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2013年1月14日 (月)

モナ・リザの瞳

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    レオナルド・ダ・ヴィンチは1503年3月、ローマから故郷に近いフィレンチェに戻り、フィレンツェ政庁の会議室のための壁画(戦闘図)に着手した。(「アンギアーリの戦い」)現在、この壁画で残っているのは彼の素描とルーベンスによる模写だけである。ダ・ヴィンチの向かい側には、ライバルであるミケランジェロが「カッシーナの戦い」を描いていた。

    この時期はダ・ヴィンチの創作意欲の盛んな時期であった。彼の作品のうちで最も有名なあの「モナ・リザ」の制作にとりかかったのは、1503年10月ころからである。「モナ・リザ」という題は、ジョルジョ・ヴァザーリが「美術家列伝」で記している。モナは婦人、リザとはエリザベッタの愛称で、ヴァザーリはこの女性がフィレンツェの豪商フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻としている。この説をもとに、後世の美術史家は、モナ・リザのモデルは、フランチェスコ・ディ・ザノビ・デル・ジョコンドの3番目の妻であるエリザベッタ・デル・ジョコンドであると考えられていた。本名リザ・ゲラルディーニ(正式名はリザ・ディ・アントニオ・マリア・ディ・ノルド・ジョルディーノという長い名前である)は1479年10月16日に生まれ、ナポリの上流階級の出身であった。1495年にジョコンダと結婚した。モナ・リザがリザ・ゲラルディーニだとすれば、当時24歳ということになる。ダ・ヴィンチの肖像画の女性はもっと年齢が高く見える。そこで古来からモデルの女性は別人ではないかという説もあった。ナポリ公妃コンスタンツァ・ダヴァロス、イザベラ・タラゴーナ、イザベラ・デステ、はてはダ・ヴィンチの自画像説まで登場した。

    2008年1月14日、ドイツのハイデルベルク大学図書館はモナ・リザのモデルがフィレンツェの絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザであることを裏付ける証拠を見つけたと発表した。証拠は、1477年に印刷された所蔵図書の欄外にフィレンツェの役人による書き込みがあり「ダ・ヴィンチは今、リザ・デル・ジョコンドの肖像を描いている」と記述されていた。今回の発見はモナ・リザのモデルを特定する有力な証拠になったことは間違いない。

   ところが最近、モナ・リザの瞳に書き込まれた文字が、モデルの正体を示しているという新説がでてきた。文字は小さくて肉眼で確認することはできないが、超高解像度の写真を分析することでわかった。モナ・リザの右目には「LV」と書き込まれていて、ダ・ヴィンチのイニシャルが、左目には「B」または「S」、あるいは「CE」とイニシャルらしい文字が見られる。これがモデルの正体を示すものと考えられるが、リザ・デ・ジョコンドであるとする説には否定的であるという。

    だが美術史の上での問題の所在は、モナ・リザの謎の核心はモデルの戸籍調べではなく、「モナ・リザの微笑み」の謎であろう。古来、この微笑が何を表わそうとしているのか解明した者はいない。黒いヴェールをかぶっているのは、一人娘が死んだためという説があるが、確証はない。リザがいつも哀しい表情だったので、ダ・ヴィンチは制作中に音楽家と道化師を雇ってリザを癒やしたといわれている。

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