ジヤール朝カーブース王の墓廟
グンバイ・イ・カブス 12世紀 イラン ゴルガーン地方
「グンバイ」とは「ドーム」つまり「丸いドームの建物」という意味で、「カブス」は王の名前で一般には「カーブース」と表記されることが多い。イラン、ジャール朝第4代の王カーブース(976-1012)の名前を知るかたは相当な世界史の知識のある人であろう。彼の生涯は、孫のカイ・カーブースが1082年に書いたペルシア語による「ナーブース・ナーメ」という道徳的教訓書に記されているが、その一生はきわめて変化に富んでいた。
10世紀から11世紀にかけてカスピ海沿岸地帯を支配していたのはアッバース朝が名目上イスラムの宗家として認められていたが、ブワイ朝(932-1055)、セルジュク・トルコ朝(1037-1157)が台頭してきた。その中でジヤール朝第4代のカーブースは、ブワイ朝の皇子ファウル・ウッダウラを、その2人の兄弟アドゥード・ウッダウラとムアッイド・ウッダウラから守ったために、数年間姿を消さねばならなくなり、帰国後に暗殺された。カーブースは文芸の保護者としても有名で自らも4行詩を作った。王の死後、第5代マヌーチヒル(在位1012-1029)、第6代アノーシールワーン(在位1029-1049)の時代に衰退していく。しかし、カーブース王の墓廟は現在もイラン・ゴレスターン州ゴルガーンに残る。塔の形をした最初のモニュメンタルな墓として現存する世界で最も高いレンガ造りの塔である。頂の円錐は遊牧民のテントから発想したものか、セルジューク以前の墓廟をうかがうことができる。また下の稜線のある柱(中空)の部分は、中央アジアの砦に用いられた形だともいわれるが、同じトルコ系の文化の伝播の名残りともとれる。「カーブース・ナーメ」は平凡社の東洋文庫「ペルシア逸話集・カーブースの書、四つの講和」として翻訳されている。(Gorgan,Ziyar,Buwayh)
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こんにちは、ケペル先生。
お体の方は、いかがでしたのでしょうか?毎日投稿されているので大丈夫だったんですね。講釈調の貴ブログを読み、勉強させていただいております。
恐れ入りますが、リクエストで「石垣」について隠れた名人とか話題等ないでしょうか?
お城と堀の石垣です。私はコオロギの鳴く音が好きで夜の散歩をしたりするのです。草原より石垣の裾からのコオロギが好きです。観光地でも石垣をみます。大洲(わが生地)城と龍野城の石垣や城割はそっくりですよ。
投稿: さぶろた | 2008年2月10日 (日) 19時52分
1月の初めに入院しましたが、簡単な手術で数日後には退院しました。ご心配をおかけましてすみません。
石垣に関する話ということですが、「安土城の石垣と穴太衆」という記事を書きました。すでにご存知のことですよね。
入院中に画像入り記事のつくり方を勉強したので、これからもっと城郭の研究をして、画像入り記事を書きたいと思います。ヒントをくれてありがとうございます。
投稿: ケペル | 2008年2月10日 (日) 22時50分