画家ジョシュア・レイノルズ(1723-1792)は1764年、サミュエル・ジョンソン(1709-1784)と「文学クラブ」(The Literary Club)を結成した。
クラブには政治家エドマンド・バーク(1729-1797)、作家オリヴァー・ゴールドスミス(1730?-1774)、俳優デビッド・ギャリック(1717-1779)、経済学者アダム・スミス(1723-1790)、政治家リチャード・シェリダン(1751-1816)、ジェイムズ・ボズウェル(1740-1795)、エドワード・ギボン(1737-1794)たち多彩なメンバーが集まったのは、ジョンソンの人柄によるところが大きい。
18世紀後期におけるヨーロッパ文芸思潮は啓蒙主義・古典主義から自由と個性を重んじ奔放な空想と自然の感情を尊重したロマン主義が芽生えてきていた。イギリス文人たちは古代のギリシア・ローマの廃墟に関心をしめし、古代ローマ様式が好まれるようになった。
廃墟への関心は17世紀の詩人ミルトン(1608-1674)の「失楽園」の中でもうかがわれるように、堕落天使が壮大な集合場所を造って、パンダエモニウム(集魔殿)と名づけ、ローマの荒廃したコロッセオ(円形劇場)を思わせた。
最初にこのローマの廃墟を文学作品として表現したのは詩人ジョン・ダイアーの「ローマの廃墟」(1740年)であろう。歴史家エドワード・ギボンは1764年4月、イタリアに赴き、ジェームズ・バイヤーズの案内で古代ローマの遺跡や文書を徹底的に調査している。それは名著「ローマ帝国衰亡史」(1776年)として結実する。
「サミュエル・ジョンソン伝」で知られる伝記作家ボズウェルも1765年3月にローマを放蕩旅行している。彼はコロッセオの中に入った時の印象を次のように書いている。
「この建物は、たしかに古代ローマ人の壮大さについての観念をあらわす、巨大で崇高なすがたをしめしている。1人の隠者の小さな部屋がある。われわれは、その隠者の住み家の前を通り、以前観覧席や廊下があったところへのぼっていった。この円形劇場のいくつかの部分が、牛馬のふんで埋まっているのを見てひじょうに驚いた」とある。
古代ローマ最大の遺物であるコロッセオの廃墟は過去の栄光と歴史の教訓を教えるものであろう。「コロッセオが滅ぶとき、ローマは滅び、そのとき世界も滅ぶ」と謳われたように、18世紀イギリス文人たちに創造の霊感をもたらした。コロッセオはおよそ5万人を収容できる円形闘技場で、周囲527m、高さ48.5m、4階建ての1階はドーリア式、2階はイオニア式、3階はコリント式の円柱で飾られている。コロッセオの正式な名称は「フラヴィオの円形劇場」といい、フラヴィオ家出身のウェシパシアヌス帝が75年にネロ帝の黄金宮殿の池を埋め立てて建設し、8年の歳月をかけてティトゥス帝の81年に完成した。白大理石で外壁を覆われたコロッセオでの100日間に及ぶ競技会はローマ市民を熱狂させたことであろう。
コロッセオの見世物は608年まで続いた。中世には、コロッセオは城塞として用いられた。ルネサンス時代を通じて、新しい宮殿や教会を造るために、人々はコロッセオを壊しては、石を運びだしたものである。この破壊行為は何世紀も続き、19世紀になってようやく法王が禁止し、残った部分を修復した。(参考:ピーター・クェンネル著「コロッセウム」講談社,Colosseo)
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