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2013年1月27日 (日)

五葉と漱石

Tumblr_lg6qm1zyqi1qzxf07o1_400    橋口五葉(1880-1921)は、明治13年、鹿児島で生まれた。本名は清といい、五葉は生家の庭の五葉松にちなんでつけられた雅号で、東京美術学校時代から使っていたという。清は三男で、長男は貢、次男は半次郎といった。橋口貢は漱石の熊本の第五高等学校時代の生徒で、後に外交官になった。五葉はこの兄を通して漱石と出会ったと思われる。次兄の橋口半次郎は船の設計家であり、その関係で五葉は日本郵船のパンフレットの表紙を描いている。五葉は狩野派の絵を習い、橋本雅邦に入門した。しかし同じ鹿児島の出である黒田清輝に、やはりこれからは洋画を学ぶべきだとすすめられ、明治32年、白馬会研究所で洋画を学んだ。そして翌年の明治33年、東京美術学校西洋画科に入った。明治38年卒業。五葉は「ホトトギス」にカットを描き、漱石に気に入られる。明治38年、漱石の『吾輩ハ猫デアル』上巻の装丁をした(挿絵は中村不折)。装丁デザインに興味があった漱石は、ヨーロッパの本や雑誌を見せ、世紀末芸術の話を聞かせて、新しいデザインをつくらせようとした。そして漱石・五葉のコンビによって、明治39年『漾虚集』、明治40年『鶉籠』、明治41年『草枕』『虞美人草』などのデザインが生まれる。美術評論家の海野弘は「橋口五葉は、漱石の草枕のモデルとなった画家である」といっている。漱石とのコンビは、その後も『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』まで続く。明治40年、油彩屏風「孔雀と印度女」、第1回文展に「羽衣」を出品。明治44年、三越百貨店のポスターが一等になり一躍有名になる。この頃から油絵をやめ、日本画の无声会(むせいかい)に入り、浮世絵の研究をはじめた。大正4年、渡辺版画店から木版「浴場の女」を出し、大正9年まで新版画を制作した。次兄橋口半次郎は美術史家上野直昭の妹と結婚した。大正10年の「浮世絵之研究」第二号は五葉の追悼号であるが、上野直昭は「橋口五葉伝」を寄せている。半次郎は岩波茂雄とも親しかった。大正8年に五葉が岩波書店から、『広重東海道五十三次』、『歌麿』、などの復刻を出すのも、次兄の仲介があったからかもしれない。杉浦非水(1876-1965)、橋口五葉などの作品には、アール・ヌーヴォー様式による図案の試みがみられる。(参考:海野弘『日本のアール・ヌーヴォー』青土社)

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