころに茶色のシミのようなものがみられる。家康の遺品のなかでも、まさしく珍品!ふつう六尺褌でも長くて3mだが、戦国時代の武将は防護用に下帯として麻で何重に腹部を巻いていたので8mもあるのだろう。
NHK震災復興に向けてのコンサート「明日へ」。(3月10日放送)はたして皆の心に届いたのか。SMAPとAKB48「掌が語ること」など人気者の出演、すごく選曲が良かったという若者と年配者とはだいぶん感想がちがうだろう。ニューヨークの街角で頻繁に目にするのはストリート・ミュージシャン。1人はヴァイオリンを手に持ち、もう1人はチェロを持っている。机の上にはお金を入れる瓶があり、コイン1枚でマイケル・ジャクソンからレディ・ガガまで、その場でリクエストに応えて演奏してくれる。むかしのギター流しだ。
大正から昭和のはじめにかけて大流行した思い出のヒット曲をひとりYouTubeで聴く。「マノン・レスコオの唄」「私の青空」「アラビアの唄」「波浮の港」「島の娘」「濡れつばめ」「天竜下れば」「彼女のイット」「ほんとにそうなら」「十三夜」「祇園小唄」「唐人お吉の唄」「女給の唄」「侍ニッポン」「東京音頭」「影を慕いて」「酒は涙か溜息か」「東京行進曲」「天国に結ぶ恋」「銀座の柳」「明治一代女の唄」「ルンペン節」
日本女性はいつからパンティを履くようになったか?たとえば新島八重(1845-1930)がパンティやブラジャーをしていたのか、という悩ましい質問がある。1932年の白木屋デパートの火災が切っ掛けで履くようになったという俗説があるが、すでに洋服では洋物の下着を着用する女性は明治時代からいたようである。下着の歴史を遠くさかのぼると、古代から男性は褌を、女性は腰巻き状の下着をまとっていた。女性はその性器の形状が外部に露出している訳ではないので、腰蓑(スカート)のように陰部を覆うだけで十分であった。ただし6世紀末の推古女帝のような高貴な女性はおそらく肌を覆う下着を身に着けていたと考えられる。
さて明治になって西洋の下着が渡来してくると、日本女性がどのような下着を着用していたのか、あまり詳しい資料がなく定かではない。19世紀の一般的な下着は男女とも、手首から足首まで覆うユニオン・スーツといわれるものであった(画像)。1910年代の後半に、カルマーズ紡績会社がアンダーシャツとズロースの2つに分ける方式を考案する。メリー・フェルプス・ヤコブがブラジャーを発明したのは1913年のことである。日本女性がズロースを履くようになったのは1920年以降のことであり、ブラジャーの着用は1950年以降である。(Union Suit)
世界史を学習している頃、先生から「岩波講座世界の歴史」を全巻読むように言われた。高校時代に中央公論「世界の歴史」、文藝春秋「大世界史」、河出書房「世界の歴史」、社会思想社「世界の歴史」は読んでいたが、岩波講座はとても読めなかった。原著論文スタイルで通読できるようなシロモノではない。やがて講談社「世界の歴史」全25巻、ビジュアル版「世界の歴史」全20巻、中央公論社「世界の歴史」全30巻が1998年から刊行された。これらは全巻通読していない。やはり研究の進化に伴い、アフリカや東南アジア、ラテン・アメリカなどの第三世界に多くの記述がさかれ、複雑化している。講談社版第6巻の「黒い大陸の栄光と悲惨」を執筆している山口昌男さんが先日ご逝去されたが、当時43歳で新進気鋭であった。講談社版は1977年から刊行されたが、オリエント史の杉勇、ギリシャ史の弓削達、西洋中世史の堀米庸三、清代史の増井経夫など故人となり、ご存命の先生は増田義郎さんなど少なくなっている。もし現在このような水準とスタイルで「世界の歴史」を編集するならば、最低でも40巻以上のものとなり、全巻購入できる読者も限られるであろうから出版社も覚悟がいる。だがネットからの情報は断片的なものになるので、やはり本格的なシリーズ物の「世界歴史」の刊行を望みたい。これまで一番読みやすかったのは「大世界史」。大世界史(1969年)の執筆陣は、三笠宮祟仁、村川堅太郎、植村清二、石田幹之助、田中克己、井上光貞、中村元、三橋富治男、堀米庸三、村上正二、護雅夫、別枝達夫、西村貞二、神田信夫、石田一良、成瀬治、柴田三千雄、鳥山成人、尾藤正英、矢田俊隆、中屋健一、尾鍋輝彦、衛藤瀋吉、芳賀徹、林健太郎、鳥海靖、野田宜雄、猪木正道、高坂正堯。
君が行き 日長くなりぬ 山たづね
迎へか行かむ 待ちにか待たむ
「万葉集」に収められている仁徳天皇の皇后、磐之媛命(いわきのひめのみこと)の歌。意味は「天皇の行幸は日数が長くなりました。山を尋ねてお迎えに行こうか、それともひたすらお待ちしていようか」という相聞歌4首のうちの最初の1首。磐姫皇后は5世紀前半の人で、履中・反正・允恭3天皇の母。武内宿禰の子、葛城襲津彦の娘。とても嫉妬深くて、彼女が熊野に遊びに出た隙に仁徳天皇が八田皇女を宮中に入れたことに激怒して、山城の筒城宮に移り、同地で没した。
兼好法師は「何事も古き世のみぞ慕はしき。今やうはむげにいやしくこそなりゆくめれ」と書いている(徒然草第22段)
なる程、万葉集、古今集、新古今集、そして現代短歌になるほど廃れていく。近代小説も、鴎外・漱石は良いけれど、荷風・潤一郎、太宰治・三島由紀夫、そして現代芥川賞の作品となるほどだんだんとおちていく。交響曲、ベートーベン、シューベルト、メンデルスゾーン、ベルリオーズ、ブラームス、ブルックナー、チャイコフスキー、マーラー、シェーンベルク、ストラビンスキー、メシアンとなるほど一般的ではない。絵画もダ・ヴィンチ、ラファエロからゴッホ、ゴーギャン、そしてアンディ・ウォーホル、リキテンスタインへ。日本の政治家も明治の大久保・伊藤から平成の鳩山・菅・野田へ。アイドルも美空ひばり、山口百恵、松田聖子からAKB48へ。相撲は谷風・雷電から双葉山・大鵬、千代の富士・貴乃花、そしてモンゴル力士へ。
日本最古の歌集が万葉集。名前がわかるだけで男性が400名、女性が114名いる。作者未詳歌が2103首ある。もっとも古いのが磐姫皇后の4首(万葉集2巻)だが、真に古いのは舒明天皇のときからで、推古朝以前の歌については、後の時代の人が仮託した作と考えられている。
非暴力・不服従によりインド独立運動を指導したマハトマ・ガンジーは、「鉄道」が大嫌いだった。それは鉄道がイギリスのインド支配の重要な「要」だったからである。このように人はさまざまな理由から嫌いなものが一つくらいあるはずだ。トルコのケマル・アタテュルクは飛行機が嫌いで生涯一度も乗ったことがなかった。ネコが嫌いなナポレオン。子猫を見ただけでも冷や汗をかくほどだった。作曲家の中田喜直はタバコが嫌いだった。嫌煙権運動にも積極的だった。江川卓は飛行機が嫌い。久米島キャンプへ飛行機だと30分の距離だが、フェリーで約4時間かけて行くそうだ。石原慎太郎はなぜかパンダが嫌いだ。「パンダなんかいなくてもいい」と発言。伊丹十三は高校野球が嫌い。「私は高校野球というのが実に吐き気がするほど嫌いです。それは高校の野球選手たちの顔つきがあまりにも愚かしいためで、いやあ、あいう生徒がどのクラスにも必ずいるんだよね」と書いている(「女たちよ!」)。
伊丹よりもっと意外なのは谷崎潤一郎の文楽、義太夫嫌いである。谷崎は文楽に心酔して「蓼喰う虫」を発表しながら、戦後は「義太夫を聴くと軍閥の野蛮性を思ひ出し、あの当時の国民全体の馬鹿さ加減を思ひ出して、一層厭な気がする」文楽の脚本の筋のあくどさを否定して、こういう痴呆の芸術を子供に見せても「恐らくはただグロテスクなものを感じるだけで、そこにある奇形的な美を理解することは出来ないだろう」と痛烈に批判している(「所謂痴呆の芸術について」昭和23年)。
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戦国史はなかなか複雑である。たとえば時期を決めて、全国の勢力分布を調べるとしてもわからないことが多々てでくる。小中学生の自由研究などでもネットを使って調べれば、面白いテーマだと思う。とりあえず永禄3年5月19日を基準にして述べる。この日は僅か2000人の兵を率いて織田信長が今川義元の2万5000の軍を桶狭間に破った戦いであり、戦国勢力地図を大きく塗り替えることとなった。当時、織田信長(1534-1582)は尾張を勢力下にしていたすぎない。隣国の美濃は斎藤道三の死により、斎藤龍興(1548-1573)が家督を継いだのが永禄4年のことである。駿河には今川義元(1519-1560)がいた。甲斐には武田信玄(1521-1573)、武蔵には北条氏政(1538-1590)、越中、佐渡は上杉謙信(1530-1578)ら強豪がいる。近畿は三好長慶(1522-1564)の勢力下になっていた。山城、丹波、播磨を領有している。越前は朝倉義景(1533-1573)が、若狭は浅井久政(1524-1573)が、伊勢には北畠具教(1528-1576)がいる。周防、安芸、備後には毛利隆元(1523-1563)がいるが、出雲の尼子晴久(1514-1562)と石見を争っている。長門、豊前には大内輝弘(1520-1569)が、豊後には大友義鎮(1530-1587)が、肥後には龍造寺隆信(1529-1584)がいる。薩摩・大隈・日向は島津貴久(1514-1571)の領国である。
しかし映画やドラマなどの影響で今川義元は「お歯黒をして公家風で、蹴鞠ばかりして遊んでいた」とか「桶狭間の戦いのとき、馬にも乗れず輿に乗っていた」などと軟弱で愚かな武将というイメージがある。しかし実際の義元は、検地をはじめ戦国武将の領国経営のモデルとなる施策を先駆的に進めた武将である。(参考:小和田哲男「今川義元」ミネルヴァ日本評伝選 2004)
盛岡中学校時代の石川啄木は、英雄ナポレオンが好きだったが、やがて一年生の頃から二年生にかけて、海軍士官の方へ心を引かれていった。三年生の石川は同級生の石掛友造とともに五年生の及川古志郎(1883-1958)、吉田初五郎、田子一民らの指導を受けて文学的な知識を養った。そして及川の紹介で野村長一(胡堂)、金田一京助(花明)ら、盛岡中学における代表的な文学青年と交わった。啄木は風采の堂々とした及川と得意となって歩き、同級生に「一さんは及川のP (かわいがられ者の意)だ」などとやじられたりしている。啄木は軍人にあこがれて、古志郎を訪問してその指導を受けた。しかし小柄な啄木にはその道が向いていないことを諭したといわれる。
この啄木に文学的影響を与えた及川古志郎はのちに海軍兵学校を出て海軍大将、海軍大臣になっている。とくに昭和15年9月、日独伊三国同盟問題の紛糾で辞職した吉田善吾に代って、第2次近衛文麿内閣の海相となり、従来の海軍の三国同盟の消極的姿勢を捨て、同盟の締結に同意した人物として歴史にその名を残している。
盛岡中学の出身の二人を比べて、山田風太郎は「今日啄木が天才歌人として不朽の名声を得ているのに反して、及川古志郎は誰一人省みる者はいない。生きているうちは優勝劣敗の法則が適用されても死後まで見とおすと、必ずしもそうではないのが人間世界の面白さである」と書いている。
キリスト、コンスタンティヌス9世および皇妃ゾエ 11世紀 優美なビザンツ様式のモザイク アヤ・ソフィア大聖堂
およそ5世紀から15世紀までの時期は通常ヨーロッパでは中世といわれる。中世の美術は、信仰の中心である教会建築とその彫刻・絵画を中心に発達した。ロマネスク、ゴシック、ルネサンスの様式のそれぞれの個性に、時代や民族の美意識が感じられる。
ケルズの書 8世紀 アイルランドの修道院によりオイオナ島またはケルズの修道院画房で制作された福音写本 トリニティ・カレッジ図書館蔵
ロルシュのアウレウス写本の象牙の表紙 810年頃 ヴィクトリア・アルバート博物館蔵 カール大帝カロリング朝ルネサンスの宮廷文化の特色がでている
ジャン・ピュセルの聖務日祷書のミニアチュール(1343年) 余白の植物・鳥獣の描写は楽しい詩である パリ国立図書館蔵
ドナテロ「ニッコロ・ダ・ウッツァーノの肖像」 1432年
アンドレア・デル・ロッピア「幼いキリスト」 1450~1460年頃
リーメンシュナイダー「マグダラのマリア」1490-1492年
様式の歴史 西洋美術のかたち 澤柳大五郎編 1963
ヨーロッパ史入門 全10冊 岩波書店 2004
谷崎潤一郎の研究家たつみ都志が谷崎・吉井勇書簡を調査したところ、黒瀬久賀という女性名がしばしば散見する。第7代神戸市長、黒瀬弘志夫人である。昭和17年頃、黒瀬夫妻は谷崎が住む反高林の家から北側、「1軒おいて隣」に引っ越してきた。久賀夫人は明治28年生まれで、当時47歳くらい。大きな屋敷に住み、社交的な華やかな美人であっという。谷崎は黒瀬夫人に関心を引き、松子を通して交際が戦後まで続いた。吉井勇宛て書簡には「今度拙宅付近在住の夫人令嬢たち寄り集まり、大体一週間一度くらい貴公の御来駕を仰ぎて和歌の御教授にあづかり度とのことにて(中略)人数は十人内外前神戸市長黒瀬氏の夫人令嬢など(中略)愚妻もその中に加えて頂度と申居候場所は黒瀬邸(拙宅の一軒おいて隣)を選ぶ事と相成べく小生も時々御目に懸かれて楽しみに御座候」とある。ただ残念なことに、黒瀬久賀が谷崎の『細雪』の中でどのような形で投影されたのかは未だ定かではない。(参考;たつみ都志「第3の女人像 黒瀬久賀の存在」谷崎潤一郎記念館ニュース25 1998.6)
高級万年筆というえばモンブランやペリカンというブランドが有名だが、夏目漱石は英国トーマス・デ・ラ・ルー社製のオノト Onoto を愛用していた。
「オノトで書いているのであるが、大変心持よくすらすら書けて愉快であって、ペリカンを追い出した余は其姉妹にあたるオノトを新しく迎え入れ」と書いている(「余と万年筆」)
漱石は大正元年から5年間愛用し、「行人」「こころ」「道草」「明暗」などを、このペンで生み出した。オノト万年筆は1906年にデ・ラ・ルー社が発売したが、日本では丸善が代理店としてオノトの輸入販売を開始し、漱石や菊池寛らが愛用した。残念ながら、同社の万年筆は1958年に製造を中止し、現在はもう手に入らない。(Thomas de la Rue)
「読者が選ぶ私の好きな岩波文庫」(2003)という人気投票ランキング。
1 こころ 夏目漱石
2 坊っちゃん 夏目漱石
3 銀の匙 中勘助
4 吾輩は猫である 夏目漱石
5 君たちはどう生きるか 吉野源三郎
中勘助の「銀の匙」は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」(18位)よりも、太宰治の「人間失格」(21位)よりも読者の人気がある。「銀の匙」は少年時代の追憶である。
夏は虫屋の店に気をそそられる。扇、船、水鳥などの形をした虫籠に緋色の総をさげてりんりんれんれん松虫や鈴虫を鳴かせている。きりぎりすは戸をひくように、轡虫はかさこそとなく。
まるで小説というよりも清少納言の「枕草子」のような、思い出が順ぐりに語られる。灘中学校・高等学校の国語教師、橋本武がこの中勘助の「銀の匙」を3年かけてじっくり読ませるという授業をして、実績をあげたという。橋本は「この作品は、夏目漱石も絶賛するほどの美しい散文でつづられていて、日本語の勉強にはもってこいです。内容も、等身大の男子の成長が描かれていて、生徒も追体験しやすい。江戸下町の風俗や、日本古来の風習などが散りばめられていて、知識を広げる余地がいくらでもあります。また、新聞小説だったので、1章の分量が授業で扱いやすい長さでした。文学作品として優れたものはたくさんありますが、たとえば漱石の小説のように物語性の高いものは、筋書きにとらわれて脱線しずらいのです。教材には「銀の匙」しか考えられませんでした」と。
幕末から明治大正にかけて大坂の漢学教育に大きな足跡を残した私塾の一つに泊園(1825-1948)という書院がある。創設者の藤沢東畡(1794-1864)は、寛政6年、讃岐国香川郡安原村に生まれる。文政7年、大阪に出て漢学塾「泊園書院」を設立。書院は幕末には大阪で最大規模の私塾として栄えた。長男の藤沢南岳(1842-1920)は、父と谷南明に学ぶ。明治6年に泊園書院を再興する。通天閣の命名は南岳によるものである。南岳は明治5年の学制に示された実用実利主義的教育理念に対する反発があった。
その後、泊園書院は藤沢黄鵠、藤沢黄坡(1876-1948)と三世四代相継がれた。此処より輩出した人物には、岡本監輔(1839-1904)、岸田吟香(1833-1905)、市村水香(1841-1899)らがいる。藤沢黄坡(藤沢章次郎)の死後、その蔵書は義弟の石浜純太郎(1888-1968)の紹介により遺族から関西大学へ寄贈され、泊園文庫として所蔵されている。内容は漢籍を中心とするが、江戸官学に対する近世浪速文化の精神文化遺産といえる。また一族から昭和の流行作家、藤沢桓夫(1904-1989)や石浜恒夫(1923-2004)がでている。
参考:陶徳民「時流に乗らないという泊園精神」関西大学 東アジア文化交渉研究別冊2 2008年
学齢期以前は異性を含んだグループで仲良く遊んでいた男の子と女の子も、小学校へ入るころから遊び方の違いなどもあって男女別々の集団を作り、敵対的態度で拮抗しあうが、さらに第二次性徴があらわれる12、13歳ころになると、羞恥心や性の不安を感じて異性を嫌悪するようになり、それとともに、圧殺された不安定な感情を年長者や同性などへの愛着によって補償しようとする。女子における男装の麗人への憧れや、男子におけるグラビア・アイドルへの執着などがそれである。15、16歳になると生理的な性の発達の受容が進み、同年輩の異性への関心が向き始める。青年期の異性への恋愛感情には観念的、妄想的なものがともなう。青年期の異性交際には大きく分けて二つの型がある。ひとつはデートであり。他の一つコートシップである。デートとは、結婚が直接の目的とされず、交際の相手は、ボーイフレンド、ガールフレンドと呼ばれ、一人に限定されることはなく、複数の異性が併存し、関係の解消も自由である。またコートシップとは、結婚が最終の目的とされ、その目的達成のために行われる配偶者選択過程としての異性交際である。交際の相手は、恋人と呼ばれ、特定の一人に限定され、しかもその相手を容易に変えることは許されない交際である。それだけに二人の関係は親密で、相互の責任も重い関係であ。。このようなデートとコートシップとは異なる性格をもっているが、両者は配偶者選択の過程として密接に関わりあっている。まずデートで多数の異性との接触をもって、異性をみる眼を育て、配偶者を選択する能力をより高めるための学習を行なう。そして、デートの交際相手のなかから配偶者としてもっとも相応しい人を一人選び、結婚を前提とするコートシップの段階へと進み、結婚へとなるのである。まずデートの特徴はどこにあるか考察する。第一次世界大戦後、アメリカ社会に新しい男女交際の習慣を生み出したデートの特質には四つある。第一に、デートがそれ自体、レクリエーションとしての目的をもっている。第二に、デートは成長期の青少年にとって、一種の自立へのシンボリックな行為様式となっている。第三に、デートは青少年社会のなかで当事者のステイタスを決定する一定の社会の参加様式でもある。第四に、しかし同様に、デートのはじまる高校生段階は、性行為を認めないから、両者間で一種のスリルを味わう行為様式となる。こうしたデートの特質からペッティングという独特の性交渉の様式が生み出されたのである。
NHK大河ドラマ「八重の桜」は幕末のジャンヌ・ダルク新島八重がヒロイン。震災後の日本の危機感を象徴するような物語である。近衛内閣当時のように、国民はひとしく心をあわせ聖戦完遂に邁進しよう、国民精神総動員、男も女もみんな兵士だ弾丸だ、このような機運がみえる。戦時下というと、女性は口紅もせず、モンペ姿で銃後を守り、歌舞音曲や文化はすべて軟弱とみなされ、国策に反するものと禁止される。ところがところ変われば品変わる。ドイツの戦時下はポルノグラフィーが賞賛されていた!?といえば、チョッと言い過ぎか。
ここの1枚の写真がある。ナチスの高官らしき人物が展覧会を視察している。壁に飾られた絵画が裸体画ばかりなのが何とも奇妙である。ナチスは近代美術を道徳的・人種的に堕落したものであるとして、退廃芸術と批判したはずである。なのに裸婦像が認められるのか。
エンタルテーテ・クンスト(堕落した芸術、つまり退廃芸術)。エンタルテーテとは「退廃」を意味するほかに「退化」という意味もある。この言葉は19世紀の精神医学の分野から生まれた専門語で、1857年、ベネディクト・モレルの著書「身体的、知的、精神的退化概論」に見える。ダーウィンの進化論の信奉者であるモレルは、ユートピアを目指して進化する人間の目的を阻害するものとして退化する人間の害悪を説いた。そして1892年に文明批評家のマックス・ノルダク(1849-1923)は「退廃」を出版する。当時の芸術運動の主流は印象派と点描派であったが、見たままの世界があのような風景ならば、正常の視覚とはいえず、文化の全部分を政治の統治下に置き統制すべきである、とノルダクは考えた。シオニズム指導者であるノルダクが、退廃とユダヤ人とを結びつける議論を払拭するために近代芸術こそ退廃であると論じたのであるが、歴史の皮肉で、この書物がナチスの文化統制を肯定するものとなってしまった。
ナチスの芸術ではたくましい英雄像や純潔を示す処女のヌードが、むしろ賞賛すべものとなった。それは、出生率の増大に役立ち、官能的なペネロペー(貞淑な妻)たちが、勇士の帰還を待っているのだということを暗示している。垢抜けない田舎娘を描いたゼップ・ヒルツ(1906-1967)や「恥毛の巨匠」と揶揄されたアドルフ・ツィーグラー(1892-1959)などが知られている。(Entantete Kunst,Max Nordau,Sepp Hilz,Adolf Ziegler)
モデル武田アンリが武田信玄の末裔であることの真偽をめぐって話題となっている。中国では孔子の末裔が海外在住を含むと約200万人もいるという。物事の真偽をみつけるのは難しい。NHK「ひるブラ」。道後温泉は伊藤博文や夏目漱石など多くの著名人が訪れた。そして聖徳太子も病気療養のために道後温泉に滞在したことが伊予国風土記逸文に記されている。ただしこの話に否定的な人もいて、「聖徳太子の虚像 道後来湯説の真実」の著者・合田洋一は「誤った歴史に基づいて道後温泉の名を使ってはいけない」と考えている。個人的な売名のために虚偽を語るのは批判されるが、地域おこしなどで怪しげな来歴を宣伝に使うのは許容範囲とする伝統があるようだ。義経の腰掛石とか敦盛の青葉の笛、茂林寺の分福茶釜とか全国各地にウソの名所がある。
歌番組「火曜曲」。有名人の携帯ランキングを公表。大島優子や亀田興毅はMr.Childrenがお気に入り。鈴木奈々は「Love is…」(加藤ミリヤ)。井岡一翔は「栄光の架け橋」(ゆず)。映画評論家LiLiCOは「パピネス」。タケカワユキヒデではなくAIの曲。現在はケータイやスマホから音楽ダウンロードで簡単に聞けるから便利だ。何度も繰り返して聞くことをヘビロテ(ヘビーローテーション)というらしい。ケペルのお気に入りの曲はアンニョン・クレヨンの「パパカレーのうた」。Somaとキムミジャの男女二人組ユニット。2011年「せかいへいわmusic」を立ち上げ、人と人とがもつと自然に手をつなげることをテーマに活動中。
ガーナという国は西アフリカの中では、日本人によく知られた国の1つではないだろうか。1957年のこの日、独立した。野口英世が黄熱病研究で倒れたところであり、ロッテのガーナチョコレートでおなじみである。クワメ・エンクルマ(1909-1972)が初代大統領につき、冷戦下において社会主義と友好関係を強化した。アメリカCIAによって1966年に軍部クーデターが起こり、失脚し、ギニアに亡命した。1972年4月27日、ルーマニアのブカレストで病死した。エンクルマはいまは「ンクルマ」と表記される。ンクルマの失脚後、何度か軍事政権が交代したが2000年以降、国情は安定している。2012年7月24日、ミルズ大統領(1944-2012)が急死した。(Ghana,Kwame Nkrumah、3月6日)
豊臣秀吉は天正6年(1578)頃、信長から許可されて茶の湯をはじめた。その後しばしば茶会を催したが、天正9年、それまでの功績によって信長から8種の名物道具を与えられた感激をのちのちまで忘れず、書状に書き残している。天正11年の大坂城入城記念の茶会、天正12年10月の大坂城茶会、天正13年3月5日の大徳寺茶会、天正14年の黄金の茶室で有名になった禁裏茶会、天正15年5月3日の大坂城茶会、天正15年10月1日の北野大茶会などである。茶人としては、千宗易(利休,1522-1591)、今井宗久(1520-1593)、津田宗久(?-1591)、山上宗ニ、重宗甫、住吉屋宗無、万代屋宗安、田中紹安(千道安)などの「御茶八人衆」をはじめ神谷宗湛(1551-1635)、今井宗薫(1552-1627)、松井友閑、荒木道薫、武将では細川幽斎、小寺休夢斎(黒田如水の叔父)、高山右近、荒木村重などの有名人が参会している。
北野大茶会はとくに盛大で歴史上もっとも有名な茶会であった。天正15年8月より、洛中をはじめ畿内一円に高札を立てて参加者を募った。高札の全文は7箇条にわたるが、身分上下の別なく、数寄者であれば手持ちの道具を持参せよ、茶器のない者は「こがし」でもよい、と呼びかけている。「こがし」とは、米や麦を焼いて焦がしたもので、湯に溶かして飲むもののようだ。きわめて庶民的な発想をもったものであった。そのため当日は1000人以上の参会者があったという。
1833年インドのイギリス軍の中尉ヘンリー・ローリンソンは、軍隊の訓練のためにペルシアに来た時、ここの主要な隊商道路に沿うべヒスタンという村で高さ百数メートルの断崖の上部に80メートル余りの平らな部分があり、そこに何か彫刻してあるを発見した。彼はかねて古代の遺跡に関心をもっていたので、1835~38年の間業務の傍らその研究を進めていたが、1844年に至り、友人とともにここに来て転写をした。有名な諸民族を征服したダリウス大王の彫刻の下にペルシア語、バビロニア語、スシアナ語(一名エラム語)とで何事かが彫られていた。のちグローテフェントはペルシア語を手がかりとして、一部分を翻訳した。さにら大英博物館のロー、ヒンクス、オッペルト、トールボットらによって解読が進められた。「王ダリウスはかく語る。アフラマズダの神慮によりて朕はここに誌せる以外の多くの業績を遺したり。これらは一々此の碑銘に誌さず。これを記録に留めざるは、後世此の碑銘を読む者が、朕の業績碩の余りに大なるを想い、これを信ぜずして虚偽をなさんことを惧るるが故なり」とある。アケメネス朝ペルシャ帝国のダリウス1世(在位前522-前486)は、広い領土を支配するため全国を20余りの州に分け、各州にサトラップsatrapsを置いた。一方で「王の目、王の耳」と呼ばれる王直属の監察官を派遣し、総督の監視や情報伝達をおこなっていた。(DariusⅠ,Behiatun Inscription)
若杉嘉津子の「毒婦高橋お伝」(1958)を見ていると、お伝を慕う若い警邏の並河和馬がとても端正な顔立ちの二枚目。明智十三郎(1926-2002)は金沢医大中退というインテリな経歴の持ち主で、昭和30年代前半、東映の大川橋蔵、大映の市川雷蔵と並んで、新東宝の若君として君臨していた時代劇スターだ。ウィキペディアでは僅か映画出演作が2本しか記されていないが実際は60本以上ある。
「明治天皇と日露大戦争」(1957)では秋山真之を演じ、ドラマ「新選組始末記」(中村竹弥版)では沖田総司を演じている。代表作は「若君漫遊記」シリーズや「朱桜判官」。
フィルモグラフィーの一部を記す。
限りなき情熱 1952
栄冠涙あり 1952
泣虫記者 1953
ひめゆりりの塔 1953
少年姿三四郎 第一部 第二部 1954
悪魔が来たりて笛を吹く 1954
懐かしのメロディー 二人は若い 1954
懐かしのメロディー ああそれなのに 1954
続水戸黄門漫遊記 地獄極楽大騒ぎ 1954
懐かしのメロディー うちの女房にゃ髭がある 1954
竜虎八天狗 全4作 1954
天下の若君漫遊記 1955
大岡政談 黄金夜叉 1955
おしゅん捕物帖 謎の尼御殿 1955
大岡政談 人肌蝙蝠 1955
母なき子 1955
極楽剣法 前後篇 1956
快傑耶茶坊 前後篇 1956
快傑修羅王 1956
勤皇?佐幕?女人曼荼羅 1956
続 勤皇?佐幕?女人曼荼羅 1956
勝鬨天魔峠 1956
軍神山本元帥と連合艦隊 1956
桂小五郎と近藤勇 龍虎の決戦 1957
若君漫遊記 伏見稲荷の大仇討 1957
怪談本所七不思議 1957
白蝋城の妖鬼 1957
続若君漫遊記 金毘羅利生剣 1957
天下の鬼夜叉姫 1957
妖蛇荘の魔王 1957
危し!伊達六十二万石 1957
毒婦高橋お伝 1958
阿波狸変化騒動 1958
若君漫遊記 サタン城の魔王 1958
天下の副将軍 水戸漫遊記 1958
朱桜判官 1958
続隠密将軍と喧嘩大名 1958
天狗四天王の逆襲 1958
桃の節句。邪馬台国の卑弥呼は桃の花を好んだといわれる。日本歴史で安土・桃山時代(1576-1600)といえば、大河ドラマにも何度も映像化され最も豪華絢爛たる時代である。しかしJR奈良線の桃山駅は驚くほど寂しい。付近に伏見桃山駅(京阪本線)、桃山御陵前駅(近鉄京都線)がある。かつては伏見桃山キャッスルランドという遊園地があって親子連れで土日は賑わったが2003年で閉園し、どこもかしも暗く寂びれた感じがただよっている。「桃」が付く駅名は大阪環状線に桃谷駅がある。ほかに佐賀県伊万里市の桃川駅(JR筑肥線)、福島県南相馬市の桃内駅(JR常磐線)がある。桃内駅は原発事故の警戒区域内にあり現在も休止したままである。
1958年のこの日、イギリスの探検家ヴイヴィアン・フックス(1908-1999)が史上初の南極大陸横断に成功した。1957年11月24日、ウェッデル海のシャクルトン基地を出発した一行12名は、2158マイルを99日かけて、エンジン付のソリでロス海のスコット基地に到着した。20世紀初頭、アーネスト・シャクルトンが大陸横断を目指したが失敗してからおよそ50年後のことであった。
地球温暖化により南極の氷が解けて海面が上昇するのか?ゴアは南極が全部解けると海面が6mも上昇すると「不都合な真実」に書いているが、大げさという指摘もある。過去100年間の海面上昇は17㎝。しかし南極ウィルキンス棚氷では、この10年間で崩壊が続いていることが衛星画像で確認されている。(Vivian Fuchs,Shacleton)
古代の人骨をみると、世界中で穴の開いた頭蓋骨が発見されている。頭に穴をあける方法は、先にとがつた石をつけたきりに紐を巻き、弓を前後に引くというものだった。なぜ頭蓋骨に穴を開けるのか。これまで呪(まじな)いと考えられていたが、鋭利な武器のない時代、棍棒で殴られると、頭蓋骨内に内出血して脳が腫れて脳幹を圧迫するため、穴を開けて圧力を逃すという一種の治療法だった。愛知県の遺跡から出土した人骨では、頭蓋骨の穴が増殖細胞によって埋められ、手術は成功ししばらくは生きていたことが確認されている。ヨーロッパ中世ではトレパネーション(頭蓋穿孔)という民間治療として発達したが、からだに憑いた悪霊を追い出すためという呪い師の怪しげな手術が16世紀まで行われていた。(Trepanation)
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