古く美しきもの シルクロード
シルクロードとは、太古以来、アジアとヨーロッパおよび北アフリカを結んでいた東西交通路の総称である。ユーラシア大陸の中央部には、世界の屋根パミール高原がそそりたっている。その北方はるかかなたには、一望無限の大草原、いわゆるステップ地帯が広がり、パミール高原の東西には広大な砂漠が展開している。したがつてユーラシア大陸を横断するには、北方のステップ地帯を横断するか、中央部の砂漠地帯を横切るかするほかはなかった。幸い裁くには所々にオアシスがあり、このオアシス群をたどっていくと、東は長安から、西はローマまたはイスタンブールまで、幾多の苦難を乗り越えて到達することができたのである。 日本では日中国交回復以後、シルクロード・ブームとでもいうべき現象があった。井上靖や松本清張、陳舜臣らが健筆を奮い、並河万里の写真、そしてNHK番組のスペシャルで石坂浩二のナレーション、久保田早紀の「異邦人」が流行った。ならシルクロード博覧会まで開催された。だがまたふたたび世間の関心はなくなり、流砂のかなたに埋められたように静かになった。もともと「絹の道」(Seidenstrassen)という名称のおこりは、古代中国の特産品であった絹が、この道を通り、西アジアを経てヨーロッパ・北アフリカへもたらされたからいう。ドイツの地理学者リヒトホーフェンが大著「中国」(1877-1912)の第1巻の後半に東西交通の歴史を詳述している。その道を通って輸出された主な商品は中国の絹である。だからこれに対して「絹の道」と名づけた。ドイツ語で絹のことをザイデンSeidenといい、道はシューラッセStrasse(複数はシュトラッセンStrassen)という。絹の道は幾筋もあったのでザイデンシュトラッセンSeidenstrassenと複数形で呼んだ。その後、これを英訳してシルクロードという言葉が用いられるようになった。このシルクロードも最初リヒトホーフェンは、中国と現在のサマルカンド、および中国とインドの北西部を結ぶ道をさしていた。その後1910年に、ドイツの東洋学者アルベルト・ヘルマンが、シルクロードが絹を西方に運ぶ道であるならば、たしかに絹はローマまで運ばれたので,この名称をローマまで延長しようと提唱した。このようにしてシルクロードという言葉は、発展し拡大されてきた。(Ferdinand Freiherr von Richthofen)
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