富森助右衛門、最後の一日
時は元禄16年2月4日の午後、うららかな空は晴れて、春光が静かに地上に降りそそいでいた。ところは細川家の高輪下屋敷。吉良上野介を討ったあと、赤穂義士たちは熊本藩細川家、松山藩松平家、長府藩毛利家、岡崎藩水野家の4家に預けられた。そのうち熊本藩主の細川越中守綱利のもとに預かりとなったのは大石内蔵助ら17人。吉田忠左衛門、原惣右衛門、片岡源五衛門、間瀬久太夫、堀部弥兵衛、小野寺十内、間喜兵衛、早水藤左衛門、磯貝十郎左衛門、潮田又之丞、赤埴源蔵、矢田源左衛門、奥田孫太夫、大石源左衛門、近松勘六、富森助右衛門である。首脳・長老たちが含まれていた。その一人、富森助右衛門は、春帆と号し、和歌俳諧をよくする風流人でもあり、また母思いの情愛のふかい義士だった。切腹の日、助右衛門は老いた母の身をあんじて、くれぐれも頼むと遺言し、くしくも4日が姉の忌日だったので次の辞世を詠んだ。
先立ちし人もありけり今日の日を
終の旅路の思出にして
富森助右衛門正因。祖父は旗本の家来で、父の助太夫が赤穂浅野家に仕えた。助右衛門はその長男である。19歳のときに召し出され、馬廻りと御使番を兼ね二百石を給された。助右衛門には幼い子がいた。討入り後、細川邸に預けられたが、あるとき、小屏風に描かれた親鶏が雛を育てている絵を見て、「一家のことはほんとうに断念していましたのに、この絵を見て2歳になる子を思い出し、何やら不憫な気がいたしました。凡夫の浅ましさ、我ながら恥ずかしく思います」といった。一座の者、しばらく、しんとした。翌年の元旦、細川家から新しい小袖2枚が与えられ、酒肴さえ出された。助右衛門はさっそく筆をとって、一句したためた。
今日も春恥ずかしからぬ寝武士かな
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