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2013年1月 1日 (火)

西芳寺・自然が織りなす奇跡の庭

  京都・西芳寺(西京区松尾神ヶ谷町)は、洪隠山と号し、通称苔寺と呼ばれ知られている。寺伝では、天平年間(729-749)に行基が開いたと伝えられ、その後、暦応2年(1339)に夢窓疎石が禅宗寺院として復興した。この時もと西方寺の名を西芳寺に改め、平地部に2層の楼閣を持つ瑠璃殿をはじめとする庭園建築と花木に彩られた池庭を、また山腹には洪隠山と呼ばれる枯山水石組と座禅堂指東庵を配し、華やかな風景を呈した。

   夢窓疎石(1275-1351)は生前没年を通じて、7人の天皇・上皇から国師号を贈られたことから、「七朝の国師」といわれ夢窓国師といわれる。鎌倉幕府が倒れて、室町幕府となっても、夢窓は宗教的・政治的にはおおいに権勢を振るった。たとえば、全国66国2島に安国寺と利生塔を建立したり、後醍醐天皇の冥福を祈るため、天竜寺を創建した。夢窓は若い頃から全国を巡って自然の中で座禅行につとめ、自然と人間の本性を究めて悟りを開いたが、西芳寺の庭をなぜ苔でおおったのであろうか。彼は「夢中問答」の中でこういっている。

白楽天小池をほりて、そのあたりに竹をうゑて愛せられき。その語に云はく、竹はこれ心虚しければ我が友とす。水はよく性浄ければ吾が師とすと云々。世間に山水をこのみたまふ人、同じくは楽天の意のごとくならば、実にこれ俗塵を混ぜざる人なるべし、或は天性淡白にして俗塵の事をば愛せず、ただ詩歌を吟じ泉石にうそぶきて心をやしなふ人あり、煙霞の痼疾、泉石の膏肓といへるはかやうの人の語なり。これをば世間のやさしき人と申しぬべし。

    唐の詩人白楽天は池と竹とを愛した。竹は内部が空洞なので心にわだかまりのない人に似ているし、池の水は清らかに澄んでいるので自分がたえず学ぶべきものであると考えた。苔をめでる心情を俗塵を離れて自己の心を養うのに、苔ほど庭にふさわしいものはないと考えたのであろう。夢窓は天竜寺、西芳寺のほかにも、恵林寺、瑞泉寺、永保寺などにすばらしい庭園を作っている。これらの庭は枯山水様式の源流となり、のちの日本庭園の規範となった。後の室町将軍足利義満義政も西芳寺に憧れ、瑠璃殿を手本に金閣銀閣が造られた。

   だが現実の夢窓国師はなかなか俗塵から離れることはできなかったようである。夢窓はあるとき師の高峰顕日から「弟子をもち、法を後世に伝えよ」とさとされた。夢窓はこの教えに従い、じつに1万人をこえる門人を擁するようになった。しかも彼の門下からは無極志玄、春屋妙葩、龍湫周沢、義堂周信、絶海中津らの、禅宗の中心人物や五山文学の人物が輩出した。このような権勢を誇った夢窓であったが、純粋禅の立場の人々には評判は悪かった。花園上皇と宗峰妙超は、夢窓の禅は天台・真言の範囲を一歩も出ていない。あれでは禅宗も滅びたも同然だ、と酷評されている。

   西芳寺作庭は夢窓疎石によるものだが、意外なことに、苔庭は、当初から意図されたものではなかった。戦乱と洪水で寺は荒廃した。現在のような苔を主体とした庭になったのは江戸時代以降のことで、あの湿潤な地と自然の営みがあいまって、偶然に造りだされた奇蹟の庭といわれる。苔を美しく保つためには掃除が欠かせず、とくに落葉は光を遮り苔を殺してしまうので、庭師が丹念に毎日掃除している。

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