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2013年2月21日 (木)

聖徳太子の謎

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 江戸時代の幽竹法眼が描く「聖徳太子・ニ王子像」1763年

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 唐本御影

    日本の古代史上に輝かしい足跡を残した聖徳太子(574-622)は、日本人にとって最もなじみの深い人物で、広く崇敬を集める偉人である。だが「日本書紀」に現れる厩戸皇子は謎の人物である。誕生日は1月1日ということになっているが、古い記録はなく後世の捏造である。また、生れてすぐ口がきけたとか、十人の訴えを一度に聞いた、とか超人的な逸話が多数ある。ここでは、伝説には眼をつぶって彼の歴史上の業績をみてみよう。崇峻天皇が殺されて、聖徳太子の叔母推古天皇が即位するが、太子はその摂政となり、603年12月、冠位十二階を制定し、翌年4月には十七条の憲法をつくったと「日本書紀」には記されている。当時の飛鳥王朝は蘇我馬子(?-626)が実力者であり、大家(おおとじ)・推古と叔父馬子の共同統治であった。若干20歳の厩戸が政治に関与できるところはきわめてすくなかったのではないだろうか。有名な十七条憲法も外部に発表されてものであるのか明らかではない。またその用語の研究から、太子の作ではなく、太子信仰が昂まった時点の僧侶の偽作とする説もある。太子の宮殿斑鳩宮は643年、蘇我入鹿の襲撃によって焼き払らわれ、一族子弟は全滅したので、十七条憲法の記録だけが残って「日本書紀」に転載されたのはいかにも不自然である。十七条憲法は後世の偽作とみるのが自然であろう。唐本御影の聖徳太子像。2人の王子は、右前方(向って左)が弟の殖栗皇子、左後方(向って右)が息子の山背大兄王とされる。聖徳太子の同母弟の殖栗皇子が子どものように描かれるのは不自然である。

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コメント

 伝説に目を瞑る必要はないと思います。

 伝説は、聖徳太子の聡明ぶりを伝えた素朴なものだと思います。そんなことはあり得ないと、太子自身の存在まで否定するのはどうかと思います。
 
 赤子は、普通生後1~2年で話し始めるのが普通でしょう。
 1年なら早いと感じると思います。
 単語の数や文章的表現にも差が生じます。

 生まれて一年目に、赤子に会った人が、単語だけでなく、すでに文章的表現までするようになっているのを見れば、驚くでしょう。今、こんなに話すということは、もっと前から話せたに違いないと思い込みます。そう言う人たちが、

 太子の死後、通夜などで在りし日を偲びながら、「あの方は生まれてしゃべり始めるのが兎に角早かった。」「ほんとにそうだった。」と自分の体験を語ったとします。
 
 「一年も経たずに」「数ヶという表現」では平凡すぎて、みんなが一致して驚いたことのリアリティーが表せないとして、「生まれて間もなく」「生まれてすぐ」などが定着して行っても不思議はないと思います。 それを医学的、科学的データの面から否定すると言うのは、創造力が欠如していると思います。

 「10人の訴えを一度に聞いた。」ということはこういうことが想像されます。

 11人で、会議をしていたとします。
 そのとき、自分以外の一人一人が、どう言う主張を持って居るかを見極めていたということではないかと思って居ます。
 
 若い摂政が、誰かの意見に偏り加担するのでなく、よく聴いて全てを聴き別けて判断するなら、会議の出席者達も心服することができたと思います。

 十七条の憲法は、政(まつりごと)に携わる、貴族、官僚を戒めたもので、官僚達が自らを厳しく律して、私利私欲に走ることを戒めたもので、豊耳聡あるいは、豊聡耳と言われる方に相応しい憲法です。
 
 しかも、それは若いから掲げられる理想です。
 太子の存在に疑いを差し挟むのは自由ですが、存在しなかったとする根拠は、想像の域をでないのではないかと思います。

   

初めまして、日ユ同祖論の本でアマゾンでベストセラーになっている真説ニッポン伝説と日本人と言う本を読んだのですが1度読まれてみるのはいかがでしょうか?
聖徳太子について目からウロコの事実が書かれていて興味深かったですよ。
著者は藤本 玄と言う人です

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