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2013年2月10日 (日)

立花粂蔵と福澤諭吉

    1854年、日露修好条約の締結を求めて来朝していたプチャーチン艦隊の中国語通訳官、O.A.ゴンケヴィッチの手引きで、鎖国体制下の日本から密出国をして、当時のロシアの首都ペテルスブルグに入った人物がいた。立花粂蔵といい遠州掛川藩を脱藩して身を持ち崩していたが、元は緒方洪庵の所で、蘭学を修めた知識人であった。立花はペテルスブルグで辞書編纂をまかせられ、1857年に約1万5800語を収録した初の日露辞典「和露通信比考」をロシア外務省アジア局から出版した。立花は自らは橘耕斎と名乗り、日常生活ではヤマトフ(大和夫)と称して外務省の通訳官となった。1861年、徳川幕府がヨーロッパに派遣した使節団は、ロシアのペテルスブルグで日本式調度品で一杯の部屋で厚遇された。福澤諭吉は必ずや日本人がいるはずだ、と思った。諭吉はヤマトフという人物に会ってみたかったが、ついに会えなかった、と「福翁自伝」に書きとめている。帰国してのちに、立花粂蔵だとわかった。のちに、立花は明治6年の岩倉具視大使一行がロシアを訪ねたとき、岩倉大使のすすめで帰国することができた。なおプチャーチンはペリーとは違い紳士的に日本の国情を尊重して交渉にあたっていた。日本の恩人として外国人を3人あげるとすれば、鑑真、シーボルト、プチャーチンだそうだ。(参考:山田風太郎「幕末妖人伝」)

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